- Dan Rickett, Separating Abram and Lot: The Narrative Role and Early Reception of Genesis 13 (Themes in Biblical Narrative 26; Leiden: Brill, 2020), 29-68.
第2章:兄弟愛、分離、定住
この章で著者は、アブラハムの倫理的な対比としてのロトという概念を分析するために、「兄弟愛」「分離」「定住」というテーマを掘り下げている。実質的には創世記13:6-18のコメンタリーになっている。まず「兄弟愛」については8節で触れられているが、すぐそのあとに9節でアブラムはロトに対し「分離」を提案している。アブラムがロトに対しどこに行くかを先に選ばせていることから、この提案はアブラムの寛大さを表していると多くの注解者は評価するが、著者は「分かれよう」というアブラムの台詞の中にある命令形に注目し、実際にはアブラムがロトに「分離」以外の選択肢を与えていないことを指摘する。
そう言われたロトは10節で「目を上げ」てヨルダン平和を見渡す。注解者たちの中にはこの行為がロトの利己的な性格を表していると見る向きもあるが、著者は創世記における「目を上げる」の用例をチェックした上で、このフレーズは否定的なものではなく、中立的なものだと指摘する。
11節でロトはヨルダン平野を選び、東に移動して、アブラムと「分離」するわけだが、著者はこの箇所を創世記13章のクライマックスであると考える。ロトに先に選択させたアブラムが「融和的」であるのに対し、自分のために最善の選択をしたロトのことは「自己中心的」であると注解者たちは解釈する傾向がある。とりわけ11節における「自分のために選ぶ」という一節がこの解釈を支えている。しかしながら、著者はここでもこのフレーズの用例をサムエル記上などに求めた上で、必ずしも自己中心的な意味を含んではいないことを示す。そして、純粋に現実的な判断を下したからといって、ロトを自己中心的であると見なすことはない、と主張するのだった。
11節では「ロトは東に移動した」という記述がある。この「東」に注目するHelyerの注解を著者は紹介している。それによると、ヘブライ的方向感覚は東向きだという。それは「東」を意味するケデムが「前方」をも意味することから分かる。となると、その方向から見て右は南、左は北、そして後方は西ということになる。こうしたことを踏まえると、「ロトが東に移動した」のはアブラムにとって計算外の行動だったといえる。アブラムは西を見ながらカナンの地の北と南のどちらを取るかとロトに尋ねていたのに、当のロトは東に移動してソドムにテントを張り、アブラムがカナンの地に定住するという事態になってしまったのである。こうして12節において、アブラムとロトの「分離」が完成する。
13節ではソドムの町の悪徳が説明されている。著者は、ソドムへの言及が多くある13章と19章を、14章と18章が橋渡ししていると考えている。14章ではロトがソドムに住み着き、アブラムとの間には思想的・地理的に継続的な分離があることが描かれている。また18章は13章と似た用語や似た構造を用い、共にロトを主要人物としている。こうして14章と18章に橋渡しされて、ようやく19章が始まる。
19章はロトの「定住」の進展における最終段階を提示している。19章にはロトによる使者のもてなしと、その使者たちを引き出そうとするソドムの者たちへの対応の挿話がある。ロトは「兄弟たちよ」と語りかけ、「悪を行うな」と命じるが、ソドムの者たちはロトを異邦人と見なす。ここにはアブラムとロトとの「分離」のみならず、ロトとソドムの者たちとの「分離」も描かれている。ロトはソドムの者たちに対し、使者の代わりに自分の娘を差し出そうという提案をする。解釈者の中にはこれを許されざる行為として激しく批判する者もいるが、著者によれば、これはあえて莫迦げた提案をしてソドムの者たちの興奮を収めようとしたロトの「皮肉の間接的なリクエスト(sarcastic indirect request)」だったのだという。
19:14では、使者たちが町を滅ぼすために遣わされたと知ったロトが、婿たちに町から逃げるように言うが無視されたとされている。このことから、ロトのキャラクターは道化役や愚か者といった無視されるべき役回りなのだと解釈する向きもあるが、著者はこのことを否定的に捉える必要はなく、むしろ使者たちの話にすぐに反応したロトと、それを見くびった婿たちとの対比を強調してると捉えている。また16節におけるロトのためらいも、ロトの不敬虔の証とされることがあるが(テクストからはその理由は自明でない)、これも逃げようとしない家族をロトが見捨てられないからだと肯定的に解釈できる。同じ理由から、18節でロトが「山へ逃げろ」と言う使者の助言を受け付けていないことも説明できる。つまり、自分勝手に見えるロトの行動は、その実彼の他者への配慮によるものだったのである。
19:29では、ロトは神がアブラムのことを「忘れず」にいたために助けられたと述べられている。このことは、ノアの動物たちがノアと共にいたために助かったことが想起される。つまり、神がロトに示した慈悲心は、ロト自身に固有の何かによるものであると同時に、ロトの外側の何か、すなわちアブラムとのつながりによるものでもあった。
以上のように創世記19章を詳しく見た上で13章と比較すると、物語はロトを「異邦人」として描いていることが分かる。それゆえにロトは「東」へと移り、モアブとアンモンというイスラエルから分離した者たちの父となったのである。ロトの倫理について、テクストから確かなことは言えない。ロトは敬虔であるかもしれないし不敬虔であるかもしれない。いずれにせよ、19章からロトが自分勝手であったり、悪の民のそばにいたがったりといった解釈はできない。
