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2019年2月28日木曜日

オリゲネス『諸原理について』の各証言:『フィロカリア』、ルフィヌス、ヒエロニュムス、ユスティニアヌス Crouzel and Simonetti, "Introduction"

  • Henri Crouzel and Manlio Simonetti (ed.), Origène: Traité des principes 1 (Sources Chrétiennes 252; Paris: Cerf, 1978), 22-33.

Traité des principes t.1
Traité des principes t.1
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Simonetti Manlio
Cerf

オリゲネス『諸原理について』のギリシア語原典の全体は存在しない。代わりに4つ、あるいは5つの証言が存在する。第一に、オリゲネスの『フィロカリア』である。これは2部に分かれたテクストで、『諸原理について』全体の約7分の1を含んでいる。信頼できるが教義上の慎重さから省略されたり要約されたりしている箇所がある。ルフィヌスやヒエロニュムスの版と比較できるという長所がある。

第二に、ルフィヌスのラテン語版がある。これは『諸原理について』の唯一の証言だが、必ずしも完全ではない。研究者たちの中にはこれをほとんど信頼しない者もいる。なぜなら、キリスト教的というよりも哲学的なオリゲネスの組織的な概念と一致しないからである。とはいえ、Gustave Bardyの比較研究によって大部分が復権している。ルフィヌスはまずは『オリゲネスの書物の偽造について』の中で、次に『諸原理について』の役者序文の中で、オリゲネスの著作には正統的なところと異端的なところがあると認めている。しかし、異端的なところは異端者による改竄であるという。ルフィヌスはこのことを、オリゲネス自身の証言(『アレクサンドリアの友人宛書簡』)と1世紀のキリスト教文学の例から証明している。それゆえに、オリゲネスの記述が不明瞭なとき、ルフィヌスはラテン語読者が分かりやすいように、オリゲネスの他の著作から付け加えたり、信仰上の問題点を取り除いたりした。しかし、ルフィヌスは自分自身の見解を持ち込んだり、オリゲネスが書いてもいないことを加えたりはしなかった。

ルフィヌス訳は『フィロカリア』の一部と比較することができる。オリゲネスの「危険な」アイデアがあるとき、『フィロカリア』選者はそれを省略し、ルフィヌスは保存する。ルフィヌスはそうした箇所を翻訳しないよりはパラフレーズして残すのである。訳し方も、ラテン語読者にとって明快であることを目指していたので、簡潔すぎる原文は、解説、移行、要約、申し立て、拡大などしたのだった。ルフィヌスが原文の意味をよく分かっていないようなところもあるが稀である。原文を逐語的に訳すこともあれば、原文から遠くアイデアだけを訳すこともある。哲学用語はルフィヌスにとって問題であった。自由意志について使われているストア派的語彙についてルフィヌスは当惑したため、ギリシア語のままにしたり、ラテン語化したり、パラフレーズしたりした。神学的語彙は自分の時代の用語に変えている。聖書引用はオリゲネスが用いた七十人訳から直接訳している。既存の古ラテン語訳は用いなかった。

結論としては、ルフィヌスの版は信頼に足る。翻訳というよりは、全般的に正確なパラフレーズというべきである。原文を削除することはあっても、オリゲネスが言っていないことを付け加えることはなかった。ヒエロニュムスやユスティニアヌスの版は、ルフィヌスが省略した部分を補うために使うことができるかもしれないが、ルフィヌスが二者と食い違うからといってアプリオリにルフィヌスが誤っているとは言えない。オリゲネスが別の著作でどのように述べているかを考慮しつつ、それぞれのケースは個別に調べるべきである。

第三に、ヒエロニュムスの断片がある。『諸原理について』のルフィヌス訳の正確性についてローマの友人たちから問い合わされたヒエロニュムスは、新たに逐語的な翻訳を作成した。しかし、その内容に恐れおののいた友人パンマキウスは、ヒエロニュムス訳を自分の書斎に鍵をかけて保存した。それから10年ほど経って、アウィトゥスなる人物がヒエロニュムスに手紙でその翻訳を読みたいと依頼してきたのだった。ヒエロニュムスは翻訳と共に手紙を送ったが、現存するのはそのうちの手紙だけである。その中で『諸原理について』の翻訳が引用されている。

『書簡57』で、ヒエロニュムスは聖書テクストと世俗テクストで翻訳法を区別する旨を書いているが(世俗は意訳、聖書は逐語訳)、オリゲネスの『エレミヤ書説教』などの世俗的なギリシア語テクストの翻訳にもそうした原則が働いていたのかを調べることができる。E. Klostermannは、『エレミヤ書説教』の翻訳で、ヒエロニュムスは聖書翻訳のように逐語的に訳しているところがあると述べる。しかし、読者が理解しやすいように、ときにパラフレーズ、省略、改竄、そしてヒエロニュムス特有の大袈裟さも見られる。彼はイメージ描写を行い、難解さをエレガントに隠し、気取りとお洒落さを拡大し、衒学的にしたのである。

『諸原理について』は文字通りに訳したとヒエロニュムスは主張するが、『フィロカリア』およびルフィヌス版と比較するとそうは思わない。第3巻(1.22)において、ルフィヌスはほぼギリシア語に忠実だが、ヒエロニュムスは魂の先在に関する暗示的な記述を明示的に訳している。第4巻(3.10)でもルフィヌスはヒエロニュムスより原文に忠実である。ただし、ヒエロニュムス版はルフィヌスが省略した「危険な」部分(三位一体など)や重複部分を含んでいる。ここから、ヒエロニュムスはオリゲネスの異端性を強調しようとしていたことが分かる。

しかしながら、ヒエロニュムスのテクストはあくまで『書簡124』の中での引用である。しかも、明示的な引用と、地の文との「結合組織(le tissu conjonctif)」(要約であったり前後の意味を与えるものであったりする)を区別しなければならない。ヒエロニュムス自身の解釈は、「結合組織」の方により多く含まれているはずである。

理性的被造物の肉体性と非肉体性の議論において、オリゲネスは両論を併記し、結論を読者に委ねている。ルフィヌス版では、両論を挙げた上で、肉体性に軍配が上がるような文章になっている。別のところでは、肉体性を強調するために、非肉体性を無益な重複として省略している。一方で、ヒエロニュムス版ではほぼ非肉体性の議論のみが扱われる。ヒエロニュムスの意図はオリゲネスの異端性の強調なので、彼は文脈の全体から異端側の議論だけを示したのだった。

ヒエロニュムス版は、ルフィヌスが省略したり縮めたりしたものを与えてくれる。これは、ある偏向に別の偏向を対立させることである。ヒエロニュムス版をルフィヌス版が保存する文脈の中に戻して、ヒエロニュムスの意図を再検討することが必要である。翻訳そのものに向かいがちだが、ヒエロニュムスの解釈を評価しなければならない。その際には、オリゲネスの他の著作やそれらの4世紀における理解を参照することが重要である。ヒエロニュムス特有の(ルフィヌスにもギリシア語原典にもないような)過剰さは剥ぎ取らなければならない。

第四に、ユスティニアヌス帝の選集断片がある。ユスティニアヌスは2つのテクストを残している。第一に、『諸原理について』の断片的な選集である『メナス宛書簡』(543年)と、第二に、コンスタンティノポリスで開かれた第5回公会議の『公会議書簡』(553念)である。論文著者が扱うのは一つ目の方である。のちに教皇となるペラギウスは、エルサレムでの公務を果たしたあと、当地でコンスタンティノポリスから同行した修道士と落ち合った。この修道士たちは、オリゲネスを批判するためにペラギウスを通じて皇帝に働きかけた。そこでユスティニアヌス帝はオリゲネス批判文書を作成させたのだった。その文書には『諸原理について』からの抜粋が収録されたが、その実質的な選者は修道士たちである。ユスティニアヌス帝は文書の著者ではないし、『諸原理について』も読んではいない。

