- Charlotte Hempel, "The Context of 4QMMT and Comfortable Theories," in The Dead Sea Scrolls: Texts and Context, ed. Charlotte Hempel (Studies on the Texts of the Desert of Judah Vol. 90; Leiden: Brill, 2010), pp. 275-92.
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本論文は、『律法儀礼遵守論』(4QMMT、以下『律法』)研究における重要トピックをまとめたものである。三部に分けられる『律法』において、第一部には、もともと同書の一部だったか議論がある暦がある。第二部には、「私たち」グループが「あなたがた」グループに対して説明する律法のリストがあり、かつ「私たち」グループが看過できない「彼ら」グループの存在が示される。そして第三部は、政治的指導者である個人に宛てられており、また「私たち」グループが多数派から分離したことが言及されている。
著者は、これまでの研究史で『律法』がどのように読まれてきたかをまとめ、撤回されるべき通説であると著者が考える点を列挙している。第一に、『律法』は義の教師から悪の祭司に向けて書かれたという説。例えばJohn Kampenはこの説はまったくの憶測に過ぎないと述べている。第二に、『律法』のジャンルは手紙であるという説。手紙なのか論文なのかについての議論と、仮に手紙であった場合、外部に対するものなのか内部に対するものなのかという議論がある。第三に、『律法』において正典の三部構成が言及されているという説。これについてさまざまな異論が述べられている。以上のことを確認したあと、著者は『律法』をめぐる議論の中で最もよく参照される、エピローグにおける大多数からの分離に関する言及に話すを移す。
第三部のエピローグは4Q397(MMDd)と4Q398(MMTe)によい状態で残されている。著者はこれらの写本の置き所を問題としている。Hanne von Weissenbergによると、分離について言及されている一節を、従来のように第三部の冒頭ではなく、その内部に置かれるべきであるという。また場所を変えないまでも、同箇所が第三部の冒頭にあると考えるのか(Perez Fernandez)、むしろ第二部の終わりにあると考えるのか(Bernstein)でも解釈は異なってくる。
この分離についての箇所の内容についてもさまざまな議論がある。これを素直にクムラン共同体に関する言及だと取る者たちもいれば、むしろクムラン以前のグループあるいは初期クムラン共同体に関する言及だと考える者たちもいる。解釈をより広げて、Perez Fernandezは、実はこの箇所は祭司とイスラエル人との結婚に関する問題を取り上げていると考えた。Sharpは、イスラエル人と非ユダヤ人との結婚に関する問題であるとする。著者はこれらの諸説を紹介したあと、彼女自身の見解としては、『律法』のこの箇所にクムラン共同体の分裂とその成立のことが書いていると考えるのは、同書が義の教師から悪の祭司に宛てた手紙だと考える旧説の名残にすぎないと述べている。いうなれば、分裂からこの共同体が始まったという考え方自体に再考の余地があるということである。これについて、著者は4Q397 14-21 7を例に挙げている。
『律法』の「私たち」「あなたがた」「彼ら」の議論に関しては、著者は、同書の律法部分でもエピローグ部分でも、「彼ら」に当たる者たちは「私たち」によって肯定的に評価されていると指摘する。むしろ批判の対象は「あなたがた」で表される祭司たちである。そして「私たち」は「彼ら」を守ろうとしている節さえあるという。法的議論については、『律法』はミシュナー以前の証言を与えてくれるという点で貴重である。のちにハラハーの用語として発展していくような事柄は、すでにここに現れているといっても過言ではない。
最後に原文より重要な指摘を引用しておく。
著者は、これまでの研究史で『律法』がどのように読まれてきたかをまとめ、撤回されるべき通説であると著者が考える点を列挙している。第一に、『律法』は義の教師から悪の祭司に向けて書かれたという説。例えばJohn Kampenはこの説はまったくの憶測に過ぎないと述べている。第二に、『律法』のジャンルは手紙であるという説。手紙なのか論文なのかについての議論と、仮に手紙であった場合、外部に対するものなのか内部に対するものなのかという議論がある。第三に、『律法』において正典の三部構成が言及されているという説。これについてさまざまな異論が述べられている。以上のことを確認したあと、著者は『律法』をめぐる議論の中で最もよく参照される、エピローグにおける大多数からの分離に関する言及に話すを移す。
第三部のエピローグは4Q397(MMDd)と4Q398(MMTe)によい状態で残されている。著者はこれらの写本の置き所を問題としている。Hanne von Weissenbergによると、分離について言及されている一節を、従来のように第三部の冒頭ではなく、その内部に置かれるべきであるという。また場所を変えないまでも、同箇所が第三部の冒頭にあると考えるのか(Perez Fernandez)、むしろ第二部の終わりにあると考えるのか(Bernstein)でも解釈は異なってくる。
この分離についての箇所の内容についてもさまざまな議論がある。これを素直にクムラン共同体に関する言及だと取る者たちもいれば、むしろクムラン以前のグループあるいは初期クムラン共同体に関する言及だと考える者たちもいる。解釈をより広げて、Perez Fernandezは、実はこの箇所は祭司とイスラエル人との結婚に関する問題を取り上げていると考えた。Sharpは、イスラエル人と非ユダヤ人との結婚に関する問題であるとする。著者はこれらの諸説を紹介したあと、彼女自身の見解としては、『律法』のこの箇所にクムラン共同体の分裂とその成立のことが書いていると考えるのは、同書が義の教師から悪の祭司に宛てた手紙だと考える旧説の名残にすぎないと述べている。いうなれば、分裂からこの共同体が始まったという考え方自体に再考の余地があるということである。これについて、著者は4Q397 14-21 7を例に挙げている。
『律法』の「私たち」「あなたがた」「彼ら」の議論に関しては、著者は、同書の律法部分でもエピローグ部分でも、「彼ら」に当たる者たちは「私たち」によって肯定的に評価されていると指摘する。むしろ批判の対象は「あなたがた」で表される祭司たちである。そして「私たち」は「彼ら」を守ろうとしている節さえあるという。法的議論については、『律法』はミシュナー以前の証言を与えてくれるという点で貴重である。のちにハラハーの用語として発展していくような事柄は、すでにここに現れているといっても過言ではない。
最後に原文より重要な指摘を引用しておく。
MMT, perhaps more than any other text from Qumran, was read in light of a number of preconceptions with scholars not infrequently pouncing on a phrase and building a case on their reading of it. (p. 289)
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