そう言われたロトは10節で「目を上げ」てヨルダン平和を見渡す。注解者たちの中にはこの行為がロトの利己的な性格を表していると見る向きもあるが、著者は創世記における「目を上げる」の用例をチェックした上で、このフレーズは否定的なものではなく、中立的なものだと指摘する。
11節でロトはヨルダン平野を選び、東に移動して、アブラムと「分離」するわけだが、著者はこの箇所を創世記13章のクライマックスであると考える。ロトに先に選択させたアブラムが「融和的」であるのに対し、自分のために最善の選択をしたロトのことは「自己中心的」であると注解者たちは解釈する傾向がある。とりわけ11節における「自分のために選ぶ」という一節がこの解釈を支えている。しかしながら、著者はここでもこのフレーズの用例をサムエル記上などに求めた上で、必ずしも自己中心的な意味を含んではいないことを示す。そして、純粋に現実的な判断を下したからといって、ロトを自己中心的であると見なすことはない、と主張するのだった。
11節では「ロトは東に移動した」という記述がある。この「東」に注目するHelyerの注解を著者は紹介している。それによると、ヘブライ的方向感覚は東向きだという。それは「東」を意味するケデムが「前方」をも意味することから分かる。となると、その方向から見て右は南、左は北、そして後方は西ということになる。こうしたことを踏まえると、「ロトが東に移動した」のはアブラムにとって計算外の行動だったといえる。アブラムは西を見ながらカナンの地の北と南のどちらを取るかとロトに尋ねていたのに、当のロトは東に移動してソドムにテントを張り、アブラムがカナンの地に定住するという事態になってしまったのである。こうして12節において、アブラムとロトの「分離」が完成する。
13節ではソドムの町の悪徳が説明されている。著者は、ソドムへの言及が多くある13章と19章を、14章と18章が橋渡ししていると考えている。14章ではロトがソドムに住み着き、アブラムとの間には思想的・地理的に継続的な分離があることが描かれている。また18章は13章と似た用語や似た構造を用い、共にロトを主要人物としている。こうして14章と18章に橋渡しされて、ようやく19章が始まる。
19章はロトの「定住」の進展における最終段階を提示している。19章にはロトによる使者のもてなしと、その使者たちを引き出そうとするソドムの者たちへの対応の挿話がある。ロトは「兄弟たちよ」と語りかけ、「悪を行うな」と命じるが、ソドムの者たちはロトを異邦人と見なす。ここにはアブラムとロトとの「分離」のみならず、ロトとソドムの者たちとの「分離」も描かれている。ロトはソドムの者たちに対し、使者の代わりに自分の娘を差し出そうという提案をする。解釈者の中にはこれを許されざる行為として激しく批判する者もいるが、著者によれば、これはあえて莫迦げた提案をしてソドムの者たちの興奮を収めようとしたロトの「皮肉の間接的なリクエスト(sarcastic indirect request)」だったのだという。
19:14では、使者たちが町を滅ぼすために遣わされたと知ったロトが、婿たちに町から逃げるように言うが無視されたとされている。このことから、ロトのキャラクターは道化役や愚か者といった無視されるべき役回りなのだと解釈する向きもあるが、著者はこのことを否定的に捉える必要はなく、むしろ使者たちの話にすぐに反応したロトと、それを見くびった婿たちとの対比を強調してると捉えている。また16節におけるロトのためらいも、ロトの不敬虔の証とされることがあるが(テクストからはその理由は自明でない)、これも逃げようとしない家族をロトが見捨てられないからだと肯定的に解釈できる。同じ理由から、18節でロトが「山へ逃げろ」と言う使者の助言を受け付けていないことも説明できる。つまり、自分勝手に見えるロトの行動は、その実彼の他者への配慮によるものだったのである。
19:29では、ロトは神がアブラムのことを「忘れず」にいたために助けられたと述べられている。このことは、ノアの動物たちがノアと共にいたために助かったことが想起される。つまり、神がロトに示した慈悲心は、ロト自身に固有の何かによるものであると同時に、ロトの外側の何か、すなわちアブラムとのつながりによるものでもあった。
以上のように創世記19章を詳しく見た上で13章と比較すると、物語はロトを「異邦人」として描いていることが分かる。それゆえにロトは「東」へと移り、モアブとアンモンというイスラエルから分離した者たちの父となったのである。ロトの倫理について、テクストから確かなことは言えない。ロトは敬虔であるかもしれないし不敬虔であるかもしれない。いずれにせよ、19章からロトが自分勝手であったり、悪の民のそばにいたがったりといった解釈はできない。
13章のつづき(14節から最後)においても、ロトはもはやアブラムの「子孫」には入っておらず、神を崇める祭壇での礼拝にも関わっていない。以上の分析から、ロトがアブラムの後継者であり、また敬虔なアブラムに対する不敬虔な対照者であるという一般的な理解は正しくないと言える。創世記13章は、ロトをアブラムから「分離」させ、アブラムを「定住」させているが、この「分離」は本来連れて行けないはずのロトを解決するための手段であり、「定住」はアブラムからの無理のある提案が発端だった。ロトはアブラムの後継者ではなく、「兄弟」として描かれている。
以上から、ロトを否定的に捉える一般的な理解は本文から出てきたものではないことが分かる。ではこれが本文に固有のものでないなら、その起源はどこからなのか。これを検証するために、著者は第二神殿時代の文学、初期ユダヤ教文学、教父文学にさかのぼっていく。
以上から、ロトを否定的に捉える一般的な理解は本文から出てきたものではないことが分かる。ではこれが本文に固有のものでないなら、その起源はどこからなのか。これを検証するために、著者は第二神殿時代の文学、初期ユダヤ教文学、教父文学にさかのぼっていく。
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