選集としての『メナス宛書簡』は、解釈部分を別にすれば、部分的にオリゲネスのテクストを再現している。それは、ルフィヌスとヒエロニュムスの往復書簡との比較からも見て取ることができる。ルフィヌス版と比較すると、しばしば抜粋者たちはあちこちでフレーズを拾い集めつつも、それらを採録しないことがあったようである。一部が欠けている箇所もある。オリゲネスを非難するために作成された異端的な「真珠」の集成という性格上、この選集は文脈を与えてはくれないし、しばしば疑わしい部分を肯定的に説明してしまう。

ヒエロニュムス版と選集が文字通りに一致することがあるが、それは2対1の一致であるにもかかわらず、ヒエロニュムスとユスティニアヌスの正統性ではなく、むしろルフィヌスの正しさを示す。二者のテクストは混合された要約にすぎない。論文著者は、ヒエロニュムス版がラテン語訳であり、ユスティニアヌスの選集がギリシア語であるにもかかわらず、後者が前者を利用した可能性を指摘している。なぜなら、ヒエロニュムスが『諸原理について』を訳し、『書簡124』を書いたのも、選集の作成者である修道士たちがいたのもパレスチナだからである。あるいは、ラテン人であるペラギウスが修道士たちに協力したのかもしれない。これは『書簡124』からの影響を示唆するというわけである。いずれにせよ、ヒエロニュムス版もユスティニアヌスの選集も、オリゲネスのテクストの忠実な翻訳と見なすことはできない。

第五として、さまざまな著者による引用がある。これらが本当に引用であるかどうかは、ルフィヌス版との一致を確認する必要がある。言葉ではなく、アイデアを要約したものであることも多い。Koetschau版は、ルフィヌス版における欠落をこうしたテクストで埋めてしまったが、これは欠点といわざるを得ない。これはオリゲネス自身の原理とオリゲネス主義との混同が引き起こしたものである。後者は、ポントスのエウアグリオスやEtienne bar Sudailiなどに帰されるものである。一方で、反オリゲネス主義者たちの解釈は無理解に基づいていたり、オリゲネス主義者たちの理解をただ繰り返しているだけのこともあるので、これもまた信頼できない。オリゲネス主義は、確かに部分的にはオリゲネス自身の説を反映しているが、深いところでは変質してしまっているからである。

2019年2月23日土曜日

オリゲネス『諸原理について』の翻訳者としてのヒエロニュムス Crouzel, "Jérôme traducteur"

  • Henri Crouzel, "Jérôme traducteur du Peri Archôn d'Origène," in Jérôme entre l'Occident et l'Orient: XVIe centenaire du départ de saint Jérôme de Rome et de son installation à Bethléem. Actes du Colloque de Chantilly (septembre 1986), ed. Yves-Marie Duval (Paris: Études Augustiniennes,1988), 153-61.

オリゲネスの『諸原理について』の校訂者はルフィヌス訳にばかり注目してきた。ヒエロニュムスの翻訳については、ごく小さな批判の試みもされず、その字義性も疑問視されなかった。しかし、ヒエロニュムス訳も批判されるべきである。これまでは、Karl Müllerによる『アウィトゥス宛書簡124』研究や、Gustave Bardyによる補足的な研究がなされている。ヒエロニュムスは信仰に関してルフィヌスよりも立派ではない。

翻訳作成の顛末は以下のとおりである。クレモーナのエウセビウスがイタリアからの帰りに、ルフィヌスから『諸原理について』の翻訳を盗み、ヒエロニュムスの友人たちに見せた。それを読んだパンマキウスとオケアヌスは憤慨し、ヒエロニュムスにこのけしからぬ書物の忠実な訳を作成するように依頼した。その目的は、異端者の告発と不正確な翻訳者の取調べであった。しかし、パンマキウスはヒエロニュムス訳を読んでショックを受けたために公にしなかった。それから10年後、その翻訳の存在を知ったアウィトゥスがヒエロニュムスに問い合わせると、彼は返信の中で信仰のために危険な箇所をリストアップしたのだった。

オリゲネスは2つ3つのことを議論して、多くの場合読者に委ねるが、驚くべきは4回も出てくる議論である。すなわち、キリスト教信仰に従った肉体的な救済と、プラトン哲学に従った非肉体的な救済に関する議論である。ヒエロニュムスはオリゲネスの異端的な部分を強調したかったので、『書簡124』にはプラトンの方だけが出てくる。すると両方の議論を保存しているルフィヌスは、現代の歴史家からは、オリゲネスを正統信仰に引き戻そうとする贋作者のように見える。オリゲネスの時代では哲学との対話は、学術界へのキリスト教拡張のために、またキリスト教徒の識者の信仰を固めるために重要だった。しかし、ヒエロニュムスの時代では教会の勝利は確定的だったので、わざわざ哲学と対話する必要がなかったのである。

『書簡124』の中にある『諸原理について』からの明確な引用と要約を区別しなければならない。ヒエロニュムス固有の解釈は後者の中にある。『書簡124』とユスティニアヌス帝の『メナス宛書簡』との偶然の一致は、テクストの正当性を必ずしも証明しない。なぜなら『メナス宛書簡』に関わるパレスチナの反オリゲネス主義者たちはそもそも『書簡124』の影響下にあったからである。

ヒエロニュムスはオリゲネスが哲学と対話した意図を理解しなかった。ヒエロニュムスは、魂の転生(metempsychose)と肉体の転生(metensomatose)に関するオリゲネスの議論がしばしば変化することに憤慨した。オリゲネスはあえて賛成と反対の両方の意見を併記したが、ヒエロニュムスは歴史的なセンスを持ち合わせなかったため、オリゲネスがそうしたのは当時のキリスト者たちが哲学的な魂の転生の議論に不安を覚えていたからだということを理解しなかった。

ただし、教義の発展という歴史的思考やセンスは、比較的最近のリアリティなので、それを持ち合わせなかったからといってヒエロニュムスを非難するには当たらない。とはいえ、彼がそうした意識に欠けていたことは確かである。ルフィヌス訳では、「子」と「聖霊」について、natusとinnatusという語が用いられており、ヒエロニュムス訳では、factusとinfectusという語が用いられている。natusとfactusは、ギリシア語のgennetos(生まれた)とgenetos(創造された)に対応していると考えられる。つまりギリシア語上では両者の違いはnひとつ分というわけだが、オリゲネスの時代には違いはないものとされていた。しかし、ヒエロニュムスの時代にはアレイオス主義の危機から区別が戻ったのである。つまり、ヒエロニュムスは自分の時代の神学用語に基づいてオリゲネスを批判しているのだった。子の父に対する従属説に対するヒエロニュムスの非難にも、彼の歴史的意識の欠如が見られる。実際には、これはオリゲネスによる神人同型説への攻撃だった。

ヒエロニュムスの翻訳の忠実さを評価することはできない。なぜなら『フィロカリア』にあるギリシア語原文に対応する箇所があまりに少ないからである。ユスティニアヌス帝の書簡に含まれる断片も比較には役立たない。そうした中で、ヒエロニュムスの3つの断片が自由意思に関する章と対応している。それによると、ヒエロニュムスはルフィヌスより忠実ということはない。ヒエロニュムスはオリゲネスの異端的な特徴を引き出すために表現を変えている。聖書に関する部分でもルフィヌスの方が忠実である。とはいえ、明確な結論を導くには材料が少なすぎる。

『書簡124』において、ヒエロニュムスはオリゲネスの思想を拡張している。三位一体に関する議論で、ルフィヌスによれば、オリゲネスは質的ヒエラルキーに基づいて聖霊がより大きいと主張していたというが、ヒエロニュムスやユスティニアヌス帝によれば、オリゲネスは量的ヒエラルキーに基づいて父の方がより大きいと主張したという。またルフィヌスによれば、オリゲネスはこの世界の前に別の世界があったと述べたというが、ヒエロニュムス訳では世界の唯一性について語っている箇所があるので、これはヒエロニュムスがオリゲネスの思想を問題視したからだと考えられる。

ヒエロニュムスは、キリストが悪魔のために天で再架刑されたという考えをオリゲネスに帰しているが、オリゲネスによれば、キリストの犠牲による救済の普遍的性格はその犠牲の単一性にあるという。つまり、ヒエロニュムスの解釈はあり得ないわけである。

