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2015年3月31日火曜日

『律法儀礼遵守論』とミシュナー・ヤダイム Schiffman, "The Temple Scroll and the Systems of Jewish Law of the Second Temple Period"

  • Lawrence H. Schiffman, "The Temple Scroll and the Systems of Jewish Law of the Second Temple Period," in Temple Scroll Studies, ed. George J. Brooke (Journal for the Study of the Pseudepigrapha Supplement Series 7; Sheffield: Sheffield Academic Press, 1989), pp. 239-55.
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本論文は、『神殿巻物』の法規を『律法儀礼遵守論』(4QMMT、以下『律法』)と比較しつつ明らかにしたものである。この論文の主題自体は『神殿巻物』だが、この論文の重要さはむしろ『律法』の分析にある。著者によると、『律法』のセクションBで扱われている20の法規のうちのいくつかが、ミシュナー・ヤダイム4.6-7の議論と一致しているという。著者は、ミシュナー中の5つの議論のうちの4つが『律法』と一致していると主張する。

第一に、すべての書物が手を汚すというミシュナー中のサドカイ派的見解は(m. Yad. 4.6)、神殿の外で屠られた動物の皮は神殿内に持ち込まれてはならず、その皮は運ぶ者の手も汚すという『律法』中の見解(B 17-20?、論者注:Schiffmanは具体的に行数を挙げていないので、これは論者によるものである)に由来するものである(B 21-23、論者注:Schiffmanは具体的に行数を挙げていないので、これは論者の判断によるもの)。

第二に、『律法』は不浄な動物の骨もまた不浄であると見なすので、それを使って取っ手などを作ってはならないという(m. Yad. 4.6および『律法』B 21-22)。

第三に、ナツォーク、すなわち水の流れに沿って不浄が流れてくることに関するサドカイ派的見解が『律法』にも見られる(m. Yad. 4.7および『律法』B 55-58)。

第四に、墓地を流れてくる水に関する議論もまた、ナツォークの議論中に見られる。

以上より、パリサイ派とサドカイ派との間にある4つの議論において、『律法』の著者はサドカイ派の主張と同じ主張を持っており、パリサイ派的な見解に反対している。もし『律法』がサドカイ派の文書であるならば、クムラン・セクトは、マカベア戦争以後にエルサレム神殿を去った、不満を抱いている祭司たちによって始められたものだと考えられる。なぜならば、ツァドクの系譜に属するものではなく、ハスモン家の者が祭司職を奪ってしまったからである。

『律法儀礼遵守論』とヨセフス著作から見るパリサイ派 Schwartz, "MMT, Josephus and Pharisees"

  • Daniel R. Schwartz, "MMT, Josephus and the Pharisees," in Reading 4QMMT: New Perspectives on Qumran Law and History, ed. John Kampen and Moshe J. Bernstein (SBL Symposium Series, No.2; Atlanta, GA: Scholars Press, 1996), pp. 67-80.
本論文は、『律法儀礼遵守論』(4QMMT、以下『律法』)とヨセフス著作から、パリサイ派の姿をどの程度復元できるか試みたものである。著者によると、パリサイ派研究に対して死海文書が果たした役割は、間接的でありながらも強烈であるが、一方で皮肉な結果になった。というのも、死海文書によって、パリサイ派のイメージは19世紀の研究が示したものへと戻ってしまったからである。

19世紀の研究者は、ヨセフス、新約聖書、そしてラビ文学での記述から、第二神殿時代のパリサイ派が神殿崩壊後のラビ・ユダヤ教と同一であると見なした。さらに、E. Schuererは福音書やミシュナーから、パリサイ派は人間の感情を度外視したケチな詭弁家であると考えた。R. Travers HerfordやGeorge Foot Mooreは、ラビ・ユダヤ教は倫理を重要視した多面的な宗教であるとした。すなわちこの時期の研究者たちは、肯定的であれ否定的であれ、パリサイ派をラビ・ユダヤ教と同一視することと、パリサイ派が第二神殿時代における主流派だったことを主張しているのである。

これに対し、20世紀になると、Morton Smithによって、ヨセフスの記述はプロパガンダであり、パリサイ派は神殿崩壊前は主流派ではなかったという反論が行われた。さらにSmithは、新約聖書における主流派としてのパリサイ派の描写も、神殿崩壊後の状況を反映したアナクロニズムであると主張した。この考え方はJacob Neusnerによって発展され、広く受け入れられるようになっていった。Neusnerによれば、後代のラビ文学を一世紀より前のパリサイ派の研究に用いることは無責任であるという。

この傾向は、ホロコーストとイスラエル国家の成立によって、さらに強められた。ホロコーストの反動としての、反セム主義への忌避から、一方では新約聖書におけるイエスのパリサイ派批判はイエス自身の思想の反映ではなく、他方ではそもそも攻撃されているパリサイ派もユダヤ教の主流派ではなかったという議論が展開された。

こうした第二神殿時代のパリサイ派=反主流派説に対して、さらなるリアクションが死海文書の発見によってなされるようになった。第一に、『神殿巻物』『律法』『ダマスコ文書』などから、クムラン共同体が律法に対し強い関心を持っていたことが分かった。第二神殿時代に極めて霊性を重んじたクムラン共同体でさえ、律法を重視していたのであれば、パリサイ派はいわずもがなである。そしてそうであれば、ラビ・ユダヤ教はパリサイ派からさほど隔たっていないといえる。第二に、死海文書がラビ文学とよく合致することから、第二神殿時代の研究に自信を持ってラビ文学を用いることができるようになった。

パリサイ派が本当に主流派であったのかどうかという問題に関して、著者はバランスを取ろうとする。ヨセフスの記述によると、ヨセフスはパリサイ派の支配に対し批判的な記述を残していることから、翻って、パリサイ派が主流派であったことが分かる。ただし、実際にパリサイ派が支配的でなくても、ヨセフスがパリサイ派に文句をつけていた可能性もあるので、これだけではSmith-Neusner説を覆したことにはならない。

そこで『律法』を見ると、「我々は民の大多数(ロブ・ハアム)から自分を引き離した(パラシュヌ)」という一節から、パリサイ派=主流派であった可能性を見て取ることができる(「引き離す」という言葉もパリサイ派を連想させる)。しかし、著者はロブ・ハアムは「民の多く」という意味のみであって、必ずしも「主流派」を意味しないと主張する。さらに、『律法』のセクションBでは神殿と祭司性について議論されていることと、ロブ・ハアムという語が敵対者とのセクト的な議論の中では用いられていないことから、著者は当時のパリサイ派は単独の主流派とはいえず、あくまで祭司グループに準ずる位置であったと述べる。『律法』が示しているのは、当時のユダヤ世界が、クムラン派、パリサイ派、そして神殿の支配階級(=サドカイ派)に分かれていることと、パリサイ派はその支配階級と同盟関係にあったことのみである。そしてこれらの結果はヨセフスの記述からすでに知られていることであった。

