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2011年6月29日水曜日

『基督教研究』73巻1号(2011年)

同志社大学神学部基督教研究会の紀要誌『基督教研究』73巻1号が出版されました。今号には講演1本、論文4本、資料1本が掲載されています。

中でも個人的に興味深かったのは、原・仲程論文でした。この論文の中に、戦前の同志社大学神学部で教鞭をとった教師陣の一覧があるのですが、有賀鐵太郎、魚木忠一、大塚節治、高橋虔といった神学部の重鎮たちに混ざって、講師として宗教哲学者の波多野精一、キリスト教運動家の賀川豊彦、ラテン語学者の田中秀央らの名前がありました。『羅和辞典』の田中秀央からギリシア語・ラテン語を学べるというのは、ちょっといいですね。目次は以下の通りです。

『基督教研究』73巻1号(2011年6月発行)

ミヒャエル・トローヴィッチュ「現代社会に対してカール・バルト神学が意味するもの」……1-11

村山盛葦「第一コリント11章30節についての一考察:暴飲暴食、混入物?」……13-25

原誠・仲程愛美「戦前の同志社神学部で学んだ韓国人留学生に関する研究」……27-52

前川裕「ヨハネ福音書8章の救済思想:物語批評の視点から」……53-64

藤原佐和子「タイ北部におけるプロテスタント神学の諸相:1860年代末期から1970年代におけるアメリカ長老派宣教師の影響」……65-85

石川立・加藤哲平「ヒエロニュムス「ウルガータ聖書序文」翻訳と注解(4)エステル記、ヨシュア記、トビト記、ユディト記、福音書、パウロ書簡」……87-107

2011年6月22日水曜日

エウセビオス『教会史』3. 24. 1-3

エウセビオス『教会史』3. 24では、福音書の文体について述べられています。エウセビオスによれば、福音書の文体は確かに稚拙ではあるが、福音書記者は「神の霊」と「キリストの奇跡を行う力」だけをもって福音書を書いたのだといいます。E. NordenやA. Kamesarらによると、聖書が文体において稚拙だと批判されたとき、文体じゃなくて内容が素晴らしいんだと言い返すのは、教父がよく用いた反論方法だったようです(A. Kamesar, Jerome, Greek Scholarship, and the Hebrew Bible, Oxford 1993, p.46)。エウセビオスはまさにその典型だったといえるでしょう。

なお、エウセビオスの『教会史』は邦訳があります。
秦剛平訳『エウセビオス「教会史」』(上下)、講談社学術文庫、2010年。

底本はR. A. Whitacre, A Patristic Greek Readerに採録されたPG 20, col. 264-65。
以下の原文は、次のサイトから。

Hist. eccl. 3. 24. 1-3
Φέρε δέ, καὶ τοῦδε τοῦ ἀποστόλου τὰς ἀναντιρρήτους ἐπισημηνώμεθα γραφάς. καὶ δὴ τὸ κατ᾿ αὐτὸν εὐαγγέλιον ταῖς ὑπὸ τὸν οὐρανὸν διεγνωσμένον ἐκκλησίαις, πρῶτον ἀνωμολογήσθω· ὅτι γε μὴν εὐλόγως πρὸς τῶν ἀρχαίων ἐν τετάρτῃ μοίρᾳ τῶν ἄλλων τριῶν κατείλεκται, ταύτῃ ἂν γένοιτο δῆλον. οἱ θεσπέσιοι καὶ ὡς ἀληθῶς θεοπρεπεῖς, φημὶ δὲ τοῦ Χριστοῦ τοὺς ἀποστόλους, τὸν βίον ἄκρως κεκαθαρμένοι καὶ ἀρετῇ πάσῃ τὰς ψυχὰς κεκοσμημένοι, τὴν δὲ γλῶτταν ἰδιωτεύοντες, τῇ γε μὴν πρὸς τοῦ σωτῆρος αὐτοῖς δεδωρημένῃ θείᾳ καὶ παραδοξοποιῷ δυνάμει θαρσοῦντες, τὸ μὲν ἐν πειθοῖ καὶ τέχνῃ λόγων τὰ τοῦ διδασκάλου μαθήματα πρεσβεύειν οὔτε ᾔδεσαν οὔτε ἐνεχείρουν, τῇ δὲ τοῦ θείου πνεύματος τοῦ συνεργοῦντος αὐτοῖς ἀποδείξει καὶ τῇ δι᾿ αὐτῶν συντελουμένῃ θαυματουργῷ τοῦ Χριστοῦ δυνάμει μόνῃ χρώμενοι, τῆς τῶν οὐρανῶν βασιλείας τὴν γνῶσιν ἐπὶ πᾶσαν κατήγγελλον τὴν οἰκουμένην, σπουδῆς τῆς περὶ τὸ λογογραφεῖν μικρὰν ποιούμενοι φροντίδα.