ヒエロニュムスは、オリゲネスが神の本質について関与可能なものと主張していることに憤慨しているが、『諸原理のついて』でも他の著作でも、オリゲネスは父の神性について子や被造物の関与を区別できると述べている。理性のある被造物が神に関与できるのは、ロゴスの瞑想を通じてであるという。またヒエロニュムスによれば、オリゲネスは別のところで子と聖霊が父と同等であると認めなかったというが、その箇所が現存しないので、これは確認できない。しかしながら、オリゲネスのテクストは三位の一体性を前提としている。いずれにせよ、ヒエロニュムスはオリゲネスの原理の全体を考慮に入れていないこと、またヒエロニュムスの思弁的知性が犠牲者(オリゲネス)と同じ高さにないことが問題である。

ヒエロニュムスは『諸原理について』の文学ジャンルを考慮していない。使徒たちは信者たちに、彼らが必要と判断したことを教えたが、必ずしもいつもその主張の理由を説明しなかった。そういうわけで、オリゲネスは聖書と理性を用いつつ、神学的思索の領域を広げた。『書簡49』において、ヒエロニュムスは弁論をgymnastikosとdogmatikosに区別している。そして『書簡124』では、オリゲネスがgymnastikosで書いたことすべてをdogmatikosだと解釈している。ヒエロニュムスはオリゲネス主義者たちの異端的な教説について知らなかったように、オリゲネスが用いた語彙についても知らなかった。彼は歴史感覚に不足していり、神学にも無理解だったので、神学的な前進を追求する気もなかった。

ヒエロニュムスはオリゲネスの主張を硬化させ、ニュアンスを取り除いてしまっている。オリゲネスのギリシア語著作には、ある程度の制限、疑い、相対化といったものが見られる(そしてそれらはルフィヌス訳にも見られる)のに対し、ヒエロニュムスはそれらを欺瞞的であると見なした。オリゲネスは別の架空の意見を述べるときもあれば、自分ではまったく賛同していないことに言及するときもある。ヒエロニュムスはそうした特徴を尊重しようとはしなかった。オリゲネスは父と子の平等と、後者の前者への従属を同時に説いている。しかしヒエロニュムスは、「オリゲネスによれば、子は善そのものではないが、善性の反射である」と、従属説のみを紹介する。また人間の悪魔への同化に関するオリゲネスの見解について、ルフィヌスがそこに倫理的同化を見るのに対し、ヒエロニュムスはそれを文字通り受け取り、物理的な同化を期待している。

2019年2月12日火曜日

エウセビオス『年代記』のヒエロニュムスによるラテン語訳について Burgess, "Jerome Explained"

  • Richard W. Burgess, "Jerome Explained: An Introduction to his Chronicle and a Guide to Its Use," Ancient History Bulletin 16.1-2 (2002): 1-32.

ヒエロニュムスがエウセビオス『年代記』を手に入れたのはアンティオキアのことで、コンスタンティノポリスに移った380年から翻訳および増補を始めた。ギリシア語原典はほぼ消失したのに対し、ヒエロニュムスのラテン語訳は10以上の写本で残っている。しかしながら、その写本伝承の複雑さなどにより、本文書が注目を集めてきたとはいい難い。本論文はこの難解な文書の取り扱い指南になっている。

本文書の問題としてよく取り上げられるのは、カトゥッルスの死んだ年に関する記述の各版での違い、サルスティウスの死んだ年の時系列の違い、そして教会史に関する引用の各版での違いなどである。またヒエロニュムスの仕事が拙速であるという印象から、この翻訳には何らかのエクスキューズがついてしまうのだった。しかし、実際にはヒエロニュムスの翻訳は極めて忠実なものであった。

エウセビオスの『年代記』は311年から326年にかけて作成されたもので、クロノグラフィア(国ごとの歴史と治世リストのパッチワーク)とカノネス(クロノグラフィアにある素材を合成し作表したもの)から成っている。ひとつの見開きページでは最大で9王国がそれぞれの時系列を示しているが、やがてすべての欄がひとつになっていき、最終的にローマ帝国の時系列にまとめるという構造になっている。エウセビオスが『年代記』を作成した理由は、当時流行っていた「創造から6000年で世は終わる」という終末論に反対するためだった。

エウセビオスのギリシア語原典は現存しない。カノネス部分には、ヒエロニュムスのラテン語訳、アルメニア語訳の改訂版、シリア語の縮約版、エウセビオスを情報源とした後代のギリシア語抜粋が残っている。クロノグラフィア部分には、連続的なギリシア語抜粋と完全なアルメニア語訳が残っている。

『年代記』の校訂版は、Alfred Schoene版(1866)、John K. Fotheringham版(1923)、Rudolf Helm版(GCS 24, 34, 47; 1st ed. 1913; 2nd ed. 1956; 3rd ed. 1984)の3種類ある。Schoene版は専門家のみに有用、Fotheringham版は本文はしばしばHelm版より優れており、完全なアパラトゥスを備えている。Helm版は第一版は手書きなので、第二版と第三版のみが引用するに値する。

さまざまな地域の歴史を同じタイムラインに並べるために、エウセビオスは独自の時間表記システムを開発しなければならなかった。標準的なオリンピア紀は紀元前776年までしか遡れなかった。ヘレニズム期には伝統的に、現代のBCシステムのように、自分の時代から逆に数えていく方法が主流だった。あるいはキリスト教作家は世界の創造から数えていくannus mundi方式を採った。しかし、エウセビオスはアブラハムをプロト・キリスト者と見なし、そこから数えていく現代のADシステムのような方法を用いた。これは「アブラハム年(ann. Abr.)システム」とでも呼べよう。

『年代記』に出てくる各王朝は以下のとおり:アッシリア人、ヘブライ人(アブラハムが生まれた前2016年に始まる)、シキオニア人、エジプト人、アルゴー人、アテナイ人、ミケーネ人、ラテン人(前1178年から前752年のロムルスまで)、ラケダイモニア人、コリント人、メディア人、マケドニア人、リディア人、ローマ人(王政、ロムルスからカエサルの前まで)、ペルシア人、アレクサンドリア人、アジア人、シリア人、ローマ人(帝政、前48年のカエサルから始まる)。これらの国々が途中まではそれぞれ自分の欄を持ち、タイムラインが垂直に続いているのだが、最終的に帝政ローマの欄が横に伸びて他の欄をすべて呑み込んでしまう。

それぞれの時系列を定めるために、エウセビオスは7つの時間軸を設定している。第一に、アブラハムの誕生(前2016年)。第二に、ケクロプス王の即位(モーセの第35年)、第三に、トロイアの陥落(前1182年)、第四に、ソロモンの神殿の建設の始まり(前1133年)、第五に、最初のオリンピア紀(前776年)、第六に、ダレイオス王治世2年目のエルサレム神殿再建の始まり(前521年)、そして第七に、キリストの宣教の始まり(後28年、ルカ3:1参照)である。キリストの磔刑でなく宣教の始まりを軸としている点が興味深い。

ところで、エウセビオスが用いていたカイサリアでの暦は、ローマ帝国の東方諸国と同様にマケドニア暦だった。つまり、1年の始まりは10月3日である。これに対し、オリンピア紀は7月か8月からの4年周期であり、王たちの即位紀元は即位の日である。しかも、太陽暦を使う国もあれば太陰暦もあり、さらに太陽太陰暦もある。前776年以降エウセビオスはオリンピア紀を主要な時間軸としており、また各国の即位紀元も用いているが、いずれもマケドニア暦に無理やり合わせて10月3日から始まるようにしたものである。ちなみにヒエロニュムスが後を継いだ部分については、執政官に基づく年ですべて表されている。場所によっては、エウセビオスが王たちの即位紀元の最初の年に注目するのに対し、ヒエロニュムスは最後の年、すなわち王の死の年に注目している。後代の歴史家たちはヒエロニュムスの方法に従った。

カノネス部分でエウセビオスの筆による部分を特定するためには、第一に、ヒエロニュムスのラテン語訳を、エウセビオスの原典に基づいていると考えられる残存している証言と比較する。すなわち、アルメニア語訳や、エウセビオスに依拠しているらしい偽ディオニュシオスなどとの比較である。第二に、他のギリシア語証言との比較である。たとえば、『クロニコン・パスカーレ』、シュンケッロスの『クロノグラフィア』、『アノニムス・マトリテンシス』などである。

