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2020年12月13日日曜日

書斎の中のオリゲネス Wright, "Origen in the Scholar's Den"

  • John Wright, "Origen in the Scholar's Den: A Rationale for the Hexapla," in Origen of Alexandria: His World and his Legacy, ed. Charles Kannengiesser and William L. Petersen (Notre Dame, Ind.: University of Notre Dame Press, 1988), 48-62.

オリゲネスが『ヘクサプラ』を作成したのはなぜか。この問いに対し、多くの研究者がさまざまな答えを提案してきた。H. Orlinskyは『ヘクサプラ』をヘブライ語への手引きとするため、P. Nautin(およびH. SweteやS. Jellicoeら)は七十人訳テクスト(マソラー伝統へと改訂された「純粋な」七十人訳)を回復するため、S.P. Brockは護教的理由のため、D. Barthelemyはデータの十全な収集のためと説明した。これらに対し論文著者は、聖書解釈的な著作のために容易に比較可能なテクストのコンピレーションを作るためと主張する。そしてこのことを、『ヘクサプラ』の構造と形式、オリゲネス自身の証言、そして『エレミヤ書説教』におけるベーステクストから明らかにしている。

構造と形式については、P. NautinとI. Soisalon-Soininenの研究が大きな貢献をなしている。Nautinによれば、『ヘクサプラ』にヘブライ語欄はなく、全体としては7欄構成(ヘブライ語テクストのギリシア文字転写、アクィラ訳、シュンマコス訳、校訂記号つき七十人訳、テオドティオン訳、クインタ、セクスタ)だったという。各欄は「コロン」(ヘブライ語単語に対応した意味の小さなユニット)で配置されていた。Soisalon-Soininenは校訂記号について特に注目し、Fieldが批判的に再構成した『ヘクサプラ』上の七十人訳欄は、これらの記号を極めて機械的に用いていることを見出した。つまり、ヘブライ語テクストと七十人訳を一対一対応で比較しようとしていたのである。

こうした分析から以下のことが分かる。第一に、コロンによる文章の分け方は『ヘクサプラ』を大部にしたので、スクロールではなくコーデックス形式を必要とした。そしてそれゆえに、『ヘクサプラ』は公の場での論争において手軽に参照されたのではなく、書斎でじっくりと説教や注解に取り組むときに用いられたはずである。第二に、『ヘクサプラ』の論拠は七十人訳の欄を純粋なマソラー本文に合わせて回復させることではない。なぜなら、この目的のためには諸訳を参照する必要はなかったはずである。また七十人訳の言い回しがヘブライ語テクストと異なるところでもオリゲネスは七十人訳を修正していない。むしろ、『ヘクサプラ』の構造と形式から分かるその論拠は、細部を容易に比較できるようなテクストのコンピレーションを作ることだったといえる。

オリゲネス自身の証言は、『マタイ福音書注解』と『アフリカヌスへの手紙』から引き出すことができる。前者では、校訂記号に編集上の重要性を付与し、七十人訳よりもヘブライ語テクストの権威を強調している。とはいえ、ヘブライ語テクストに対応しない七十人訳テクストも削除するのではなく、オベロス記号をつけて維持している。また『マタイ福音書注解』における説明は、特定の箇所の注解という文脈の中で解釈されるべきなので、安易に一般化すべきではない。

一方で『アフリカヌスへの手紙』からは対ユダヤ人の護教的意図が引き出される。ここでオリゲネスは『ヘクサプラ』の論拠を語ろうとしているのではなく、七十人訳をユダヤ人の攻撃から守ろうとしている。しかし、テクストの比較を目的とした護教の道具としての『ヘクサプラ』は、七十人訳を批判者から守るというオリゲネスの目的にも適っていた。こうした護教的意図をそのまま『ヘクサプラ』の論拠に転用するべきではない。論拠はもっと広いものだったはずである。

『アフリカヌスへの手紙』から引き出されるオリゲネスの『ヘクサプラ』作成論拠は、テクスト間の差異を発見するための比較を行うためであった。そうした比較から分かったことは、護教的意図も含めて幅広い目的に用いることができる。つまり、『ヘクサプラ』の基本的な目的は、旧約聖書のすべての入手可能な版の全般的な理解だったといえる。

オリゲネス『エレミヤ書説教』におけるエレミヤ書の扱いもまた、彼の『ヘクサプラ』作成の論拠を間接的に教えてくれる。P. Nautinによれば、エレ20:2-6についての説教において、オリゲネスの聖書は七十人訳ではなく、『ヘクサプラ』作成の際に他の諸訳のもとで改訂したテクストだったという。ただし、論文著者によればこの結果は常に一定ではない。むしろ、基本的にカイサリアの教会で流布していた七十人訳に従いつつも、マソラー本文への同化のしるしを示し、なおかつときに孤立した特異性をも含んでいるといえる。

オリゲネスは七十人訳とマソラー本文の相違を意識していた。そしてそうした違いを2つの異なった方法で扱った。第一に、異読を評価して、よりよい読みを確立しようとした。第二に、異読を両方保存し、それぞれに対する釈義を残した。とりわけ第二の方法からは、オリゲネスが七十人訳を純化させようとしていたわけではないことが分かる。むしろ釈義の利祖ソースの幅広い範囲のためのデータを残そうとしていたのである。

結論としては、オリゲネスの『ヘクサプラ』作成の論拠は、さまざまな版の理解を深め、幅広い釈義上のリソースを提供してくれる、比較分析のための聖書テクストのコンピレーションを得ることだった。ここから、オリゲネスは聖書テクストの歴史において過渡期の人物だったといえる。ヒエロニュムスのヘブライ的真理への完全な関心をオリゲネスに読み込むことはアナクロニズムである。というのも、一方で、オリゲネスはテクストに複数の可能性があるのであれば両方を保存しようとする古代の写字生の伝統の中にあったので、ヒエロニュムスのような厳格な標準化は目指さなかった。他方で、校訂記号を導入することで聖書テクストの完全な標準化への重要な第一歩を踏み出した。つまり、オリゲネスはヒエロニュムスの先行者として、ヘブライ語からラテン語への旧約聖書翻訳プロジェクトのための道を整えたのである。

2020年12月5日土曜日

オリゲネスのヘクサプラ Grafton and Williams, "Origen's Hexapla"

  •  Anthony Grafton and Megan Williams, "Origen's Hexapla: Scholarship, Culture, and Power," in Christianity and the Transformation of the Book: Origen, Eusebius, and the Library of Caesarea (Cambridge, Mass.: The Belknap Press of Harvard University Press, 2006), 86-132.

オリゲネスの『ヘクサプラ』について我々には3種の証言がある。第一はオリゲネス自身だが、彼は『ヘクサプラ』に直接言及しているわけではなく、2つのテクストで聖書の本文批評的な研究に触れており、そこからヒントを得ることができる。第二は4世紀のキリスト教作家たちの証言、そして第三は『ヘクサプラ』写本の2つの断片である。

第二のキリスト教作家たちとしては、エウセビオス、ヒエロニュムス、エピファニオス、ルフィヌスがいる。エウセビオスによると、彼はカイサリアの図書館で『ヘクサプラ』の実物を手にしたという。また彼はギリシア文字によるヘブライ語転写の欄の存在に言及しない。ヒエロニュムスはカイサリアで実物を見たばかりか、自分で『ヘクサプラ』の写しを持っていた。彼はヘブライ語の欄について言及している。エピファニオスとルフィヌスはヘブライ文字とギリシア文字で書かれた2つのヘブライ語欄を報告する。さらにエピファニオスは諸ギリシア語訳の並び順が成立順ではないことを断ってもいる。エウセビオスやヒエロニュムスは『ヘクサプラ』にサマリア人のテクストが入っていた可能性も指摘する。

第三の現存する2断片は共に詩篇に関するものだが、オリゲネスの時代からはかなり下る。またヘブライ文字によるヘブライ語テクストを欠いている。第一の断片は、1900年にCharles Taylorによって出版された、カイロ・ゲニザで発見された詩篇32の大文字パリンプセスト断片である。第二の断片は、1896年にGiovanni Mercatiによってその存在が発表され、1958年に出版された、ミラノのアンブロシウス図書館で発見された小文字写本である。これは諸ギリシア語訳の並べ方がカイロ・ゲニザ版とは異なっている。また小文字で書かれていることから、ゲニザよりもオリジナルとの距離が遠いと言える。一方で2つの断片にはオリゲネスのオリジナルに遡ると考えられる共通点もある。たとえば1行に1語のヘブライ語とそれに相当するギリシア語が配され、1ページにつき40行書かれている。

『ヘクサプラ』は同時代の書物から、形式においても大きく異なっている。3世紀においてはいまだスクロール形式の書物が優勢だった。一説では、スクロール形式とコーデックス形式は、それぞれ82%と18%の割合だったという。スクロール形式はパピルスに書かれていたのに対し、コーデックス形式は羊皮紙に書かれた。コーデックスのページに複数の欄が設けられることはあったが、見開きページに6欄も設けなければならない『ヘクサプラ』は例外的だった。キリスト教徒はコーデックス形式を比較的早くから受容していたが、『ヘクサプラ』はその傾向を加速させ、またその可能性を押し広げた。『ヘクサプラ』の全体はおそらく400葉(800ページ)のコーデックス40巻分に相当したと考えられる。

資金面はオリゲネスのパトロンだったアンブロシオスなどによって賄われた。『ヘクサプラ』作成のためには、書記の費用だけで75,000デナリ、羊皮紙などを含めると150,000デナリかかったとされる。ヘブライ文字の筆写のためには余計に費用がかかったであろう。オリゲネスの教師としての年収は7,000デナリほどだったようなので、彼自身にはとてもではないが無理だったが、年に6,000,000デナリは稼いでいたローマ司教コルネリウスなどにとっては出せる値段だっただろう。

オベロス記号やアステリスコス記号のような校訂記号については、『ヘクサプラ』の七十人訳の欄に書かれていたと考える者たちと、まったく別のプロジェクトだと考える者たちがいる。論文著者は、確かではないと断りながらも、後者に与している。

R. Clementsの研究によると、『ヘクサプラ』には2つの問題がある。第一に、ヘブライ語とギリシア語を両方読める者しかヘブライ語とギリシア語の欄を比較できないはずということである。この第一の問題について、Clementsは3つの可能性があり得るとする。第一に、オリゲネスはヘブライ語といくつかのギリシア語訳が載っている既存の梗概(シノプシス)を持っていたという可能性である。しかし、Clementsはこの説はありそうにないとする。なぜならば、ギリシア語を話すユダヤ人はギリシア語で礼拝することを何ら問題としていなかったし、またこの議論はヘブライ語のギリシア語転写の必要性を説明できないからである。さらに言えば、こうした梗概はアレクサンドリアよりもカイサリアにこそ当てはまる。

第二の可能性は、オリゲネスはヘブライ語と諸ギリシア語訳を比較できるほどヘブライ語に習熟した助手を雇っていたというものである。Nicholas de LangeやRuth Clementsらが取る立場である。オリゲネス自身がユダヤ人の情報提供者の存在について数多く言及していることから、この見解は支持される。

第三の可能性は、オリゲネス自身がヘブライ語とギリシア語を校合できるほどにヘブライ語に習熟していたというものである。オリゲネスは多少ともなりヘブライ語を知っていたことは確実であるが、助手を必要としていたこともまた確かである。ユダヤ人の助手に大きく依拠していたことと、多少はヘブライ語を読めたことは矛盾することではなく、これらの2つの可能性が補い合っていたのである。Clementsは、もともとアレクサンドリアでオリゲネス自身が作成した『テトラプラ』に、カイサリアで雇ったユダヤ人助手がヘブライ語の欄を付け加え、『ヘクサプラ』になったと考えている(エウセビオスは『ヘクサプラ』の簡略版としてのちに『テトラプラ』が作成されたと報告している)。

Clementsが『ヘクサプラ』に見出す第二の問題は、七十人訳の底本のヘブライ語テクストと、オリゲネスの時代のヘブライ語テクストとは異なっていたはずという問題である。死海文書中の発見によって、七十人訳者が依拠したヘブライ語テクストは、後1世紀までにユダヤ人の間で基本となったプロト・マソラー本文と、さまざまな点で異なっていることが判明している(エレミヤ書に見られる時系列の差異など)。

『ヘクサプラ』の第5欄については、校訂記号が付されていたのかどうかという問題もある。多くの研究者は『ヘクサプラ』に校訂記号が付されていたと考えてきたが、実際には『ヘクサプラ』とは別の改訂七十人訳に付されていたものではなかったのか。実際ヒエロニュムスは校訂記号を『ヘクサプラ』ではなく独立した七十人訳テクストで見ていたようである。論文著者はPaul KahleやJennifer Dinesらと共に、『ヘクサプラ』に校訂記号を付すのは余分であり困惑するものだと判断する。余分というのは、七十人訳にはあるがヘブライ語や諸訳にはない部分が『ヘクサプラ』に出てくる場合、七十人訳の欄だけに文章があることは一目瞭然なので、記号をつけるまでもないからである。困惑するというのは、七十人訳にはない部分を『ヘクサプラ』上でわざわざ別の欄から埋めて、それにアステリスコス記号をつけることは、差異を曖昧にするだけだからである。

オリゲネスが『ヘクサプラ』を作成した目的については多くの議論がある。Henry Sweteによれば、オリゲネスは、よりヘブライ語テクストに近くなるように七十人訳を修正しようとしたと考えた。一方でPierre Nautinは、原典ヘブライ語テクストを再構成しようとしたのだと主張した。Sebastian Brockは、オリゲネスのテクスト研究は聖書解釈についてユダヤ人と論争するキリスト教徒のためになされたと述べた。Adam Kamesarは、聖書解釈の可能性を最大限に高めるために可能な限りの異読を集めたのだと論じた。Ruth Clementsは、キリスト教内の異端やユダヤ人に対する武器にするために、キリスト教信仰の領域内でヘブライ伝統を包摂しようとしたのだと見た。

論文著者はClementsに同意しつつ、『ヘクサプラ』に関する第一の証言であるオリゲネス自身の議論を分析する。すなわち『アフリカヌスへの手紙』と『マタイ福音書注解』である。アフリカヌスはダニエル書の付加部分にはギリシア語の言葉遊びがあることから、ヘブライ語テクストに元来存在したものではなく、ゆえに権威が劣るのではないかと、オリゲネスに手紙で尋ねた。これに対しオリゲネスは、そうした言葉遊びは失われたヘブライ語原典にも存在したのであり、それをギリシア語で再現しているにすぎないと反論した。七十人訳とユダヤ人の版の版との違いは、ユダヤ人による聖書の改変ゆえのことである。そこでオリゲネスは状況を現実的に判断した結果『ヘクサプラ』を作り、ユダヤ人との論争に備えたわけである。これは学識深いユダヤ人に対し生まれたばかりのキリスト教徒の主張を助けるためのツールだった。

『マタイ福音書注解』では、自分が七十人訳を「癒す」ことを試みたことを報告している。すなわち、七十人訳の諸写本(アンティグラファ)を比較し、また七十人訳を含めた諸訳(エクドセイス)を比較したのである。基準である諸訳やヘブライ語テクストに基づき、協会で受け入れられた霊感を受けたテクストである七十人訳の統一性を保存することを目指した。これこそが『アフリカヌスへの手紙』で述べられていた対ユダヤ人論争のためのツールという第一の目的に対し、第二のより中心的な目的であった。John Wrightは、オリゲネスがさまざまな諸訳を『ヘクサプラ』に集めたのは、テクストの意味をアンプリファイし、よりよい読みを決めようとしたのだと述べている。Adam Kamesarは同様の観点から、オリゲネスの試みを「釈義的マキシマリズム」と呼んでいる。

死海文書の発見によって、当時の聖書写本の状況がいかに複雑であるかが分かってくると、その複雑さを『ヘクサプラ』の特定の翻訳だけに絞り、意図しないまま権威付けてしまったオリゲネスの行いは早計だったとも言える。こうした際限のないテクスト的・翻訳的多様性の文脈においてこそ、『ヘクサプラ』の本質と機能は十全に理解できる。

『ヘクサプラ』はオリゲネスの時代の文献学における技術の状況を如実に伝える。これはローマ時代の学術の最も偉大な記念碑の一つであり、ギリシア文献学と文献批評をキリスト教文化に適用した最初の重要なプロジェクトだった。また当時の製本技術の限界を押し広げる役割も担った。いわばギリシア文化とヘレニズム・ユダヤ教文化のフュージョンの中で、生まれたばかりのキリスト教的学術を例証してみせたわけである。

2020年11月15日日曜日

聖書の校訂記号 Stein, "Kritische Zeichen"

  • Markus Stein, "Kritische Zeichen," in Reallexikon für Antike und Christentum 22 (Stuttgart: Anton Hiersemann, 2008), 133-63.