2015年3月30日月曜日

ヴァンダーカム「第4章:死海文書の人々 エッセネ派からサドカイ派か」

  • ジェームス・C・ヴァンダーカム「第4章:死海文書の人々 エッセネ派からサドカイ派か」、ハーシェル・シャンクス編(池田裕監修、高橋晶子・河合一充訳)『死海文書の研究』ミルトス、1997年、99-117頁(James C. VanderKam, "The People of the Dead Sea Scrolls: Essenes or Sadducees," in Understanding of the Dead Sea Scrolls, ed. Harshel Shanks [New York: Random House, 1992], pp. 50-62)。
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本論文は、クムラン共同体の正体をサドカイ派であるとするシフマンに対し、その正体はやはり従来の説どおりエッセネ派であるとするヴァンダーカムによる反論である。クムラン共同体をエッセネ派と同定するためには、主として二つのデータに基づいてきた。第一に、大プリニウスの証言、第二に、死海文書の内容と、エッセネ派の信仰と慣習に関するヨセフスらの記述のとの比較である。著者によれば、プリニウスはその報告をでっち上げる理由はないこと、また他のことに関する彼の証言が正確であることなどから考えて、プリニウスの証言は確かであるとしている。

第二の点に関して、ヨセフス『ユダヤ古代誌』におけるエッセネ派に関する記述と『共同体の規則』(1QS)とを比較すると、多くの類似点が見出される。著者は例として、運命について、所有物の共有について、唾を吐くことについてなどを挙げている。Todd Beallによると、ヨセフスの著作とエッセネ派に関する死海文書の間には、27の類似点、21の似通っているようにみえる点があり、同時に接点がない点が10あり、矛盾点が6あるという。死海文書自体が足並みがそろっていない点もあるが、それはそれぞれがエッセネ派内の異なるグループの文書であったからだと考えられる(『ダマスコ文書』は町や村に住むエッセネ派の文書、『共同体の規則』はクムランのエッセネ派の文書)。

著者によると、死海文書を読み解く4つの注意点がある。第一に、対象の文書が特に宗派的なテクストであるかどうかを確認すること。第二に、死海文書は現存する他の古代の著作とのみ比較であること。第三に、死海文書には、ヨセフスや他の古代の著作家が言及していない点があること。第四に、ヨセフスと死海文書とに違いがあるのは、彼が知っていたエッセネ派がクムラン共同体とは別のグループだったかもしれないこと、である。

通説では、クムラン共同体はエッセネ派であったと見なされているが、シフマンは『律法儀礼遵守論』(4QMMT、以下『律法』)をもとにサドカイ派であったと考えている。シフマンが注目したのは、ミシュナー・ヤダイム4.6-7で議論されている4つの論争点と『律法』の記述との類似である。ヴァンダーカムは、シフマンが見出した4つの類似点のうち3つは確かに一致していると述べている。しかし、それでもヴァンダーカムはこの説は根拠が薄いと反論する(ちなみにシフマンもヴァンダーカムも、『律法』の第一部における暦法に関する記述ゆえに、同書が宗派テキストであると考えている)。

なぜなら、第一に、そもそもサドカイ派とエッセネ派とが互いに一致する領域はたくさんあると考えられるからである。第二に、ミシュナー中のサドカイ派対パリサイ派の論争の記述をどの程度信用できるかは疑問だからである。第三に、シフマンは、プリニウスやヨセフスにおけるエッセネ派に関する記述や、クムランの宗派テクストにおける非サドカイ派的記述を無視しているからである。こうしたことから、ヴァンダーカム曰く:
シフマンの論拠となる幾つかの法規上の詳細が、実際にエッセネ派の生活習慣や神学を目撃したヨセフスやプリニウス(あるいは彼の情報源)といった人々から得られる証拠や、クムラン・テキストの中心的な資料よりも大きな影響力をもつなど、到底ありえない。
と述べている。いうなれば、ヴァンダーカムは、シフマンが示している『律法』を基にした論拠よりも、より明らかな証拠がいくつもあるため、クムラン共同体=エッセネ派説はゆるがないと考えているのである(その際に、シフマンの論拠を覆すには至っていない)。ヴァンダーカムによれば、エッセネ派とサドカイ派が共にパリサイ派的な法規の改良に反対していたことは、すでに知られていたので、シフマン(とヨセフ・バウムガルテン)はそのすでに知られていたことをクムラン共同体から証明したに過ぎないのだという。

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2015年3月27日金曜日

ナフマニデスとアンダルスの伝統 Septimus, "Open Rebuke and Concealed Love"

  • Bernard Septimus, "'Open Rebuke and Concealed Love': Nahmanides and the Andalusian Tradition," in Rabbi Moses Nahmanides (Ramban): Explorations in his Religious and Literary Virtuosity, ed. Isadore Twersky (Harvard University Center for Jewish Studies Texts and Studies I; Cambridge, Mass.: Harvard University Press, 1983), pp. 11-34.
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本論文は、ナフマニデスと彼をめぐる知的世界を概観したものである。著者によれば、同時代人であるマイモニデスがアンダルシアの黄金期の最後の傑物だとすると、ナフマニデスはキリスト教ヨーロッパの文化環境に属する最初の偉大なスペイン人であるという。ナフマニデスが生まれ育ったカタルーニャ地方は、アンダルシアのイスラーム文化圏のユダヤ的伝統からの影響を受けつつも、キリスト教文化圏であり、北部ヨーロッパのユダヤ的伝統からも近い場所だった。すなわち、ナフマニデスは、アンダルシアの代表選手であるマイモニデスとも、北部ヨーロッパのトサフィストおよびカバリストとも、影響関係にあったのである。

彼が関わった大きな事件としては、マイモニデス論争とバルセロナ討論が挙げられる。ナフマニデスは、マイモニデスを支持する意見を書くことも反対する意見を書くこともあるが、通説では、実際には反対であり、支持する意見は政治的手腕を発揮したにすぎないとされている。バルセロナ討論では、ユダヤ伝承であるアガダーをもとに自らの聖書解釈の正当性を主張してくるキリスト教会に対し、ナフマニデスはアガダーの権威を否定した。通説では、彼のアガダー拒否は、彼自身の信条に反する政治的判断によるものだったとされている。

しかし、著者はアンダルシアの伝統の複雑さを考慮に入れると、上の通説は必ずしも確かではないと述べる。マイモニデスのアリストテレス主義に対する、ナフマニデスに代表されるスペインの反知性主義は、北部ヨーロッパからの輸入ではなく、アンダルシアの伝統そのものが持っていたものである。著者はこうしたことを、ナフマニデスとイブン・エズラとを比較することで明らかにする。ナフマニデスは、イブン・エズラに対し、主に三つの点から反論する。第一に、アガダーの扱い、第二に、過剰な理性的解釈、そして第三に、エソテリックな知恵に対する考え方である。こうした反論を見ていくと、ナフマニデスがイブン・エズラに対し、反発と同時に隠れた好意を持っていたことが分かるという。