翻訳者の序文によると、ヒエロニュムスは翻訳者としてのみならず著者としても働いたという。彼はギリシア語を忠実に翻訳したが、特にローマ史に関して必要な部分を付け加えた。それゆえに、アブラハムからトロイア陥落までは単純にギリシア語を翻訳したものだが、そこからコンスタンティヌス帝までは、エウセビオスの記述にヒエロニュムスが多くを付加したという。さらに、エウセビオス以降の歴史について、326年から378年までは完全にヒエロニュムスが新たに書き足した。つまりヒエロニュムスがしたことは、第一に、エウセビオスにはない情報の付加、第二に、エウセビオスの記述の修正、第三に、ラテン語ソースとエウセビオス記述との取替え、エウセビオスの時系列の入替、などである。

ヒエロニュムスのソースは4つか5つあった:第一に、『オリゴ・ゲンティス・ロマナエ』、第二に、リウィウスの縮約版、第三に、スエトニウス『著名者列伝』、第四に、現存しない帝国史である『皇帝史』、そして第五に、完全な執政官リストである『ディスクリプティオ・コンスルム』である。これらに加えて、キュプリアヌス、テルトゥリアヌス、教皇や司教のリスト、反アレイオス主義の文書、手紙、報告、論文、物語、キリスト教版の『著名者列伝』、そして自身の知識などもソースとして活用している。

これらのソースを十全に活用するために、おそらくヒエロニュムスは付加的な情報を選定し、作文し、それらを個々にパピルスや蝋のタブレットに書いて整理した上で、必要なタイミングで口述筆記したと考えられる。ただし、エウセビオスのカノネスがアブラハムの年やオリンピア紀に基づいているのに対し、リウィウスの縮約版やスエトニウス『著名者列伝』はローマ建国紀元(Ab urbe condita)や執政官の年に基づいている。また『皇帝史』だけが拠り所となるアウグストゥスの時代(前33年)以降、ヒエロニュムスは文脈でしか時代を特定できなくなる。こうしたヒエロニュムスの歴史に関する記述は他のソースとの比較で正確性を確認できるが、文学に関する記述はヒエロニュムスの記述しか残っていない場合も多く、確認が困難である。とはいえ、その多くはかなり正確で、誤差は最大でも2年だという。こうしたことから、何らかの誤りがあるときに自動的にヒエロニュムスにその責を帰することはできない。

2019年2月11日月曜日

西方の人ヒエロニュムス Bardy, "St. Jerome and Greek Thought"

  • Gustav Bardy, "St. Jerome and Greek Thought," in A Monument to Saint Jerome: Essays on Some Aspects of his Life, Works and Influence, ed. Francis X. Murphy (New York: Sheed & Ward, 1952), 85-112.

ヒエロニュムスは長く東方世界で暮らしたが、ギリシアの神学思想からの影響を受けたのだろうか。彼の東方滞在は神学思想が栄えた時期と符合している。アレイオス主義をめぐって、バシレイオス、ナジアンゾスのグレゴリオス、アレクサンドリアのディデュモス、ラオディケイアのアポリナリオスら、多くの思想家が自らの思想を深化させた。

アンティオキアにいた370年代初頭、ヒエロニュムスはメレティオスとパウリノスの対立に巻き込まれた。カルキス砂漠で知り合っていた修道士たちは前者を推したが、ヒエロニュムスは、ローマのダマススなどの支援を受けていたパウリノスの側についた。論文著者によれば、当時のヒエロニュムスのギリシア語能力では、三位一体に関する両者の神学的な議論の微妙なニュアンスを理解できなかったため、三つの位格に関するメレティオスの教説を異端的と感じたのだろう。そもそもこうした神学論争にヒエロニュムスはほとんど興味を持たなかった。

コンスタンティノポリスでは、ナジアンゾスのグレゴリオス、ニュッサのグレゴリオス、イコニオンのアンフィロキオスらの知遇を得た。しかしながら、彼が主として深い関係を持っていたのは西方世界の人々だった。彼は経験を積み、ギリシア語やヘブライ語を学んだ。彼は多くのことを見て、また多くの人を知った。しかし、彼はいつもラテン人だったのである。アンブロシウスは逆に、いつもイタリアにいたが、東方世界と常にコンタクトを取り続けた。アンブロシウスの霊感は完全にギリシア的であり、それを隠そうともしなかった。ヒエロニュムスはコンスタンティノポリスでオリゲネスの説教を翻訳した。しかし、彼が崇拝したのは『諸原理について』を書いた形而上学者ではなく、『ヘクサプラ』を作成した学者としてのオリゲネスだった。

ベツレヘムの修道院に移ってからも、ヒエロニュムスの周りにはラテン人ばかりだった。彼らが修道院を離れて赴いたのも、西方世界である。彼らを通じて、ヒエロニュムスは西方の友人たちと手紙を取り交わした。また多くのラテン人の巡礼者たちがエルサレムとベツレヘムを訪れ、ヒエロニュムスの修道院にもやってきた。西方世界と聖地には常に人の行き来があったのである。ローマが蛮族の侵入によって壊滅すると、そこを逃れてくる者たちがパレスチナに押し寄せた。「我々は彼らすべてを助けることはできないが、少なくとも彼らの被害を気の毒に思い、ともに涙しよう」とヒエロニュムスは語っている。

ヒエロニュムスは友人のルフィヌスにキケローの著作の写本を作成してもらったが、それは子供たちに古典文学を教えるためだった。ヒエロニュムスの教育活動についてはあまり知られていないが、ベツレヘムにいるラテン人の子弟を教えていたものと思われる。ギリシア人がラテン文学を学ぼうとしたとは考えにくい。

ヒエロニュムスが唯一東方的なやり方に従っていたのが、礼拝や聖餐式のやり方である。というのも、ベツレヘムの修道院はエルサレム教区にあり、エルサレム司教の統制下にあったからである。しかし、そもそもヒエロニュムスは教会活動に積極的でなく、叙階された司祭でありながら、洗礼を授けることも聖餐式を執り行うこともなかった。修道士としての自由を維持できれば、あとは気にしなかったのである。わずかに東方出身の弟子もいたが、パウラのもとにいる女性グループにおける東方出身者の割合に比べると、わずかなものだった。とはいえ、彼らのためにヒエロニュムスがギリシア語で説教をしたこともあったようである。

ベツレヘムに住みながらも、ヒエロニュムスと西方世界の関係はますます密接になり、東方世界との関係はますます希薄になった。彼はナジアンゾスのグレゴリオスともニュッサのグレゴリオスともイコニオンのアンフィロキロコスともアレクサンドリアのディデュモスとも手紙を交わすことはなく、手紙の中で引用することも少なかった。しかし、エピファニオス、エルサレムのヨアンネス、アレクサンドリアのテオフィロスとの交流はあった。

ヒエロニュムスの聖書翻訳はラテン教会のための仕事である。彼はヘブライ語テクストには誤りは少しも含まれていない一方で、ギリシア語テクストには本文の損傷を意味する多様性があると考えていた。彼はラテン語世界に向けた翻訳を作ったつもりだったが、実際には支持者よりも敵対者の方が多かった。そうした構図はずっと変わらず、ラテン世界が彼の翻訳を重視したのは彼の死後のことだった。ヒエロニュムスの聖書注解もまた西方世界に向けられていた。彼はまずオリゲネスの説教の翻訳から始め、『コヘレト書注解』のような過渡期の作品(ヘブライ人教師やキリスト教聖書解釈者や古典文学からの引用が多い)、パウロ書簡の注解のような自身の釈義法を確立した作品、預言書の注解のようなさらにそれを推し進めた作品などがある。彼の注解の方法論は西方の読者を満足させた。

三位一体説に関する議論でもそうだったが、ヒエロニュムスは東方の教義的な運動にはまるで参加しなかった。ギリシア人が使う言葉を理解し、説明し、正当化することはヒエロニュムスの関心の埒外だった。一方で、ローマで議論されている問題については情熱をもって当たった。ルキフェル、ヨウィニアヌス、ウィギランティウス、ペラギウスらとは激しい論争を交わした。