校訂記号とは、古代の編集者や釈義家たちによって単独あるいは組み合わせて用いられた線、点、文字のことで、通常は左の欄外の行の前に置かれた。記号は読者にテクストの本質やその理解、確かな特徴、内容の質などに関するヒントを与えるためのものだった。古代の文献学におけるδιόρθωσις, κρίσιςなどの領域で用いられた。

著者はこうした記号の非キリスト教的用法とキリスト教的用法を共に紹介する。そもそも校訂記号はキリスト教成立以前である前3世紀初頭に、アレクサンドリア文献学のホメロス解釈の伝統の中で生まれてきた。アレクサンドリア図書館の最初の館長エフェソスのゼノドトスはオベロス記号を発明し、彼が本物かどうか疑っている箇所に付した。疑わしい箇所を単に取り除くのではなくオベロス記号を付すことで、読者が自分で決定する可能性を奪うことなく校訂者が自分の決定を明らかにできる。続いてアリストファネスとアリスタルコスが新しい記号を発明し、校訂システムを修正・拡大した。ゼノドトスとアリストファネスは欄外の印をつけただけだったが、アリスタルコスは別個の注解に自分の見解を書き残した。アリスタルコスにとって校訂記号は、本文と注解を繋ぐものだった。

オベロス記号(−)は、真正性が疑われるテクストの目印のためにゼノドトスが開発した。アステリスコス記号(※)は、繰り返されている部分を示すためにアリストファネスが作った。アステリスコス記号はそのときどきの文脈で適切と思われる箇所にも使われ、一方で適切でない箇所にはオベロス付アステリスコス記号(※−)が付された。アステリスコス記号は他にも、Venetus Aにおいて神々や王たちに関する比喩や発言などの内容を特徴付けたり、叙情詩においては詩の終わりや始まりや、韻律の変化などを示したり、ヘルクラネウムのパピルスでは段落を終わりを指したり、プラトンのテクストではその教えの内的な一致を証明したりするためにも用いられた。

シグマ記号(Ϲ)は同じ内容を持つもともと連続する一節に、アンチシグマ記号(Ͻ)は節が置き換えられているところに、付点アンチシグマ記号(Ͽ)は疑わしい一節に付された。とはいえアリスタルコスをはじめ多くの場合、これらの記号について一貫した方法論は確立されていなかったようである。ホメロスや叙情詩の写本ではアンチシグマ記号は欄外に示された異読や本文に関するコメントを導入するために使われることが多く、節の置き換えを示すためにはめったに使われない。アンチシグマ記号と付点アンチシグマ記号の区別も明確でない。

ディプレー記号(>)はアリスタルコスが自身のホメロス注解で言語的・内容的なタイプをさまざまに解説するヒントとして役立った。とはいえ叙情詩や劇のテクストでは韻律の変化や段落の冒頭などを示すためにも用いられた。オベロス付ディプレー記号(>−)はテクストの内容の区分を示した。プラトンのテクストではディプレー記号がつくことで、それがプラトンの教説であることが分かるようになっている。付点ディプレー記号(>:)は、ゼノドトスが取り除くべきと判断したがアリスタリコスは別の判断を下した箇所に付された。また付点オベロス記号(÷)は先行者の恣意的な削除の批判を意味した。

めったに使われない記号としてケラウニオン記号がある。これはアリストファネスによる登場人物の倫理的評価を示すものではないかと考えられている。少なくともテクストの質や構造ではなく、物語の内容に関する記号と思われる。キー記号および付点キー記号は、ホメロス文献について口頭や注解で与えられる言語的・内容的なタイプの説明のためにアリストファネスが用いたが、のちの時代には完全に失われた。ホメロスのテクスト以外でも、さまざまな注解メモへの参照表示として用いられることがあった。プラトンのテクストでは、プラトンのスタイルの真正性をキー記号が、スタイル上の彩りを付点キー記号が示した。

パラグラフォス記号コローニス記号は、詩や散文での段落を表し、とりわけ対話篇では話者の交代を示した。コローニス記号はより強い境界区分のために用いられた。斜線は、間違い、脱落、変化、補足、段落分けなどのヒントになり、付点斜線は斜線に比べてめったに出てこないが、本文と注解の間の参照表示として役立つ。アンコラ記号は抜かされた一節を指摘し、ページの欄外で情報を捕捉することもあった。他にも、アロゴス(文章が壊れて回復不能な部分を示す)や句読点、また組み合わせである文字クレーシモン(読者に読む価値のあるところを示す)、ホーライオン(法的文書において注意を喚起する記号)、ゼーテイ(テクストの質への問いを指す記号)、グラフェタイ(別の写本での異読を指す記号)などがある。

ユダヤ的用法では、削除記号としてアンチシグマ記号とシグマ記号が使われている。これらは間違って配列された一節や欄外に付加された一節を指した。アンチシグマ記号はのちに「逆転のヌン」と間違われた。パラグラフォス記号は大イザヤ写本などの段落の冒頭に置かれている。

キリスト教的用法も、異教のそれと同様にテクストの解明と保全が出発点である。オリゲネスのヘクサプラの目的は、七十人訳や諸訳を比較することで可能な限り確実なテクストを手に入れるという文献学的意図によるものとされているが、ユダヤ・キリスト教双方が受入可能なテクストを作り論争に役立てるという護教的意図によるものでもあった。オリゲネスは七十人訳がヘブライ語テクストに対して余剰を示すときにオベロス記号をつけ、一方で七十人訳で単語が文章が欠けているときにはその部分を別の訳で埋めた上でアステリスコス記号を付し、両者の量的違いを表した。オリゲネスは記号の使用に関して異教の文献学に依拠したことを認めている(Ep. 1.7)。テクストに直接干渉せずに自分の批判的見解を明らかにできるこの方法はオリゲネスの意図にかなっていた。オリゲネスのオベロス記号は写本によって変化するが(−, ~, ÷, ⨪)、機能は同じである。

エピファニオスはおそらくヘクサプラそのものを見たことはないが、記号について報告している。エピファニオスによると、アステリスコス記号とは、繰り返しを避けるために七十人訳者によって言語的・スタイル的観点から抜き取られた言葉を指すという。彼はこれを星のイメージを使って説明している。一方でオベロス記号とは、七十人訳者がギリシア語文としてより明晰にするために付加した箇所を指す(そこに神の霊感が現れる)。エピファニオスは普段はオリゲネスの激しい敵だったが、これらの記号の使用については賞賛している。

エピファニオスは、オベロス記号やアステリスコス記号が付された箇所の終わりの印としてメトベロス記号ついても説明している。また七十人訳においてヘブライ語テクストや諸訳と異なる順序で言葉が並べられているとき、オベロス付アステリスコス記号が付されるという。エピファニオス(とエルサレムのヘシュキオス)はさらにレムニスコス記号(÷)とヒュポレムニスコス記号(⨪)をオリゲネスに帰している。エピファニオスによれば、レムニスコス記号は、聖書を互いに独立して訳した36の翻訳ペアのうち2つが大多数とは異なる表現を選んだところに付けられる(÷の真中の線が行を、また2つの点が二人の翻訳ペアを示す)。ヒュポレムニスコス記号はひとつのペアだけが異なるときに使われる。この報告はエピファニオスのでっち上げであるという解釈が支配的だが、Fieldらはこれが正しい可能性を排除しない立場を取る。実際はこれらの記号はオリゲネスには由来しない。

10世紀のCodex Patmiacus 270には、ポントスのエウァグリオスの著作に対するスコリアがあり、その冒頭には記号についての説明に3章が割かれている。第1章ではオベロス記号とアステリスコス記号について、ヘブライ語テクストに対する量的な違いの観点から説明される。さらにテクストの順序の相違を表すために両記号が一緒に用いられることも指摘される。第2章のその例を挙げる。第3章は写本の欄外にあった4種の書き込みについて説明される。第一は、エウァグリオスのスコリア。第二は、オリゲネスのスコリア。第三は、七十人訳と諸訳の異読を扱うスコリア。第四は、七十人訳テクストで欠けている言葉や異読。

オベロス記号とアステリスコス記号はヘクサプラ版七十人訳写本の外でも使われることがある。たとえばルキアノス改訂版写本である。ここではオベロス記号はルキアノスによる付加を表す可能性があるが、記号の付け方はしばしば完全に恣意的になっているので確証はない。たとえばアステリスコス記号の代わりにオベロス記号が付けられたり、逆のことが起こったりしている。

ヒエロニュムスは聖書テクストに関する著作の中で、しばしばオリゲネスの記号について言及している。さらにはこれらの記号を同じように自分の聖書翻訳(七十人訳に基づく)でも利用している。エピファニオス同様に、記号の説明に星の比喩も使っている。これに対し、アウグスティヌスはヒエロニュムスの方法を理解せず、記号が示すのは非ヘクサプラ版の七十人訳テクストに対し、ヘクサプラ版七十人訳に基づくヒエロニュムスのラテン語訳(ヨブ記)の違いだと考えた(Ep. 28.2)。ヒエロニュムスはこのアウグスティヌスの誤解を正している(Ep. 112.19.1)。中世になると、オベロス記号とアステリスコス記号はガリア詩篇の写本において、ヘブライ語詩篇との相違を表すためにも用いられるようになった。

以上のような文献学的な問題だけでなく、神学的・釈義的ヒントとして記号が使われることもあった。エピファニオスは、聖書の預言書において預言が成立する10種の条件を示す記号や、そのときどきの預言のテーマを読者に示す記号を説明している。またカッシオドルスは、教父の著作中の異端的思想にアルケーシモン記号を、また正統的思想にクレーシモン記号を付した。カッシオドルスはこの方法を他の修道士たちにも薦めつつ、自身の『詩篇注解』などでも一貫して使用している。こうした著作の冒頭では13種の記号のリストが与えられており、その意味や先行者が説明されている。ときに、すでに知られていた記号に新しい意味が与えられる場合もあった。たとえばアステリスコス記号は注解の中で天文学的なテーマが扱われている箇所を示すために用いられた。カッシオドルスのこうした努力は、教義学、倫理学、文法学を用いて聖書を注解するためのみならず、神学的学問や世俗的学問においてテクストを通して聖書を覚えていくような教科書を作ろうとしたためだった。

ナジアンゾスのグレゴリオスの説教へのスコリアと共に、一連の写本には欄外の記号がある。この記号はおそらく6世紀前半のスコリア作者に由来するものと考えられる。このスコリアはグレゴリオスの説教の教義上の内容説明やそうした箇所へのヒントを通して、異端者による利用から守るためのものだった。たとえばグレゴリオスが神について取り扱っているところにはヘーリアコン・セーメイオン記号が付された。アステリスコス記号は新しい意味を得て、キリストの受肉やそれと結びついた救済計画について論じていることを示した。組み合わせ文字のホーライオン記号はスタイル的・思想的に優れた箇所を、セーメイオーサイ記号は読者に内容的にも言語的にも何か奇妙なところを指す。オベロス記号は、テクスト削除という伝統的な用法を応用し、削除されるべき異端者の意見に付された。ディプレー記号は聖書からの引用を意味した。

他にも、ギリシア語やコプト語やシリア語の聖書写本およびパピルスでの用法についても触れられている。

2020年9月7日月曜日

ラテン語詩篇について Gross-Diaz, "The Latin Psalter"

  • Theresa Gross-Diaz, "The Latin Psalter," in The New Cambridge History of the Bible 2, ed. Richard Marsden and E. Ann Matter (Cambridge: Cambridge University Press, 2012), 427-45.

150篇を数える詩篇は中世のさまざまな人々にとって同様に、聖書の中でも最も重要な文書である。修道者にとってそれは祈りの基礎であり、観想の導きであった。教会作家にとっては新たなアイデアを試す主要テクストであった。また説教者にとっては説教を構成するための汲めども尽きせぬハンドブックであった。詩篇は説教や礼拝における口頭で聴くものばかりか、本として所有するものだった。

詩篇について強調するべきは、第一に、他の聖書文書についてはヒエロニュムスのヘブライ語に基づく翻訳が徐々に受け入れられていったのに対し、詩篇についてガリア詩篇が優先された。第二に、ガリア詩篇のテクストは中世において完全に安定してはいなかった。

ヒエロニュムスは3種類の詩篇を作った。最初に作成した古ラテン語訳の改訂はいわゆる「ローマ詩篇」であり、ピウス5世の時代までローマで、ヴァティカヌス2世の時代までサン・ピエトロ寺院でも用いられたものだと見なされてきたが、De Bruyneの研究以降これは否定されている。第二の詩篇である「ガリア詩篇」は、オリゲネス『ヘクサプラ』に基づき既存のラテン語訳を改訂したものである。第三はヘブライ語テクストに基づいた翻訳であるが、実際にはヘブライ語テクストだけでなく諸ギリシア語訳にも多くを負っている。これは研究と論争(特にユダヤ人との)のために作った翻訳だった。

ローマ詩篇は8世紀までにヨーロッパに広がった。これはベネディクト派の修道制の伝播と軌を一にしている。このためローマ詩篇は修道的な礼拝に深く影響を及ぼした。逆に礼拝において音楽に乗せて歌われたため、ローマ詩篇のフレーズが保存されることになった。スペインではローマ詩篇ではなく、類似テクストである「モサラベ詩篇(Mozarabic psalter)」が、またミラノでは「アンブロシウス詩篇(Ambrosian psalter)」が支配的だった。しかし、カロリング朝下での礼拝と聖書の改革によって、ローマ詩篇はその支配的立場から退くことになる。

ヒエロニュムス自身はヘブライ語詩篇こそが最も正確だと自負していたが、中世ヨーロッパにおいて最終的に支配的だったのはガリア詩篇だった。これはカロリング聖書にこれが収録されたためである。ただし、オルレアン司教テオドゥルフのように、正確なテクストに基づく正しい礼拝を求めたカロリング朝の政治的・教育的な宗教改革の担い手のうちには、ヘブライ語詩篇を採用した者もいた。

アルクインは七十人訳に基づく詩篇を求めた。これはカール大帝の宮廷でもそうだったし、のちに有名な写字室を持ったトゥールでもそうだった。そしてそれゆえに、アルクインが採用した詩篇はガリア詩篇と呼ばれるようになったのである。ただし、アルクインの聖書は本文批評については適切でなく、学術的な観点からテクストを校訂したものではなかった。ヒエロニュムスのオベロス記号やアステリスコス記号もほとんど保存していない。

アルクインがガリア詩篇を自分の聖書の詩篇に選んだ理由はよく分からない。ガリアにおいてもローマ詩篇が長く支配的だった。しかもカロリング詩篇が詩篇の選定と順番について従っているカンタベリーの8世紀のウェスパシアヌス詩篇(Vespasian Psalter)は、ガリア詩篇ではなくローマ詩篇である。ここからアルクインによるガリア詩篇への偏愛は偶然ではなく意図的だったと言えるだろう。

ガリア同様、イングランドでもローマ詩篇は支配的だったが、アイルランドでは影響力はなかった。アイルランドでは600年頃に古ラテン語訳からガリア詩篇に変わったことが知られている。同時にアイルランドではヘブライ語詩篇も知られていた。カール大帝の宮廷ではアイルランドの学者からの影響力が大きかったので、アルクインもガリア詩篇を重視したのではないかと論文著者は論じている。

11世紀になるとガリアからイングランドにガリア詩篇が輸入され、Eadwine Psalter(12世紀、カンタベリー)からも分かるように、他の版を圧倒するようになった。同時にガリア詩篇はガリアからスペインにも紹介されただけでなく、ローマやイタリアに再び戻ってきた。ラツィオで作られた「アトランティック聖書」は、カロリング朝の理想に則るかのようにガリア詩篇を採用している。アルクインによるガリア詩篇の選択は中世を超えて現代にまで影響を及ぼした。今でも詩篇の番号がヘブライ語と異なるのはこのためである。またガリア詩篇はパリ聖書を通じてグーテンベルクの印刷聖書にまで続いている。

カロリング朝のあとにもガリア詩篇は大きな影響力を持ったが、一方でテクストの正確さを追求する精神も続いていた。詩篇は神の言葉なのであるから、その神聖な言葉を正しく知りたいと考えたのである。12世紀のシトー会のステファン・ハーディングは、ユダヤ人の助けを借りてガリア詩篇を改訂した。シトー会のニコラス・マンジャコリアもローマでユダヤ人と共に3種類の詩篇を比較検討し、ヘブライ語詩篇が最も優れていると評価した。これらシトー会の修道士たちによる詩篇改訂の機運は、詩篇という礼拝の中心テクストに対する修道的な観点からの関心によるものである。

13世紀になると「パリ聖書」に代表される本文批評の試みも生まれた。ロジャー・ベーコンに言わせると、パリの者たちの聖書テクスト選択は恣意的で、単一のテクストをほしい学者たちのニーズに合わせたものにすぎなかったという。確かにパリ聖書のテクストは完全に正確でも安定的でもない。ただし、サン・シェールのヒューゴーやウィリアム・デ・ラ・メアら多くのcorrectoresによる科学的な観点からの批判が加えられた。彼らはヒエロニュムスの3種類の版、古ラテン語訳、教父やカロリング期の注解のレンマなどを比較し、カテーナ形式で自分の発見を記録した。

修道者たちは世俗の教会よりも多くの時間を祈りに使うことができたので、詩篇を朗読することは聖務日課の基礎となった。とりわけ、一週間で詩篇全篇を朗誦するベネディクト会の修道制が盛んになったので、その方法が基準となった。特定の詩篇(66, 148-150など)は毎日朗誦され、別のものは特別の祭日や特定の礼拝においてのみ朗誦された。また詩篇を朗誦することは敬虔さの証とも見なされた。

平信徒の詩篇に対する関心も高かった。9世紀のある富裕な家族は家族全員が詩篇を本で持っていたという。また中世の終わりにもなると、一般的な人々が競って詩篇を所有しようとしていた。彼らはラテン語と英語が併記された詩篇を読んでいたようだが、ここから平信徒であってもラテン語を一部理解していた可能性が示唆される。また平信徒にとっての詩篇朗誦は、何らかの罪を犯したときの厳しい罰の代わりの温情として機能することもあった。たとえば、本来であれば一年間パンと水しか口にできないところを、詩篇の150篇を三日三晩朗誦することで許されたのである。

修道士たちのものであれ平信徒たちのものであれ、詩篇は聖書の一部(三部あるいは五部に分けられてパンデクトの中に収められる「聖書的詩篇(biblical psalter)」としてよりも、礼拝のテクスト一式として見なされていた(「礼拝的詩篇(liturgical psalter)」)。とりわけ詩篇6, 31, 37, 50, 101, 129, 142篇は「7つの改悛詩篇」として特別な位置を占めていた。このように詩篇の祈祷書は、修道者と世俗の平信徒によって聖務日課のために用いられた礼拝的詩篇のハイブリッドだった。

中世を通して、詩篇は修道院や大聖堂における共同の礼拝の書であり、個人の祈りや平信徒の信心の導きであり、教養を教え芸術的な観念の霊感となるテクストであり、神学者や説教者の汲めども尽きせぬ源泉だった。

2020年9月5日土曜日

13世紀のパリ聖書 Light, "The Thirteenth Century and the Paris Bible"

  • Laura Light, "The Thirteenth Century and the Paris Bible," in The New Cambridge History of the Bible 2, ed. Richard Marsden and E. Ann Matter (Cambridge: Cambridge University Press, 2012), 380-91.

