- Maarten J. J. Menken, "The Textual Form of the Quotation from Isaiah 7:14 in Matthew 1:23," Novum Testamentum 43 (2001): 144-60.
第一にוקראתはMT上では、וְקָרָאת(ヴェカラット)と母音記号が振られています。これは伝統的に「彼女は呼ぶだろう」と訳され、Geseniusなどはそれを補う文法的な説明をしてきましたが、MenkenはDequekerに従って、そうした読み方はできないと述べます。そして写本によってはוְקָרָאתָ(ヴェカラター、お前[男]は呼ぶだろう)という読みがあること、また1QIsaaではוקרא(彼は呼ぶだろう)という読みがあること、そしてDequekerはヴェカラターを正しい読みだと考えていることを紹介しています。ちなみに、וקראは本来三人称単数で読まなければならないですが、聖書の中では複数で読まれることも多いそうです。
- L. Dequeker, "Isaie vii 14: וקראת שמו עמנו אל," Vetus Testamentum 12 (1962): 331-35.
上の第一点は、独立した問題ですが、次の第二・第三点は連動した問題です。第二点としては、הרהの訳として、七十人訳ではἐν γαστρί ἕξειとἐν γαστρί λήμψεταιという訳があるが、さまざまな文献学的証拠から、前者が訳として一貫性があり、マタイの引用でも前者の表現が使われていることが述べられます。そして第三に、七十人訳ではוקראתの訳として、καλέσεις, καλέσετε, καλέσει, καλέσουσινの4つが写本上で確認できるが、原典に対する正確な訳という意味では、マタイの引用にあるκαλέσουσιν(彼らは呼ぶだろう)ではなく、多くの写本が支持するκαλέσεις(お前は呼ぶだろう)が正しい訳であることが説明されています。
さて、上のことを総合して考えると、まずἐν γαστρί ἕξειなどの表現がマタイと七十人訳とで共通していることから、マタイはこの箇所では通常と異なり、ヘブライ語を自ら訳して引用するのではなく、七十人訳から引用していることが分かります。そして、マタイが引用するときの方針として、コンテクストに合わせて引用を改変することはほとんどないということを考慮に入れると、マタイが使った七十人訳は、現在のそれが支持する正しい訳のκαλέσειςではなく、マタイが引用したままのκαλέσουσινという表現であったはずということになります(ここで、クムランのוקראが三人称単数ではなく複数でも読まれ得るということが効いてくるわけです)。通常では、七十人訳とマタイの文言が違うのは、マタイが文脈に合わせてκαλέσειςをκαλέσουσινに改変したからだと説明されてきましたが、Menkenは、マタイの引用は、意図によって改変を経たものではなく、彼が見たままの文言を素直に引用しただけだと反論しているわけです。そしてそうであるならば、マタイが使った七十人訳は、現在のそれとは異なる、改訂された七十人訳であったということにもなります。
正直なところ、私にはMenkenの議論は少々トートロジーのようになってしまっているような気がしますし、 וקראתを伝統的に「彼女は呼ぶだろう」と読んできた根拠をあっさり切り捨てておきながら、καλέσουσινがマタイの使ったテクストだと主張する際の根拠のひとつが「וקראを複数として読める場合がある」からというのは、根拠としての弱さという点ではあまり変わらないような気がします。それにしても、イマヌエル預言というキリスト教にとって極めて大事な個所にまつわる議論が、このように依然として積み重ねられているというのは驚きですね。
信者としての立場からすると、イザヤ7:14では、まず第一に目が行くのは当然ながら「インマヌエル」で、第二に「アルマー」ですが、そもそも「インマヌエル」からして、二通りの解釈が存在しているように思われます。
返信削除(1)「神は私たちと共におられる(God is with us)」
(2)「私たちと共におられる神(God with us)」
もし(1)を採用するなら、「インマヌエル」は普通の人名(被造物の名前)ということになり、「サムエル」あるいは「ミカエル」「ガブリエル」などと同列ということになります。必ずしも神性を宣言しているわけではないとも解釈できるからです。
しかし(2)を採用するなら、これはもう「神」そのものを表現しているわけですから、普通の人名などでは全くなく、(1)の解釈とはもう天と地ほどの違い、全く別次元の存在だということになります。ここで明確に神性が宣言されているからです。
マタイ1:23は(2)の意味で捉えていると私は認識していますが、どういうわけか日本語訳では(1)の意味になっているものが多いように感じます。
イザヤ7:14の「インマヌエル」は、マソラ本文では「インマヌ・エル」と二語で表現されている一方、クムラン写本では「インマヌエル」と一語で表現されていた、と記憶しています。マソラ本文が(1)の解釈を示唆する一方、クムラン写本は(2)の解釈を支持している、と感じるのは、あまりに素人的な短絡思考ですね(笑)。あまりアカデミックな話ではなくて、「雑感」のようで申し訳ありません。
七十人訳の異本ということでは、歴代志上22:15でoikodomoi lithonと訳されている部分がlatomoi lithonとなっているものがあるようです(私は基本的に、七十人訳はネット上に存在するものでしか確認していませんが。あしからず)。
Josephologyさん、コメントをいただきありがとうございます。確かに、おっしゃるとおり、「神は私たちと共におられる」と「私たちと共におられる神」では、かなり意味が変わってきますね。実はこの「インマヌエル」という称号については、上の記事では省略してしまいましたが、この論文でも156頁以降で考察されています。