オリゲネスについては、当初は西方世界の人々は何ら関心を持っていなかった。問題も感じていなかったので、ヒエロニュムスもかつてオリゲネスの作品を多数翻訳することができた。エルサレムでエピファニオスとヨアンネスが戦っているときはまだ大丈夫だったが、ルフィヌスが『諸原理について』を翻訳してから、オリゲネス主義論争の主たる舞台がエルサレムからローマに移ったのである。ローマの人々はオリゲネスの異端を問題視し始めたのは、ヒエロニュムスの翻訳が普及してからである。それまではそうした高度に神学的な問題を理解できる者はほとんどいなかった。ヒエロニュムスはアレクサンドリアのテオフィロスによるオリゲネス攻撃もラテン語に翻訳した。おかげで西方世界はテオフィロスの最新の著作を常に読むことができた。オリゲネス主義論争の火が西方世界で激しく燃えたのは、まさしくヒエロニュムスの翻訳の力によるところが大だった。ただし、それを消したのが蛮族によるイタリア侵攻であり、ローマの陥落だった。悲劇に直面して、ローマは神学論争を忘れてしまったのである。

ヒエロニュムスは西方世界で大きな影響力を持ったが、東方世界では関心を持たれなかった。彼が東方に注意していたほど、東方は彼のことを注意しなかった。しかし、いつも彼は西方への神託の役割を演じていた。イタリア、アフリカ、ガリア、イスパニア、パレスチナは、皆ヒエロニュムスのアドバイスをほしがった。彼が何か言えば、皆心して耳を傾けた。この時代、教会の統一は理論上まだ維持されており、東方世界と西方世界には分裂は起こっていなかった。しかしながら、実際には、東方世界も西方世界も自分のことにしか関心がなく、両方のグループをつなぐような問題は存在しなかったのである。

2019年2月9日土曜日

説教者オリゲネスについて Heine, "Origen as Preacher in Caesarea"

  • Ronald E. Heine, Origen: Scholarship in the Service of the Church (Christian Theology in Context; Oxford: Oxford University Press, 2010), 171-87.


おそらく239年から244年にかけて、オリゲネスは、カイサリア教会での3年サイクルの説教者に任じられた。月曜日から土曜日の朝に行われる正餐を含まない祈りでは、旧約聖書の一節が朗読されたあとにその箇所に関する説教が行われる。これには信者と洗礼志願者の両方が出席できる。また日曜日、水曜日と金曜日の夕方に行われる正餐を含む祈りでは、福音書が朗読されたあとにその箇所に関する説教が行われる。これには信者しか出席することができない。このようにして3年かけて聖書を通読するのだった。

P. Nautinによると、オリゲネスの説教は詩篇、知恵文学、預言書、そして創世記から士師記までの歴史書という順で行われた。詩篇の中でも、第36篇についての説教が最も古いものと考えられている。

カイサリアにおいてオリゲネスは強力なラビ共同体に直面していた。彼は『詩篇説教』(36.1.1)において、申32:21「彼らは紙ではないもので私の妬みを引き起こし、空しいもので私を怒らせた。私も民ではないもので彼らを妬ませ、愚かな国民で彼らを怒らせる」における「民ではないもの」をキリスト者、「愚かな国民」をユダヤ人と解釈しているが、これはおそらくカイサリアにおけるユダヤ人との何らかのコンタクトを反映したものであろう。

オリゲネスはカイサリアに来て、アレクサンドリアにいたときよりもユダヤ人とキリスト者の関係性について神学的に考えるようになった。アレクサンドリアで彼が実際に相対していたのは、結局のところ彼が「ヘブライ人」と呼ぶキリスト者だったが、カイサリアでは大規模なユダヤ共同体と渡り合っていたのである。ここから、ユダヤ人とキリスト者の問題が扱われているパウロ書簡に多大な関心を寄せるようにもなった。オリゲネスだけではなく、彼の教会メンバーも日常的にユダヤ人と関わりを持っていたので、旧約聖書には直接は書かれていないユダヤ法を遵守する者すらいた。オリゲネスはユダヤ人とは異なるキリスト教的な聖書の読解を説いたが、かといってユダヤ人の聖書が完全に無意味なものになったとは考えなかった。字義通りの意味ではすでに無効でも、予言や予型の機能を話すことはできるからである。オリゲネスはユダヤ人と論争したが、彼らのことも彼らの聖書のことも否定することはなかった。説教においては、イスラエルをユダヤ人、ユダをキリスト者と見なしたり(エレ3章)、ヤイロの娘をシナゴーグ、長血の女を異邦人教会と見なしたり(ルカ8章)した。

オリゲネスの旧約聖書の説教は洗礼志願者のものではなかったが、彼らに配慮した内容になっている。たとえば彼は、さまざまな説教の中で、出エジプトになぞらえて洗礼志願者たちの進歩に言及している。出エジプトにおいて祭司がヨルダンで海を割ったように、教会における洗礼は祭司によって執り行われた。またギリシア語訳聖書においてヨシュアはイエスと音写されているのは、ヨシュアもイエスも人々を率いたからであった。

オリゲネスの聴衆には、聖書のコピーを所有するほど裕福だったり、それにアクセスすることができるほど高度な知識を盛っていたりする者たちがいた。オリゲネスはそうした者たちに、帰宅してから自分で聖書を読み返すように勧めている。彼らの中には祭司の家系の者たちもいた。一方で、占星術や予言のような迷信を信じていた者たち、サーカス、競馬、武術の試合などの興行にうつつを抜かす者たち(カイサリアには劇場などがたくさんあった)、ろくに教会に来ず、来ても噂話に興じる者たち、家のことばかりに気をとられて無駄話をする女性たち、説教の途中で帰る者たちなどもいた。オリゲネスはこうした者たちに我慢できずに、説教の中で不満を表明している。ここから、カイサリアにおけるオリゲネスが説教者として常に幸福な状態にあったとは言えないだろう。

オリゲネスが説教を通じて行おうとしていたのは、テクストの意味の解説というよりは、教会を教化することであった。そしてその教化の中身は、浄化、教化、完全化といった段階を経ていく魂の遍歴であった。そのためにオリゲネスは比喩や文彩を用いて、束縛の家としてのエジプトから自由の家としてのユダとエルサレムへの魂の遍歴を語った。そして雅歌における恋人たちのイメージから、花婿としてのキリストとの結婚こそを魂の遍歴の終着点だと説明している。こうした高度な教化を目指していたとすれば、実際の聴衆の体たらくはオリゲネスに強いストレスを与えたことだったろう。いずれにせよ、オリゲネスにとってキリスト教的生活とは静的な完成ではなく、もっと動的な前進を意味していた。

2019年2月8日金曜日

文化資本としてのバイリンガリズム Jacobs, "What Has Rome to do with Bethlehem?"

  • Andrew S. Jacobs, "'What Has Rome to do with Bethlehem?' Cultural Capital(s) and Religious Imperialism in Late Ancient Christianity," Classical Receptions Journal 3 (2011): 29-45.