13世紀は中世の聖書の歴史にとって3つの意味で根本的な発展の時代だった。第一に、写された聖書の数、第二に、ほとんどの聖書がパンデクト(一冊本)だった、第三に、新しい形式であるポータブル聖書が登場した。ここからわかるように、この時代に聖書は、教会関係者や金満家らといった個人に所有されるようになったのである。パンデクトが作られるということは、聖書が様々な文書のよせあつめではなく統一的な全体と見なされるようになったということである。そしてそうした聖書の全体性は、単語をアルファベット順に並べた辞書やコンコルダンスといったツールで検索するという意識を生んだ。

13世紀の聖書フォーマットは2つに区分できる。第一に、1200-30年には大きめのパンデクトの数が増えた。テクストは小さな文字で行間を詰めて書くことにより、欄外の面積が増えて、そこに書き込みをするようになった。ポータブル聖書もあったが、技術的にすべてのテクストは書けず、大幅な省略もされた。

第二の時期は1230年以降で、ポータブルな「ポケット聖書」が発明された。これは極めて薄い羊皮紙や小さく圧縮されたゴシック文字が開発されたことで可能になった。ポケット聖書は国際的な現象で、フランス、イングランド、スペイン、イタリアなどで見つかっている。こうした小さな聖書は旅をする辻説法師にぴったりだった。

13世紀のさらなる偉大な成果が「パリ聖書」である。これは北フランス、特にパリで写された聖書のひとつのタイプである。強調すべきは、この用語が指すのはあくまで一般的なテクスト・タイプであって、聖書の物理的な形式ではない。つまり、パリ聖書にはポケット聖書もあれば大型写本もあり、分冊もあればパンデクトもあり、また高価な装飾写本もあれば質素な即物的な写本もあった。

パリ聖書は1200年以前の写本には見出されない新しい順序で聖書文書が配置している。詩篇はガリア詩篇を採用した。聖書テクストと共に64もの序文を収める。多くはヒエロニュムスによる序文だが、さまざまな来歴の序文もある。さらに6つの新しい文章をも序文として収録している。(1)ヒエロニュムス『コヘレト書注解』序文、(2)不詳の著者のアモス書への序文、(3・4)ラバヌス・マウルスによる『マカベア書』への序文、(5)ヒエロニュムスの福音書注解への序文を短くしたマタイ福音書への序文、(6)黙示録への序文である。

パリ聖書の章分けは伝統的にステファン・ラングトンに帰されるものだが、この章分けシステムは実はラングトンによる発明ではなく、既存のシステムが彼によって奨励されたものである。章による聖書テクストの区分は古くからあったが、さまざまな異なったシステムが使われてきた。1225-30年にもなるとラングトン・システムが一般的になり、一方で古いシステムと密接に関係しているエウセビオスの対観表や要約(capitula)はなくなっていった。節による区分はかなり新しく、16世紀になってからである。

パリ聖書の聖書部分のあとには、ヒエロニュムスの著作に基づくが大幅に改訂・増補された『ヘブライ語の名前説明(Interpretatio hebraicorum nominum)』が付された。これは聖書中のヘブライ語名の説明をアルファベット順に並べたものである。1230年以降の聖書に見られる。

パリ聖書の起源は、1200年頃にウルガータを大幅に改訂したプロト・パリ聖書にある。これは聖書文書の新しい順番や新しい序文を含むが、古い章分けがなされており、『ヘブライ語の名前説明』は収録されていない。これが1230年頃になってより成熟したパリ聖書となる。ただしこれら2種類のパリ聖書の実際のテクストについての知識は不完全である。というのも、現代のウルガータ編纂者たちはヒエロニュムスのテクストにとって重要なより古い写本に関心を持つからである。

19世紀の学者たちはパリ聖書のことをパリの神学者たちの公式聖書だったと考えていたが、そうした主張を裏付ける文書上の証拠はない。論文著者は、むしろ当時の商業的な書籍売買の文脈で、神学の学生や教師がパリの本屋から聖書を委託されたのではないかと述べている。通説の典拠としてよく引用されるロジャー・ベーコンの『オプス・ミヌス』(1266-7年)には、パリの多くの神学者や本屋が聖書の写しを出版した旨が書かれている。ベーコンによれば、本屋は注意深くなく知識も欠いているので、この写しのテクストは劣化しており、それをさらに写すことでよりひどくなったという。そして神学者たちがそれを直そうとしたが、統括する者がいなかったので好き勝手に修正する羽目になったとベーコンは主張している。ここから分かるように、ベーコンはパリ聖書がパリの学派の公式聖書だとは言っていない。むしろ重要なのは中世の本文批評の様子が描かれていることである。中世の釈義家たちもテクストの異読に気づいていた。

パリ聖書は初期の印刷聖書の直接の祖先となる。グーテンベルク聖書もシクストゥス=クレメンス聖書もそうである。それゆえに、パリ聖書の現代世界への影響力は相当なものといえる。

2020年9月4日金曜日

カロリング朝のラテン語聖書 Ganz, "Carolingian Bibles"

  • David Ganz, "Carolingian Bibles" in The New Cambridge History of the Bible 2, ed. Richard Marsden and E. Ann Matter (Cambridge: Cambridge University Press, 2012), 325-37.

カロリング朝時代、とりわけカール大帝の治世768-814年には聖書テクストに関する議論、たとえば正しいテクストや校合などに関する議論が盛んになった。この時代以前にもノーサンブリアのモンクウェアマウス=ジャロウ修道院で6世紀にカッシオドルスのために作られたCodex grandior(のちにケオルフリースのために3つの複製が作られ、そのうちのひとつがアミアティヌス写本として残る)のような一冊本は存在したが、パンデクトがより一般的になるのは9世紀以降のことである。

この時代には特定の日に福音書やパウロ書簡の一部が礼拝において朗誦されており、読む箇所のリストも存在した。村落の教会には聖書そのものが置かれていたのではなく、司祭はミサ用のの聖句集を用いて説教をした。

この時代、大聖堂や修道院においてもまだ分冊の聖書が読まれていた。スイスのザンクト・ガレン修道院における9世紀のウェルド修道院長による写本、ハルトムート修道院長による「ハルトムート聖書(大と小)」、グリマルド修道院長による写本などがそれに当たる。ザンクト・ガレン以外では、福音書と詩篇以外の文書はほとんど残っていない。福音書写本には、ヒエロニュムスによるダマスス宛書簡、エウセビオスの対観表、章分けの表などが付されていた。

一方で、聖書文書すべてを含む一冊本や二冊本(パンデクト)も登場するようになった。最初の大きな版のパンデクトはメスの大司教アンギルラムのために791年より少し前に作られたものと考えられる。それより少し後には、オルレアンのテオドゥルフのパンデクト(携行可能な小さなもの)がある。これは聖書の時系列や解釈に関するテクストも含んだもので、聖書テクストはヘブライ語に基づく修正を経たイタリアの写本に由来する。

9世紀になると、トゥールにおけるサン・マルタン修道院やマルムーティエ修道院の写字室で、アルクインの指導のもと、一冊本が作られるようになった(そもそも一冊の聖書をパンデクトと呼んだのがアルクインその人であった)。アルクインの修正は文法的・様式的な部分に留まり、テクスト自体を編集することはなかった。それゆえに正字法もあまり確立していなかった。

トゥールの聖書は18の完全な写本と28の断片が現存する。ここからトゥールでは少なくとも年間2つの聖書が写されていたことが分かる。聖書の筆写は公の場での朗誦のためになされていたが、詩篇と福音書に関しては単独で写された。聖書の各文書は大きな装飾付の頭文字で始まる。文書のタイトルはしばしばローマの碑文のような優雅な大文字で書かれ、またテクストのセクションの冒頭などでは赤文字が使われた。

B. Fischerによると、トゥール聖書の時系列はテクストからは分からないという。というのも、写字室では複数の写本が同時に制作されていたので、それぞれの写本は同じ手本に基づいていないからである。聖書文書の順番や序文の有無などもまちまちである。共通しているのは、ヒエロニュムスの序文(ときに『書簡53』も)を含むこと、ガリア詩篇を収録していること、さまざまな文書の章分けのリストがあることである。

トゥールの聖書は重要な人物たちへの贈り物だった。たとえば皇帝やその親類、また大きな宗教的な施設の長たちである。写字生の数は写本によって異なるが、だいたい10数人いたのではないかと考えられている。写字生のうち名前が分かっている者たちとしては、アマルリクス、ヒルデベルトゥスなどがいる。彼らは作業効率を上げるために、手本の写本のページを外せる場合は外し、同時に作業をした。作業が終わると1丁(表裏2頁)ごとにチェックし、REQ(requistium est)というマークを書いた。

一冊のパンデクトを写すという点で、アルクインやテオドゥルフは発明者といえる。パンデクト制作はパリやコルビーなどさまざまな地域に広まっていったが、アルクインのテクストはその土地のテクストを修正するのに使われたのであって、それ自体が権威を持ったわけではなかった。アルクイン自身も自分で聖書を引用するときや注解を書くときには、トゥールの聖書を使わなかった。

12世紀になると、分冊の聖書には各節に関する教父たち(たとえば大グレゴリウス、オリゲネス、ヒエロニュムス、クリュソストモス、フラバヌスなど)の重要な注解が写された「注釈付聖書(glossed Bible)」が多く使われるようになるが、この形式が最初に表れたのもカロリング期である。とりわけ詩篇、福音書、パウロ書簡にこの形式が多い。ラテン語の注釈のみならず、10世紀の古高地ドイツ語の注釈も見つかっている。さらに詩篇、福音書、パウロ書簡には、ギリシア語とラテン語の対訳写本も作られた。

こうした聖書のみならず、アウグスティヌスの『詩篇注解』やグレゴリオスの『ヨブ記注解』なども大聖堂や修道院の図書館の必需品となった。オリゲネス、クリュソストモス、カッパドキア教父たちの聖書解釈のラテン語訳も広く写された。テオドゥルフやフラバヌスらは聖書テクストに関してユダヤ人の協力を得ていたことも知られている。

カロリング期には完全な一冊本のみならず、分冊本、福音書写本、聖句集などさまざまなものが筆写されていた。これはこの時代に、礼拝や職務日課などでの聖書朗読が定着し、序文が付され章分けされた聖書が広く手に入るようになってきたことがその理由である。

2020年8月30日日曜日

ラテン語訳聖書の歴史(900年~トレント公会議まで) Van Liere, "The Latin Bible, c. 900 to the Council of Trent, 1546"

  •  Frans van Liere, "The Latin Bible, c. 900 to the Countil of Trent, 1546," in The New Cambridge History of the Bible 2, ed. Richard Marsden and E. Ann Matter (Cambridge: Cambridge University Press, 2012), 93-109.

10世紀以降の聖書写本に関する組織的研究は少ない。この論文はカロリング・ルネッサンス以降のラテン語訳聖書の本文史を概観するものである。1592年のシクストゥス=クレメンス版に取って代わる編纂プロジェクトとしては以下のものがある。1889年から1954年にかけて、John WordsworthとHenry Whiteがウルガータの新約部分の校訂版を出版した。1907年に教皇レオ8世にウルガータの旧約部分の校訂版作成を委託されたベネディクト会は、ローマのサン・ジローラモ修道院で作業を始めた。彼らは1926年に第一巻を出し、1994年にすべてを完成させた。

Dom Henri Quentinによると、旧約校訂版の編纂原理は、ヒエロニュムスが5世紀に見たとおりのウルガータ本文を作るというもので、そのために900年以降の写本は信頼できないと見なした。彼が重視した写本伝承は、アルクイン型(アミアティヌス写本)、テオドゥルフ型(オットボニアヌス写本)、スペイン型(トゥロネンシス写本)である。イタリアの2種類(アトランティック聖書やモンテ・カッシーノ修道院のベネヴェント写本)は、これらより後代のもので、重要性に関しても劣る。

900年以降のウルガータ本文の研究においては、パリのアトリエで制作された装飾写本の研究には蓄積があるが、実際のテクスト伝承についてはあまりよく知られていない。福音書についてだけはHans Hermann Glunzの浩瀚な研究があり、それによると12~13世紀のウルガータ本文は、初期の写本に基づいた校訂版よりも、15~16世紀の印刷版により似ているという。つまり、900~1500年という時代はウルガータのtextus receptusの成立を知るために特別なものということである。

中世のテクストというと、写字生の間違いやテクストの変更などによって劣化していったという印象が強いが、写字生たちの意図は、Vorlageや教父引用、さらにはヘブライ語やギリシア語の原典と比較することで、正しいテクストを作ることにあった。その結果もともとあった多様性が失われることもあった。こうした複雑さゆえに系統図は仮説の域を出ない。

900~1500年にかけての時代は、ウルガータのテクスト伝承を語ることはできず、むしろ「スコラ的ウルガータ(scholastic Vulgate)」とGlunzが呼ぶような新しいテクストの形成を語るべきである。つまり、聖書テクストをただ筆写するだけでなく、写字生が積極的にテクストを評価し、それを向上させるのである。ベックのランフランクスはまさにそうしたことをした人物だった。彼はさまざまなコーデックスを比較して聖書テクストを定めただけでなく、正統的な信仰に基づいてテクストを修正したのである。こうした試みは当然ながらテクストの汚染を招いた。

この時代の聖書筆写は、「修道院改革(monastic reform)」と「スコラ的運動(scholastic movement)」と関係している。修道院改革では、聖書は特定の修道院における共同使用のための手本として使われることが前提とされていた。たとえばシトー会修道院長ステファン・ハーディングの4巻聖書がその代表例である。彼は写本の古さに依拠したり時にはユダヤ人の専門家の助けを借りてテクストを修正し、さまざまなテクスト伝承を混ぜ合わせた。同じくシトー会のマニアコリアのニコラスもヘブライ語の知識を駆使して詩篇に関する論文を書いた。

Quentinは重視しなかったが、イタリアのアトランティック聖書は11世紀のグレゴリオ改革と関係がある。この改革は司教座と修道院の結びつきを強め、また大きなパンデクト形式の一巻本の聖書を作成することを常とした。この改革下(11~12世紀)での聖書作りの中心はローマだったが、写本はスタヴロ、ザルツブルク、カンタベリー、ダラムにも広まった。改革者たちはこうした聖書作りにおいて普遍教会の信仰における統一を求めて、よく校合されたテクストを作成しようとした。そこで写字生らは、アルクイン、テオドゥルフ、そしてスペインの写本伝承を比較し、アミアティヌス写本にも頼った。特徴としては、ローマ詩篇やヘブライ語詩篇の代わりにガリア詩篇を収録し、またアポクリファも含んだ。

スコラ的運動の中心地のひとつは、ランフランクスが聖書を作成したベックをはじめ、ランス、オセール、フルーリー、ランなどがある。このうちランでは、ランのアンセルムス(およびその兄弟ランのラルフス)が中世における最も影響力の大きな注解である『グロッサ・オルディナリア(Glossa ordinaria)』を作成した。これは教父たちの解釈を欄外や行間に書き込む形式の注解である。個々の聖書文書のグロスは、異なった時代に、異なった作者によって、異なった場所で作成された。12世紀になると、こうしたグロス聖書の中心地はパリになった。

Glunzによれば、ウルガータ聖書の形成に当たっては、修道院改革の運動よりもこうしたスコラ的グロスの運動の方が影響力が大きかったという。修道院改革ではテクストについては保守的で、これを変更するようなことはなかったが、スコラ的聖書解釈ではテクストはそれが意図する意味に準じるとされた。それゆえに後者ではテクストを教父的解釈や神学的意味に当てはめて書き換えることがあったのである。こうしてアミアティヌス写本やアルクインの改訂などには見られないが、より後代の印刷版には見られるような特定の読みが出てきた。

こうしたGlunzの見解には反論もあるが、中世後期のウルガータ本文の形成段階は1100年から1150年の間に起きたことは確かである。サン・ヴィクトル学派の聖書はその代表例である。サン・ヴィクトル修道院のヒュー、リカルドゥス、ペトルス・コメストル、アンドリューらは多くの聖書解釈をものしたが、よくあるウルガータ本文とは異なった読みを提供するために、『オルディナリア』をはじめ、他のコーデックス、ヘブライ語テクスト、古ラテン語訳なども参照した。

QuentinやJ.P.P. Martinらによると、13世紀にパリ大学の神学者たちによって選別された公式聖書である「パリ聖書」ができたという。一方でGlunzらはこれは「公式」ではなく、単にパリでよく手に入れることができた聖書にすぎないと主張した。「パリ聖書」という用語は、Quentinが「an exemplar Parisiense」と呼ぶ仮説的なテクストを指したり、13世紀の中ごろにパリで作られた聖書のことを指したりする。パリ聖書はアポクリファを含むパンデクトで、ヒエロニュムスの序文やヘブライ語の名前の辞典を収録している。また13世紀のカンタベリー大司教ステファン・ラングトンによる章分けがなされている(節分けはまだされていない)。

13世紀のパリ聖書は商業的に生み出され、パリの学生たちや托鉢修道会(ドミニコ会やフランシスコ会)の修道士の間で人気があった。特徴としては、フォーマット上の統一性に対しテクスト上の多様性が挙げられる。後者の特徴は印刷技術が生み出されるまではよくあることだった。いわゆるパリ聖書以外にも、2巻本(2巻目は箴言から始まる)や多巻本(グロスつき)もあれば、収録される文書の違いやや同じ文書でも版の違いなどがあった。

パリ聖書は人気があったのでテクスト改訂や異読欄が必要とされた。オックスフォードのフランシスコ会のロジャー・ベーコンは、パリ聖書は専門的な写字生ではなく、平信徒の雇われ写字生によって筆写されたものだと述べている。こうしたテクスト上の問題を解決するために、少なくとも5つの訂正表(correctoria)が作られた。15世紀のヴィンデスハイムではパリ聖書とより古いカロリング期の写本を比較して本文を作る試みも行われた。

最初の印刷されたウルガータ聖書は、1452-6年にマインツでヨハンネス・グーテンベルクによって印刷された2巻本である。これは平信徒による聖書所有の希望によってできたものである。章の分け方はラングトン方式が採られた。その後各地で印刷された聖書(マインツ1462年、バーゼル1474年、ヴェネツィア1475年、バーゼル1479-89年、バーゼル1491-5年)のテクストは、古い写本ではなく最初のグーテンベルク聖書に依拠している。

印刷聖書の登場は、本文批評を中心的な課題として当時急成長していた人文主義の台頭とも軌を一にしている。1522年のルターによる新約聖書のドイツ語訳は、ウルガータではなく、エラスムスによる1519年のギリシア語校訂版に基づいている(ルターの旧約ドイツ語訳は1532年)。ヘブライ語聖書の校訂版は15世紀末に、そして最初のラビ聖書はヴェネツィアで1516/17年に出版された。このようなヘブライ語とギリシア語原典に対する学術的な興味は、その忠実な翻訳とはいい難いウルガータの不足を強調した。

そこで原典に忠実なウルガータを作成するという試みも行われた。シスネロスのフランシスコ・ヒメネスは、ヘブライ語、アラム語、七十人訳、ウルガータの並行箇所を並べて、コンプルテンシアン・ポリグロット聖書を作った。ウルガータの最初の批判的改訂版のひとつは1530年のゴベリヌス・ラリディウスによるものだった。より重要なものとしては、サン=ジェルマンからの2つの9世紀の写本を校合し、ヘブライ語テクストとも比較したロベール・エティエンヌのものがある。

しかしながら、こうしたウルガータの校訂版は多くの宗教改革者たちにとって有効なものではなかった。ヒエロニュムスのウルガータはすでに西方キリスト教世界の唯一の聖書としての地位を失いつつあった。これを守るために、1546年4月8日のトレント公会議はウルガータを唯一の権威ある聖書と宣言した。そしてシクストゥス5世の命で1585年に新しいテクストを作り、1590年にいわゆるシクストゥス版として出版したが、強行自身のテクストへの介入により多くの間違いを含んでいたので、1592年にクレメンス8世がシクストゥス版をを改良したいわゆるシクストゥス=クレメンス版を公にした。

2020年8月25日火曜日

ラテン語訳聖書概説 Bogaert, "The Latin Bible"

  • Pierre-Maurice Bogaert, "The Latin Bible," in The New Cambridge History of the Bible 1, ed. James C. Paget and Joachim Schaper (Cambridge: Cambridge University Press, 2013), 505-26.