ナフマニデスは、プシャット的解釈の考え方をイブン・エズラに拠っているが、単語やフレーズよりも、もっと文章の構造や概念に注目する方法を取った。と同時に、ミドラッシュのようなラビ的解釈や、場合によってはカバラー的解釈をも用いた。ただし、ナフマニデスにとってのミドラッシュ・アガダーは、あくまで説教的解釈にすぎず、プシャット的解釈ができない場合にのみ用いられるものだった。またナフマニデスは、神学的用語などについても、イブン・エズラに依拠している。

ナフマニデスに見られるアンダルシアの伝統としては、古典的なアンダルシア的「モザイク・スタイル」が挙げられる。ナフマニデスの文章の中には、モザイクのように、聖書、彼より以前の聖書注解者たちの文章、アンダルシアのピユートの一節などが取り込まれている。彼自身もしばしば詩を書いた。彼のカバラー的な魂論の詩は、詩としても神学としても、ユダ・ハレヴィやイブン・カビロールらの影響を受けており、新プラトン主義的な魂理解を示している。

アンダルシアのゲオニーム的聖書偏重主義に依拠する一方で、ナフマニデスに対するフランスのトサフィストの影響も忘れてはならない。特にタルムードの解釈に関しては、スペインよりもフランス・ドイツの伝統の方が盛んであった。そして、政治的・言語的紐帯によって、カタルーニャ地方とプロヴァンスはひとつながりの場所といえたために、ナフマニデスは多くの北部ヨーロッパのタルムード学者のことを知っていたのである。

2015年3月26日木曜日

シフマン「第3章:死海文書の宗団はサドカイ派から生まれた」

  • ローレンス・H・シフマン「第3章:死海文書の宗団はサドカイ派から生まれた」、ハーシェル・シャンクス編(池田裕監修、高橋晶子・河合一充訳)『死海文書の研究』ミルトス、1997年、79-98頁(Lawrence H. Schiffman, "The Sadducean Origins of the Dead Sea Scrolls Sect," in Understanding of the Dead Sea Scrolls, ed. Harshel Shanks [New York: Random House, 1992], pp. 35-49)。
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本論文は、クムラン共同体の正体を、通常考えられているようにエッセネ派ではなく、サドカイ派に求めるものである。まず著者は、『ダマスコ文書』がソロモン・シェヒターによって発見されてツァドクの文書とされたことと、ルイス・ギンツベルクによってパリサイ派の文書とされたこととに言及する。一方で、死海写本の研究の発展と共に、共同体はエッセネ派であったという説が強くなる(ソロモン・ツァイトリンによるカライ派説など例外もあるが)。これを著者は、先入観に基づく循環論法であると断じている。つまり、クムラン共同体がエッセネ派であるならば、ギリシア語資料の情報が死海文書から読み取れ、また同時に死海文書の情報がギリシア語資料から読み取れることになる(著者のこうした慎重さは、死海文書と新約聖書とを無理やり結び付けようとするトンデモ研究に対する批判から来ているように思われる)。

そこで、著者は『律法儀礼遵守論』(4QMMT、以下『律法』)に依拠つつ、クムラン共同体=サドカイ派説を唱える。彼は『律法』の法規と、ミシュナーやタルムードあどのラビ文献の記述とを比較したという。マカバイ家の反乱以降、ハスモン朝が神殿を手中に収め、彼らがパリサイ派と共同戦線を張ったため、サドカイ派の中には新しい状況に適応した者と、そこから逃げ出した者たちがいた。著者によれば、『律法』は、ハスモン朝の大祭司たちが宣言した法的支配を認めない者たちが書いた手紙であるという。

パリサイ派はしばしば宗派的テクストの中で、「エフライム」、「塀の建設者」、「ドレシェイ・ハラホット(間違った法規を述べる人々)」などと呼ばれている。著者によれば、『律法』の著者が反対する法規は、後のラビ文献がパリサイ派のものとする法規と同じであり、また『律法』の著者が支持する法規は、後のラビ文献がサドカイ派のものとする法規と同じであるという。ここから、第一に、パリサイ派の見解は、のちのタルムード時代の時代錯誤的な発明ではなく、ハスモン朝の大半の時期に広まっていたこと、そして第二に、ラビ文献に記された用語や法規も、実際パリサイ派が使用したものであったことが分かる。

サドカイ派はしばしば、エフライムの敵対者である「マナセ」と呼ばれる。著者によれば、『律法』内の22の法規は、タルムードがサドカイ派のものとする見解と一致するという。同時に、『律法』のサドカイ派的と考えられる法規は、『神殿巻物』の中にも見受けられる。特に『神殿巻物』は法規の出典となる聖書箇所も挙げることがあるので重要である。

著者の主たる主張は以上だが、さらにいくつかのポイントを述べている。まずノーマン・ゴルブのクムラン遺跡=軍事的要塞説は否定されるべきだという。また死海文書の中にキリスト教の教義に似たものを探求するのは二次的な仕事にとどめるべきであると戒める。そして、聖書テクスト研究における死海文書の貢献として、クムランの聖書写本は概してマソラー本文の原型タイプと似たものであった点を指摘している。

クロス「第2章:死海文書の歴史的状況」

  • フランク・ムーア・クロス「第2章:死海文書の歴史的状況」、ハーシェル・シャンクス編(池田裕監修、高橋晶子・河合一充訳)『死海文書の研究』ミルトス、1997年、61-76頁(Frank Moore Cross, "The Historical Context of the Scrolls," in Understanding of the Dead Sea Scrolls, ed. Harshel Shanks [New York: Random House, 1992], pp. 20-32)。
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本論文は、死海文書の歴史的状況について、なるべく研究者間のコンセンサスに基づいて説明したものである。まず考古学的観点から、クムラン共同体の遺跡が三つの層(Ia期、Ib期、第三期)に分かれているが、これは一つの連続した共同体であると説明する。著者によれば、このことは、彼らがクムランという特殊な場所に共同体を設けたこと自体から分かるのだという。

次に、著者の専門である古文書学からの年代決定について説明される。クムラン写本は古文書学から見て三つに分けられる。第一に前250-前150年の古代のスタイル。第二に前150-前30年のハスモン朝のスタイル。第三に前30-後70年のヘロデ朝のスタイルである。共同体の起源は、最も古い宗派的文書の成立年代と考えられるので、前100年頃とされる。それ以前の年代に成立されたと考えられる文書、特に聖書の写本は、共同体の成立時に外から運び込まれたものと考えられる。