さて、この使徒〔ヨハネ〕のまぎれもない書物をも示そう。彼による福音書は、天の下にある教会で認められたものとして*1、まず承認されるべきである。〔ヨハネ福音書が〕もっともなことに昔の人々によって*2他の3つの〔福音書〕の4番目に並べられていることは、次のことによって明らかとなるだろう。聖なる者たちや真に神にふさわしい者たち――私はキリストの使徒たち〔福音書記者〕のことを言っているわけだが――は、生において*3完全に浄化され、すべての徳によって魂において飾られているが、語りにおいては未熟であり、救い主から彼らに与えられた聖なる奇跡を行う力を信頼していたものの、小賢しい達者な言葉で先生〔イエス〕の教えを表現することなど知りもしなかったし、試みようともしなかった。むしろ、彼らと共に働く神の霊の証し、そして彼らを通して完成されるキリストの奇跡を行う力のみを用いて、天の国の知識を全世界に宣べ伝えていたのである。彼らは書物を書くということについての関心をあまり示さなかった。

*1 秦訳(p.181)では、「読まれている」としてるが、διαγιγνώσκωは「認める」の方がよいか。ἀναγιγνώσκωならば「読む」という意味になる。

*2 Whitacreの注では(p.111)、πρόςの意味はリデル=スコットのインターメディエイト版のp.684, C. III. 5の意味だと書いているが、これは対格での用法なので誤り。実際は属格なので、同頁、Aの用法を見なければならない。

*3 限定の対格の用法で訳した。つづく「魂において」、「語りにおいて」も同様。

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2011年6月16日木曜日

『宗教研究』第368号

宗教学会の学会誌の『宗教研究』第368号が届きました。今号は論文7本、書評7本とかなり充実した内容になっています。注目すべきことに、論文7本中3本がイスラーム、1本がユダヤ思想、1本が(広い意味で)キリスト教に関するものになっています。書評では星川啓慈氏による落合仁司著『数理神学を学ぶ人のために』の書評を興味深く読みました。論文の目次は以下のようになっています。

『宗教研究』第368号(2011年6月)

小野真「タラル・アサドと西谷啓治:「宗教とは何か」という問いをめぐって」……1-24

丸山空大「血、民族、神:初期マルティン・ブーバーの思想の展開とそのユダヤ教(Judentum)理解の変遷」……25-49

近藤洋平「東方イバード派における人間の宗教的分類と忘恩・偽信概念の展開」……51-74

松山洋平「ターハー・アルワーニーのクルアーン解釈理論:現代イスラーム思想におけるポストモダン性」……75-98

葛睿「西村茂樹における神道観:国民道徳の基礎をめぐって」……99-123

柴田真希都「見神と自然をめぐる思索と交錯:綱島梁川と内村鑑三」……125-49

内藤理恵子「ペットの家族化と葬送文化の変容」……151-73

2011年6月10日金曜日

『京都ユダヤ思想』創刊号(2011年)

京都ユダヤ思想学会の学会誌『京都ユダヤ思想』の創刊号が出版されました。今号から、この学会の特徴である「査読者指名制度」が施行されており、創刊号には2本の論文が掲載されています。お問い合わせは学会事務局まで。目次は以下のとおりです。

『京都ユダヤ思想』創刊号(2011年5月31日発行)