返信削除それによると、23節「彼らは彼の名をインマヌエルと呼ぶだろう」は、21節「彼の名をイエスと呼びなさい」と25節「(ヨセフは)彼の名をイエスと呼んだ」の間に挟まれるようなかたちになっていて、「インマヌエル」と「イエス」というそれぞれの名前がぶつかってしまっているように見えるけれども、実は「イエス」のヘブライ語読みである「ヨシュア」の語根であるユッド・シン・アインは、ヒフイル形にすると「助ける」という意味になるそうです。それゆえに、「インマヌエル」という称号と、「イエス」という名前は意味からいっても近いもので(神が我々を罪から助ける→神は我々と共にいる)、21節との対比からいっても、23節の引用は、現在のκαλέσουσινというかたちよりもκαλέσειςの方が本来ならば文意に即しているはずなのに、実際には前者になっていることから、従来の説明である「マタイが文脈に合わせて人称を変えた」というのは誤りである、という議論になるようです。
このMenkenという人は、どうやらロジックを組み立てるときに反証する方向から攻めるのが好きなようで、ついていくのが少々たいへんですが、とりあえず「インマヌエル」については上のような議論をしています。
いろいろと御教示ありがとうございました。
返信削除「インマヌエル」を普通の人名と考える立場であれば、「彼女は呼ぶだろう」という解釈もあって当然ですが、「インマヌエル=神」と考える立場だと、例えば、一人の母親が自分の産んだ子供を「インマヌエル」などと呼んでいるところを周囲に見られたならば、旧約時代であれば、母子ともども神に対する冒涜者として、周囲の人々から投石されて殺されていただろう、と想像します(素人が想像でものを言ってはいけませんが(笑))。
私は「インマヌエル=私たちと共におられる神(人間の世界に来られ人間となられた神)」と考えている立場ですので、上のように想像すると、イザヤ7:14を「彼女は呼ぶだろう」と解釈するのは、以前からなんとなく違和感がありました。
Josephologyさん、コメントをありがとうございます。
返信削除>一人の母親が自分の産んだ子供を「インマヌエル」などと呼んでいるところを周囲に見られたならば、旧約時代であれば、母子ともども神に対する冒涜者として、周囲の人々から投石されて殺されていただろう、と想像します
なるほど、たしかに説得力のある解釈ですね。私が知っている解釈としてたとえばヒエロニュムスなどは、『イザヤ書注解』の中で、ユダヤ人教師から習ったであろうヘブライ語の知識から単純に、וקראתを「彼女は呼ぶだろう」の意味であると説明しているのですが、他の教父や中世のスコラ学者たちが神学的な立場からどう解釈しているのか、またユダヤ教の聖書解釈ではどうなっているのかなども比較してみたいところです。
何度も書き込み申し訳ありません(笑)。
返信削除もう一つ気になったのが、「インマヌエル」と「ヨシュア(イエス)」とは意味が近い、という議論です。
確かにこの説明はよく見聞きすることがあります。しかし、これは「ヨシュア(イエス)」に限ったことではなく、他のイスラエル人の名前(theophoric name)の多くにも、程度の差はあれ、該当してしまうのではないか、という疑問が残ります。
つまり、「インマヌエル」は「サムエル」「エゼキエル」「ダニエル」などとは本質的に差はないのか、それとも峻別されるべきものなのか、という話にどうしても戻ってしまう気がします。
それに関連して、「インマヌエル」がいったいいつの時代から(何世紀頃から)普通の人名として用いられるようになったのかという疑問もあります(これは調べればある程度わかることでしょうが、まだ手を着けていません)。
以前に紹介しました「アルマー」に関する拙論ですが後から一〇行ばかり加筆いたしました。よろしければご笑覧ください。
返信削除Josephologyさん、コメントありがとうございます。インマヌエルとイエスとの名前の近さに関してですが、論文の著者のMenkenは、1:21「その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである」という箇所を取り上げつつ、イエス(ヨシュア)という名の語根ユッド・シン・アインのヒフイル形には「救う」という意味があると説明しています。そこから、「イエス→神が人々を罪から救う→神が共にいる→インマヌエル」という解釈になるようです。サムエルやエゼキエルなど、他の名前との峻別ということに関しては、こうした具体的な新約の箇所からの解釈であるという点が違うのかもしれませんね。また加筆のお知らせ、ありがとうございます。拝見します。
返信削除ちょっと気になって調べてみたのですが、「ヴェカラット」という言い回しは、旧約聖書全体の中ではこのイザヤ7:14を含め、たった三回しか出てきません。あとの二回は創世記16:11(イシュマエルの誕生に関する箇所)とイザヤ60:18だけです。これは比較的まれな表現のようですね。
返信削除イザヤ7:14に内容的に強く関連すると思われるイザヤ9:6に用いられる「ヴァイイクラー」の方は、旧約聖書全体の中で二百回以上登場するようです(2サムエル12:25のソロモンの別称に関する箇所など)。
続きです。「ヴェラカター」は旧約全体で十一回登場するようですが、創世記17:19(イサクの誕生に関する箇所)には、こちらが用いられています。
返信削除Josephologyさん、コメントをありがとうございます。Geseniusのヘブライ語文法書§44fおよび§74gなどを見ると、וְקָרָאתはラメッド・ヘー型動詞のアナロジーから、וְקָרְאָהと同じ意味で、すなわち「彼女は呼ぶだろう」という意味で読めると書いてあります。現代の注解者たちのコメンタリーなどでも、この記述をもとにして、さほど踏み込んだ検証をすることなくここは「彼女は呼ぶだろう」という意味だとしているものが多いです(たとえばアンカー・バイブルのBlenkinsoppなど)。他の文法書(Joüon-Muraoka, J. Blau, Lambdin)ではなぜか、そもそもこの箇所に立ち入った記述がないので、結局(古いですが)Geseniusを参照するしかなくなってしまいました。いずれ上に挙げたDequekerの論文を読んでみようと思います。
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