著者はクムラン共同体の正体をエッセネ派であると考える。これはクロスのみならず、多くの研究者によって受け入れられている説である。これを支持する外部資料は、ヨセフスと大プリニウスである。プリニウスが証言する荒野のエッセネ派集団として、クムランの他に適切なものは考えにくい。著者によれば、クムラン=エッセネ派説に用心するとした学者は、クムラン共同体の他に、よく似た共同体が存在し、しかもそちらは一切の痕跡を残さず消えたと考えなければならず、そんなことはあり得ないので、クムラン=エッセネ派説は妥当だという。

著者は、クムランのエッセネ派は祭司の集団であるとし、死海文書の背景には、祭司同士の闘争があるとする。すなわち、「義の教師」に率いられた真のイスラエルたるクムラン共同体と、「悪の祭司」たちが司るエルサレム神殿との戦いである。クムラン共同体は、神が支配する新時代の生活への準備またはそれを前もって実行するという、黙示的信仰を持っていた。そしてそうした未来の謎を解くために、聖書の預言をペシャリームという方法で解釈した。彼らの自己理解の根底には、民数記のモーセの宿営(民2-4章、9:15-10:28)のイメージがあった。つまり、荒野のイスラエルが征服の戦いに備えていたように、クムラン共同体も来るべき終末的な戦闘に備えていたのである。

著者は、「悪しき祭司」の正体を、大祭司シモン・マカバイであると考えている。著者によれば、この理解は、第四洞窟の「証言集」において暗示されている、ヨシュア記6:26のイメージを用いた歴史的事柄とよく一致するのだという。シモンの兄弟であるヨナタンこそが「悪しき祭司」の正体だとする者もいるが、著者は、歴史的事実とクムラン共同体の書物に書かれた出来事との一致において、シモンに軍配が上がるとしている。

2015年3月18日水曜日

『律法儀礼遵守論』とクムラン・セクトの起源 Schiffman, "The New Halakhic Letter (4QMMT) and the Origins of the Dead Sea Sect"

  • Lawrence H. Schiffman, "The New Halakhic Letter (4QMMT) and the Origins of the Dead Sea Sect," The Biblical Archaeologist Vol. 53, No. 2 (June, 1990): 64-73.

本論文は、StrugnellとQimronによる『律法儀礼遵守論』(以下『律法』)の校訂版が出版される直前に、校訂者たちの許可を得てその原稿を見ることができたSchiffmanによる同書の概論である。当時の興奮をよく伝えてくれると共に、現在へと至る研究史を方向付けた一編でもある。著者によれば、『律法』は分離したセクトの指導者がエルサレムの主流派に向けて書いた文書であり、ユダヤ法の問題を扱っているという。六つの写本からなる同書は、実際の手紙であるとも考えられるし、後代になってセクトの分裂を正当化するために書かれた偽書であるとも考えられる。

『律法』の第二部によると、分裂に至らしめた原因は、メシアニズムや神学論争ではなく、ユダヤ法の問題である。これは『律法』に限らず、第二神殿時代の主要な論争においても同様である。

第三部で語られている事項について、著者は以下のことを指摘している。まず、「私たち」が「人々の大多数」から分離したこと、そのときの宛名は「あなたがた」であること、聖書の三分割に言及するときには単数の「あなた」であること、その「あなた」に対する祝福と呪いとは申命記31:29および同30:1-2を用いていること、そうした祝福と呪いによって、「あなた」がイスラエルの王たちの時代を思い出すように諭されていること、などである。ここでの名宛人は、聖書時代の王たちと比較されるような者であることから、当時の状況からして、ハスモン家の大祭司であると考えられる。

論文著者による重要な指摘としては、『律法』と『神殿巻物』との並行箇所の存在が挙げられる。両者において、イスラエルの民について言及している五書の箇所が王に比されている。ちなみに、『律法』では義の教師への言及は一切ない。『ダマスコ文書』において、義の教師が来る20年前に最初のセクト的分離が起こったという記述があるが、『律法』はこうしたごく初期に書かれたものと思われる。

第二部の律法リストの議論から、論文著者は『律法』の著者の敵対者はラビ文学で言うところのパリサイ派あるいはタナイームであると考えており、一方で『律法』の著者はサドカイ派であると考えている。そこから著者が描き出すストーリーは以下のようなものである。セクトのごく初期のメンバーはサドカイ派だったが、彼らはマカベア戦争後のマカベア家の横暴(大祭司を自分たちから立てて、ツァドク派の権威を弱めた)を受け入れることを拒んでいた。そこでこれら不満を持つツァドクたちがエルサレムの主流派から分離し、「ツァドクの子ら」を名乗りつつ、自分たちこそが真のイスラエルであると考えるようになった。一方でエルサレムに残ったサドカイ派たちは、ハスモン家の祭司たちのもとでパリサイ派的な見解を持つに至った。当初メンバーは神殿に残った派閥との和解を希望していた(それゆえに、『律法』はクムランの発展の中で最初期のテクストであるといえる)。しかし、それは不可能と悟り、セクトとして発展していき、のちに義の教師が現れるに至った。

この仮説が正しいとすると、論文著者は4つのことが指摘できると述べる。第一に、このセクトはハシディームではない。第二に、セクトがパリサイ派の下位グループから出てきたと考えることはできない。第三に、クムラン=エッセネ派仮説に関して、エッセネ派はもともとサドカイ派のセクトを指す用語だったと考えなければならない。言い換えれば、サドカイ派が過激化して完全にセクト化したものがエッセネ派である。第四に、クムランの文書がセクト文書ではなく、当時の一般的なユダヤ教文書であるとはいえない。

『律法儀礼遵守論』の基本的事項について Schiffman, "Miqtsat Ma‘asei ha-Torah"

  • Lawrence H. Schiffman, "Miqtsat Ma‘asei ha-Torah," in Encyclopedia of the Dead Sea Scrolls, ed. Lawrence H. Schiffman and James C. VanderKam (Oxford: Oxford University Press, 2000), 1: 558-60.
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本論文は、『律法議論遵守論』(4QMMT、以下『律法』)の基本的事項をまとめた辞典項目である。『律法』は、はっきりとエルサレムの権威に反対するクムラン・セクトの指導者たちから、エルサレムの祭司階級の指導者たちに向けて送られた文書と考えられる。テクストは第四洞窟から発見された六つの断片からなる。内容的に、自分たちのセクトがエルサレム主流派から分離することを正当化しているので、クムラン共同体のごく初期の作品と考えられる。

全体は三部に分けられる。第一部の暦は、『共同体の規則』の写本のうちのひとつにも載っているものなので、もともと『律法』についていたものかは分からない。太陽暦を採用しており、通常の祭りに加えて、新しいワインの祭り、オイルの祭り、木の祭りがある。こうした特徴は、『神殿巻物』にも見られる。