紀元600年までのラテン語聖書の歴史は、第一に、ギリシア語から翻訳された古ラテン語訳、第二に、ヘクサプラ的ギリシア語およびヘブライ語から翻訳されたヒエロニュムスの訳、そして第三に、初期の翻訳と新しい翻訳との合流に分けられる。

古ラテン語訳は、詳しいことはほとんど分かっていないが、2世紀の終わり頃にローマ属州アフリカで作られたと考えられる。最初のラテン語訳がイタリアではなくアフリカでできたことはやや驚きだが、当時の北アフリカにおけるラテン語のキリスト教文学の興隆(テルトゥリアヌスやキュプリアヌスら)を物語っている。北アフリカにはラテン語を話すユダヤ人共同体もあったので、彼らの助言があった可能性もある。

ギリシア語聖書のラテン語訳の歴史は、ギリシア語テクストと一致させるための改訂と、ラテン語テクストそのものの改訂から成っている。古ラテン語訳に関する我々の知識の源は、第一に、教父や中世文学の引用(場所と時代が特定しやすいが、問題としては、ウルガータに合わせた標準化、注解中の聖書引用は後代の付加、校訂者による聖書引用の誤同定の可能性がある)、第二に、古ラテン語訳が使われていた当時の写本(場所と時代は特定しやすいが、断片やパリンプセストのことが多い)、第三に、カロリング期あるいは中世の写本、第四に、ヒエロニュムス訳への付加、第五に、礼拝の式文、第六に、文中の短いタイトル(tituli)などに由来する。

古ラテン語訳は教父時代には独立した権威を持っておらず、あくまで霊感のある七十人訳に付随するものだったが、七十人訳の歴史に関する重要な証言でもある。テクストの種類としては、古アフリカ型(K)、アフリカ型(C)、古ヨーロッパ型(D)、イタリア型(I, J)、スペイン型(S)、ミラノ型(M)などがある。他の記号としては、ヘクサプラに基づくヒエロニュムスの翻訳(O)、ヘブライ語に基づく翻訳(H)、ウルガータになる型(V)がある。

ラテン語訳聖書あるいはラテン文学全般は巻物に書かれることはなく、いつもコーデックスに書かれた。4世紀前半になると、ギリシア語聖書は旧約と新約が一つの大きなコーデックスに写されるようになった(シナイ写本、ヴァチカン写本)。ラテン語聖書については、カッシオドルスがこうしたコーデックス聖書を「法典(pandect)」と呼ぶようになった。

教父たちにとっては、「ウルガータ」という名称はギリシア語聖書あるいはそのラテン語訳のことを指すものだった。アウグスティヌスは古ラテン語訳のイタリア形式を表すために「イタラ」という用語を使っている。「古ラテン語訳」とは、ヒエロニュムスの翻訳以外のラテン語訳聖書で、ギリシア語を底本としているものを表すための今日的な名称である。その古ラテン語訳の個々の文書は章(capitula)に分けられ、数字とタイトル(brevis, titulus)が振られている。タイトルは赤文字(rubric)で書かれることが多い。このシステムはヒエロニュムスは採用しなかった。福音書とパウロ書簡の古ラテン語訳には序文が付されていた。福音書は反マルキオン主義の序文やモナルキア主義の序文、パウロ書簡はマルキオン主義の序文に依拠していた。

福音書の順序はヒエロニュムスの改訂が受け入れられるまでさほど広まっていなかった。北イタリアではマタ・ヨハ・ルカ・マコ、5世紀の偽テオフィロスの福音書注解ではマタ・マコ・ヨハ・ルカ、クラロモンタヌス写本ではマタ・ヨハ・マコ・ルカ、何人かの教父たち(アンブロシアステル、ヒエロニュムス、アウグスティヌスら)はマタ・ルカ・マタ・ヨハ、初期の教父たち(テルトゥリアヌス、ペタウのウィクトリヌス)はヨハ・マタ・ルカ・マコという順番があった。

ヒエロニュムスは注解や翻訳をするたびに序文を書いて、自分の翻訳方法などの情報を提供している。翻訳の順番としては、まず福音書の改訂から始めた。このとき参照したギリシア語写本は有力大文字写本ではなく、アンティオキアのコイネー版だった。底本としたラテン語訳写本はイタリアのb ff2 qグループであった。次に詩篇を手がけたが、ローマ詩篇については何も分かっていない。ヘクサプラ改訂版に基づくギリシア語からのラテン語訳詩篇は、校訂記号が付されている。このときはソロモンの書、ヨブ記、歴代誌も手がけた。その後のヘブライ語からの翻訳は、預言書とヨブ記から始めた。ヒエロニュムス自身は自分の翻訳をまとまったかたちで発表することはなかった。文書ごとに個別のコーデックスのかたちで回覧されていた。

翻訳方法としては、アクィラやシュンマコスのギリシア語訳を非常にしばしば参照し、キケロー的散文と古ラテン語訳的逐語訳の中間の文体を作った。ヘブライ語聖書に伝わっておらずギリシア語聖書にしかない文書は翻訳対象としなかった。福音書の改訂は教皇ダマススに捧げられているため、ヒエロニュムス自身も大きな権威と持つようになった。ヒエロニュムスの福音書にはエウセビオスの対観表も付されていて便利なので、彼の生前からよく写されるようになった。写本はイタリアからアルプスを越えて、イングランドにまで広まった。

ヒエロニュムスは新約聖書全体を翻訳したと3箇所で述べているが、疑わしい。というのも、福音書以外の文書への序文を書いていないから、自分自身の改訂・翻訳を引用していないから、そして福音書以外の文書の特徴が福音書と異なるからである。少なくともパウロ書簡の改訂とその序文については、シリア人ルフィヌス(ヒエロニュムスの弟子の一人だったが、ローマのペラギウス派の有力者でもあった)の手になるものと考えられる。序文がない使徒行伝、公同書簡、黙示録についてもルフィヌスに帰することができるかもしれない。しかしながら、最終的には新約聖書すべてが大きな権威を持つヒエロニュムスのものと考えられるようになった。旧約新約共にヒエロニュムスのものとされるようになった最初の証拠は、サン=ジェルマン=デ=プレ聖書の署名欄に見られる。

ヒエロニュムスのヘブライ語に基づく旧約翻訳は重視されるようになったが、ヨブ記、ソロモンの書、詩篇などについては、ヘクサプラのギリシア語テクストからの訳がアフリカやガリア南部などで、主に礼拝の場で広く用いられ続けた。

ヘブライ語からの翻訳が古ラテン語訳と混合することがあった。そもそもヒエロニュムス自身がエステル記のヘブライ語からの翻訳にオベロス記号を付し、そこにギリシア語からの翻訳を加えている(逆にルフィヌスが古ラテン語訳にヘブライ語から文章を付加したものもあった)。七十人訳の方がヘブライ語より長いサムエル記のヒエロニュムスの翻訳にも、古ラテン語訳からの付加が見られる。箴言については、ペレグリヌスなる人物がヒエロニュムスのヘクサプラ改訂版に古ラテン語訳の訳文を付け加えたことが知られている。

5~6世紀になると、詩篇や雅歌といったテクストは礼拝に重要なものとなった。詩篇については、ヘブライ語からの翻訳ではなく、ヘクサプラ校訂版に基づくガリア詩篇が礼拝で用いられた。600年以前の詩篇写本としては、サン=ジェルマン詩篇、エジプト出土のパピルス、リヨン詩篇などがある。古ラテン語訳には詩篇151篇が含まれていたが、ヒエロニュムスのヘブライ語詩篇にはなかった。

ギリシア語とラテン語のバイリンガル聖書も作られた。有名なベザ写本をはじめ、クラロモンタヌス写本(5世紀後半、イタリア南部)、エジプト・アンティノオポリスの断片、リベル・コンモネイ(6世紀半ば)、ヴェローナ詩篇(7世紀、イタリア北部)などがそうである。福音書とパウロ書簡については、ゴート語とラテン語のバイリンガル聖書も5世紀末から6世紀にかけて作られた。

アウグスティヌスが使った聖書としては、詩篇とパウロ書簡についてはイタリアから持ってきたイタラ訳だったことが分かっている。ヒッポを出てどこかで説教をするときには、その土地土地の聖書を用いた。ヒエロニュムスの仕事については次第に知るようになった。とりわけ、ヘブライ語に基づく翻訳よりも、七十人訳に基づく改訂を称賛し、すべてを所有しようとヒエロニュムスに書簡を送った。

その後の重要な証言としては、ギルダスによる引用がある。ギルダスは旧約についてはヒエロニュムスの新訳を重視したが、いくつかの旧約文書や新約文書については古ラテン語訳を使い続けた。カッシオドルスはヒエロニュムスの翻訳が一冊のpandectに写されるように依頼しつつ、「アウグスティヌスによる」聖書と彼が呼ぶ古ラテン語訳も用いた。

ギリシア語聖書の歴史は、このように、ラテン語訳聖書の歴史を知らずしては語れない。古ラテン語訳はラテン教父たちにとっては聖書そのものだった。彼らの聖書注解を正確に理解するためには、我々はヘブライ語から得た読みをときに忘れなければならない。600年頃の時代には、ヒエロニュムスの翻訳は完全な権威を持っていたわけではないが、その重要性は明らかなものだった。

2020年8月7日金曜日

アブラハムとロトの別れ(6) Rickett, Separating Abram and Lot #6

  • Dan Rickett, Separating Abram and Lot: The Narrative Role and Early Reception of Genesis 13 (Themes in Biblical Narrative 26; Leiden: Brill, 2020), 158-88.

本書は次の3つの問題を扱っているものだった。第一に、ロトがアブラムの潜在的な後継者であり、また敬虔なアブラムに対する不敬虔な相手という読みは妥当なのか。第二に、こうした読みはどこから来るのか。そして第三に、こうした読みが適切でないなら、では創世記13章とロトの目的や機能はどのように理解されるべきなのか。

第一と第二の問いに対しては回答済みなので、第6章はこの第三の問いに答えている。著者は、創世記における他の「兄弟」物語と比較することで、アブラハム物語全体や創世記13章におけるロトの機能を分析している。後継者としてのロトの問題は、アブラムの息子探しに関係している。15章に出てくるダマスコのエリエゼルや17章に出てくるイシュマエルははっきりと「後継者」として明言されているが、ロトはそうではなく「兄弟」と呼ばれている。そしてこの「兄弟」性は「別離」と分かちがたく結び合っているというのが著者の見立てである。というのも、神の約束は兄弟たち皆のためのものではなく、兄弟たちのうち一人と、その後継者たちのものだからである。つまり、ある者と別の者が「兄弟」である限り、その者たちは一緒に住むことはできず、必ず「別れ」なければならない。

創世記における「兄弟」物語として、著者はカインとアベル、ノアとその子たち、イシュマエルとイサク、ヤコブとエサウ、ヤコブとラバン、ヨセフとその兄弟たちなどを取り上げる。これらとアブラムとロトの挿話の共通点としては、どれも「兄弟(アハ)」という親族関係を表す語を用いつつ、関係上の「繋がり」と共に、そのあとに来る「別れ」を示しているという。つまり、「兄弟性」と「別離」という二重のテーマがどの挿話にも含まれているわけである。兄弟たちは一緒に住むことはできない。彼らは別れなければならない。

著者によれば、これらの中でもアブラムとロトの挿話との最も明確な並行関係は、ヤコブとエサウの挿話(創世記36章)にあるという。どちらの挿話でも、第一に、土地は二つの家族を支えることができないと言われており、第二に、エサウもロトも非常に裕福であり、第三に、両者はそれぞれの「兄弟」から離れたところに住み、そして第四に、両者はその兄弟から別れた。エサウはヤコブと兄弟関係のつながりを持っているが、神の約束を継ぐのはヤコブとその子孫だけなので、エサウは去らねばならない。その後ヤコブはエサウと友好的な再会を果たすが(33章)、ロトもまたアブラムに救われ、彼との再会を果たす(14章)。しかしこの再会も長くは続かない。兄弟たちは一緒にいることはできないからである。兄弟であることは、子孫であることに比べれば他人である。このように創世記の他の「兄弟」物語と比較することで、アブラムとロトの挿話で真に問われているのは「兄弟」性であることが分かる。それと同時に、エサウやロトらのような「選ばれなかった兄弟たち」は、必ずしも悪の存在ではない。彼らはヤコブやアブラムと異なり、肯定的な性質も問題のある性質も併せ持つ曖昧な存在なのである。

そしてロトは、実際にはアブラム甥であるにもかかわらず、亡くなった父ハランの代わりにこのような「兄弟」の役割を担わされている。創世記によれば、アブラムにはハランとナホルという兄弟がいたことになっている。アラム人の系譜の父祖であるナホルは、ミルカの夫であることしか知られず、おそらくはカナンへの移住時にも付いてきていない。ハランは、神の約束がアブラムと結ばれるより先に「父テラの前で死んだ」(11:28)。ロトが父ハランの代わりとされていることは、ハランではなくロトこそがモアブ人とアンモン人の父祖とされていることからも見て取れる。

以上より、創世記13章におけるロトは、アブラムの潜在的な後継者でもなければ、彼の倫理的な対応相手でもない。ロトの主要な役割は「選ばれなかった兄弟」である。「後継者=子孫」ではなく「兄弟」であるがゆえに、ロトはアブラムと神の約束の対象者ではなく、関係的にも地理的にもいわば「外部の者」となる。そしてロトは、創世記の「兄弟」物語の例に漏れず、アブラムと共に同じ土地に住むことはできず、「別離」を選ばざるを得ないのである。

2020年8月4日火曜日

ラテン語訳聖書の歴史(600~900年) Bogaert, "The Latin Bible"

  • Pierre-Maurice Bogaert, "The Latin Bible, c. 600 to c. 900," in The New Cambridge History of the Bible 2, ed. Richard Marsden and E. Ann Matter (Cambridge: Cambridge University Press, 2012), 69-92.

ヒエロニュムスによる聖書の翻訳を「ウルガータ」と呼ぶのは、7世紀から10世紀の間は適切でない。第一に、それは時代錯誤である。16世紀の始めに初めて印刷されて(1450年マインツにて)初めてその呼称が定着し、1546年にトレント公会議でvetus et vulgata editioという表現が用いられるようになる。第二に、それは曖昧である。ヒエロニュムスやアウグスティヌスが「ウルガータ」という語を用いるとき、それは七十人訳や古ラテン語訳を指す。第三に、それは誤解を招く。いわゆる「ウルガータ」の内容と、たとえば800年頃のアルクインの聖書の内容は異なる。

この時代に相応しい表現としては、「正典的(canonical)」と「教会的(ecclesiastical)」がある。前者は旧約に関して言えばマソラー本文に含まれる文書である。後者は正典ではないが教会に受け入れられた文書のことで、三種類ある。第一に、apocryphalやdeuterocanonicalと呼ばれる『知恵の書』『シラ書』『トビト記』『ユディト記』『マカベア書(第一・第二)』『バルク書』『エレミヤの手紙(バルク書6章)』『ダニエル書補遺』『エステル記補遺』など。第二に、『第三エズラ記』『第四エズラ記』『エズラの告白』『第四マカベア書』『マナセの祈り』『詩篇151編』。第三に、新約に付された『ラオディキア人への手紙』『ヘルマスの牧者』『第三コリント人への手紙』。

区分としては二つに分けられる。600年から750年までと、750年から900年までである。後者の時代にはテオドゥルフやアルクインらがカロリング朝において活躍した。最終的に、聖書は一冊の書物となり、ヒエロニュムスの翻訳が勝利する。600年までには聖書のラテン語訳活動は終わりを迎えていた。ラテン語テクストは次第に劣化し、改訂が繰り返されるも、それがさらなる劣化を招いた。

カロリング朝時代には聖書が一冊の書物(pandect)と見なされるようになった。すると聖書文書の順序が問題となり、リストを確定しなければならなくなった。780年までは聖書写本の情報は曖昧であり、場所や時代を特定することは困難である。それ以降は豊富な情報がある。

600年から750年までの代表的人物は、大グレゴリウスセビーリャのイシドルスである。グレゴリウスはヒエロニュムスに言及しないが、その翻訳と古ラテン語訳を両方使っている。彼にとってヒエロニュムスの翻訳はまだ絶対的な権威ではない。イシドルスもヒエロニュムス訳を頻繁に用いている。両者はヘブライ語テクストに基づく旧約聖書の正典と、ギリシア語訳にしかない文書を区別している。

ヒエロニュムス訳がいかに浸透していたかは、聖句集や儀礼文書に明らかである。とりわけその傾向は旧約聖書で強かった。新約については古ラテン語訳も使われていたが、福音書について、600年から750年にはヒエロニュムス改訂が34写本(イタリア、ノーサンブリア、イングランド、アイルランド、フランクなど)なのに対し、古ラテン語訳は6写本(アイルランド、イリュリア、ヴェローナ、アクイレイア、コルビなど)のみであり、前者の優越が伺われる。この時代のラテン語聖書のパリンプセストの上書きはいつでもウルガータだった。

ヒエロニュムス訳の優越は、とりわけスペインとノーサンブリアの完全な一冊本から見て取れる。7世紀にトレドで写されたパリンプセストにおいて、ヒエロニュムス訳が用いられている。ノーサンブリアにあるウェアマウスとジャロウの二重修道院のベネティクト・ビスコップはイタリアから多くの聖書写本を持ち帰った。それらをジャロウ修道院のケオルフリースが写させ、3つの写本を作った。そのうちの3つ目がローマのグレゴリウス二世に捧げられたアミアティヌス写本(8世紀)であり、これが現存する最古の完全なウルガータ写本である。アミアティヌス写本は詩篇も含めてヒエロニュムスの翻訳に依拠している。8世紀のベーダはウェアマウスとジャロウの二重修道院で生涯を過ごした。彼はおそらくケオルフリースの3つの聖書写本の作成に関わり、そこから聖書引用をすることもあったが、古ラテン語訳からの引用も見られる。

ヒエロニュムスが扱わなかった文書もウルガータの中に収録されている。『知恵の書』『コレヘト書』『マカベア書第一・第二』については、たまたま手に入った写本をヒエロニュムス訳に組み合わせて、ヒエロニュムスの旧約聖書を完全なものにしている。福音書以外の新約文書はシリア人ルフィヌスによって改訂がなされ、ヒエロニュムスのローマの友人たちによって広められたが、伝達の過程で本文が古ラテン語訳と混ざっている。

古ラテン語訳写本で典型的なのは、ヴァチカンのオットーボニアヌス写本である。これはもともとはドミニクスという名の写字生によって作成されたヒエロニュムス訳の八書だったが、創世記と出エジプト記に関しては手本が読めない部分があったらしく、古ラテン語訳になっている。

