- Rudolf Pfeiffer, "Science and Scholarship: Eratosthenes," in History of Classical Scholarship: From the Beginnings to the End of the Hellenistic Age (Oxford: Clarendon Press, 1968), pp. 152-70.
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古典学の歴史に関する古典的名著から、エラトステネスの項を読みました。アテネにおけるアリストテレスの学派からの影響を受けて、アレクサンドリアでも数学や自然科学が盛んになった。彼らはさまざまな事柄に対する「驚き(θαυμάσια)」を愛していた。中でもエラトステネスは、学者であり詩人であると共に、誰よりも科学者と呼ばれるに相応しい、広い分野に渡る関心を持った人物であった。ただし、関心は広いが一流ではなかったと見なされていたために、ベータやペンタスロス(五種目選手)などと揶揄された。著者はこのエラトステネスがカバーした範囲の広さについて、以下のように書いている:
Who is courageous enough to measure himself even as editor against the university of Eratosthenes, philosopher, mathematician, astronomer, chronographer, geographer, grammarian, and poet?エラトステネスは、彼の前任のアレクサンドリア図書館長であったアポロニオスおよび、彼のあとに図書館長となったアリストファネスらと同様に、プトレマイオス王家の家庭教師としても奉職した。数学者でもあったエラトステネスは、アルキメデスとも親交があった。アルキメデスは一書をエラトステネスに奉げている。
このように、さまざまな分野で活躍したエラトステネスであったが、自身をφιλόλογοςであると考えていたようである(この言葉自体もエラトステネスが作ったものと見なされている)。フィロロゴスとはすなわち、話したり議論したりするのを愛する者ということで、ときに皮肉な意味でも用いられることがあったが、エラトステネスの理解では、ロゴス全体に関わるさまざまな学術に親しんでいる者のことを指す言葉であった。当時の学者の呼び名としては、他にκριτικόςやγραμματικόςなどがあり、特に後者はもともと韻律の専門家という意味から次第に学者一般という意味になっていったが、エラトステネスは自らをフィロロゴスと規定していた。他にフィロロゴスと呼ばれた学者には、アテーナイのアポロドロスやスケプシスのデメトリオスなどがある。また、ペルガモン学派はフィロロゴスと呼ばれることを拒否し、クリティコスと呼ばれることを好んだという。
エラトステネスの著作は多岐にわたる。まず『古代の喜劇について』という古代のアッティカ喜劇に関する学術書がある。これは喜劇の実際のパフォーマンスや、喜劇に関するアテーナイの学術に刺激されて書かれたものと考えられる。こうした喜劇に関する著作では、エラトステネスの科学者としての面はあまり見られない。一方で、『オリュンピオニカイ』や『クロノグラフォイ』といった著作では、オリュンピア紀を基にした科学的な時系列を研究している(オリュンピア紀以前の出来事に関してはスパルタの王のリストを用いたようである)。また彼の最も偉大な業績である『ゲオグラフィカ』全3巻は、言葉自体もエラトステネスが作ったものであり、ポセイドニオスやストラボンに大きな影響を与えた。『カタステリスモイ』という著作では、星座のカタログと、それぞれの星座の起源に関する神話的かつ民俗的な物語とが扱われている。
エラトステネスの文学批評の特徴としては、文学の効用を教育(διδασκαλία)ではなく娯楽(ψυχαγωγία)のみであると規定したことである。彼はホメロスを始めとした詩人を歴史家としても地誌学者としても見なさなかった。詩には必ずしも現実が反映されていないからである。この考え方には、むろん批判や反論もあった。たとえば、エラトステネスとほぼ同時代人であったパリウムのネオプトレモスや、のちにはホラティウスらは、文学には教育も娯楽もあると主張した。
エラトステネス自身も、王に宛てたエピグラムなどの詩を残しているが、それらは彼の先生であったカリマコスのスタイルからの影響を受けているという。すなわち、彼自身は詩を娯楽と言い切ったわけだが、彼の詩のスタイルは、教訓詩を得意としたカリマコス流だったわけである。とはいっても、詩作はあくまで副業であった。
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