第二部の律法リストは、主に浄不浄の問題と神殿における犠牲の問題を中心とした20の事柄を扱っている。つまり、神学的な問題というよりも、ユダヤ法の適切な実行こそが問題となっているのである。ここで取り上げられている律法議論のいくつかは、ミシュナー・ヤダイムでも見られるものであり、そこではサドカイ派の教説として知られている考え方になっている。通常サドカイ派の律法はパリサイ派あるいはラビたちよりも厳格なものである。

第三部の結論部では、二人称単数と複数で名宛人が言及されている。おそらく単数形は、エルサレムの大祭司のような指導者を指しているのであろう。また、このクムラン・セクトの敵対者は、後代のラビ文学においてパリサイ派あるいはタナイームに帰せられる者たちと考えられる。

以上のことから考えられるのは、以下のようなストーリーである。すなわち、クムラン・セクトの初期のメンバーとは、マカベア戦争(前168-前164)の後に、エルサレムの祭司階級から分離した、現状に不満を持ったサドカイ派であり、自分たちを「ツァドクの子ら」と呼んでいた。一方でエルサレムに残ったサドカイ派の同僚たちは、のちにパリサイ派的な規範となる考え方を採用し、サドカイ派的な考え方を捨てていった。当初、クムラン・セクトはエルサレムの祭司たちと折り合いをつけるつもりだったが、そのうちにそんな望みはなくなり、より過激化して外部を遮断するようになった。さらに死海文書をめぐるエッセネ派説を考慮に入れると、『律法』から分かるとおり、もともとはサドカイ派だった者たちが、エルサレム主流派との軋轢の中で過激化し、独自のセクトとしてのエッセネ派になったと考えるのが自然である。そしてこの分離の理由は、神学的な問題ではなく、浄不浄に関する規則の相違である。

『律法』と他の死海文書との関係としては、暦法と犠牲については『神殿巻物』と、それ以外のさまざまな律法については『ダマスコ文書』や『詞華集』との類似が指摘されている。それぞれの文書は、直接『律法』と影響関係にあるわけではないが、同じソースを持っていると考えられる。ただし、『共同体の規則』との並行箇所は見られないのが特徴である。これらの中では、特に『神殿巻物』と『ダマスコ文書』との比較は重要で、『律法』と『神殿巻物』とは共にセクト的な敵愾心が希薄なのに対し、『ダマスコ文書』にはそうした雰囲気が濃厚である。これを先のストーリーに則して言い換えると、『律法』と『神殿巻物』とは、まだセクトがエルサレムとの和解の希望を持っていたときの文書であるのに対し、『ダマスコ文書』はそうした望みが絶たれたあとの文書であると考えられる。

2015年3月16日月曜日

ミドラッシュ・アガダーとクムラン Fraade, "Looking for Narrative Midrash at Qumran"

  • Steven D. Fraade, "Chapter Nine: Looking for Narrative Midrash at Qumran," in id., Legal Fictions: Studies of Law and Narrative in the Discursive Worlds of Ancient Jewish Sectarians and Sages (Supplements to the Journal for the Study of Judaism, vol. 147; Leiden: Brill, 2011), pp. 169-92.
本論文は、クムランにおける聖書の物語解釈とラビ・ユダヤ教のミドラッシュとを比較し、それぞれの特徴を浮き彫りにするものである。このために、著者は四つの観点挙げている。第一に、両者の類似性と非類似性とを両方観察すること、第二に、単に類似・非類似性を挙げるだけでなく、それらを比較する目を持つこと、第三に、両者の内容だけでなく形態論にも注目すること、そして第四に、第二神殿時代の特徴である多様性を鑑みて、両者が直接の影響関係ではないかもしれない可能性を考慮に入れることである。

著者はラビ文学におけるミドラッシュの特徴を以下の三点にまとめている。第一に、テクストの進行に伴ってつける連続的な解釈(ランニング・コメンタリー)であること。第二に、質疑応答形式(dialogical)であり、ある箇所の解釈のために聖書のどの一節でも引用し(intertextual)、複数の解釈を引き出すこと。そして第三に、聖書の物語の矛盾、不明瞭、反復、そして欠落を解決するために、より完全な聖書物語のバージョンを作ること。

一方で、死海文書を含む第二神殿時代における聖書の物語解釈は、「解説的(expositional)」と「合成的(compostional)」に分けられるという(Devorah Dimant)。前者は、フィロンの寓意的聖書解釈やクムランのペシャリームに代表され、最初に聖書の一節を引用した後に、その解説が続く。後者はいわゆる「再説聖書(Rewritten Bible)」と呼ばれるもので、聖書の物語を語りなおし、より明らかにするためにパラフレーズし、さらには相当量の拡大解釈も加える。代表例としては、ヨセフス『ユダヤ古代誌』、偽フィロン『聖書古代誌』、『ヨベル書』、『第一エノク書』、『外典創世記』、『4QReworked Pentateuch』などがある。これらは、もとになっている聖書やその権威に対し、明確な関係性を示さないことが多い。そしてこれらの特徴として、以下の二点が挙げられる。第一に、現在のクムラン共同体での生活の規範となる解釈であること。第二に、預言的な解釈により、共同体の歴史における終末論的な成就を示す解釈であることである。いうなれば、現在と未来とを問題にしているといえる。

こうしたことを確認したあとで、著者はいくつか例を挙げて、死海文書とミドラッシュとの違いを説明する。それらによると、死海文書は聖書テクストとは決して直接的に関わりあわず、聖書の言葉や暗示を自分たちの目的、すなわち共同体の実践や終末論的な自己理解のために、創造的に用いている。一方で、ミドラッシュは、聖書物語の詳細のすべてに依拠しているわけではないものの、常に聖書のもとテクストにつながっている印象がある。そして何よりも、ミドラッシュ(およびミシュナー)における聖書物語の役割は、かつて聖書の時代に起こった過去のことでしかなく、同時代の実践とは結びつかないという特徴を持っている。

こうした両者の違いの理由は、以下のように四点考えられる。
  1. 両者の成立年代の違い。まだ正典意識が希薄で、多様なテクスト群が並存していた第二神殿時代と、聖書の正典としての権威ができたポスト聖書時代であるラビ・ユダヤ教とは、自然と聖書解釈の方法も異なってくるはずである。
  2. シナイ山におけるモーセの啓示への理解の違い。ラビたちは、口伝律法と成文律法とが共にモーセに啓示されたと考えるが、クムラン共同体は、モーセや預言者によって継承されてきた啓示は、自分たちの共同体においてのみ一新され(義の教師によって)、残りの者たちは知らないのだと考える。
  3. 想定される聴衆の違い。ラビ・ユダヤ教においては、成文・口伝律法の師から弟子への伝承というモデルがあるが、クムランにはそうしたものがない。
  4. 聖書に書かれた過去の時代に対する理解の違い。両者共に、聖書の過去を、現在と未来に結び付けようとする意識はあるが、ラビたちが現在と終末的な未来とをいったりきたりする手段としてミドラッシュ・アガダーを用いるのに対し、クムランの預言的解釈は現在を定義し、正当化することで、来るべき終末に備えるという性格を持っている。

2015年3月13日金曜日

ギリシア、エジプト、ローマの法律 Maehler, "Greek, Egyptian and Roman Law"

  • Herwig Maehler, "Greek, Egyptian and Roman Law," The Journal of Juristic Papyrology 35 (2005): 121-40.