ローマ詩篇は8世紀の終わり以降のイングランドの写本と11世紀のイタリアの写本で伝えられているが、その使用の始めはもっとさかのぼり、またその後も両地域で継続的に使われていた(スペインではモサラベ詩篇が使われた)。これはヒエロニュムスとダマススの手紙がその権威の証拠となったものである。ガリア詩篇はアイルランドのアントリム州で最近見つかったスプリングマウント・ボグ石板(6/7世紀)や聖コルンバのカサハ(7世紀)などに現れている。またアルクインが重視したために、ガリア詩篇はカロリング王国で権威を持つようになった。ヘブライ語詩篇はあくまで研究用として、アミアティヌス写本のような一冊写本に収録された。このように少なくとも三種類の詩篇があることをカロリング朝の学者たちは知っていたので、ギリシア語も含めた三欄、四欄の詩篇も作成した(9世紀ライヒェナウの三欄聖書や、10世紀コンスタンスのサロモ三世の四欄聖書など)。

750年から900年にかけて、聖書テクストは2種類の方法で伝えられていった。10以上の写本に分けて写される方法と、ひとつのユニットとして1冊の写本(場合によっては2冊か3冊)に写される方法である。多数の写本に分けて写す好例は、コルビで781年以前に作成されたマウルドラムヌス写本やブリュッセルで8世紀に作成されたアングロサクソン大文字写本などが挙げられる。福音書と詩篇については、それぞれ独立して写されることも多かった。福音書写本は非常に豪華で、紫の羊皮紙の上に金文字や銀文字で彩飾されているものから、持ち運びしやすいコンパクトで簡素なものまでさまざまあった(テクストは古ラテン語訳に汚染されたヒエロニュムス改訂版である)。詩篇は王族の礼拝用や研究用に個別に写されることがあった。

一冊本はカッシオドルスの時代前後(5~6世紀)に登場する。9世紀以降になるとこの形式はより一般的になった。スペインでは9世紀にカヴェンシス写本やトレタヌス写本が作られた。イングランドでは9世紀にカンタベリーのアウグスティヌス修道院で作られた同種の写本が新約部分だけ現存している。カロリング朝フランク王国では、メス司教アンギルラムの聖書(8世紀)は、トビト記とユディト記は古ラテン語訳であるが、それ以外はウルガータだった(第二次大戦で失われた)。

そして特に重要なのが司教テオドゥルフ(8~9世紀)の指揮下にあったオルレアンの写本室で、ここで10の聖書写本(Θ)を作成された。これらは、はっきりとした表記であること、装飾が欠如していること、ラビ的伝統に従って旧約を三分割すること、そしてガリア詩篇ではなくヘブライ語詩篇を収録していることなどの特徴を持っている。以後数世紀、このテオドゥルフ聖書にはさまざまな地方版も生まれた。

同時代にトゥールではアルクインが一冊本(Φ)をほぼ産業として作成する体制を整えた。一説では1年に2冊完成させるために、冬でも羊を繁殖させて羊皮紙を作成していたという。そして手本となる写本を取り外しが効くようにして、大人数で書き上げたのだった。アルクイン聖書の特徴としては、『聖書の学習について』という別題を持つヒエロニュムスの『書簡53』(ノラのパウリヌス宛)をしばしば冒頭に配置している。このことはラテン語訳聖書におけるヒエロニュムスの権威を高めることにもなった。

テオドゥルフ聖書はアルクイン聖書と比べるとよりコンパクトで簡素である。アルクイン聖書の装飾は非常に豪華で、写本自体も大きい。他の地方で作成された一冊本聖書としては、イタリア、フランス、イングランドの各地のものがある。

2020年8月2日日曜日

アブラハムとロトの別れ(5) Rickett, Separating Abram and Lot #5

  • Dan Rickett, Separating Abram and Lot: The Narrative Role and Early Reception of Genesis 13 (Themes in Biblical Narrative 26; Leiden: Brill, 2020), 123-57.

Rowan Greerによると、教父の聖書解釈はキリスト者がいかに生きるべきかの指針となるものであり、信者の倫理的・霊的発展を可能にさせるリソースであるという。james Papandreaは教父の聖書解釈の9つの特徴を挙げている。第一に、聖書の神的霊感、第二に、啓示は継続的である、第三に、あるテクストはいくつもの意味を持っている、第四に、矛盾は避けられるべきものではなく織り込み済みのものである、第五に、教父の解釈は使徒の解釈に従う、第六に、聖書が聖書を解釈する、第七に、一般的に旧約聖書の解釈は非字義的、第八に、一般的に新約聖書の解釈は字義的、そして第九に、解釈は祈りの文脈でなされる。これらを踏まえた上で、著者は教父の解釈とキリスト教美術を分析している。

ユダヤ教の聖書解釈同様に、初期キリスト教の解釈もアブラムを守り、彼の正しい行いを強調している。ただし、ユダヤ教がロトを不敬虔な者として描くのに対し、キリスト教はより肯定的なトーンで解釈する。キリスト教的解釈はロトを救済というレンズを通して読むのである。たとえばユリウス・アフリカヌスはアブラムとロトの別離を両者が同意できるものだったとする。

オリゲネスによると、ロトは敬虔さについてアブラムに劣るので、アブラムがロトに別れを告げたのは正当なことだったという。つまり、ロトはアブラムほど敬虔ではなく、ソドムの人たちほど悪でもない、中間の人だったのである。

シリア教父エフレムは、羊飼い同士の争いにおいてロトは完全に無実であり、ソドムへの移住も悪い決断からではなく神の義とその救済を証するためだったとする。一方でアブラムについては、ロトがソドムを選ぶことを許した点で、気前がよかったと評価する。すべての土地はアブラムに訳されたものだったが、アブラムは気前よくソドムにそれを分け与えたというのである。

ヒエロニュムスは創世記13章を兄弟性という言葉で総括している。ロトはアブラムの本当の兄弟ではなく甥だが、創世記では兄弟と表現されている。つまり、創世記の表現を字義的に取るのではなく、親族関係を表すより広い意味で取るべきである。そしてそれゆえに、論敵ヘルウィディウスのように、福音書においてイエスに「兄弟姉妹」がいたと書かれているところをマリアに他にも子供がいた(=マリアは処女ではなかった)と取るのは誤っているという。ただし、ヒエロニュムスはロトが平野を選んだことについては倣うべき行為ではないとする。その上パレスチナの平野は聖書で書かれているほど風光明媚ではなく、ヨルダン川や死海などで汚染されていると主張する。

アンブロシウスは、創13:5「アブラムと共に行ったロト」という表現から、あたかも「アブラムと共にいかなかったロト」もいる可能性があると感じて困惑する者たちがいると報告する。しかし、彼によれば、ここには二人のロトがいるのではなく、一人のロトに二つの問題があるのだという。ロトという名には「回避」という意味があるが(この解釈はフィロンやヒエロニュムスと同じ)、それは善の回避の場合と悪の回避の場合があるのである。羊飼い同士の争いについて、アンブロシウスはアブラムに責任はなかったとする。アブラムはこの争いがロトとの人間関係に波及することを恐れて、別れようとしたのである。一方でアブラムは別れないという選択肢をも与えたが、ロトは別離を選んだのだった。アンブロシウスは兄弟関係の切り離せなさを、魂の理性的部分と非理性的部分にたとえてもいる。それぞれが司る徳と悪徳は兄弟的な必要性によって互いに固く結ばれているのである。それゆえに、アブラムとロトは徳と悪徳が擬人化したものといえる。

ヨアンネス・クリュソストモスの解釈は、アブラムの問題を解決し、ロトにより肯定的な評価を与える解釈の典型例である。彼によればロトはアブラムの養子であり、したがってアブラム同様に裕福な義人である。ただし、土地を選ばせてくれたアブラムに何のお返しもせず、最終的にソドムに住むという間違いをしでかしたことは確かであり、その点はアブラムにではなくロト自身に責がある。つまり、ロトは不敬虔なのではなく間違った選択をしたのである。彼はソドムに蔓延する悪を見抜くことができなかった。クリュソストモスの解釈で興味深いのは、羊飼い同士の争いは、アブラムはもちろん、ロトとその羊飼いにせいでもなく、アブラムの羊飼いたちのせいだとしている点である。ここでクリュソストモスはアブラムのみならずロトをも非難から守ろうとしている。アブラムがロトを兄弟と呼ぶのは、彼の慎み深さゆえである。これはⅠコリ6:7-8におけるパウロの慎み深さに通ずるものである。

アウグスティヌスは、別離の後もアブラムとロトは大きな愛で結ばれていたとする。平和的な関係を維持するために働きかけていたのはアブラムのみならずロトもそうだったのである。

著者はここで教父たちの解釈からキリスト教美術に筆を移す。ローマのサンタ・マリア・マッジョーレ・バシリカにある5世紀のモザイク画から、同時代の解釈が反映している部分と、聖書からは引き出せない付加的な独自の解釈を明らかにしている。そもそもモザイク画は礼拝のためにより神聖な舞台を用意し、聖書物語やキリスト教教義を信徒に教えるためのものである。このモザイク画では、アブラムとロトが同年代に描かれている。別離や争いの原因を示唆するものは何もない。古代の語り部たちは、羊飼いの争いやアブラムによる別離の命令から、ロトによるアブラムからの別離の決意への焦点をずらしていたが、このモザイク画でも同様である。同時に、アブラムは賞賛の対象となっている。ロトの行為はキリスト者が倣うべからざるものなのである。

付加的な解釈としては、第一に、アブラムとロトの子どもたちを描きこんでいる。そうすることで創世記19章のソドムの終焉と物語をつなげ、またいかにロトの移動が大規模なものだったかを示している。またアブラムの血筋とロトの血筋が別れていることを視覚的に表してもいる。メシアへと至るキリスト論的な要素はアブラムの血筋のみに伝わっていくのである。第二の付加は、それぞれの最終的な目的地を描いている。ロトにとってはソドムが、アブラムにとってはカナンがそれに当たる。とりわけカナンはキリスト教の教会のように聖なる場所として描かれている。

以上より、初期キリスト教聖書解釈による創世記13章の理解は、第一に、ロトのアブラム同行を問題視する、第二に、アブラムに関する潜在的な問題からロトによる選択へと問題の焦点を移す(アブラムによる土地提供の申し出は彼の気前の良さと、ロトは完全に不敬虔ではないが欲張りと解釈される)、そして第三に、聖書本文はロトについて曖昧な書き方をしているが、否定的な解釈の余地が残っている。要するに、キリスト教の解釈はユダヤ教の解釈ほどに決定的に否定的な解釈ではないといえる。ロトは徳と悪徳を両方持った人物として描かれる。

新約聖書中にはロトへの言及は2箇所見られる。いずれも神によるロトの救出を審判からのキリスト者の救済と見なしている。第一の箇所はルカ17:20-37で、イエスがパリサイ派からの問いに答えて人の子の到来について語る場面でロトにも言及している。イエスによれば、ロトはノア同様、他の者たちと異なり、審判の前に救済されたという。第二の箇所はⅡペトロ2:6-9である。ここでロトは、義人であるがゆえに救済されたこと、悪徳の人々により悩まされていたこと(つまりあちら側ではなくこちら側の人間である)、そして審判より救済されるというキリスト教徒の原型として見なされていることが語られている。いずれの例も、ロトは確かに敬虔な人物であるというメッセージを伝えているといえる。

著者は中世におけるロトの解釈について簡単に紹介している。ロト養子説については、ラシ、リラのニコラス、ペトルス・コメストル、ジャン・カルヴァン、マルティン・ルターらが触れている。ラダクは、ロトを連れていくことについてアブラムが神の命に従わなかったのではなく、ロトが行きたがったのだと述べる。ロトはアブラムの相続者だという解釈は、カルヴァン、ニコラス、ラシが紹介している。概してロトは肯定的に描かれるが、アブラムほどではない。中世の解釈は、ヨセフスや教父、さらにはラビ文学からの影響が顕著である。

この章の目的は、ユダヤ教とキリスト教の解釈者たちの潜在的なつながりを単に辿ることではなく、こうした伝承が早くから解釈史の一部を担ってきたことを強調することである。それゆえに、それらが中世から近代までも続いていることは不思議ではない。

2020年7月25日土曜日

ユダヤ・キリスト教論争における聖書 Sapir Abulafia, "The Bible in Jewish-Christian Dialogue"

  • A. Sapir Abulafia, "The Bible in Jewish-Christian Dialogue," in The New Cambridge History of the Bible 2, ed. Richard Marsden and E. Ann Matter (Cambridge: Cambridge University Press, 2012), 616-37.

アウグスティヌスは、キリスト教徒にとってのユダヤ人および旧約聖書の役割を論じている。彼によれば、本来であればイエス・キリストに書かれている旧約聖書をユダヤ人は正確に読めてはいないが、それをキリスト教徒にもたらすことがその役割なのだという。つまりキリスト教社会におけるユダヤ人は、キリスト教がユダヤ教を更迭し、取って代わること(supersession)を具体化する存在である。またキリストを拒絶したことの罰として離散の憂き目にあっている。このアウグスティヌスの「証言者論」の核には、ユダヤ人は自分たちの聖典を理解できず、また理解しようともしないという逆説がある。

キリスト教徒がユダヤ教と対決する文学ジャンルとして「対ユダヤ人(Adversus Iudeos)」テクストがある。初期の例としては、ユスティノス、テルトゥリアヌス、アウグスティヌス、セビーリャのイシドルスなどがある。12世紀になると「反ユダヤ人論(anti-Jewish polemics)」もまた盛んに論じられた。そこでキリスト教徒とユダヤ人の対話のかたちで描かれる議論は、実際の議論を文字通りに再現しているのではないが、ある程度は現実を反映してもいる(たとえば1240年のパリ討論や1263年のバルセロナ討論、1413-14年のトルトーサ討論など)。

一方で、12世紀の終わりの南フランスやスペインでは、中世のヘブライ語で書かれた「反キリスト教論(anti-Christian disputations)」が登場する。その代表が『セフェル・ニツァホン・ヤシャン』である。これはドイツで編纂された、当時の反キリスト教的聖書解釈や新約聖書への攻撃などを収録した辞書的集成である。

これらユダヤ・キリスト教論争において常に中心となったのは聖書テクストとその解釈の問題である。聖書を読む解釈原理が論じられ、また根本的な神学問題を論じる際の証明のために聖書が引かれた。たとえば、モーセの律法の妥当性、メシアの到来、選民の真のアイデンティティ、三位一体の教え、受肉、処女懐胎などといった問題が俎上に挙げられた。

ユダヤ人との論争において、キリスト教学者たちはヘブライ語を読む必要はなかった。彼らはヒエロニュムス読めばよかったのである。イザヤ書7:14の「処女」論争において、シャティヨンのウォルター、ギルベルトゥス・クリスピヌス、ペトルス・アルフォンスィ、ブールジュのウィリアムらは、ヘブライ語のアルマーという語の訳について、ヒエロニュムスの解釈に依拠している。ギルベルトゥスはヒエロニュムスに従って、エゼキエル書44:2-3の閉じられた門のイメージ用いてマリアの処女性を論じている。これに対しヨセフ・キムヒは、アルマーの語についてキリスト教徒に謝った情報を与えているとして、ヒエロニュムスを非難している。

ギルベルトゥス・クリスピヌスは、聖書の翻訳の問題も論じている。彼によると、七十人訳はヘブライ語聖書の忠実な訳であり、またラテン語ウルガータはギリシア語およびヘブライ語聖書と言葉についても意味についても一致していると主張し、ウルガータを擁護した。

キリスト預言として知られている聖書箇所についても激しい議論が行われた。イザ53:1-10の「苦難の僕」の解釈については1263年のバルセロナ討論がある。この討論においてユダヤ側の代表者はナフマニデスであり、この箇所はイエスではなくイスラエルの民のことを指しているのだと主張した。創49:10の「シロ」は1413-14年のトルトーサ討論の主題であった。創22:28のアブラハムの祝福についても、ギルベルトゥスや『イサゴーゲー』著者、ドゥーツのルペルトらがメシア的解釈を展開している。

聖書解釈の方法として、ユダヤ人が字義的(literal)解釈をするのに対し、キリスト教徒たちは比喩的(figurative)解釈を得意とした。キリスト教徒に言わせれば、キリスト到来以後では、モーセの律法を字義的に解釈すると矛盾を来たすので、比喩的に解釈するほかないというのである。偽ウィリアムは木の実のたとえを用いて、果肉としての新たな法を味わうためには外側の硬い殻としての古い法を砕かなくてはならないと述べる。これに対しヨセフ・キムヒは、トーラーの解釈は字義的だけに取るのも比喩的だけに取るのも間違っていると反論する。聖書は素朴な人々でも理解できるように、ときに比喩を用いて語るからである。このように、ユダヤ人は字義的解釈だけに限られるわけではなかったが、一方で、比喩的解釈は字義的解釈に取って代わることはないというタルムードの大原則のもとにもあった。

キリスト教徒の中には、ユダヤ人の助けを借りて、ラテン語旧約聖書の本文を直そうとする者もいた。シトー会のステファン・ハーディングは、ユダヤ人からヘブライ語聖書およびタルグムの情報をフランス語で仕入れていた。ニコラス・マニアコリアやサン・ヴィクトルのアンドリューも同様の方法を採り、聖書の歴史的意味を知るために、ラシなどのユダヤ教注解を引用している。これは、なるべく正確な字義的・歴史解釈を下敷きにして、比喩的解釈の確固とした基礎を築こうとしたのである。

ボシャムのヘルベルトゥスはヒエロニュムスのヘブライ語詩篇に関する注解をものしたが、ヘブライ語の知識やラシ注解に基づき、ヒエロニュムスの訳文を修正しようとした。ただし、このユダヤ教聖書解釈への依拠は、ヘルベルトゥスがキリスト教的視点を失ったからというわけではない。あくまで字義的解釈を通じて霊的理解を深めるためであった。他にもラルフ・ニゲル、アレクサンデル・ネッカム、ロジャー・ベーコン、リラのニコラら、多くのクリスチャン・ヘブライストがいる。

イザヤ書6:3には「聖なるかな」と3回書かれていることから、三位一体の証明に用いられることがある。これはキリスト教においては聖餐の祈りといった典礼に用いられる箇所である。一方で、ユダヤ教においても同箇所は典礼の重要句である。イェフダ・ハレヴィは、同箇所がユダヤ典礼における最も聖なる箇所のひとつであるケドゥシャーと関係していることを論じている。このように、同じテクストを神を称えるために用いながらも、ユダヤ人とキリスト教徒は異なった視点を持っていた。

2020年7月19日日曜日

ユダヤ教におけるフィロンの受容 Cohen, "Philo Judaeus and the Torah True Library"

  • Naomi G. Cohen, "Philo Judaeus and the Torah True Library," Tradition 41.3 (2008): 31-48.