キリスト者が社会における公的な役割を果たすようになった4世紀、ローマの古典的なパイデイアは道具ともなれば危険ともなった。洗練された神学議論はギリシア文化に由来する哲学的言語なしには不可能だったが、それは同時に非キリスト教的・異教的な考えを蓄えてしまうことにもなった。パイデイアのキリスト教的な翻訳をめぐる緊張関係は、ヒエロニュムスとルフィヌスの論争からも分かる。両者の互いへの敵意にはさまざな理由があり、個人的なものと宗教的なものが指摘されることが多いが、論文著者は文化的かつ政治的な理由もあるという。

こうした学識の政治学を明らかにするために、論文著者はピエール・ブルデューの「文化資本(cultural capital)」という概念を援用している。教育や文化といった知識獲得の制度化は、階級の権力を先導し維持するための保守的な手段なのである。ホメロスも、プラトンも、ウェルギリウスも、キケローも、支配階級に属する世襲財産である。

ルフィヌスとヒエロニュムスの論争は、オリゲネスに関する神学的なものだけではなく、「翻訳」に関わるものだった。この「翻訳」という一見機械的な手続きこそが、文化資本の再生産に一役買っているのである。初期ローマ帝国において、ギリシア語からラテン語への翻訳能力は文化資本の源だった。貴族たちは、自分たちの文化的な優越を、知的・政治的な統制を証明するギリシア語の知識、すなわちバイリンガリズムという枠組みで保持したのである。

ヒエロニュムスの時代には、こうした二言語使用の学識はそれほど一般的ではなかった。アウグスティヌスがギリシア語をほとんど解さなかったことからそれは分かる。しかしながら、それでもなおギリシア語の知識はラテン語教育の中に文化的価値の名残を留めていた。ヒエロニュムスはこのギリシア語の知識という文化資本をもとに、翻訳を通じてキリスト教的パイデイアを豊かにする知識人に仕立て上げたのである。このように、翻訳は確かにヒエロニュムスやルフィヌスに文化資本を獲得する手段を授けたが、それは同時に社会的な摩擦も生んだ。両者は翻訳を価値あるプロジェクトだと考えてはいたが、異なった価値観を持っていたからである。

ヒエロニュムスは、ローマ定刻特有の多言語の文化資本の伝統にキリスト教的フレーバーを与えようとした。ローマの文化経済は、その領域内の異質さ(heterogeneity)を保存しようとする。翻訳を通じて他者の知識を吸収することは、ローマの統制を知らせている。ヒエロニュムスはこうした統制モデルが有用であることに気づいた。そこで、シリアとコンスタンティノポリスに住んでいた380年以降、ギリシア語のキリスト教文学をラテン語に翻訳し始めたのだった。翻訳という文化資本は、ヒエロニュムス自身のみならず、キリスト教の知識を生み出すことにも権威を与えた。さらに、ヒエロニュムスは聖地に移ってからもこうしたローマ式の文化資本を追及したことで、翻訳のモデルを拡張することにも成功した。A. Kamesarが言うように、彼の鋭敏な「ラテン語性」や「ラテン語的な感受性」が新たな聖書翻訳に彼を導いたのだった。論文著者はそこにローマのキリスト教の文化的帝国主義を見出している。

ルフィヌスは、ヒエロニュムスが有用と考えていた、翻訳による「他者(=非キリスト者)」の知識の統制という観点を問題視した。ルフィヌスによれば、ヒエロニュムスは古典文学を捨てたと言いながら読み続けている偽善者であり、古典に傾倒することで天への忠誠心も持たぬ不届き者だと批判した。とりわけ、キリストへの攻撃者であるポルフュリオスに言及したり、ユダヤ人教師のようなキリスト教の外部の者から知識を得たりしていることは万死に値する、と。ヒエロニュムスは、自分がギリシア人やユダヤ人から得た知識の他者性はキリスト教において評価されてきたものだと主張し、ルフィヌスはこうした文化資本の帝国主義的モデルを拒絶したのだった。

ルフィヌスはヒエロニュムスの翻訳の価値を下げることを試みた。ルフィヌスに言わせれば、オリゲネスでさえ『ヘクサプラ』を欄で分けることで、聖書と教会外の知識を物理的に離そうとしたにもかかわらず、ヒエロニュムスは不敬虔にもキリスト教を汚染した。ヒエロニュムスがもたらした他者の知識の翻訳は、彼が他のキリスト者にトレードできるような信用や資本を何も与えなかった、という。

ヒエロニュムスはこれに対し、ルフィヌスの知的努力は無教養な者のフリにすぎず、キリスト教信仰の文化経済におけるまがいものだと攻撃した。つまるところ、ヒエロニュムスはルフィヌスを異端者呼ばわりしているわけである。ルフィヌスは忠実な翻訳者のふりをしているが、実際には、オリゲネスの写本が異端者に改竄されたと信じてさまざまな改変を施した。自分はそれを癒すレメディーたることを望まれている、とヒエロニュムスは主張した。

結論。ヒエロニュムスはローマの文化経済をキリスト教化しようとした。その際に、他者(異端、異教徒、ユダヤ人)の知識はすべてキリスト教にとっての潜在的な資本であった。一方でルフィヌスにとって翻訳とは慎ましい営為であって、ヒエロニュムスの理解のように統制と関わるものではなかった。他者の知識がキリスト教サークルに入るには、翻訳というプロセスの中で浄化されて「洗礼」を受けなければならなかった。ヒエロニュムスの帝国主義的な考え方とルフィヌスの禁欲主義的な考え方は、対極にあるというよりは、パイデイアをめぐって補完的な関係にある。

2019年2月7日木曜日

『マグヌム・エスト書簡』とオリゲネスの預言者説教の翻訳 Nautin, "La lettre Magnum est de Jérôme"

  • Pierre Nautin, "La lettre Magnum est de Jérôme à Vincent et la traduction des homélies d'Origène sur les prophètes," in Jérôme entre l'Occident et l'Orient: XVIe centenaire du départ de saint Jérôme de Rome et de son installation à Bethléem. Actes du Colloque de Chantilly (septembre 1986), ed. Yves-Marie Duval (Paris: Études Augustiniennes,1988), 27-39.

ヒエロニュムスによるオリゲネス『エゼキエル書説教』翻訳の序文は、実際にはウィンケンティウス宛の書簡であるが、書簡集に収録されていないので歴史家たちの注意を引かなかった。しかし、ヒエロニュムスがオリゲネスの預言者に関する説教を翻訳した時期を特定するのに有益である。論文著者はこの序文を、冒頭の言葉から『マグヌム・エスト書簡』と呼ぶ。

書簡の中で呼びかけられている友人の名前は分からない。本来その名が書かれていたであろう宛名部分はないが、ルフィヌスはそれがウィンケンティウス宛であったことを証言している。ヒエロニュムスは当時の書簡の慣例どおり、前回受け取った手紙の内容を冒頭で繰り返し、すでに『エレミヤ書説教』の翻訳を送ったことに言及している。

書簡の目的は次の3点を説明することである:第一に、『エレミヤ書説教』の翻訳のあと、なぜ『エゼキエル書説教』の翻訳にこれほど時間がかかったのか、第二に、送った翻訳作品はどういうものか、そして第三に、他の著作の翻訳の提案である。第一の翻訳の遅れの原因は視力の悪化である。そこから、読書への過度の熱望と、貧窮ゆえの写字生の不足という事態が生じた。ウィンケンティウスは、ヒエロニュムスが金の無心をしていることを察したことだろう。

第二に、翻訳作品の説明については、『エレミヤ書説教』を14篇と『エゼキエル書説教』を14篇訳したと述べている。そしてそれらの説教を「混乱した順序で(confuso oridine)」、つまり聖書とは異なる順序で訳したという(『エゼキエル書説教』については本来の順番に戻そうとした)。これらの説教の翻訳時にヒエロニュムスが主に気にしていたのは、すべての修辞的技巧を捨てたオリゲネスの執筆方法論を翻訳でも維持することだった。彼の翻訳に説教らしい誇張がないために翻訳の腕前を低く評価することのないように、ウィンケンティウスに頼んでいる。

ヒエロニュムスによれば、オリゲネスの著作には、スコリア、説教(ホミリア)、注解の三種があるという。しかし、これはヒエロニュムス独自の分類である(エウセビオスのリストでは、スコリアはtomes[聖書に関わるものだけでない連続した注解によって書物が形成されているもの]の中に入れられている)。スコリアは、オリゲネスがある聖書文書の詳細な注解を書く時間がなかったり完成させられなかったりするときの補完物なので、ヒエロニュムスが考えるように、説教の最上の概要とは言えない。説教は、オリゲネスが注解を書いたりtomes形式で著作を出版したあとの、いわゆる説教サイクル(un cycle de prédications)の239-242年に成立したものである。