現存するパピルスの豊富さゆえに、ギリシア・ローマ時代のエジプトは、日常生活の中でどのように法的理論が実践されていたのかを知ることができる貴重な場所である。これまでギリシア・ローマ時代のエジプトでは、ギリシアの法律とローマの法律とが相対していたと考えられてきた(Ludwig Mitteis)。しかし、著者はこの二項対立では当時の状況は説明できず、エジプト、ギリシア、そしてローマの三つ巴こそが実情だったと考える。そこで著者は、まずギリシア対エジプトの法律、それからギリシア・エジプト対ローマの法律というそれぞれの構図を説明している。

ギリシア対エジプトの法律については、五つのトピックに分けている。第一に、法律が適用される人、第二に、所有と所有権、第三に、義務、第四に、結婚、そして第五に、相続である。まず第一の観点について、プトレマイオス朝エジプトでは、大きく三つの人種、すなわちギリシア人(マケドニア人を含む)、非ギリシア人(エジプト人、シリア人、ユダヤ人、ヌビア人等々)、そして奴隷に分かれていた。奴隷は何の権利もなかったわけではなく、結婚、組合への加入、売買などの契約をすることができた。ギリシア人と非ギリシア人との違いは、ただ法的手続きのみであった。ギリシア人の法廷ディカステーリオンでは、ギリシア人、マケドニア人、その他外国人(ユダヤ人など)の裁判が行われたのに対し、エジプト人の裁判は地元の法廷ラオクリタイで行われた。ここでの違いは、人種に基づくものというより、言語に基づくものだったという。世代を経るに従い、エジプト人とギリシア人とを区別することは困難になっていった。

第二に、財産の所有と所有権について。たとえば土地は原則的には王のものだったが、実際は個人によるリースなどが行われていた。所有物の売買に関して、エジプトとギリシアの法律の違いは、売買の記録方法の違いだった。エジプトでは二つの受領証が必要だったのに対し、ギリシアでは売買が有効になるためには、アゴラノモスの前で登録(カタグラフェー)がなされる必要があった。こうした点について、エジプトの法律の方がギリシアの法律よりもフレキシブルだったという。

第三に、契約における義務の概念は、ギリシアとローマでは極めて重要なものとされており、高度に発展していたのに対し、エジプトではあまり発展しなかったとされる。ギリシアでもエジプトでも、ローンの追徴金はヘーミオリアと呼ばれたが、細かい点に関して異なっていた。

第四に、結婚について、エジプトの法律では結婚の同意書では結婚そのものではなく、妻の経済的な権利を守るための金銭的な同意について述べられている。これは夫から妻へと直接向けられたもので、夫が妻を経済的に支えることが明言される。結婚の持参金は、妻の財産として維持される。ただし、こうした同意書における妻の権利は、結婚に対するその貢献度によって異なるものだった。もしその貢献度が高ければ、妻の権利は十全に守られたが、もしその貢献度が低ければ(たとえば浮気をしたなど)、夫は自分の財産を妻に譲る必要はなくなる。とはいえ、概してエジプトの法律における妻の経済的な権利は、極めて有利なものだった。対して、ギリシアにおける結婚では、こうした同意書は夫と妻との間のものではなく、夫と、妻の父親との間のものだった。またエジプトの法律よりも妻の倫理的従順さを重視する傾向があった。しかし、後二世紀にもなると、ギリシアの法律もエジプト式に変わっていった。第一に、同意書は夫と妻のものとなり、第二に、共同で財産を所有することになり、第三に、その共同財産は持参金の担保として妻の経済生活を維持するものとなり、第四に、妻の不品行に対する取り決めはより明確になり、そして第五に、離婚する場合に妻は必ず持参金を返還されるようになった。つまり、基本的にはエジプト式に妻に有利なものとなったが、不品行時の妻への罰則は強まった。こうしたことから、ギリシア人男性とエジプト人女性とが結婚する場合、妻はエジプト人としてエジプトの法律のもとにある方が有利だったので、あえてエジプト人として結婚する女性が多かった。

第五に、遺書については、エジプトではそうした形式のものが存在しなかった。男性の遺書に当たるものは、結婚の同意書の中などに明示されていた。そこでエジプトの法律はギリシアにおける遺書の形式を取り込んで、死後に財産を分けるときの指示を残すようになった。

以上より、エジプトにおける法律は、エジプトの法律とギリシアの法律とが相互に影響しあうかたちで発展したといえる。しかし後二世紀になるとエジプトの法律(ノモイ・テース・コーラース)の方が優勢となった。

前30年になると、これにローマの法律が加わることになる。ローマの属州監督は、ローマ法に抵触しない限り、地元のやり方を尊重する方針を採った。いうなれば、大多数の法規に関してはエジプトの法律を、二次的な部分に関してはギリシアの法律を、そしてごくわずかな部分に関してのみローマの法律が適用されたということである。たとえば、ローマ法では父親が娘に対して強い監督権(patria potestas)を持っていたが、属州であるエジプトではエジプトの法律が反映され、娘自身が権利を持っていたことが知られている。ただし、次第にローマ市民権を持つ者が増えてくると、そうした者たちに対してはローマ法が課されるべきなので、ローマ法の比重が強まるようになった。いずれにせよ、ローマ法の適用は、エジプトのような属州では極めて表面的なものだったといえる。

2015年3月10日火曜日

『律法儀礼遵守論』研究のまとめ Hempel, "The Context of 4QMMT and Comfortable Theoris"

  • Charlotte Hempel, "The Context of 4QMMT and Comfortable Theories," in The Dead Sea Scrolls: Texts and Context, ed. Charlotte Hempel (Studies on the Texts of the Desert of Judah Vol. 90; Leiden: Brill, 2010), pp. 275-92.
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本論文は、『律法儀礼遵守論』(4QMMT、以下『律法』)研究における重要トピックをまとめたものである。三部に分けられる『律法』において、第一部には、もともと同書の一部だったか議論がある暦がある。第二部には、「私たち」グループが「あなたがた」グループに対して説明する律法のリストがあり、かつ「私たち」グループが看過できない「彼ら」グループの存在が示される。そして第三部は、政治的指導者である個人に宛てられており、また「私たち」グループが多数派から分離したことが言及されている。

