- Steven D. Fraade, "Chapter Nine: Looking for Narrative Midrash at Qumran," in id., Legal Fictions: Studies of Law and Narrative in the Discursive Worlds of Ancient Jewish Sectarians and Sages (Supplements to the Journal for the Study of Judaism, vol. 147; Leiden: Brill, 2011), pp. 169-92.
Legal Fictions: Studies of Law and Narrative in the Discursive Worlds of Ancient Jewish Sectarians and Sages (Supplements to the Journal for the Study of Judaism) Steven D. Fraade Brill Academic Pub 2011-05-30 売り上げランキング : Amazonで詳しく見る by G-Tools |
本論文は、クムランにおける聖書の物語解釈とラビ・ユダヤ教のミドラッシュとを比較し、それぞれの特徴を浮き彫りにするものである。このために、著者は四つの観点挙げている。第一に、両者の類似性と非類似性とを両方観察すること、第二に、単に類似・非類似性を挙げるだけでなく、それらを比較する目を持つこと、第三に、両者の内容だけでなく形態論にも注目すること、そして第四に、第二神殿時代の特徴である多様性を鑑みて、両者が直接の影響関係ではないかもしれない可能性を考慮に入れることである。
著者はラビ文学におけるミドラッシュの特徴を以下の三点にまとめている。第一に、テクストの進行に伴ってつける連続的な解釈(ランニング・コメンタリー)であること。第二に、質疑応答形式(dialogical)であり、ある箇所の解釈のために聖書のどの一節でも引用し(intertextual)、複数の解釈を引き出すこと。そして第三に、聖書の物語の矛盾、不明瞭、反復、そして欠落を解決するために、より完全な聖書物語のバージョンを作ること。
著者はラビ文学におけるミドラッシュの特徴を以下の三点にまとめている。第一に、テクストの進行に伴ってつける連続的な解釈(ランニング・コメンタリー)であること。第二に、質疑応答形式(dialogical)であり、ある箇所の解釈のために聖書のどの一節でも引用し(intertextual)、複数の解釈を引き出すこと。そして第三に、聖書の物語の矛盾、不明瞭、反復、そして欠落を解決するために、より完全な聖書物語のバージョンを作ること。
一方で、死海文書を含む第二神殿時代における聖書の物語解釈は、「解説的(expositional)」と「合成的(compostional)」に分けられるという(Devorah Dimant)。前者は、フィロンの寓意的聖書解釈やクムランのペシャリームに代表され、最初に聖書の一節を引用した後に、その解説が続く。後者はいわゆる「再説聖書(Rewritten Bible)」と呼ばれるもので、聖書の物語を語りなおし、より明らかにするためにパラフレーズし、さらには相当量の拡大解釈も加える。代表例としては、ヨセフス『ユダヤ古代誌』、偽フィロン『聖書古代誌』、『ヨベル書』、『第一エノク書』、『外典創世記』、『4QReworked Pentateuch』などがある。これらは、もとになっている聖書やその権威に対し、明確な関係性を示さないことが多い。そしてこれらの特徴として、以下の二点が挙げられる。第一に、現在のクムラン共同体での生活の規範となる解釈であること。第二に、預言的な解釈により、共同体の歴史における終末論的な成就を示す解釈であることである。いうなれば、現在と未来とを問題にしているといえる。
こうしたことを確認したあとで、著者はいくつか例を挙げて、死海文書とミドラッシュとの違いを説明する。それらによると、死海文書は聖書テクストとは決して直接的に関わりあわず、聖書の言葉や暗示を自分たちの目的、すなわち共同体の実践や終末論的な自己理解のために、創造的に用いている。一方で、ミドラッシュは、聖書物語の詳細のすべてに依拠しているわけではないものの、常に聖書のもとテクストにつながっている印象がある。そして何よりも、ミドラッシュ(およびミシュナー)における聖書物語の役割は、かつて聖書の時代に起こった過去のことでしかなく、同時代の実践とは結びつかないという特徴を持っている。
こうした両者の違いの理由は、以下のように四点考えられる。
こうしたことを確認したあとで、著者はいくつか例を挙げて、死海文書とミドラッシュとの違いを説明する。それらによると、死海文書は聖書テクストとは決して直接的に関わりあわず、聖書の言葉や暗示を自分たちの目的、すなわち共同体の実践や終末論的な自己理解のために、創造的に用いている。一方で、ミドラッシュは、聖書物語の詳細のすべてに依拠しているわけではないものの、常に聖書のもとテクストにつながっている印象がある。そして何よりも、ミドラッシュ(およびミシュナー)における聖書物語の役割は、かつて聖書の時代に起こった過去のことでしかなく、同時代の実践とは結びつかないという特徴を持っている。
こうした両者の違いの理由は、以下のように四点考えられる。
- 両者の成立年代の違い。まだ正典意識が希薄で、多様なテクスト群が並存していた第二神殿時代と、聖書の正典としての権威ができたポスト聖書時代であるラビ・ユダヤ教とは、自然と聖書解釈の方法も異なってくるはずである。
- シナイ山におけるモーセの啓示への理解の違い。ラビたちは、口伝律法と成文律法とが共にモーセに啓示されたと考えるが、クムラン共同体は、モーセや預言者によって継承されてきた啓示は、自分たちの共同体においてのみ一新され(義の教師によって)、残りの者たちは知らないのだと考える。
- 想定される聴衆の違い。ラビ・ユダヤ教においては、成文・口伝律法の師から弟子への伝承というモデルがあるが、クムランにはそうしたものがない。
- 聖書に書かれた過去の時代に対する理解の違い。両者共に、聖書の過去を、現在と未来に結び付けようとする意識はあるが、ラビたちが現在と終末的な未来とをいったりきたりする手段としてミドラッシュ・アガダーを用いるのに対し、クムランの預言的解釈は現在を定義し、正当化することで、来るべき終末に備えるという性格を持っている。
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