- ジョージ・スタイナー(亀山健吉訳)「言語とグノーシス」、『バベルの後に:言葉と翻訳の諸相』、法政大学出版局、1999年、101-205頁。
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スタイナーの『バベルの後に』の第2章を読みました。この章は、実に素朴な問いから始まっています。曰く、「いったい、人間は何故、何千もの異なった、相互に了解し得ない言葉を語っているのであろうか」(101頁)。第1節では、この問いをめぐって、歴史的にどのような議論があったかが紹介されています。特に近代に入って、ベンヤミン、カフカ、ボルヘスらの議論が紹介されています。
とはいえ第1節の議論はあくまでイントロダクションで、この章の中心的な議論は第2節からはじまります。すなわち、このように多様な言語がある中で、異なった言語間の翻訳というものが本当に可能なのかどうか、という問いです。特に言語学における研究史を紐解くと、この問いに対しては、次の2つの説明がなされてきました。第一は「普遍主義」の立場からの説明で、それによると言語の相違とは表面的な問題であり、言語の深層に潜んでいる構造そのものは普遍的なものであるのだから、もちろん翻訳は可能であるという結論になります。第二は「単子主義」(あるいは「相対主義」)の立場です。こちらによると、普遍主義などというのはまやかしであり、一般的に《翻訳》と呼ばれているものは実際のところ粗筋が似ている別物にすぎないという結論になります。
後者の主張の代表者であるライプニッツによると、我々の思考を決定づけているのは他ならぬ言語そのものであるのだから、言語を異にする者同士は互いに異なった世界の見方をしている(ゆえに本質的には翻訳は不可能)ということになると述べています。第二節では、このライプニッツをはじめとして、後者の立場から議論した人々が挙げられています。たとえば、ハーマン、ヘルダー、フンボルト、そしてベンジャミン・リー・ウォーフなどで、たとえばヘルダーはロマン主義的な考え方から、ドイツ民族の母語たるドイツ語の個性は、他の言語に移し得ないと説明しました。フンボルトは、言語によって世界観が異なることを示すために、ギリシア語とラテン語を例に、ギリシアとローマとがいかに対照的な文化の構造と社会現象を作り出したかを証明しようとしました。そしてホピ語の研究をしたウォーフの言説に関して、スタイナーは次のようにまとめています。
ウォーフの主張したテーゼはよく知られている。すなわち、個人が自分の住んでいる世界の中で何を知覚し、世界についてどう考えるか、を決定するのは言語の型である。こういう言語の型…は、それぞれ大幅に異なっているので、異なった言語体系を用いる集団においては、知覚の仕方、思考の方法、および反応の有り様は当然異なってくるはずである。そうなると、基本的に違った世界像が生まれてくることになる。…それ故、人間の意識に関する限り、普遍的な意味で客観的と言えるような現実は実体としては存在しない。(170頁)こうした相対主義的な議論に対し、第三節においては普遍主義の議論が紹介されます。普遍主義の立場の者たちは、もちろん言語間にはたまたま生じた違いがあるだろうが、その下部には統一された、普遍的な原則が潜んでいるのであって、この原則こそが人間の言語に特有の精神を決定しているものなのだ、と述べます。そうした原則としては、音韻、文法、意味の3つがあります。音韻については、トゥルベツコイの研究が有名であり、文法についてはグリーンバーグの研究が挙げられていますが、いずれも多くの例外を含んだ不十分なものとされています。普遍主義の代表選手であるチョムスキーは、こうした音韻論や通常の構文レベルで普遍的なものを追求しようとしても不十分であり、より深いところに潜らねばならないと考えました。チョムスキーは、文法習得は環境からのフィードバックとは全く無関係な生得的なものであり、そうした能力は人間に内在しているものであるのだから、言語間のさまざまな違いは結局「表層構造」の違いだけであって、重要なのは「深層構造」であると述べています。スタイナーによれば、こうした言語構造の普遍性は、結局のところ推測に基づく暫定的なものでしかないようですが、しかし「翻訳」というものがある以上、こうしたある種の普遍性を前提としなければなりません。
翻訳というものは、本質的には、今問題にしている普遍的原理があることを示す、最も明白な証拠を提示して見せなくてはならない。言語相互の間で意味の移動が可能であるということ自身、人間の言語すべての底にある何か共通の鋳型、もしくは、共通の構造に固く根ざしているように思われる。しかしながら、実質的な普遍性を形式的な普遍性から区別するにはどうしたらよいのであろうか。…形式的な普遍性があらゆる言語の根底にあるが故に完全な翻訳が可能になるのか、それとも、普遍性が実質的な形状を示すのは稀な場合で、たとえ示すとしても曖昧な形でしかないので、翻訳というものは実際には、いつまで経っても不可能なのか、我々はいったいどうすればこの問題に決着をつけることができるのであろうか。(199頁)スタイナーは、この章を最終的にはチョムスキー批判のようなかたちで締めくくっており、翻訳の可能性に関わる上の問いに対しては、次のように述べるにとどまっています。
言語の働き方のうち、より深く重要なものは、現実の意識、もしくは潜在的なあり得る意識の次元を、遥かに超えたところで働いていることを承認するより先に(これがチョムスキーの要請するところである)、今取り上げた意識が最も直截的に働いている場所である文芸の世界――生々たる活気に満ちた無秩序の領域――に我々は注目しなくてはならない。言語、および、翻訳についてより多くを知るためには、変形文法でいうところの〈深層構造〉から、詩人の領域というさらに深部の構造へと移ってゆかなくてはならない。(204頁)スタイナーは、要するに、翻訳について論じるためには言語学では不十分で、文学の領域で論じなければならないというところに持っていきたかったようです。私自身があまりチョムスキーについてよく知らないために、スタイナーの批判の勘所が分かりづらかったので、いずれそのあたりを押さえて再読してみるのもいいかもしれません。ちなみに途中でスタイナーがユダヤ思想について触れた文章があったので、引用しておきます。
旧約聖書の創世記から始まり、ヴィトゲンシュタインの『哲学研究』、または、ノーム・チョムスキーの「ヘブライ語における形態音素論について」という最も初期の未刊の論文に至るまで、ユダヤ的な思想は、言語の神秘性および、言語についての学術や哲学について、大いなる役割を果たしてきた。ユダヤ人にとっても、非ユダヤ人にとっても、「モーセの五書」はその後のいかなる言語作品とも異なり、啓示的な性格を持っていたことになる。そういうわけで、ヘブライ語というものは、折に触れ、裁断器のダイヤモンドの刃として働いてきたのである。こういうユダヤの伝統を見ると、その中に、人間の言語の本質、および、言語が不思議なことに分裂しているのは何故か、という問題について、西欧において交わされた討論の主要な項目は、みなそこに見出すことができる。我々に伝えられたユダヤの原典の内蔵している要素はそのどれひとつを取ってみても、ユダヤの神秘主義においても、ラビと呼ばれるユダヤ教の学者の研究活動においても、それぞれの主題ごとに学問の伝統を育んできたのである。(120頁)
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