著者は、これまでの研究史で『律法』がどのように読まれてきたかをまとめ、撤回されるべき通説であると著者が考える点を列挙している。第一に、『律法』は義の教師から悪の祭司に向けて書かれたという説。例えばJohn Kampenはこの説はまったくの憶測に過ぎないと述べている。第二に、『律法』のジャンルは手紙であるという説。手紙なのか論文なのかについての議論と、仮に手紙であった場合、外部に対するものなのか内部に対するものなのかという議論がある。第三に、『律法』において正典の三部構成が言及されているという説。これについてさまざまな異論が述べられている。以上のことを確認したあと、著者は『律法』をめぐる議論の中で最もよく参照される、エピローグにおける大多数からの分離に関する言及に話すを移す。

第三部のエピローグは4Q397(MMDd)と4Q398(MMTe)によい状態で残されている。著者はこれらの写本の置き所を問題としている。Hanne von Weissenbergによると、分離について言及されている一節を、従来のように第三部の冒頭ではなく、その内部に置かれるべきであるという。また場所を変えないまでも、同箇所が第三部の冒頭にあると考えるのか(Perez Fernandez)、むしろ第二部の終わりにあると考えるのか(Bernstein)でも解釈は異なってくる。

この分離についての箇所の内容についてもさまざまな議論がある。これを素直にクムラン共同体に関する言及だと取る者たちもいれば、むしろクムラン以前のグループあるいは初期クムラン共同体に関する言及だと考える者たちもいる。解釈をより広げて、Perez Fernandezは、実はこの箇所は祭司とイスラエル人との結婚に関する問題を取り上げていると考えた。Sharpは、イスラエル人と非ユダヤ人との結婚に関する問題であるとする。著者はこれらの諸説を紹介したあと、彼女自身の見解としては、『律法』のこの箇所にクムラン共同体の分裂とその成立のことが書いていると考えるのは、同書が義の教師から悪の祭司に宛てた手紙だと考える旧説の名残にすぎないと述べている。いうなれば、分裂からこの共同体が始まったという考え方自体に再考の余地があるということである。これについて、著者は4Q397 14-21 7を例に挙げている。

『律法』の「私たち」「あなたがた」「彼ら」の議論に関しては、著者は、同書の律法部分でもエピローグ部分でも、「彼ら」に当たる者たちは「私たち」によって肯定的に評価されていると指摘する。むしろ批判の対象は「あなたがた」で表される祭司たちである。そして「私たち」は「彼ら」を守ろうとしている節さえあるという。法的議論については、『律法』はミシュナー以前の証言を与えてくれるという点で貴重である。のちにハラハーの用語として発展していくような事柄は、すでにここに現れているといっても過言ではない。

最後に原文より重要な指摘を引用しておく。
MMT, perhaps more than any other text from Qumran, was read in light of a number of preconceptions with scholars not infrequently pouncing on a phrase and building a case on their reading of it. (p. 289)

2015年3月9日月曜日

『律法儀礼遵守論』と新約聖書の比較 Reinhartz, "We, You, They"

  • Adele Reinhartz, "We, You, They: Boundary Language in 4QMMT and the New Testament Epistles," in Text, Thought, and Practice in Qumran and Early Christianity, ed. Ruth A. Clements and Daniel R. Schwartz (Studies on the Texts of the Desert of Judah Vol. 84; Leiden: Brill, 2009), pp. 89-105.
本論文は、『律法儀礼遵守論』(以下『律法』)を新約聖書の書簡と比較することで、前者の特徴を明らかにしたものである。『律法』の第三部7行目には、以下のような文章がある。
あなたがたは知っていることだが、私たちは大多数の人々とその不浄から自分たちを引き離した。
ここから明らかなのは、著者が「私たち」で相手が「あなたがた」であること、そして「私たち」と「大多数の人々」との線引きがあることである。このとき、「私たち」と「あなたがた」は同じグループなのだろうか、それとも違うグループなのだろうか。前者の場合、ここには2つのグループがいることになり、後者の場合、3つのグループがいることになる。2グループ説を取った研究者には、John Kampen, George Brooke, Steven Fraadeがいる。彼らによると、「あなたがた」は「私たち」と同じ運動の中にいるが、地理的・神学的要因により距離がある者たちと考えられる。いうなれば、『律法』は外部に対する文書ではなく、共同体内のあるグループに対する文書であるということである。

一方で、大多数の研究者たちは3グループ説を取っている。Elisha Qimronは、「私たち」はクムラン・セクト(義の教師)、「あなたがた」は当時のハスモン家の指導者に共感する人々(悪の祭司)、そして「彼ら」はパリサイ派であると考えている。特に、「私たち」と「あなたがた」の間に敵意が感じられないので、義の教師と悪の祭司とはもともとサドカイ派的思想を共有していたということになる。そしてこの文書の目的は、ハスモン家の指導者をクムラン・グループがよしとする法的解釈に従うように説得するものだった。John Strugnell, Larry Schiffmanも同様の見解を述べる。Hana EshelやDaniel Schwartzは、これとは異なり、「私たち」はクムラン・セクトだが「あなたがた」はハスモン家の祭司ではなくパリサイ派であり、「彼ら」はハスモン家以前の神殿祭司でのちにサドカイ派となる者たちであるという。そしてこの文書の目的は、自分たちのグループが他の祭司グループと異なることを政治的指導者に説明するものだという。

これらの3グループ説の研究者たちは、『律法』の背景を、ハスモン家の君主制とパリサイ・サドカイ派グループとの関係の中で捉えており、同書とクムラン共同体の成立を前2世紀中盤と考える。そしてこのハスモン朝時代にパリサイ派とサドカイ派のハラハー的差異が形成されていったと考える。3つのグループ説の内的根拠は、二人称に単数形と複数形があることが挙げられ、そして外的根拠としては、第一に、他の死海文書との比較、第二に、ヨセフス著作との比較、そして第三に、ミシュナーなどラビ文学との比較が挙げられる。

さて、ここで著者は、ある文書の中で「私たち」「あなたがた」「彼ら」がどのような関係性の中で語られているかを確認するために新約聖書との比較を試みる。これは明らかにアナクロニズムではあるが、比較対象として考えられる他のもの(ヨセフス、ラビ文学)なども同様にアナクロニズムには変わりないので、あえて新約聖書と比較している。これまで、J. Kampen, R. Bauckham, G.J. Brookeらによって、福音書や使徒行伝との比較はなされてきたが、新約聖書の書簡との比較はなかった。そこで著者は、ガラテヤ書、第二ペトロ、第一ヨハネを例に挙げる。ガラテヤ書における「私」はパウロ、「あなたがた」はガラテヤの異邦人キリスト教徒、そして「彼ら」は福音に反するユダヤ主義者たちである。第二ペトロにおける「私」はペトロに帰される共同体の指導者、「あなたがた」はその共同体の成員、そして「彼ら」は「私」と「あなたがた」との間に亀裂をもたらそうとする者たちのことである。第一ヨハネにおける「私」はヨハネに帰される筆者、「あなたがた」は「私」の共同体の内部の人間たち、そして「彼ら」は「私」と「あなたがた」の両者から離れようとする分離主義者たちのことである。すなわち、どの文書においても、著者である「私」は、同じ集団の中にいる「あなたがた」が、「彼ら」のやり方に従ってしまい、「私たち」から離れていってしまうことを恐れている。それを防ぐために、「私たち」は「あなたがた」の信仰を強めることを目的として文書を書いているのである。

