- ジョージ・スタイナー(亀山健吉訳)「翻訳としての理解」、『バベルの後に:言葉と翻訳の諸相』(上)、法政大学出版局、1999年、1-100頁。
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文学研究から翻訳論を論じた代表的な著作の第一章を読みました。文学(主に英文学)から山ほど具体例をもってくる息の長い文章が続くので、読むのにけっこう苦労しました。「第二版への序文」の中で、スタイナーはこの本で主張したかったことを次のように述べています。
『バベルの後に』が主張しているのは次のことである。すなわち、形式的に見ても、実際にも、伝達行動のあらゆる場面において、また、最も広い意味における記号論においても、さらに、より限定された言語的な交換においても、あらゆる場合における意味の送達と受容が行われるときには、必ず翻訳が含まれている、ということである。理解するとは暗号の解読であり、意味を聴き取るとは翻訳することである。こう考えてくると、翻訳という作業の基本的な構造および実行の手順、および、それに伴う問題点はすべて、どんな言語であれ、その言語における発話、筆録、図像による記号化等の活動の中にすべて含まれていることになる。異言語間における翻訳も、たった一つの言葉しか語られていないところでの人間の発話の形態やモデルを、特殊な場合に適応しただけのことである。(xv頁)。要するにスタイナーは、「翻訳」とひとくちにいっても、いわゆる「異言語間の翻訳」だけではなく、何らかの「意味の送達と受容」が行われるとき、 我々は必ず「翻訳」ともいうべき作業をしているのだと述べています。こうした考え方は、スタイナー以外にも、たとえばロマーン・ヤーコブソンも、「翻訳の言語学的側面について」の中で、翻訳の三要素(言語内翻訳、言語間翻訳、記号法間翻訳)という分類をしています。つまり、同言語内である言葉を別の言葉に言い換えたり(言語内翻訳)、ある言葉から得たイメージを絵に描いたり(記号法間翻訳)することも、「翻訳」なのです。
スタイナーは、まずシェイクスピアやジェーン・オースティンの物語で使われている言葉に注目し、それが現在の意味といかに異なっているかを示します。そして、このような時間を異にするテクストを正確に読むためには、「同一言語内の翻訳」=「解釈」が必要だと述べています。「原典と受け手の間に立ちはだかって障害となっているもの、もしくは、距離を作っているものは、実は時なのである」(60頁)。解釈の「障害」はこれだけはなく、他にも、階級、年齢、性別の違いなどもまた、意味の伝達と受容をさまたげるものとなります。しかもやっかいなことに、これらの例の場合、言葉は何かを伝達するためではなく、何かを伝達しないためにも用いられることがあります。たとえば、子供たちは隠語や独自の言い回しで会話をしますが、これはそうした言い方をすることで大人には分からないこと、逆に言えば自分たちだけが分かることを語っているわけです。かように、言葉には通時的な違いと共時的な違いがあり、それらが意味の送達と受容をさまたげているのだとスタイナーは述べています。そして、そうした言語活動におけるあらゆる違いを架橋するために、翻訳が必要になってくるわけです。
まだ一章しか読んでいないので、序文で主張していたことを越えるような記述は出てきていませんが、それはともかくときどき出てくるスタイナーの含蓄ある言葉がなかなか印象的だったので、以下目についたのを抜き出しておきます。
今日古典作家とみなされている者のみが、実は、真に革命的という名に値する唯一の人物なのである:こういう作家こそ、静かな海原――そこでは、言語と人間とがいわば一心同体ともいうべき間柄にあった――の中へではなく、未知の国(terra incognita)の中へと敢然と飛び込んでゆく勇気をもっていた最初の人物であった。この未知の国とは、象徴的な表現、類推、隠喩、直喩、皮肉などが、事実とは別の旋律を奏でるような対位法の支配する国を指すのである。我々は人間がいつ、どこで、多数の人間を虐殺したか、どんな形で人を騙したか、その歴史を知ってはいるが、しかし、比喩がいつ、どこで、どんな形で成立したか、その歴史については何も知らない。海の色を初めて葡萄酒の濃い色と比べた人、あるいは、人の表情の中に初めて秋の気配を読み取った人がどんな気持ちだったのか、我々は的確にその心中を想像することはできない。こういう比喩は世界を新しく写像することであり、こういう像は、我々の現実の中での住みつき方を再構成するものであると言ってよい。(48-49頁)
真に書物を読みこなす人は辞書に凝るはずである。(51頁)
我々が経験する過去なるものの大部分は言葉の産物である。歴史とは言語活動に他ならず、過去という時制を選び取って用いたものにすぎない。建物とか遺跡とかも歴史的遺物として認められるためには、まず<読み取られ>なくてはならない。すなわち、言語による認知とか位置づけとかいう文脈の中に嵌め込まれなくてはならないのである。歴史とは、言語以外に、すなわち、本質的に言語的なものである記録を我々が解釈を加えながら信ずること以外に、いったい、どこに実質的な実在性を持っているのであろうか(沈黙するところに歴史はない)。(62頁)
人間が生物として免れることのできない制約である死に直面しても、それでも生き延びることができるのは、世界を観念と化し得るだけの言語の構成的な生産力によるものである。文法という神秘的な力――私はこの神秘的という形容を引っ込めるつもりは全くない――は、反事実を作り出し、<もしも>という仮定の命題を生み、とりわけ未来時制なるものを産み出した。この未来時制こそ、人間という種に希望という能力を付与し、個人がやがて死滅してゆくのを超えて、遥か遠くまで思いを馳せる能力をも与えたのであった。我々は耐えて生き続け、しかも、単に受身にではなく創造的に耐え忍んで生きてゆくが、それも我々の内にはやむにやまれぬ力があるからであり、その力により、我々は今あるがままの現実に<否>と言うことができ、自分が自分以外のものになるという虚構を築き、その<他者性>を自己意識の住処として夢見たり、意欲したり、待ち続けたりするものである。(xviii頁)
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