芦名定道「学会誌刊行にあたって」……1-4

論文
丸山空大「F・ローゼンツヴァイクの“異教”概念からみる宗教論の変遷:ローゼンツヴァイク“後期思想”研究へむけた導入的試論」……5-28

小野文生「ブーバー思想の弁証法的構造、あるいはユダヤ悲劇の根源:『ゴグとマゴグ』における悲劇の歴史のアレゴリーについて」……29-54

第二回学術大会シンポジウム「宗教学から見るユダヤ教とイスラーム」……55
講演1 中村廣治郎「宗教学とイスラーム研究」……56-59

講演2 小田淑子「律法をもつ宗教への方法論上の問題」……60-63


コメント1 赤尾光春「ユダヤ学とイスラーム学における比較の視座」……64-68

コメント2 高木久夫「近代の世俗知受容と中世の哲学的宗教理解」……69-73

コメント3 後藤正英「近代西洋宗教哲学とユダヤ教」……74-78

質疑応答……79-87

その他……88-101
学会誌『京都ユダヤ思想』「査読者指名」制度
京都ユダヤ思想学会活動の記録(2009年度)
京都ユダヤ思想学会規約
『京都ユダヤ思想』論文執筆要項
英文要旨

クリュソストモス『マタイ講話』50.4

クリュソストモスは、「これらのこと」と「あれらのこと」という言葉を用いながら、今自分たちがしている聖餐式に過度な装飾を施すことと、外に出て貧しい者に施しをすることとを対比し、前者を戒め、後者を促しています。途中の、「まず飢えている彼を満腹にし、それから彼の食卓を豊かに飾りなさい」や、「遍歴者や外国人がさまよいながら屋根を必要としていたら、これをキリストに即しても考えなさい」という言葉は、古代のキリスト教が持っていた素朴ながら最も重要な精神を表しているように思われます。



50.4
私がこうしたことを言うのは、これらの献げものを準備するのを妨げようというのではなく、これらのものと共に、そしてこれらのものより前に、施しをなすことを〔あなたがたに〕要求しているのです。なぜなら、彼〔キリスト〕はこれらのもの〔献げもの〕も受け取ってくださいますが、あれらのもの〔施しをすること〕をより多く受け取ってくださるからです*1。というのも、こちらでは献げものをする人だけが助けられたわけですが、あちらでは受け取る人もまた助けられたからです*2。こちらでは行為は野心の基礎でもあるように見えますが、あちらではすべてのことは施しと人間愛なのです。食卓が彼のために黄金の杯で満ちていながら、彼自身は飢えで苦しんでいるようなとき、何が助けになるでしょうか。まず飢えている彼を満腹にし、それから彼の食卓を豊かに飾りなさい。あなたは黄金の杯を作りながら、冷たい〔水の入った〕杯を与えないというのですか。それが何の助けになるでしょうか。あなたは金を散らした覆いを食卓に準備していますが、彼に必要な覆いを提供しないというのですか。ここから得るものは何でしょう。私に言ってみてください、もし誰かが必要な食糧に事欠いているのをあなたが見て、彼の飢えを解放することを怠り、食卓を銀で上塗りするだけならば、彼はあなたに感謝するでしょうか。むしろその者は怒りを覚えるのではないでしょうか。では〔次のような例は〕どうでしょう。ボロきれを身にまとい、寒さで凍えている者をあなたが見て、彼に衣服を与えるのを怠り、黄金の柱を準備し、かのお方〔イエス〕のために作ったんだと嘯いているならば、彼はあなたが〔自分を〕侮辱していると言うのではないでしょうか。傲慢さ、しかも最大の傲慢さだと考えるのではないでしょうか。遍歴者や外国人がさまよいながら屋根を必要としていたら、これをキリストに即しても考えなさい。あなたが彼を受け入れることを怠り、床や壁や柱頭を磨き、銀の鎖をランプで固定している一方で、彼が監獄に繋がれていることを見たくないのならば。私がこういうことを言うのは、これらのこと〔装飾〕を熱心にするのを妨げているのではなく、これらのこと〔装飾〕をあれらのこと〔施し〕と共に、むしろこれらのことをあれらのことより先にするのを妨げているのです*3。かつてこれらのことしないからといって、誰も非難された者はいませんが、あれらのことをしないことについては、ゲヘナや消えることのない火やダイモーンと共にある罰が恐れとなっていました。それゆえに、家〔教会〕を飾り立てるのをやめなさい。苦しんでいる兄弟を見過ごしてはなりません。なぜなら、家よりもその兄弟こそが、より正しい意味での神殿なのですから。

*1 「これらのこと」(tauta)と「あれらのこと」(ekeina)が対比されていますが、前者はクリュソストモスの信者たちが準備していた華美な奉献物のことで、後者は貧者へ施しをすることのことを指しています。