フィロンはこれまでキリスト教神学、ギリシア文学、古代哲学といった枠内で読まれてきた。それはフィロン研究がそうした分野の研究者たちによって牽引されてきたからである。しかし、20世紀初頭になると、ユダヤ教にコミットし、ユダヤ教古典に通暁した研究者たち(Isaac Heinemann, Edmund Stein, H.A. Wolfson, Samuel Belkinら)の台頭により、フィロンをよりユダヤ的に理解しようとする試みが行われるようになった。

ただし、いかなる意味でもラビ・ユダヤ教的ではないフィロンが、ユダヤ世界で再び紹介されるのは、アザリヤ・デイ・ロッシの登場を待たなければならなかった。なぜフィロンがユダヤ世界で失われてしまったのかというと、様々な要因はあれど、大きな理由はフィロンが初期キリスト教によって熱狂的に受け入れられたからであろう。

フィロンが使うギリシア語にはユダヤ・ギリシア語的なコノテーションがある。ノモス、ソフィア、エウセベイア、ディカイオシュネなどといった重要な用語には、元来のギリシア語を超えたユダヤ的な意味が含まれている。しかしながら、読者がユダヤ人でなくキリスト教徒になると、そうした意味は失われてしまう。

アザリヤ・デイ・ロッシは16世紀イタリア・ルネサンス時代の博識家で、『メオール・エナイム』という著作がある。この著作の中でデイ・ロッシはフィロンを「イェディディヤ・ハ・アレクサンドロニ(アレクサンドリアの神の友)」と呼びつつ、現在のフィロン研究でも議論されているトピックを初めて提起した。すなわち、フィロンはヘブライ語の知識を持っているか、七十人訳を用いているという指摘、フィロンと口伝律法やユダヤ教セクトについて、その著作が非ユダヤ人向けである可能性、無からの創造という概念理解などである。

『メオール・エナイム』第5章によると、フィロンには4つの欠点があるという。第一に、フィロンはトーラーの原典を見たことがない。第二に、世界の創造時に原初の物質が存在していたと考えている。第三に、聖書の物語の本当の意味を単純に哲学的・知的な考えだと考えている。そして第四に、成文律法と共に口伝律法があると述べていない。他にもデイ・ロッシは、フィロンが聖書の引用や解釈に七十人訳を用いていることなどについてさらに追及しつつも、ときに擁護することもある。

デイ・ロッシのこのようなアンビヴァレントな態度の理由は、彼自身も当時異端の疑いをかけられていたからである。デイ・ロッシはタルムードのアガダーの歴史的価値について態度を保留しており、また創造から現在までの時間の伝統的な数え方も異なっていたので、ユダヤ教を破門はされないまでも、敵対者からも厳しく攻撃されていた。またその著書はイタリア各地で禁書に指定されていた。そこで、フィロンの思想を紹介しつつも、これ以上保守的な勢力から攻撃を受けないように、扱いが慎重だったのである。

しかし、上で見たデイ・ロッシからの4つの批判は、今日ではもはや大きな問題ではないだろう。唯一あるとすれば、それは原初の物質(primordial matter)に関する議論である。この問題は伝統的なユダヤ教徒がフィロンに躓いてしまう大きな理由であるが、元来は対グノーシスの議論の中で出てきたものである。タルムードの賢者たちは、創造時にいくつもの力(multiple creative powers)があったと主張するグノーシスの異端者たちを問題視している(ただし、これに対抗する「無からの創造」説がはっきりするのは後2世紀のキリスト教文学である)。ちなみにフィロンの著作にグノーシス的なところがあるかというと、それはグノーシスをどう定義するかによる。フィロンには二元論的なところや物質に対する否定的価値観などがあることは確かだが、それらはグノーシスの専売特許というわけではないので、フィロンをグノーシス主義者とは呼べない。

フィロンの思想はラビ・ユダヤ教とは確かに異なるところがある。とりわけ法的・ハラハー的議論が少ないことは明白である。しかし、一方でラビ・ユダヤ教を法的関心のみに制限することもまた誤りである。律法学者がユダヤ教において活躍してきたことは確かだが、イェフダ・ハレヴィ、ゲルソニデス、ヨセフ・アルボ、ベシュトらは律法の専門性ゆえに有名なわけではない。それにそもそもフィロンにも法的議論は現れている。

フィロンは、よく言われるように、プロト改革派のユダヤ人ではない。Alan MendelsonやYehoshua Amir(改革派ラビ養成校ヒブル・ユニオン・カレッジ教授David Neumarkの息子)などは、フィロンにフレキシブルでリベラルな精神を見出すが、論文著者はこれに反対する。フィロンは、テフィリンやメズザーの使用やトーラー学習の教え、口伝律法の遵守など、ユダヤ教の実践についてもかなり詳しく言及している。フィロンは自らをギリシア哲学者としてはではなく、敬虔な律法遵守のユダヤ人として示したかったのである。ユダヤ的なプリズムを通してみれば、フィロンの思想は現代の伝統はユダヤ教の精神とそれほどかけ離れてはいない。現在進行中のフィロン著作の現代ヘブライ語訳が、伝統的なユダヤ人読者の手に渡る日も近い。

2020年7月17日金曜日

アブラハムとロトの別れ(4) Rickett, Separating Abram and Lot #4

  • Dan Rickett, Separating Abram and Lot: The Narrative Role and Early Reception of Genesis 13 (Themes in Biblical Narrative 26; Leiden: Brill, 2020), 90-122.

より後代のユダヤ教聖書解釈においても、アブラハムに関する諸問題(ロトの帯同、争う羊飼いたち、土地の提供など)は明確に意識されている。その上で、トーラーを遵守する模範であるアブラムと、その好対照としての、トーラーを拒絶するロトという図式が出来上がっている。『ヨベル書』や『創世記アポクリュフォン』と比較すると、後代のユダヤ教聖書解釈はロトに対してより否定的になっている。

フィロンは、アブラムの旅路にロトが同行していることに触れ、それをロトが言い出したことであると見なし、もってアブラムは犠牲者であるとした。羊飼いの争いに関しては、その原因はロトとその羊飼いにあるとし、一方でアブラムは争いのない静寂を求めてロトにより良い土地を譲ったのだと説明した。

ヨセフスは巧妙に説明をあいまいにし、話題の焦点を、アブラムによる問題ある申し出からロトによる出発の決断に移している。

各種タルグムはロトの財産について問題視した上で、それがアブラムに由来するものだと結論付ける。論争については、フィロン同様に、ロトとその羊飼いに責任があると論じている。アブラムの家畜は口輪をはめて他人の地所から勝手にものを食べないようにされているが、ロトの家畜はそうされず、どこにでも行ってよいとされていた。このようにアブラムとその羊飼いは肯定的に、ロトとその羊飼いは否定的に描かれている。

ミドラッシュ文学(『創世記ラバー』『ペシクタ・ラバティ』『ミドラッシュ・タンフマ』『バビロニア・タルムード』など)は、ロトがトーラーの拒絶者であることを強調する。その財産もアブラムのおかげで手にしたものであって、自分で得たものではない。羊飼いの争いは、そのままその主人たちの倫理的違いを反映している。つまり、悪なるロトの羊飼いもまた悪であり、善なるアブラムの羊飼いもまた善なのである。それゆえに、神もまたロトがアブラムの後継者には倫理的・関係性的に不適切だと断じている。つまり、ラビたちはアブラムやその羊飼いの問題からロトとその羊飼いの非道徳的な振る舞いに焦点を移しているのである。

ロトが「目を上げる」のは出エジプト記のポティファルが情欲を持ってヨセフに対して「目を上げる」のと同じであるし、「丸いヨルダン平野」を求めたのは箴言の言葉のように「売春婦を買う」のと同じであった。聖書テクストではロトがアブラムから離れようとしているとは書いていないが、ラビたちは、ロトはアブラムから離れようとしたことで、知恵とトーラーを拒絶したのだと解釈している。

『ヨベル書』や『創世記アポクリュフォン』は、アブラムがロトに土地を提供しようとした件をなかったことにしているが、ラビたちはそれが必然だったと解釈する。すなわち、神とアブラムとの約束が履行されるためには(創13:14-17)、ロトがいなくなることを待たねばならなかったのである。それゆえに結果的にロトからのアブラムの別離は、倫理的にも宗教的にも必要性のあることだった。

ここまで論じた後、著者はアブラムとロトの別離をルツ記と比較する。こうした比較は上記のような伝統的な解釈に基づいているわけではないが、それ自体は興味深い。著者によれば、両方とも、イスラエル人による別離の要求に対するモアブ人の反応を扱っている。より具体的には、両物語は親戚関係を扱っており(ロトとアブラムは血統上の親戚関係であり、ルツ、オルパ、ナオミは結婚による親戚関係)、またある親族グループの構成員が別のグループからの別離を求めている。

とはいえ異なっている点もある。第一に、オルパやルツが最初はナオミとの同居を求めるのに対し、ロトはそのような素振りはなかった。第二に、ロトは住むための特定の場所を選んだが、オルパは自分たちの土地に戻っていった。第三に、確かにオルパとロトはイスラエル人から離れようという点で共通しているが、ルツはロトとは対照的に、イスラエル人と共にいることを選んだ。ここから、ルツ記におけるオルパはロトと比較可能な存在であり、一方でルツはロトと対照的な存在であることが分かる。ロトがオルパと同様にアブラムや神を受け入れることを拒んだのに対し、ルツはナオミが別離を求めてもそれを拒み、もって神やトーラーに従おうとした。ルツははっきりと、オルパやロトと対照をなしている。

さらにルツ記はイスラエルとモアブの関係性をめぐる問題にも関係している。ロトはイスラエルの先祖であるアブラハムと血統的につながっているが、ルツは上のようにイスラエル人のナオミを求め、その神を求めながらも、モアブ人である。申命記にはモアブ人が神の集まりに入ることは許されないと記されている(23:3)。ラビたちはしかし、神の集まりに入ることが許されないのは男性のモアブ人だけであり、女性はそれには当たらないと説明する。ルツがイスラエル人ボアズと結婚できたのは、このためである。

感想としては、ルツ記との比較は興味深いが、ミドラッシュの処理に問題を感じる。著者はテーマごとにさまざまなミドラッシュ文学を紹介している。たとえば、「アブラハムとの旅におけるロトの存在」というテーマのもとに『創世記ラバー』『バビロニア・タルムード』『ペシクタ・ラバティ』『ミドラッシュ・タンフマ』を、また「羊飼いたちの争い」というテーマについて『ペシクタ・ラバティ』『創世記ラバー』を、さらに「後継者としてのロト」というテーマに『創世記ラバー』『ペシクタ・ラバティ』を、といったように。ミドラッシュ文学は多様なので、あるテーマについてうまく説明している任意の箇所をどれかから引っ張ってくるのは簡単である。しかし、そうした紹介の仕方は恣意的になりかねない。そのようにテーマ毎にさまざまな文書から解釈を紹介するよりも、むしろ作品ごとに解釈を紹介し、各文書にそのテーマがあるかないかを示した方が恣意性を低めることができるのではないか。

2020年7月10日金曜日

アブラハムとロトの別れ(3) Rickett, Separating Abram and Lot #3

  • Dan Rickett, Separating Abram and Lot: The Narrative Role and Early Reception of Genesis 13 (Themes in Biblical Narrative 26; Leiden: Brill, 2020), 69-89.

James Kugelによると、古代の聖書解釈には聖書に対する4つの主要な前提があったという。第一に、聖書とは表面上の意味と深層の意味を持つ謎めいた文書である。第二に、聖書とは読者の現在の問題にも関わる指導の書である。第三に、聖書は完璧で調和的な文書である。そして第四に、聖書は神の霊感を受けた文書である。

著者はこうした聖書の4つの要素にもう一つ付け加える。すなわち、聖書はアブラハムを守ろうとする。古代における多くの聖書解釈は、聖書を真剣に捉え、深く読み込み、アブラハムに関して起きる潜在的な問題を認識した上で、アブラハムの名誉を守るような方法でそうした部分を解釈しようとするのである。

著者はこの章で、創世記13章におけるロトの性格付けの発展について、七十人訳、『ヨベル書』、『創世記アポクリュフォン』をretellingの例として分析している。これらの聖書解釈においては、アブラムをめぐる潜在的な問題をから、ロトの倫理的問題やアブラムとの関係に焦点が動いているという。つまり、アブラムに関する部分について、言い回しを変えたり解釈を加えたり問題部分を削除したりすることで、アブラムの問題は免除される。一方で、ロトは聖書テクスト自体では不明瞭な人物であるに留まっていたが、これらの解釈えは不敬虔なよそ者として見なされるようになったのである。

たとえば、創世記12:4-5でアブラムがカナンの地に行くときに、特に理由なくロトを連れて行っているが、『ヨベル書』はアブラムの父テラがロトを連れて行くように言った台詞を加えている。そうすることで、ロトを連れて行ったのはアブラムの責任ではなくテラがそう言ったからであり、ロトがアブラム家の一員であるかのように読書に思わせることができる。

その後ロトとアブラムは分かれるわけだが、聖書はその経緯を詳らかにしない。これに対し、retellerたちはロトを悪徳の都市ソドムと同列に並べ、また別離の理由をアブラムの提案ではなくロトの選択だったように書き換えている。ロトがソドムの「中に」住んでいることを強調することで、ロトが悪人であることが強調される。また「アブラムはロトを自分の後継者と見なしていたにも関わらず、ロトは自分から離れていってしまった。アブラムはロトの別離に胸を痛めている」といった描写により、読者はアブラムに同情する。

こうしたことから、1世紀の終わりにはすでに、アブラムはいかなる潜在的な悪行からも免除され、ロトは不明瞭な性格の登場人物からはっきりと不敬虔なよそ者という性格付けを与えられているといえる。

2020年7月5日日曜日

アブラハムとロトの別れ(2) Rickett, Separating Abram and Lot #2

  • Dan Rickett, Separating Abram and Lot: The Narrative Role and Early Reception of Genesis 13 (Themes in Biblical Narrative 26; Leiden: Brill, 2020), 29-68.

第2章:兄弟愛、分離、定住

この章で著者は、アブラハムの倫理的な対比としてのロトという概念を分析するために、「兄弟愛」「分離」「定住」というテーマを掘り下げている。実質的には創世記13:6-18のコメンタリーになっている。まず「兄弟愛」については8節で触れられているが、すぐそのあとに9節でアブラムはロトに対し「分離」を提案している。アブラムがロトに対しどこに行くかを先に選ばせていることから、この提案はアブラムの寛大さを表していると多くの注解者は評価するが、著者は「分かれよう」というアブラムの台詞の中にある命令形に注目し、実際にはアブラムがロトに「分離」以外の選択肢を与えていないことを指摘する。

そう言われたロトは10節で「目を上げ」てヨルダン平和を見渡す。注解者たちの中にはこの行為がロトの利己的な性格を表していると見る向きもあるが、著者は創世記における「目を上げる」の用例をチェックした上で、このフレーズは否定的なものではなく、中立的なものだと指摘する。

11節でロトはヨルダン平野を選び、東に移動して、アブラムと「分離」するわけだが、著者はこの箇所を創世記13章のクライマックスであると考える。ロトに先に選択させたアブラムが「融和的」であるのに対し、自分のために最善の選択をしたロトのことは「自己中心的」であると注解者たちは解釈する傾向がある。とりわけ11節における「自分のために選ぶ」という一節がこの解釈を支えている。しかしながら、著者はここでもこのフレーズの用例をサムエル記上などに求めた上で、必ずしも自己中心的な意味を含んではいないことを示す。そして、純粋に現実的な判断を下したからといって、ロトを自己中心的であると見なすことはない、と主張するのだった。

11節では「ロトは東に移動した」という記述がある。この「東」に注目するHelyerの注解を著者は紹介している。それによると、ヘブライ的方向感覚は東向きだという。それは「東」を意味するケデムが「前方」をも意味することから分かる。となると、その方向から見て右は南、左は北、そして後方は西ということになる。こうしたことを踏まえると、「ロトが東に移動した」のはアブラムにとって計算外の行動だったといえる。アブラムは西を見ながらカナンの地の北と南のどちらを取るかとロトに尋ねていたのに、当のロトは東に移動してソドムにテントを張り、アブラムがカナンの地に定住するという事態になってしまったのである。こうして12節において、アブラムとロトの「分離」が完成する。

13節ではソドムの町の悪徳が説明されている。著者は、ソドムへの言及が多くある13章と19章を、14章と18章が橋渡ししていると考えている。14章ではロトがソドムに住み着き、アブラムとの間には思想的・地理的に継続的な分離があることが描かれている。また18章は13章と似た用語や似た構造を用い、共にロトを主要人物としている。こうして14章と18章に橋渡しされて、ようやく19章が始まる。

19章はロトの「定住」の進展における最終段階を提示している。19章にはロトによる使者のもてなしと、その使者たちを引き出そうとするソドムの者たちへの対応の挿話がある。ロトは「兄弟たちよ」と語りかけ、「悪を行うな」と命じるが、ソドムの者たちはロトを異邦人と見なす。ここにはアブラムとロトとの「分離」のみならず、ロトとソドムの者たちとの「分離」も描かれている。ロトはソドムの者たちに対し、使者の代わりに自分の娘を差し出そうという提案をする。解釈者の中にはこれを許されざる行為として激しく批判する者もいるが、著者によれば、これはあえて莫迦げた提案をしてソドムの者たちの興奮を収めようとしたロトの「皮肉の間接的なリクエスト(sarcastic indirect request)」だったのだという。

19:14では、使者たちが町を滅ぼすために遣わされたと知ったロトが、婿たちに町から逃げるように言うが無視されたとされている。このことから、ロトのキャラクターは道化役や愚か者といった無視されるべき役回りなのだと解釈する向きもあるが、著者はこのことを否定的に捉える必要はなく、むしろ使者たちの話にすぐに反応したロトと、それを見くびった婿たちとの対比を強調してると捉えている。また16節におけるロトのためらいも、ロトの不敬虔の証とされることがあるが(テクストからはその理由は自明でない)、これも逃げようとしない家族をロトが見捨てられないからだと肯定的に解釈できる。同じ理由から、18節でロトが「山へ逃げろ」と言う使者の助言を受け付けていないことも説明できる。つまり、自分勝手に見えるロトの行動は、その実彼の他者への配慮によるものだったのである。

19:29では、ロトは神がアブラムのことを「忘れず」にいたために助けられたと述べられている。このことは、ノアの動物たちがノアと共にいたために助かったことが想起される。つまり、神がロトに示した慈悲心は、ロト自身に固有の何かによるものであると同時に、ロトの外側の何か、すなわちアブラムとのつながりによるものでもあった。

以上のように創世記19章を詳しく見た上で13章と比較すると、物語はロトを「異邦人」として描いていることが分かる。それゆえにロトは「東」へと移り、モアブとアンモンというイスラエルから分離した者たちの父となったのである。ロトの倫理について、テクストから確かなことは言えない。ロトは敬虔であるかもしれないし不敬虔であるかもしれない。いずれにせよ、19章からロトが自分勝手であったり、悪の民のそばにいたがったりといった解釈はできない。

13章のつづき(14節から最後)においても、ロトはもはやアブラムの「子孫」には入っておらず、神を崇める祭壇での礼拝にも関わっていない。以上の分析から、ロトがアブラムの後継者であり、また敬虔なアブラムに対する不敬虔な対照者であるという一般的な理解は正しくないと言える。創世記13章は、ロトをアブラムから「分離」させ、アブラムを「定住」させているが、この「分離」は本来連れて行けないはずのロトを解決するための手段であり、「定住」はアブラムからの無理のある提案が発端だった。ロトはアブラムの後継者ではなく、「兄弟」として描かれている。