第三に、他の著作を翻訳することの提案について、ヒエロニュムスは「視力の悪化」と「貧窮による写字生の欠如」という2つの困難さを挙げているが、それでも援助があれば翻訳を続けると宣言している。ウィンケンティウスはこれに対し、写字生(を雇うための資金)を提供することを約束したわけだが、論文著者は、ヒエロニュムスは実際には口述筆記でなくとも著作活動をすることができたはずと主張する。かつて彼は、ルフィヌスのためにヒラリウスの著作を、またダマススのためにラクタンティウスの著作をコピーしてあげたことがある。ウィンケンティウスはこうした過去を知っていたわけだが、それでも資金提供を申し出たのは、ヒエロニュムスの真意が「貧窮」の解消であったことを理解していたからである。ヒエロニュムスは単なる金の無心を恥と考え、「自分」という写字生を雇うための資金を要求したわけである。『ソロモンの書序文』にも、写字生の雇用という表向きの理由のために資金提供を受け、実際には別の用途に用いたらしい逸話がある。

オリゲネスの預言者説教のラテン語訳の作成時期は、通常コンスタンティノポリス滞在時(380-382年)と考えられている(ナジアンゾスのグレゴリオスの影響による)。これは『著名者列伝』の自作リストにおいて、この時代に作成された『雅歌説教』とダマスス宛書簡論文の間にこれらの翻訳が挙げられているからである。しかし、本当にこれらの説教翻訳はコンスタンティノポリス時代の仕事なのだろうか。この問題を解決するためには、『エレミヤ書説教』翻訳と『マグヌム・エスト書簡』の分析が有効である。またコンスタンティノポリス説の証拠としてしばしば引き合いに出される『著名者列伝』は再考の余地がある。

『エレミヤ書説教』翻訳の順序は無秩序である。これは写字生のせいではない。カイサリアの図書館に収蔵されていたギリシア語原典の最初の状態は、巻物に分かれていて、番号もふられていなかった。しかし、こうした巻物は、366年から379年にかけて図書館長のエウゾイオスの主導で、聖句の順に整理され、番号をふられた上で、羊皮紙のコーデックスに書き写された。つまり、この整理作業のあとの写本をもとにしてヒエロニュムスが翻訳を作成したのなら、順序が無秩序になるはずはない。ちなみにグレゴリオスは『フィロカリア』に『エレミヤ書説教』を収録したが、そこには番号がついていることから、整理後の写本を用いたと分かる。

ヒエロニュムスが『エレミヤ書説教』を翻訳したのは、通説のようにコンスタンティノポリス滞在時ではなく、アンティオキアにて、司祭エウアグリオスのもとにいたときである。この祭司が支援していた司教エウスタティオスはオリゲネスを論駁するために、その著作を所有していた。そしてそれは、エウゾイオスによる整理前の巻物だったのである。ヒエロニュムスは無秩序に置かれていた『エレミヤ書説教』の巻物を、手当たり次第に訳したのだろう。それゆえに、彼の翻訳版の並び順も無秩序になったのである。言い換えれば、ヒエロニュムスの翻訳の無秩序さゆえに、翻訳はコンスタンティノポリスではなくアンティオキアで行われたと考えられる。

『マグヌム・エスト書簡』からは、ヒエロニュムスが遠慮しつつも、ウィンケンティウスに金を無心している様が見て取れる。二人が同じ都市にいたならば、こうした苦境は手紙に書かずとも口頭で伝えることができたはずである。しかし、ヒエロニュムスがそうしなかったのは、二人が離れていたからと考えるのが自然である。すなわち、ウィンケンティウスはコンスタンティノポリスに、ヒエロニュムスはアンティオキアにいたということである。ここから、この書簡で言及されている『エレミヤ書説教』と『エゼキエル書説教』はアンティオキアで翻訳されたと考えることができる。

さて、歴史家たちが預言書説教の翻訳の場所をコンスタンティノポリスと信じて疑わない理由は、『著名者列伝』において、ヒエロニュムス自身がこれらの翻訳を当地での著作と共に並べているからである。そして、このリストは時系列になっていると考えられてきたのだった。しかし、論文著者はこのリストの順がそれほど単純でないことを明らかにした。リストは時系列ではなく、概論・説教・書簡という当時の古典文学のジャンルにも従っているのである。

リストは2つのグループに分かれている。第一グループは概論と書簡、すなわち『パウロス伝』と『さまざまな人への書簡』および『ヘリオドルス駁論』である。これらはアンティオキア滞在中にシリア砂漠にて書かれた。第二グループは概論と説教、すなわち『ルキフェル派と正統派の論争』および『年代記』と『エレミヤ書説教』および『エゼキエル書説教』の翻訳である。これらは砂漠時代とローマ時代の間、すなわちアンティオキアやコンスタンティノポリスにいたときの作品とされている。しかし実際には、『エレミヤ書説教』は本来なら第一グループの時代に作成されたものである。ヒエロニュムスは説教ジャンルが両グループに分散するのを嫌い、時系列を多少乱しても『エレミヤ書説教』を第二グループに入れたのだった。それゆえに、預言書説教の翻訳をコンスタンティノポリス時代のものとするために『著名者列伝』に依拠することは不当なのである。

オリゲネス『イザヤ書説教』が上のリストにないのはなぜか。論文著者は同書もアンティオキアでの作品と考える。その理由は、第一に、説教の順序が『エレミヤ書説教』のように無秩序である。第二に、『マグヌム・エスト書簡』によると、ウィンケンティウスがこうした仕事をヒエロニュムスに「しばしば」頼んでいたというので、『エレミヤ書説教』が初めてではないと考える。そして第三に、後年の『イザヤ書注解』の中で、自分はコンスタンティノポリスにいたときにオリゲネスのセラフィム理解を批判する文書を書いたと述べており、そこで『イザヤ書説教』の翻訳を用いている。

では、預言書説教の翻訳がアンティオキア時代のことだったとして、ヒエロニュムスは滞在中(371-380年)のいつ頃に、説教を翻訳し、『マグヌム・エスト書簡』を書いたのだろうか。第一に、『書簡』より明らかなのは、ヒエロニュムスはウィンケンティウスに翻訳を3回に分けて送っている。ヒエロニュムスは金欠だったので、職業的な配達人は雇えなかった。

ヒエロニュムスの周囲にいた旅行者は、巡礼者とそれ以外の旅行者がいた。コンスタンティノポリス方面からエルサレムに巡礼する者たちは、必ずアンティオキアを通った。ヒエロニュムス自身が巡礼したときも、旅の途中で病に倒れたときにアンティオキアで回復を待った。巡礼者たちは往路では春に、復路では夏の終わりにアンティオキアに立ち寄ったので、当地にいるヒエロニュムスにはパレスチナ方面とコンスタンティノポリス方面の両方に手紙を出すことができたが、復路で頼んだ手紙への返事はもらえないので、翌年新しく使いを出す必要があった。巡礼以外の旅行者でもアンティオキアからコンスタンティノポリスに赴く者たちはいた。彼らは春に出発して冬より前に帰ってくるので、彼らに頼めばヒエロニュムスは年内に返事を受け取ることができた。しかし、不意に現れるそうした旅行者に手紙を頼むためには、あまり推敲することができないし、春より前には手紙を送ることができない。

こうした当時の郵便事情を考えると、『イザヤ書説教』、『エレミヤ書説教』、『エゼキエル書説教』の翻訳は別々の年に発送されたものであり、最後の翻訳の前には少なくとも1年間隔があるので、全体で4年はかかったと考えられる。

第二に、ルフィヌスによると、アンティオキア時代より前に初めてオリエント世界にやってきたとき、ヒエロニュムスはギリシア語を知らなかった。彼がアンティオキアにやってきたのは371年のことである。エルサレムへの巡礼を前に重い病気にかかったのは372年である。そこでヒエロニュムスは旅を続けるのをあきらめてギリシア語を学び始めたのだった。彼の学習速度は目覚しかったが、それでも文学作品を翻訳できるまでに2~3年かかっただろう。ここから、ヒエロニュムスがアンティオキアで預言書説教を翻訳したのは、375/6年から379/80年の間だと言える。そして『マグヌム・エスト書簡』はこの時期の終わり頃に序文として付されたのだった。

2019年2月2日土曜日

オリゲネス『エレミヤ書説教』のラテン語訳の検証 Bergren, Kraft, and Wright III, "Jerome's Translation of Origen's Homily on Jeremiah"

  • Theodore A. Bergren, Robert A. Kraft, and Benjamin G. Wright III, "Jerome's Translation of Origen's Homily on Jeremiah 2.21-22 (Greek Homily 2; Latin 13)," Revue Bénédictine 104 (1994): 260-83.

