ページ

2016年4月2日土曜日

文献学者アリスタルコス Pfeiffer, "Atistarchus: The Art of Interpretation"

  • Rudolf Pfeiffer, "Atistarchus: The Art of Interpretation," in History of Classical Scholarship: From the Beginnings to the End of the Hellenistic Age (Oxford: Clarendon Press, 1968), pp. 210-33.
History of Classical Scholarship: From the Beginning to the End of the Hellenistic Age (Oxford University Press academic monograph reprints)History of Classical Scholarship: From the Beginning to the End of the Hellenistic Age (Oxford University Press academic monograph reprints)
Rudolph Pfeiffer

Oxford Univ Pr (Sd) 1968-12-31
売り上げランキング : 1662417

Amazonで詳しく見る by G-Tools

サモトラケ島で生まれたアリスタルコスは、人となりはあまり知られていないが、外見に気を使わない人物だったと言われている。彼は第五代のアレクサンドリア図書館長として奉職しつつ、他の図書館長たちと同様に、プトレマイオス王家の家庭教師としても活躍した。中でも彼はプトレマイオス7世ネオス・フィロパトルと親しかったために、前145/4年頃にこの王が政争でプトレマイオス8世エウエルゲテス2世に敗れると、アリスタルコスはキプロス島に逃れたのだった。シュラクサイのモスコスを始めとする40人もの弟子がいたというが、こうした弟子たちもロードス島、ペルガモン、アテーナイなどへと逃れたために、アリスタルコスのあとの図書館長は、キュダスという何の教養もない軍人が勤めることになった。

アリスタルコスの仕事は、先人たちが残したギャップを埋めることであった。彼以前の図書館長たちは、自分が校訂した作品に関する著作をするときに、専ら「モノグラフ(συγγράμματα)」を書いたが、アリスタルコスはモノグラフのみならず、「注解(ὑπομνήματα)」をも得意とし、一説では800巻もの注解をものしたという。アリスタルコスの注解は、『イーリアス』のヴェネツィア写本の欄外にあるスコリアに残されている。このスコリアは、ディデュモス、アリストニコス、ヘロディアン、そしてニカノルという4人の学者によって作成された。

アリスタルコスの注解の研究は、近代のホメロス文献学と密接に関わっている。1788人に発見された先のヴェネツィア写本をもとに、F.A. WolfはProlegomena ad Homerum (1795)を上梓した。この中でWolfは、アリスタルコスが書いたのは注解だけであり、また彼が作成したホメロスの校訂版は複数ではなかったと主張した。しかし、これに対してK. LehrはDe Aristarchi studiis Homericis (1833)において反論し、ディデュモスは少なくともアリスタルコスによる二種類の校訂版と二種類の注解を持っていたと主張した。20世紀になると、H. Erbseが、アリスタルコスの著作が言及されるときに用いられる、ἐκδόσεις, διορθώσεις, ὑπομνήματαといった言葉の用法を検証し、第一に、アリスタルコスが書いた注解はおそらく一種類であること、そして第二に、彼は独自の校訂版を作成することはなかったことを主張した。いわば、ErbseはWolfの主張に立ち返ったのである。

以上は近代のアリスタルコス観であるが、古代においては、たとえばディデュモスはアリスタルコスがホメロスのテクストの二種類の改訂版を作成したと述べるが、アリスタルコスの弟子だったアンモニオスは一種類の版のみしかなかったと述べる。また注解に関しては、Aスコリアは複数の注解があったと報告している。こうしたことから、論文著者はこの経緯を以下のようにまとめている:第一に、アリストファネスの校訂によるテクストに基づいたアリスタルコスの最初の注解が出版され、第二に、アリスタルコスによるテクストの改訂がなされ、第三に、その自身による改訂版を用いた二つ目の注解が出版され、最後に、彼自身による再度の改訂がなされた。

アリスタルコスは、ゼノドトスとアリストファネスによって導入された欄外における印を用いた。パピルスのスクロールを用いていた時代には、テクストと注解とは別のスクロールに書かれており、テクストに使われた印は、注解における本文引用や見出しにおいても繰り返されていたが、コーデックスを用いるようになると、欄外に十分に注解を付すことができるようになった。

アリスタルコスはこのようにホメロスを重点的に取り上げはしたが、他の非ホメロス的文学に関する文学批評をも残している。ヘシオドスのような教訓叙事詩、さまざまな抒情詩、ピンダロス、バッキュリデス、アルクマン、ステシコロス、サッフォー、アルカイオス、またアイスキネス、ソフォクレス、エウリピデス、アリストファネスらの劇にも注解コメントを残している。さらに、アリスタルコスはヘロドトスのような散文作者に初めて注解コメントをつけたことでも知られている。

このように、たくさんの注解を残したアリスタルコスの解釈原理として有名なのは、ポルフュリオスが伝えている、「ホメロスをホメロスから説明する(Ὅμηρον ἐξ Ὅμήρου σαφηνίζειν)」というものである。本当に彼がこうした言い回しをしたのかは不明だが、少なくともこの原理は他の箇所から知られるアリスタルコスの意見と一致しているという。論文著者が考えるところでは、この言い回し自体はポルフュリオスによる発案であろうと考えている。

注解をする中で、アリスタルコスは文法的、あるいは韻律学的な発見もしている。実際に、文法的な類推は彼の手法のひとつであった。それによって、アリスタルコスは、「非ホメロス的な(οὐκ Ὁμηρικῶς)」ところや「後ホメロス的/ありきたりな(κυκλικῶς)」ところを発見し、そうした箇所を消去するのではなく、「改竄(τὸ ἀθετεῖν )」として印をつけたのだった。アリスタルコスによって整えられたこの方法は、のちの学者たちによっても踏襲されることになった。

アリスタルコス自身の、ホメロス詩観としては、エラトステネスと同様に、ホメロスは教育ではなく娯楽を目的として詩を書いたというものであった。いうなれば、アリスタルコスは、ホメロスの創造性と陳腐さとを区別するアリストテレス的・カリマコス的な見解を受け入れ、クリティカル・サインを用いることでそれを明確にしたわけである。

プトレマイオス7世と8世との政争によって、アリスタルコス以降、アレクサンドリア図書館における卓越した学者たちの伝統は途絶えてしまった:
They were, as we have seen, connected by personal links, as the younger scholars were the pupils of the previous generations; but there were no διαδοχαί, as in the philosophical schools with their particular δόξαι. The great Alexandrians were united, not by doctrine, but by the common love of letters, and every one of them was an independent individuality.

0 件のコメント:

コメントを投稿