*2 entauthaとekeiとが対比されています。

*3 同様にtautaとekeinaが対比されています。

2011年6月6日月曜日

『一神教学際研究JISMOR』第6号(2010年)

同志社大学一神教学際研究センター(CISMOR)の機関誌である『一神教学際研究JISMOR』第6号が出版されていました(これまでの号はこちらからPDFが見れます)。今号では、2010年5月15日に開催されたシンポジウム「マルティン・ブーバーの思想と聖書解釈の可能性:ドイツとユダヤの間で」の発表者たちの論文が特集されています。それぞれの論文が素晴らしいのは言うまでもないですが、勝村弘也氏によるイントロダクションは、京都におけるブーバー研究史を振り返るものにもなっていて、短いながら読み応えがあります。この雑誌も、送料負担で、センター事務局に連絡すれば無料で手に入れることができます。以下に目次を挙げておきます。

『一神教学際研究JISMOR』第6号(2010年)

特集:マルティン・ブーバーの思想とその聖書解釈の可能性:ドイツとユダヤの間で

勝村弘也「我が国におけるマルティン・ブーバー研究の過去・現在・未来:ジンポジウムの総括文に代えて」……1-6

小野文生「マルティン・ブーバーの聖書解釈における〈声〉の形態学:「かたちなきもののかたち」への問いについて」……7-35

堀川敏寛「M・ブーバーにおける「神の直接統治」の思想的意義:『神の王権』における士師記解釈とユートピア社会思想より」……36-51

平岡光太郎「現代ユダヤ思想における聖書と政治思想:マルティン・ブーバーの神権政治とイスラエル文脈におけるその受容」……52-66


一般論文

中田考「スンナ派カリフ論の脱構築:地上における法の支配の実現」……67-89

勝又悦子「ラビ文献におけるTRGM(翻訳する)の語感」……90-109

ドロン・B・コヘン「「窓」から甘く語りかけよう:レナード・コーエンの歌を読む」……110-43

『一神教世界』第2号(2010年)

同志社大学一神教学際研究センター(CISMOR)から、『一神教世界』第2号が出版されていました(創刊号についてはこちらから)。今号でも、一神教にまつわるさまざまな分野の若手研究者たちが、意欲的な論文を執筆しています。センター事務局へ連絡をすれば、送料負担ですが、雑誌自体は無料でもらうことができます。第2号の目次は以下の通りです。

『一神教世界』第2号(2010年)

松山洋平「現代における「イスラーム」の語用論:入信体験の語りに見る動名詞的イスラームへの回帰」……1-14

久志本裕子「マラヤにおけるアズハル留学の主流化と宗教学校の近代化に関する一考察」……15-29

高尾賢一郎「西洋のスーフィズム認識に見る諸問題:宗教と近代を巡る言説の変遷を通して」……30-42

渡邉典子「「心理学主義化」する新新宗教の教説:GLAを事例に」……43-59

大岩根安里「ヘンリエッタ・ソルドのシオニズム観におけるヘブライ語の意義」……60-72

アルベルト・ミヤン・マルティン「阿部泰蔵『修身論(原典F. Wayland, Elements of Moral Science)』における「God」の翻訳をめぐって」……73-92

2011年6月4日土曜日

日本旧約学会(2011年度春期大会)

来る6月15日(水)13:30~16:15、明治学院大学白金校舎本館1253教室にて、日本旧約学会が開催されます。会員以外でも聴講は可能なようなので、ご興味ある方はぜひご参加ください。

13:30-14:00 研究発表1
矢田洋子「神の世界と人間の世界の乖離:קראとענהペアによってヨブ記を読む」
14:00-14:10 質疑

14:10-14:50 研究発表2
高橋優子「ヨシヤの改革と詩篇72・80篇」
14:50-15:00 質疑

15:00-15:20 休憩

15:20-16:00 研究発表3
平野満義「演劇としてのヨブ記理解の試み」
16:00-16:15 質疑

2011年6月2日木曜日

『アエネーイス』第4歌の朗読

ウェルギリウスの『アエネーイス』第4歌のラテン語テクストをネット上でいろいろ探していたところ、朗読の音声ファイルを見つけました。次のサイトで聴くことができます。
http://www.wiredforbooks.org/aeneid/
サイトによると、これはどうやらヴィルフリート・ストロー(Wilfried Stroh)というミュンヘン大学の古典文献学の教授による朗読のようです。