オリゲネス『エレミヤ書説教』は、239年から242年の間にカイサリアで行われたものとされる(おそらく全40篇だが、20篇が現存する)。それから140年後、380年にコンスタンティノポリスで(あるいは少し前にアンティオキアで)、ヒエロニュムスはその14篇をラテン語訳した。そのうち12篇はギリシア語原典と共に残り、あとの2篇はラテン語訳のみが残っている(オリゲネスの著作でギリシア語原典とラテン語訳が共に残っているのは、『エレミヤ書説教』の12篇と『マタイ福音書注解』16:13-22:33[訳者不詳])。W.A. Baehrensによると、ヒエロニュムスは先に12篇を訳し、それからしばらくして別のVorlageから2篇を訳したというが、この説はP. Nautinによって反論されている。

この『エレミヤ書説教』が重要な理由は3つある:第一に、オリゲネスの著作中、ギリシア語原典とラテン語訳が両方残る2作のうちのひとつであること;第二に、ヒエロニュムスのオリゲネス著作の翻訳中、ギリシア語原典と共に残る唯一の作品であること;そして第三に、高名な翻訳者であるヒエロニュムスの初期の翻訳活動を代表する作品であること、である。オリゲネス『エレミヤ書説教』より前の翻訳としては、エウセビオス『年代記』とオリゲネス『イザヤ書説教』9篇があり、前者はわずかなギリシア語断片と引用があるが、後者はラテン語訳のみが残る。

本論文の目的は、『エレミヤ書説教』2.21-22(=ラテン語版の第13篇)の原典と翻訳を比較することで、ヒエロニュムスの釈義部分と聖書引用部分の翻訳技法を明らかにすることである。まずギリシア語原典の写本、伝承史、版について。唯一の写本はエスコリアル写本(11-12世紀)である。さらに、預言者のカテーナと『フィロカリア』にもわずかなギリシア語本文がある。最初の批判的校訂版は1901年のE. Klostermannによるものであるが、1983年にP. Nautinによって改訂版が出ている。

次に、ラテン語訳の写本、伝承史、版について。ラテン語訳は中世において人気があったため、数多くの写本が現存するが、まだ信頼できる校訂版は存在しない。W. Baehrensによると、写本は基本的にAとBの2グループに分けることができるという。両グループの写本は共に極めて損なわれており、両者が共にさかのぼる9世紀以前のVorlageもすでに損なわれていた。AグループとBグループの他には、9世紀のラバヌス・マウルス『エレミヤ書注解』の中に保存されている長めの引用(Rと呼ばれる)があり、これは11世紀のBritish Litrary Arundel Codex 45に残っている。KlostermannやBaehrensらによると、RのテクストはAとBより優れているという。しかし、まだ校訂版は存在しない。ラテン語訳の校訂には、ヒエロニュムス自身の『エレミヤ書注解』を参照することができる。またヒエロニュムスのラテン語訳の底本となるギリシア語のVorlageは、エスコリアル写本よりも600年以上古いので、より優れているといえる(筆者注:ここでエスコリアル写本と比較すべきは、Vorlageでなくラテン語訳写本そのもの、つまり9世紀の写本ではないか?)。いずれにせよ、ギリシア語テクストもラテン語訳テクストも、問題のないものはないので、いずれも用いるときには細心の注意が必要である。

『エレミヤ書説教』2.21-22のラテン語訳は、極めて自由な訳である。付加や削除の頻繁さ、語や句の順序、等価性の一貫性、テクストの内容や意味を検証すると、ヒエロニュムスが敷衍、再編成、拡張、スタイルの変更を意のままに行っていることが分かる。この自由な翻訳スタイルは、『書簡57』での翻訳哲学と軌を一にしている。

ヒエロニュムスの説教翻訳において最も特徴的なのは、ギリシア語原典の「濃縮(condensation)」の傾向である。ヒエロニュムスは翻訳する際に、テクストの合理化(streamlining)を図り、反復的な語や説教の本質に寄与しない語を削除したり、他の要素と結合させている。こうした「濃縮」は多くの場合、意図的なものであり、テクストの内容を失ったり、意味を変化させることはない。

ヒエロニュムスは翻訳において「拡張(expansion)」を志向することもある。これはすでに述べたことやギリシア語では暗示的なことを、明確化したり明示的にしたりするための操作である。こうした「拡張」は、ギリシア語原典から逸脱するような場合もある。

テクストの意味を「修正(modify)」し、新しい要素を「導入(introduce)」することもある。といっても、意味を変化させたにもかかわらず、ギリシア語とラテン語の間に意味論的な等価性を保持しようとしている。逆に、ギリシア語テクストが理解不能なときに、大幅に変更するときもある。

このような変化がヒエロニュムスによって意図的になされたのか、彼が異なったあるいは損なわれたギリシア語Vorlageを使ったためなのか、それとも単なる誤訳なのかは、はっきりしないことが多い。

まとめると、ヒエロニュムスの翻訳のねらいは、ギリシア語テクストの個々の要素を文字通りに再現することではなく、その基本的な意味を伝えるような訳文を作成することだった。その特徴は:
  1. 一貫してテクストをタイトに、濃縮する。
  2. アイデアを明らかにしたり新しいアイデアを導入するために、何らかの要素を加えることがある。
  3. 第三に、イデオロギー、スタイル上の検討、あるいは誤解により、テクストの意味を変容させることがある。
  4. 文字通りの翻訳ではなくとも、ギリシア語の基本的な意味を保持している。
これまでヒエロニュムスの翻訳者としての評価は、主として聖書に関わるものであり、それは『書簡57』で本人が述べているように、逐語訳を旨とするものだった。しかし、本論文は聖書以外の文書の翻訳には、まったく異なった翻訳モードが機能していたことを明らかにした(筆者注:この理解は単純すぎる。聖書翻訳は逐語訳とは言えないから)。

ここまではBergrenが『エレミヤ書説教』の釈義部分の翻訳について論じてきたが、ここからはWrightが聖書引用部分の翻訳について検証する。しかし、写字生、写本の編者、翻訳者はしばしば写本間の聖書引用の乱れを調和させる(harmonize)傾向があるので、難しい作業となる。オリゲネスは説教において、かなり自由に聖書を引用することが知られている。『エレミヤ書説教』2.21-22の部分において、釈義中の聖書引用は古ギリシア語訳(七十人訳)と一致しているが、説教の基礎となるベース・テクストの引用は語順が異なることがある。

このギリシア語原典に対し、ヒエロニュムスの翻訳は2つの傾向を持つ。一方では、定型句に導かれた比較的長い引用は、語の選択や語順などに関して極めて逐語的に訳している。他方では、自由で敷衍的な翻訳も存在する。それはしばしばテクストの「結合(consolidation)」とでも言えるような特徴を示す。語の選択や語順のヴァリエーションは、テクストの調和や損傷、あるいはヒエロニュムスがエスコリアル写本とは別のVorlageを用いていた可能性、そして彼が誤訳した可能性を示唆する。

またヒエロニュムスの聖書引用の翻訳は、かなりの場合、既存の古ラテン語訳と一致している。おそらく、目の前にあるオリゲネスの説教における引用をそのまま翻訳したのだが、ときに彼が通じていた伝統的な古ラテン語訳からの影響を受けたのだろう。

まとめると、ギリシア語原典における聖書引用は、七十人訳や新約聖書の本文とほぼ完全に一致している。ヒエロニュムスのラテン語訳は、全般的にとても逐語的であり、古ラテン語訳に伝えられている言葉を通常用いている。ただし、ときに敷衍やテクストの結合を示すことがある。そのときは、ギリシア語テクストとは異なった引用となる。いわば、『書簡57』で述べられている非逐語訳的な翻訳という原則は、聖書引用の翻訳にも影響している。