以上から、ロトを否定的に捉える一般的な理解は本文から出てきたものではないことが分かる。ではこれが本文に固有のものでないなら、その起源はどこからなのか。これを検証するために、著者は第二神殿時代の文学、初期ユダヤ教文学、教父文学にさかのぼっていく。

2020年6月28日日曜日

ヤン・ヨーステンのチャイルド・ポルノ事件

日本ではまったく話題になっていないようなのでここに少しまとめておこうと思うのですが、ヤン・ヨーステン(Jan Joosten)という著名な旧約聖書学者が、滞在先のフランスで6月18日にチャイルド・ポルノの所持で禁固1年の有罪判決を受けました。子ども(多くはアジア系)のレイプを含む27,000もの画像と7,000本の動画を所持していたとのことです。これらは少なくとも6年間もの長きに亘ってダウンロードされてきたもので、昨日や今日始まったことではありません。ヨーステンはこれから3年間の治療を受ける必要があり、また今後一切未成年者の教育に関わることを禁じられました。

報道について詳しくは『ガーディアン』紙(6月22日の記事)をご覧ください。
https://www.theguardian.com/world/2020/jun/22/oxford-university-professor-jan-joosten-jailed-france-child-abuse-images

ヨーステンはストラスブール大学やオックスフォード大学で教授を務め、旧約聖書学では大きな業績を挙げてきた研究者です。旧約聖書学のリーディング・ジャーナルの一つである『Vetus Testamentum』誌の編集長も努めていました。また生まれ故郷のベルギーでは牧師でもあったそうです。

この報道を受けて、各学術機関も対応を始めています。勤務先であるオックスフォード大学オリエント学部およびクライスト・チャーチは、ヨーステンを停職処分にしています。
https://www.chch.ox.ac.uk/news/house/statement-regarding-professor-jan-joosten
また聖書学関係の学会であるSBL、IOSCS、SOTS、学術雑誌のJBL、DSDなども、ヨーステンをポジションから外すことを決定しました。

こうした状況の中で、驚くべきことに先日ヨーステン本人が自身のAcademiaページで声明を発表しました。インターネット犯罪の有罪判決を受けているのに、パソコンにアクセスできるというのは不思議なことだと思うのですが、どうなっているのでしょう。またこの声明では家族や同僚や友人に対する謝罪は書かれているのですが、彼が間接的に加担した犯罪の被害者である子どもたちへの謝罪は書かれていません。
https://www.academia.edu/43435754/Statement

リーズ大学のジョアンナ・スティーベルト(Johanna Stiebert)もまた、ブログポストの中で、ヨーステンがパソコンへのアクセスができることに驚いています。彼女はもともと知り合いでもあったヨーステンに対し、今回のことを非難するメールを書いたのですが、それに対し彼からすぐに返事があったそうです(このブログポストには、スティーベルトがかつて交流したことのある「囚人」とのエピソードなども対比的に書いてあり、とても読ませる内容です)。
http://shiloh-project.group.shef.ac.uk/privilege-beyond-bounds-a-response-to-the-conviction-of-jan-joosten/

公判中にヨーステンは、自分がチャイルド・ポルノへの中毒に陥っていたと述べ、その中毒状態のことを「自分自身とは矛盾する秘密の園(a secret garden, in contradiction with myself)」と表現したようです。これについて、バーネットの有名な小説『秘密の花園』や、旧約聖書の雅歌の一節(4:12「私の妹、花嫁は閉じられた園。閉じられた池、封じられた泉」)を暗示しているのではないか、という指摘があります。そうだとするならば、文学全般、とりわけ彼自身の専門である旧約聖書への度し難い冒涜といえるでしょう。
https://www.csbvbristol.org.uk/2020/06/26/responsible-scholarship/

一連の事態に対し、近接分野の研究者たちはさまざまに反応しています。大方は彼を断罪するものですが、中には、彼の行為は許しがたいが研究上の業績は別物であるという意見もあります。これはたとえば米国カトリック大学のアラム語学者エドワード・クック(Edward Cook)の記事などに見られます。
https://ralphriver.blogspot.com/2020/06/statement-regarding-prof-jan-joosten.html

こうした観点から、インターネット上では、チャイルド・ポルノのような重大犯罪を犯した研究者の学術的な著作を出版したり引用したりするのは倫理的に許されることなのか、という議論に発展しています。この点について、アパラチア州立大学のスティーヴン・ヤングが分かりやすい記事を書いています。この中で彼は上のクックのような半擁護派の言説を紹介したあと、そうした態度は男性の性犯罪者に対する共感的な甘さ「Himpathy(HimとSympathyを組み合わせたKate Manneの造語)」に過ぎないと断じています。そして、「重大犯罪を犯した研究者の人間性と研究成果を区別するなどというのはレトリックに過ぎない」というニューヨーク大学のアネット・ヨシコ・リード(Annette Yoshiko Reed)のツイートなどを紹介しています。愛すべきは犯罪者の業績ではなく犠牲者だろうに、というのがヤングの結論です。
https://religiondispatches.org/love-the-scholarship-but-hate-the-scholars-sin-himpathy-for-an-academic-pedophile-enables-a-culture-of-abuse/

これはひょっとすると私が知らないだけでどの学問分野でも起こっていることなのかもしれませんが、ここ何年か特に聖書学者や古典学者によるチャイルド・ポルノ関係の事件をときどき目にします。古くはミネソタ大学のリチャード・ペルヴォ(Richard Pervo)の事件があります。
https://www.upi.com/Archives/2001/02/13/Kiddie-porn-found-on-profs-computer/1138982040400/
彼はチャイルド・ポルノ所持で2001年に有罪判決を受けたのですが、驚くべきことに2017年に彼の業績を記念する献呈論文集が出版されており、そこにはこの犯罪についての言及がありません。
https://www.mohrsiebeck.com/en/book/delightful-acts-9783161555114?no_cache=1&createPdf=true

他にも近年では、たとえば次のような研究者たちによる犯罪が思い出されます。

アウグスティヌス研究で知られていたヴィラノヴァ大学のクリストファー・ハース(Christopher Haas)は、チャイルド・ポルノ所持で逮捕され、収監直前に自殺しました。
https://www.delcotimes.com/news/villanova-prof-facing-prison-time-for-child-porn-takes-own-life/article_b75d8292-e521-5b97-b0e9-2585ce704cc1.html

ヘブライ語・アラム語文学研究で非常に有名な研究者であるダラム大学のリチャード・ヘイワード(C.T.R. Hayward)も、チャイルド・ポルノ所持で捕まりましたが、禁固刑を免れ、それどころかダラム大学でレクチャーをする機会すら与えられました(大学に雇われているわけではないようですが)。
https://virtueonline.org/durham-uk-convicted-child-porn-theology-professor-back-teaching-university

シンシナティ大学の古典学者ホルト・パーカー(Holt Parker)は、チャイルド・ポルノの所持のみならず、ダディー・クルーエルという名前でそうした画像を頒布してもいたことで逮捕されました。逮捕時に証拠隠滅を図ったことも分かっています。
https://www.cincinnati.com/story/news/2017/01/26/ex-uc-professor-sentenced-thursday-had-child-porn-addiction/97080718/

最後の古典学者であるパーカーはともかく、聖書学者の中には学者であると同時に聖職者でもある者もいるので、これは学問の問題というよりも、映画『スポットライト』で描かれていたような教会の問題でもあるのかもしれません。いずれにせよ、ヨーステンをはじめとする犯罪者たちが厳罰に処されることを望みます。

2020年6月10日水曜日

アブラハムとロトの別れ(1) Rickett, Separating Abram and Lot #1

  • Dan Rickett, Separating Abram and Lot: The Narrative Role and Early Reception of Genesis 13 (Themes in Biblical Narrative 26; Leiden: Brill, 2020), 1-28.

導入

創世記13章はアブラムとロトの別れの物語を伝えている。創世記13章はいかに機能し、またロトは個人として、そしてアブラムとの関係に関していかに特徴付けられるのか。これらの問いに対し、現代の釈義家たちは、創世記13章は潜在的な相続人としてのロトを取り除く機能を持っており、またロトはアブラムに対する倫理的な対比として特徴付けられていると答える。しかし、この答えは正しいのだろうか。

こうした問題を扱うために、著者は研究の方法論として、文芸学的(literary)/物語的(narrative)方法を採る。すなわち、テクストの成立史や歴史学的な問題はひとまず脇に置き、テクストをすでに完成した統一的なものとして、またホリスティックな物語ユニットとして捉えるのである。こうした方法論によるテクスト読解は、共時的なものとなる。

これまで、アブラムとロトの別れは、モアブとアンモンに対するイスラエルの衝突であるとされてきた。また多くの研究者は、創世記13章の機能とはアブラムの潜在的な相続人としてのロトを排除し、また彼をアブラムとの倫理的な対比として描くことだと考えてきた。つまり、アブラムは正しく敬虔な人物であるのに対し、ロトは自分勝手な愚か者とされているという解釈である。

こうした通説に対し、著者は3つの問いを立てる。第一に、ロトをアブラムの相続人であると同時にその倫理的な対応相手であると理解することは、テクストが表していることを最もよく反映しているだろうか。第二に、もしそうした理解がテクスト固有のものでないとすると、そうした読みの起源は何だろうか。そして第三に、そうした理解がベストでないとすると、創世記13章はどのように理解されるべきだろうか。

著者は創世記13章のテクストと初期の受容に目を向ける。すると言えるのは、第一に、上のような現代の釈義家たちの理解は物語の中心テーマを最もよく反映してはいない。第二に、そうした読みはもともと古代のユダヤ・キリスト教釈義家たちがアブラムを守るために発展させたものである。そして第三に、著者はアブラハム物語や創世記全体における創世記13章の位置と機能について、新しい読みを提案する。

ユダヤ・キリスト教釈義家たちは、この箇所をめぐるさまざまな問題に気づいていた。ユダヤ人釈義家はロトをトーラー否定の例として捉え、キリスト教釈義家はのちに彼がソドムから救われることを通して見た。どちらかというと、ユダヤ教の解釈でロトは否定的に描かれている。こうした伝統的な解釈を見ると、現代の釈義家による、アブラムのネガティブな対象相手としてのロトという理解は、テクストそのものが持っているものではなく、アブラムの立場を守ろうとする古代の釈義家の関心を反映したものだと言える。

著者は、創世記13章の新たな読みを提案することで、アブラムに対するロトの関係性を父子関係ではなく兄弟関係(brotherhood)の中に見出すことができると主張する。


第1章

著者は創世記12:4におけるアブラムの召命と13章の冒頭を精読することで、次のようなことを明らかにした。第一に、アブラムが「父の家」、すなわち家族の最小単位を離れるように命じられていること。第二に、ロトはその「父の家」の成員として描かれていること。第三に、アブラムがロトを養子にしたり、自分の相続人となり得ると見なしたりということは言明されていないこと。そして第四に、ロトがアブラムの「家」とは別の「家」の成員であるという描写は、創世記12章にはじまり、13章に続いていることである。

ロトがアブラムの「家」の者であるならば、ロトを連れて行ったことは問題ないが、別の「家」の者であるならば、それは主の命令に反したことになる。創世記12章の家計図によれば、ロトはあくまでアブラムの兄弟ハランの子、またアブラムの父テラの孫として説明されている。つまり、テラの「家」の者であって、アブラムの息子ではない。それゆえに、本来であればロトはアブラムの旅に付いていくべきではない。

13章では、アブラムのみが主の名を呼んで賛美したことや、アブラムとロトがそれぞれに裕福であることなどが語られる。ロトの財産への言及は、彼がアブラムと独立して裕福であり、別の「家」の成員であることを示している。

2020年3月1日日曜日

党派の分裂 Boccaccini, "The Schism between Qumran and Enochic Judaism"

  • Gabriele Boccaccini, Beyond the Essene Hypothesis: The Parting of the Ways between Qumran and Enochic Judaism (Grand Rapids, Mich.: Eerdmans, 1998), 119-62.


『ダマスコ文書』はクムラン共同体の起源を理解するために重要な文書である。同書はエノク派運動の内部で、義の教師の支持者による特別な党派の存在を前提としている。とはいえ、これ自体はクムラン以前の文書なので、実際には初期エノク派文書とクムランの党派的テクストの橋渡し役と言える。というのも、同書は党派的テクストの特徴を持ちつつも、人間の自由意志をある程度認め、予定説をあまり強調せず、二元論も秀でていない。社会学的観点からいうと、それまでのエノク派伝統よりも厳格な、他のユダヤ人口からの分離を求めつつも、イスラエルの公共の宗教的機関から完全に分離するには至っていないといえる。

『ダマスコ文書』が「ツァドクの子ら」(4:2-4)に言及していることから、クムラン共同体が、分離したツァドク派祭司によって設立されたと説明されることがあるが、著者によれば、これはエノク派ユダヤ教がツァドク派と同じ祭司的環境にあったことによる。

『ダマスコ文書』は、エノク派ユダヤ教のエリートによって、より広いエノク派運動に向けて書かれたものである。彼らはマカベア戦争以後に徐々に自分たちが選ばれた別のグループであるという意識を強めていき、全イスラエルに代わって神の約束を成就させるという使命を担っていると考えるようになった。

クムランではどのテクストが見つからないのかを考えることも重要である:パリサイ派的なテクスト(『ソロモンの詩篇』)、ハスモン朝的なテクスト(『第一マカベア書』、『ユディト記』)、ヘレニズム・ユダヤ教的なテクスト(『アリステアスの手紙』、『第三マカベア書』、『ソロモンの知恵』、フィロンの著作など)、キリスト教的なテクスト(新約聖書など)は見つかっていない。

これら以上に特筆すべきは、後期エノク派文学の不在である。『寝ずの番人の書』、『天文の書』、『夢幻の書』、『プロト・エノク書簡』などは、死海文書のうちでも中心的な存在であったが、『エノク書簡』、『十二族長の遺訓』、『たとえの書』のような、前1世紀頃に書かれたエノク派ユダヤ教の重要文書は、クムランには見られない。党派的テクストも、エノクに関する伝承に関心を失っていることが見て取れる。

クムランでは知られていなかったエノク派文書としては、まず『エノク書簡』がある。『プロト・エノク書簡』はプレ党派的文書だったが、『エノク書簡』は、クムラン共同体以外のグループによって書かれたポスト党派的な文書である。クムランで見つかっている『エノク書簡』断片は『プロト・エノク書簡』の部分のみであり、より長く後代の94:6-104:6部分はない。さらに106-7章が『ノアの書』から採られ、『エノク書』全体のサマリーのようなものとして編纂者によって付け加えられている。

さらに、『プロト・エノク書簡』の思想と違い、『エノク書簡』は神殿、神殿祭儀、祭司制に反対の立場を取っている。とりわけ98:4には、人間は自分の犯した罪の責任があるという、反クムラン的な考え方が見られる。「罪」は人間に責任があるという考えは、『エノク書』全体で言われている、悪は天使に由来するという考えと矛盾しない。なぜなら、罪を「発明」したのは個人なので、個人に責任があるからである。このようにして、『エノク書』全体としては、人間の責任と人間の犠牲という相矛盾する考えが同居することになる。どちらかだけを取ると、神が悪の源になってしまうからである。罪はこの世に輸入されたものなので人間にその責任はないというラディカルな立場は、クムランだけに見られる。

このように、『エノク書簡』の研究は、いかに『プロト・エノク書簡』が修正されたかを見極めることといえる。修正者の目的は、クムランの党派的な神学思想に沿って『プロト・エノク書』を発展させることであった。『エノク書簡』は「選ばれた者」と「悪人」を区別しつつ、それぞれを「貧者」と「富者」と同一視している。このときの「貧者」は個人を重視する『ダマスコ文書』と異なり、社会学的なレベルで包括的な意味を持っている。これは、クムラン的な「分離」の思想とはかけ離れている。「選ばれた者」=「貧者」は、救済されているのではなく、救済の候補者である。

『十二族長の遺訓』は、クムランで見つかっていない。現在の状態がキリスト教的であるがゆえに、その起源からキリスト教文書であった可能性を指摘する研究者もいるが、非ラビ・ユダヤ教的であるからといって、非ユダヤ的であるとはいえない。『十二族長』の非ラビ・ユダヤ教的な要素は「中期ユダヤ教」の多層性に由来する。『十二族長』は、悪が人間以上の存在に起源を持つこと、モーセ以前の祭司伝統、エノクの権威、イスラエルが依然として捕囚の身であること、神殿の回復は終末に実現することなどから、エノク派ユダヤ教の伝統に位置する。

『十二族長』は、クムランの党派的文書とアイデアを共有している。しかし、悪の存在を人間の責任にも帰するという考え方において、非常に異なっている。人間は単なる天使的な罪の被害者ではなく、天使同様に責任ある立場である。善と悪の内的な戦いという、人間に共通するイメージを持つ『十二族長』は、エノク派的伝統よりもさらに普遍主義的なアプローチを取る。

『たとえの書』は最後のエノク派ユダヤ教テクストというわけではないが、クムランの文書と起源を同じくしない最初のテクストである。非クムラン的、さらに言えば、反クムラン的文書といえる。同書の断片はクムランからは見つかっていない。その理由を研究者たちはさまざまに語るが、著者によれば、それは『たとえの書』がクムランとエノク派が分裂したあとに書かれた文書だからであるという。

同書においては、世界は善悪の二元論で説明される。個人の予定論は否定され、『エノク書簡』のように、義人と罪人は貧者と富者と同一視される。堕天使による原罪は、アダムの原罪に取って代わられる。『たとえの書』はJ.C. VanderKamによれば「反転の概念(notion of reversal)」を中心としているという。現世では富者が貧者を虐げているが、終末においてはそれが反転する。

クムランでは予定論的な考え方をするために、メシア待望は中心的ではなかったが、『たとえの書』はダニエル的な「人の子」を悪のエノク的教義における中心人物とみなしている。人の子が先在することで、天使や人の自由を否定しない形で、神がこの世を予見し、支配しているということができる。

このように、クムラン共同体はエノク派文学に関心を失ったわけだが、それはクムランが黙示的でなくなったのではなく、エノク派的でなくなったのである。その結果が『たとえの書』に現れている分裂であった。

『たとえの書』以降のさまざまな党派的テクストも、分裂以後のものである。ペシャリーム、『共同体の規則』、『戦いの巻物』、『会衆規定』などがそれに当たる。そこでは、義の教師、悪の祭司、敵対グループ、内部の反発者グループの存在が示されている。敵対者は、外部の者も内部の者も同様に否定的に描かれる。他のユダヤ教グループからの分離を正当化するために、二元論と予定論が組み合わされる。エノク派から分裂したことで終末論も変化し、終末においてはすべての民がクムラン共同体に統一されることになるという。『共同体の規則』はヤハドのみの規則ではなく、すべての民の規則である。こうして、クムラン党派テクストは、キリスト教に受け継がれる「交替の神学(theology of supersession)」を初めて示した。これらの考え方は、クムラン共同体を外界から完全に分離させたのだった(dualism, individual predestination, and self-segregation)。