クリュソストモス『マタイ講話』50.3

『マタイ講話』50.3において、クリュソストモスは、「ここentautha」と「外exo」、「このことtouto」と「あのことekeino」という言葉を用いつつ、自分たちが行っている聖餐式と、外に出て行って貧者に施しをすることとを対比し、後者こそがキリスト自身の望んでいることだと述べます。信徒たちは、聖餐式で華美な装飾や豪華な器具を用いてキリストを崇めようとしますが、クリュソストモスはそれに批判的だったのでしょう。なおこの章は、途中を省略しています。




50.3
それゆえに、今でもかの食事があり、そこには彼(イエス)もまた横になっていると信じましょう*1。というのも、かの食事はこの食事と少しも違わないからです*2。またこの食事は人間がなすもので、かの食事は彼がなしているのではなく、この食事もかの食事も彼がなしているからです。それゆえに、司祭があなたに(パンを)運んでくるのを見たときはいつでも、司祭がそれをしていると考えるのではなく、キリストの手が広げられているのだと考えなさい。〔……〕
あなたはキリストの肉体を崇めたいのですか。(それなら)彼が裸であることを見落としてはなりません。ここでは絹の衣を着ている彼を崇め*3、外では凍えるような寒さと裸でいることによって殺された彼を見落とす、ということがあってはなりません。なぜなら彼は次のように言っています。《これは私の肉である》〔マタ26:26〕。そしてこの言葉によって、物事を確かなものにし*4、彼は言いました。《あなたがたは私が飢えているのを見たのに、食べさせなかった》〔マタ25:42〕、そして、《あなたがたが最も小さい者にしなかったのと同じように、あなたがたは私にもしなかったのだ》〔マタ25:45〕*5。というのも、このことは覆いではなく清い魂を必要としますが、かのことは大きな配慮を必要とするからです*6。それゆえに、知を愛すること、そしてキリストご自身が望むようにキリストを崇めることを学びましょう。なぜなら崇められる者にとって、彼自身が望む崇敬が最も甘美なのであって、我々が考える名誉が甘美なわけではないからです。たとえばペトロもまた、足を洗うことを妨げることで彼を崇めようと考えましたが、起こったことは名誉ではなく、まったく逆のことでした*7〔ヨハ13:1-11参照〕。あなたもまたこのように、彼自身が定めたこの崇敬で彼を崇めるようにしなさい。つまり貧者に財産を使いつくすのです*8〔マタ19:16-22参照〕。なぜなら、神が必要としているのは黄金の壺ではなく、黄金の魂だからです。

*1 「横になる」とは、ローマ時代の横臥して食事するスタイルのこと。

*2 「かの食事」(ekeino [to deipnon])とはイエスの最後の晩餐のことであり、「この食事(touto [to deipnon])とはクリュソストモスと聴衆が現在行っている聖餐式のこと。以下両者の同一性を説いていく。

*3 「絹の衣を着ている彼」とは、比喩的な意味なのか、それとも当時イエスの図像として絹の衣をまとった姿があったのか、興味深い記述です。

*4 pragmaは、deed, thing, occurrence, matterといった意味ですが、訳すのが難しいところです。

*5 マタ25:42の引用はNestle-Alandと異なっていますが、マタ25:45はまったく同じです。クリュソストモスの引用の仕方は、依然よくわかりません。

*6 ここでまたしてもtoutoとekeinoの比較が出てきますが、何を意味しているか判然としません。可能性としては、①前のところで出てきた「この食事」と「かの食事」を再び対比している、②直前のマタ25:45の引用中の、「私」と「最も小さい者たちの一人」とを対比している、③マタ25:45の引用と25:42の引用とを対比している、④「裸のイエス」と「絹の衣を着たイエス」を対比している、⑤現在自分たちがしている聖餐式と外に出て施しをすることを対比している、などが挙げられるでしょうか。このあとの文脈から考えると、⑤が適当かと思われます。

*7 ペトロの洗足の話はヨハ13:1-11にしか出てきません。『マタイ講話』ではありますが、例をマタイ以外から取っているわけですね。

*8 analiskoは、Lampeの辞書によると、destroyなど激しい意味のようです。つまりクリュソストモスはここで、財産を「使いつくす、使いつぶす」ということを述べているわけです。