クムランの党派的テクストで中期ユダヤ思想の発展において重要な影響を与えたものはない。クムラン外部の党派的テクストは、マサダとカイロ・ゲニザで見つかっている。マサダでは、ヘブライ語『ベン・シラ』と『ヨベル書』断片意外に、党派的テクストとしては『安息日犠牲の歌』が見つかっている。一方で、カイロ・ゲニザでは2つの『ダマスコ文書』写本が見つかっている。この理由は、マサダに関しては、おそらくクムランからマサダにやってきた避難民がこれらの写本を携えていたから、そしてカイロ・ゲニザに関しては、クムラン周辺で見つかった写本をカライ派が書き写し、保存していたからであろう。このように、エノク派文学は、キリスト教徒やラビたちを含め、クムラン外部でも読まれていたが、最もよく読まれていたであろう『ヨベル書』は、最も非党派的なテクストである。エノク派が外界との接触を保っていたのに対し、クムラン共同体は内にこもったのだった。

まとめ:以上のように、エノク派文学からクムラン文学にはひとつの鎖が続いている。『寝ずの番人の書』『アラム語レビの遺訓』『天文の書』(前4-3世紀)から、『夢幻の書』(マカベア戦争)、『ヨベル書』『神殿の巻物』(戦争直後)、『プロト・エノク書簡』『ハラハー書簡』(前2世紀中盤)、『ダマスコ文書』と党派的文書(前2世紀後半から後1世紀)。悪が人間の責任ではないという考えを共有しつつ、『ダマスコ文書』以降は義の教師のもとでエノク派ユダヤ教から独立したグループが生じ、党派的文書の時代にクムランに定住した。

『ヨベル書』および『神殿の巻物』の時代には、クムランにはツァドク派文学からの影響も入った。エゼキエル書を共有しつつ、エノク派とツァドク派はそれぞれの道を歩んだ。しかし、マカベア戦争とともにツァドク派の力は衰え、その文学はユダヤ教の遺産として共有されるようになった。

エノク派の鎖は、クムラン共同体の設立の直前で分離している。クムランの文学をつぶさに観察すると、自分たちの世界観に合致しないテクストを注意深く排除しつつ、合致するものだけを集めていることが分かる。つまり、クムラン文書は偶然の産物ではない。『エノク書簡』、『十二族長の遺訓』、『たとえの書』を持つグループは、そのままエノク派の遺産を受け継いでいった。一方で、クムランの流れはより予定論的な思想を発展させ、過激な少数派となっていった。

2020年2月14日金曜日

クムラン・セクトの形成期 Boccaccini, "The Formative Age"

  • Gabriele Boccaccini, Beyond the Essene Hypothesis: The Parting of the Ways between Qumran and Enochic Judaism (Grand Rapids, Mich.: Eerdmans, 1998), 81-.117


マカベア戦争期に書かれたダニエル書『夢幻の書』は、クムランの図書館でも権威あるものとして扱われていた。両者は共にジャンルとしては黙示文学(apocalypse)であり、同じ世界観である黙示思想(apocalypticism)を共有している。

エノクが登場する『夢幻の書』は反抗的な天使の罪に起因する悪と不浄の拡散についても言及しているので、明らかにエノク派文書だが、歴史的な観点も持っている。それゆえに、マカベア危機は天使の罪にはじまる劣化プロセス(degenerative process)の帰結と見なされている。同書の核心をなす「動物の黙示録」(エノク85:1-90:42)は、モーセのトーラーについて言及せず、無視している。

ダニエル書も同様の劣化(degeneration)の歴史観を持っている。ただし、劣化は歴史全体ではなくある一時代のことだけと考えている。またエノク派的な悪の教義は共有していない。またダニエル書は、モーセのトーラーと第二神殿の正当性を主張している点で、ツァドク派ユダヤ教の教義に同調している(ただし、ツァドク派の祭司制には批判的なので、クムランでも人気があった)。

こうした違いから、ダニエル書はラビ・ユダヤ教で正典とされ、『夢幻の書』のようなエノク派文学はそうされなかった。またここからダニエル書は黙示的(apocalyptic)でないと見なされることもある。確かに、P. Sacchiのように「黙示的」を「エノク派的」と捉えるならば、ダニエル書はエノク派でないがゆえに「非黙示的(nonapocalyptic)」あるいは「反黙示的(antiapocalyptic)」になってしまう。しかし、J.J. Collinsによると、「黙示思想(apocalypticism)」は単一の派閥ではなく世界観なので、エノク派にもツァドク派にも、さらにはキリスト教徒にも影響を与えたと言える。

『ヨベル書』(4:17-19)は、『寝ずの番人の書』『天文の書』『夢幻の書』に暗示的に言及しているので、マカベア危機のあとに書かれたものである。一方で、『ダマスコ文書』(16:2-4)で引用されているので、前党派的テクストである。思想的には、エノク派ユダヤ教の悪の概念、人間の歴史が反抗的な悪魔的力の影響下にあるという考え、劣化の歴史観を共有している。社会学的にも、ツァドク派ユダヤ教とは異なる祭司制を唱えている点で、エノク派的である。

ただし、以下の2点において、通常のエノク派文書とは異なる。第一に、ツァドク派伝統の主役であるモーセに与えられた書という自己認識がある点である。どのようにエノク派的伝統とツァドク派的伝統を混ぜ合わせるかというと、『ヨベル書』は、人間の行いがすべて書かれた天の書字板があるとする。そして、ノア、アブラハム、ヤコブ、そしてモーセなど、エノク以降の啓示者たちは皆その書字板を見ることで、神の啓示を受け取っていたと説明するのである。それゆえに、父祖たちがのちにモーセに顕かにされた律法を知っていたとしても、それはラビ・ユダヤ教が説明するように律法が先在していたからではなく、彼らが天の書字版へのアクセスを持っていたからだということになる。また完全な啓示はその天の書字版にしかないので、ツァドク派のトーラーはあくまでもその不完全なコピーのひとつにすぎない。そういう意味で、『ヨベル書』はエノク派的伝統とツァドク派的伝統を調和させてはいるが、前者が後者に優越していると見なしている。こうしてツァドク派のトーラーはツァドクの家だけのものではなくなった。

第二に、神の予定論に基づく独特の選びの教義である。『夢幻の書』においては、悪や不浄はユダヤ人も含め、すべての人類に影響するし、逆に救済は非ユダヤ人も含め、すべての人類にもたらされるものとされていた。ここでは「選び」はあいまいである。ところが、『ヨベル書』においては、ユダヤ民族ははっきりと特権的に選ばれた者たちとして描かれている。エノク派的な悪の概念とユダヤ民族の選びを調和させるために、『ヨベル書』はまず神の予定論を強調する。ユダヤ民族は最初から神に選ばれた聖なる民族であった。堕天使は天国と地上の領域を侵犯したことで創造の秩序を汚染したが、ユダヤ民族は選ばれたことで、そうした不浄の世界から切り離されたのである。しかし、ユダヤ民族は常に安全なのではなく、不浄をもたらす倫理的な罪を犯せば、その特権は失われる。このように、『ヨベル書』は浄と不浄、聖と冒涜に取り付かれている。

『ヨベル書』は他にも、太陰暦に対するはっきりとした論争をユダヤ思想の中で初めて表している。『天文の書』でも太陽暦が好まれているが、太陰暦を批判しているわけではなかった。太陽暦はツァドク派とエノク派が共有する第二神殿時代の伝統的な祭司的暦であるが、太陰暦はマカベア危機の時代にギリシアから導入されたヘレニズム的暦である。太陽暦の回復は、選ばれた民を悪の諸民族から切り離すために、『ヨベル書』にとって急務だった。

『神殿の巻物』をY. Yadinは党派的文書と説明したが、多くの現代の研究者は前党派的文書と見ている。『神殿の巻物』は、『ヨベル書』のように、ツァドク派のトーラーと並行するモーセ的啓示として、エルサレム祭司制に反対する祭司グループによって書かれた。共に太陽暦を用いている。しかし、『神殿の巻物』は『ヨベル書』よりも厳格な清浄規定を持っている。神殿の不浄規定と都市としてのエルサレムの不浄規定には差があるのが普通だが、『神殿の巻物』はエルサレムにも神殿並みの清浄さを要求する。ただし、『神殿の巻物』は党派的な分離を目指しているのではなく、イスラエル全体が等しく清浄であることを求めている。

『エノク書簡』(『エノク書』91-105章)の成立は複雑だが、前2世紀にクムラン共同体は、「週の黙示録」(93:1-10; 91:11-92:1)を含むプロト『エノク書簡』とでもいうべきものを持っていたはずである。成立時代にはさまざまな議論があるが、おそらくマカベア以降と考えられる。この文書は、エノクが息子たちに送った3つの語りでできている。このうちの第二の語りが「週の黙示録」に当たる。

そこにおいて『ヨベル書』や『神殿の巻物』の伝統と大きく異なるのは、多数派が忘れた知恵を受け継ぐことになる小数の選ばれたグループという考え方である。彼らは完全にイスラエルから分離したわけではないが、いわば選ばれた者たちのうちからさらに選ばれた者たちである。彼らの時代には、第一に、イスラエルが回復して新しい神殿が建設され、第二に、人類が回復し、第三に、最後の審判と共に原始の時代に戻り、新たなる創造がなされる。

イスラエルの民への忠誠心を裏切ることなく、エノク派は、神の意思と真の解釈と彼らが考えることを実行するために、イスラエルの改心を待つ必要はなくなった。選ばれた者たちからさらに選ばれた者たちとして、ユダヤ教の内部で分離したアイデンティティを持った。

『ハラハー書簡』は、分離したグループ(われわれグループ)が権威を持つ者(あなたグループ)に対し、多数派(彼らグループ)からの分離の理由を説明する文書である。律法解釈については、『神殿の巻物』のそれと比較可能である。『ハラハー書簡』によれば、ユダヤ民族はいまだ捕囚の状態にあり、現在は新しい創造へと導く最後の出来事の始まりであるという。L.H. Schiffmanは、『ハラハー書簡』にはのちのラビ・ユダヤ教がサドカイ派に帰するハラハー理解があるが、それはツァドク派ユダヤ教とエノク派ユダヤ教が共に祭司的なルーツを持つからである。「われわれグループ」が多数派である「彼らグループ」から分離したのは、自ら課した分離であって、孤立ではない。「われわれグループ」はいまだに自分たちをイスラエルの一部と考えている。これらはクムラン・グループそのものではなく、クムランの親グループである。

2020年2月7日金曜日

歴史記述的分析と系統的分析 Boccaccini, Beyond the Essene Hypothesis, Chs 2-3

  • Gabriele Boccaccini, Beyond the Essene Hypothesis: The Parting of the Ways between Qumran and Enochic Judaism (Grand Rapids, Mich.: Eerdmans, 1998), 21-79.

第2章:歴史記述的分析(hisotriographical analysis)

ユダヤ人作家であるフィロンおよびヨセフスが語るのは、パレスチナ地方におけるエッセネ派共同体のネットワークであり、非ユダヤ人作家であるプリニウスおよびディオン・クリュソストモスが語るのは、死海近くの単一のエッセネ派共同体である。これらは、エッセネ派運動の歴史における二つの異なる段階というわけではなく、同時代の別の共同体である。つまり、エッセネ派とはパレスチナにおける諸共同体の幅広い運動であり、その複雑さはユダヤ人作家には知られていた。一方で、死海近くに住む特定のエッセネ派共同体は、プリニウスやディオンのような非ユダヤ人作家の興味を引いたのだった。

ユダヤ人作家と非ユダヤ人作家の描写を比較すると、いくつかの興味深い要素が浮かび上がる。第一に、ユダヤ人作家は死海近くの特定の共同体について触れず、非ユダヤ人作家はパレスチナ全体のネットワークについて触れていないが、両者は共にエッセネ派という名前を使っている。第二に、非ユダヤ人作家によって記録された死海の共同体に関する要素のすべてには、ユダヤ人作家によって記録されたパレスチナの諸共同体にも並行する記述が見られる(逆はそうではない)。第三に、死海近くの共同体は、パレスチナの諸共同体よりも過激化しており、他者からの孤立化、特殊化を示している。そして第四に、非ユダヤ人作家は外部の視点からなるべくセンセーショナルな事柄を求めて死海近くの共同体のことを記述しているのに対し、ユダヤ人作家はユダヤ思想を最もよく体現するものを描くという目的に合致するものとしてパレスチナの諸共同体のことを説明している。

短く言えば、歴史記述的分析により分かることは、プリニウスやディオンによって描かれた死海の共同体とは、フィロンやヨセフスによって描かれたより広いエッセネ派運動の内部にいる、過激で少数派のグループである。


第3章:党派以前の歴史の系統的分析(systemic analysis)

クムランの図書館は、世俗的・非ユダヤ的文書がない(のでヘレニズム的な知の集成ではない)こと、また同じ文書が複数所蔵されている(ので個人の所有ではない)ことから、クムランに住む単一のグループに属するユダヤ教宗教文書のコレクションと言える。ただし、単一のグループの持ち物であるからといって、単一の神学を示すとは限らない。それは書物の持ち主であること(ownership)と著者であること(authorship)を混同している。クムラン共同体は書物の持ち主であって、必ずしも著者ではないので、複数の神学を反映していても不思議ではない。

これを分類するのに、(1)聖書文書、(2)外典・偽典、(3)これまで知られていなかったテクスト、という区分を用いるのはアナクロニズムである。『エノク書』と『神殿の巻物』は現代では、その存在が前から知られていたかどうかという基準の下に、前者が第二の区分に、後者が第三の区分に分類されるが、これはクムランの住民にとってまるで意味を成さない。より中立的な区分は以下のように言える:

(1)同種のテクストのグループで、独自のアイデンティティをもった単一の共同体の産物であり、ownershipとauthorshipが重なるテクスト
(2)党派性はわずかで、時系列的にも思想的にも「死海文書の共同体」の形成期に属し、ownershipが必ずしもauthorshipと重ならないテクスト
(3)党派性がなく、聖書に代表されるテクストで、ownershipがauthorshipと重ならないテクスト

これらのテクストを系統的に分析すると、通時的に見て、より古いテクストはより党派性が薄いことが分かる。時を経るにしたがって、共同体は注意深く所有するテクストを選定し、自分たちの考えを代表するものを意図的に残したのだった。つまり、死海文書は党派的グループの組織立った図書館の残りなのである。

死海文書とその他の第二神殿時代の文学を分けるのは、宇宙論的二元論、個人の予定論、不浄と悪の同一視に基づく独特の悪理解である。宇宙的二元論(cosmic dualism)はこの世を、「光の王子」率いる善玉と「闇の天使」率いる悪玉に二分する。ただし、クムランの二元論では、神ははっきりと善玉の味方であり、悪玉は神から離れた自主性はないので、二元論は最終的に善が悪を倒すことになる。死海文書は、宇宙はすべて神の制御下にあると考えている。

予定論(predeterminism)は神の全能性を強調し、人間の自主性を否定的に捉える。ただし、個人の運命は、個人の中にある悪に対し、善がどのくらいの割合があるか(善6:悪3、善1:悪8、善8:悪1など)で決まる(4Q561)。人間に自由がないことは、共同体のメンバーにとっては、神との絆が強まることとして喜ばれた。

不浄と悪の同一視。祭儀的な「不浄」が道徳上の「悪」と同一視される。つまり、罪ある人間は存在論的に不浄であり、不浄さは人間を罪ある状態にする。すべての人間はその本性から不浄であり、それゆえに、彼らはその本性から悪なのである。神の選びによって義とされない限りは。悪と不浄の同一視は、一方で、贖罪と浄化の同一視にもつながる。こうした清浄な状態は、共同体が他の人間たちから孤立することによって保たれる。その外部では神の義が不可能になるからである。

クムランから出たマカベア戦争前の文書を、時代錯誤的でなく分類するためには、「ツァドク派的」「エノク派的」という用語を使う必要がある。「ツァドク派的文学(Zadokite literature)」は、エステル記やダニエル書以外のほとんどの聖書文書や、外典文学などを含む。聖書文書はさまざまな時代に作成されたが、それらはペルシア時代や初期ヘレニズム時代にエルサレム神殿の権威(=ツァドクの家の大祭司)によって集められ編纂された。クムランのツァドク派文学には、『シラ書』15:14bを除いて、党派的な編集などはなされておらず、権威あるものとして引用されたり暗示されたしている。

「エノク派文学(Enochic literature)」である『エノク書』は、クムランでアラム語断片が発見されるまでは、マカベア戦争後の文学と考えられていたが、最初期の部分である「寝ずの番人の書」(6-36章)と「天文の書」(73-82章)はマカベア戦争以前にさかのぼることが明らかになった。エノク派文学の重要性は、ツァドクの時代にあっても園権威に従わない祭司の伝統があったと知らせてくれる点である。

ツァドクの祭司たちは、自分たちが神の領域であるエルサレムの神殿を不浄な世界から清浄に保つことで、善なる神の秩序を守っていると考えていた。これに対し、エノク派文学は、反抗的な天使たちが悪や不浄の伝播の原因であり、彼らが人類に秘密の知識を明らかにするという違反を犯したために、神の創造が汚されたと考えた。この罪は大洪水の後にも消えず、悪霊としてこの世をさまよっている。そして悪の伝播は天使に起因するものなので、人間の手には負えない。つまり、ツァドクの祭司たちが持っている清浄化の力などは幻想であり、悪や不浄には人間の力は及ばないのである。またツァドクの祭司がアロンを祖とし、またモーセに権威を見ることに対し、エノク派文学はより古いエノクに権威を帰している。

ではツァドク派とエノク派の分裂はいつのことだったか。それはエノク派文学が文書として成立するより前に違いない。Ben Zion Wacholderは、エゼキエルこそが反ツァドクの最初であるとする。「寝ずの番人の書」はエゼキエル書にきわめて似た内容を持っている。ただし、エゼキエルの影響は、エノク派ユダヤ教だけでなく、ツァドク派ユダヤ教にも同程度見られる。ツァドク派が神の秩序が第二神殿の完成によって回復されたと考えるのに対し、エノク派は回復はいまだなされていないと考える。「寝ずの番人の書」の分析により、Paolo Sacchiは両派の分裂は前4世紀のこと、Michael E. StoneおよびDaivd W. Suterは前3世紀のことだったと主張している。いずれにせよ、エノク派ユダヤ教は反ツァドク派的な祭司のサークルから生じたといえる。エノク派は、サマリア人と異なり、分離派のグループではなく、神殿エリート内部の反対派だったのである。