こうした新約聖書の例に照らして『律法』の構造を再考すると、3グループ説よりも2グループ説の方が少なくとも新約聖書では一般的だということが分かる。一箇所だけ「あなたとあなたのグループ」という記述があり(C 26-27)、あたかも3グループ説を支持するようだが、著者はさまざまな理由により、これは必ずしも3グループ説を支持する例ではないと断言する。フィロンやヨセフスのエッセネ派に関する証言も、2グループ説の方とより親和性が高い。

2015年3月8日日曜日

『律法儀礼遵守論』における神殿の重要性 Von Weissenberg, "The Centrality of the Temple in 4QMMT"

  • Hanne von Weissenberg, "The Centrality of the Temple in 4QMMT," in The Dead Sea Scrolls: Texts and Context, ed. Charlotte Hempel (Studies on the Texts of the Desert of Judah Vol. 90; Leiden: Brill, 2010), pp. 293-305.
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本論文は、『律法儀礼遵守論』(4QMMT、以下『律法』)において、いかに神殿が中心的な役割を果たしているかを検証したものである。『律法』の背景には、クムラン共同体とエルサレム神殿の祭司たちとの議論がある。多くの初期の研究者たちの解釈では、この書物はクムラン共同体が自らのセクト的な離反を正当化するためのものであり、そこにはいかなる和解の努力もなかったということになっている。Eyal Regevは同書の成立をクムラン共同体成立後のごく初期に設定し、彼らはエルサレムの神殿祭儀から自らを引き離したと考えた。Stephan Hultgrenは、同書の成立をクムラン共同体以前に設定し、最初から同書はエルサレムの神殿祭儀をボイコットしたと主張した。いずれにせよ、初期の学説では、クムラン共同体はエルサレム神殿を完全に拒絶し、その代わりに新たな礼拝の形式を作り上げようとしたということになっている。

しかしながら、1990年以降になると、クムラン共同体のエルサレム神殿に対する態度には多様性があることが分かってきた。Geroge Brookeは、クムラン共同体は神殿に対し、少なくとも10通りの顔を持っていると考えている。そしてそれは究極的には3通りになるという:第一に、地上の神殿、第二に、神殿としての天上の礼拝、そして第三に、未来の終末的な神殿に代わる一時的な共同体である。特に、『律法』においては神殿の完全な拒絶という説明は見られない。Steven FraadeとMaxine Grossmanは初期の通説に反して新しい『律法』の解釈を提供したが、クムラン共同体が神殿祭儀の純粋性に関して強い関心を示していることについては見落としている。そこで著者は、『律法』において、エルサレム神殿がいかに重要な意味を持っているか、そしてそこでの祭儀の純粋性にいかに関心を持っているかに注目した。

『律法』における法的部分(第二部)では、祭儀の清浄さや神殿に関わる議論がなされているが、それだけでなく、申命記12章に基づく、祭儀の中央集権化についても二箇所において語られている(B 27-33, B 58-62)。申命記の発明のひとつは、動物犠牲をエルサレムだけに制限したことである。またレビ記17:3-7では、犠牲は神殿で集中的になされるものとされている。そこで、B 27-33では、レビ記17章と申命記12章をもとにして、エルサレム神殿における祭儀の中央集権化が語られている。その際には、レビ17:3の「キャンプ」を申命記12章の「神が選んだ場所」と同一視し、しかもそれらは共にエルサレムを指すと解釈している。B 58-62では、神殿の犠牲を横取りするかもしれない犬をエルサレムに入れないようにすることで、エルサレム神殿における祭儀の清浄さを保つべきとされている。すなわち、神殿と聖なる町の清浄さ、祭儀の中央集権化、エルサレムを神が選んだ土地として見なすことなどから、『律法』は明らかにエルサレムとその神殿の聖性と重要性を認識しているといえる。

『律法』の説教的結論部分(第三部)では、神殿とその祭儀に関する契約への忠実さへの関心が伺われる。著者によると、『律法』は、ヘブライ語聖書や古代近東の法的テクストから知られる契約パターンに合わせるような構成になっているという。第三部は、第一に、歴史に基づいた奨励(祝福や呪いにも言及)、第二に、祭儀の清浄さを維持するための訓戒(分離を前提とする)、第三に、改悛と回帰への奨励(祝福と呪いにも言及)、そして第四に、ハラハー的解釈に関する結論である。この中で、歴史への言及は申命記的な改悛(3:1-2; 31:29; 4:29-30)と結びつき、契約への回帰へとたどりつく。『律法』の著者が申命記的な言葉遣いをしているのは、そうすることで聴衆が、清浄さを回復するために、エルサレム神殿の改革と、神との契約を守ることとが必要であることを認識できるようにするためである。『律法』は、申命記と自らの時代の問題とを結び付けているのである。

以上より、『律法』は神殿、祭儀、清浄などについて強い関心を持っていることが分かる。そしてその解釈は、神殿の祭司たちとは異なっており、自分たちをエルサレム神殿から離していることは確かである。しかし、それは完全な分離ではなく、『律法』もまた、現状に問題はあれどエルサレム神殿こそが本来の正当な聖地であると認めている。彼らにとっても依然として、正しい祭儀はエルサレムに中央集権化されなければならないのである。

2015年3月7日土曜日

『律法儀礼遵守論』の立ち位置 Schiffman, "The Place of 4QMMT in the Corpus of Qumran Manuscripts"

  • Lawrence H. Schiffman, "The Place of 4QMMT in the Corpus of Qumran Manuscripts," in Reading 4QMMT: New Perspectives on Qumran Law and History, ed. John Kampen and Moshe J. Bernstein (SBL Symposium Series, No.2; Atlanta, GA: Scholars Press, 1996), pp. 81-98.
本論文は、『律法儀礼遵守論』(以下、『律法』)の三部構成に従って、それぞれが他の死海文書と比べてどのような特徴があるかを比較したものである。同書は、第一部が暦、第二部が律法リスト、そして第三部が説教的結論から構成されている。

第一部の中では、一年を364日とする暦法が用いられている。これは死海文書の中では、ミシュマロットと呼ばれる一群、『神殿巻物』、『ヨベル書』、そして『エノク書』などにも見られるものである。第二部と第三部が似たような言い回しで始まっていることから、一つのユニットと見なされているのに対し、この第一部はあとから写字生が写してきたセクト主義的暦を冒頭に付加したものと考えられる。それは、第二部と第三部において第一部の内容がまったく言及されていないことからも分かる。特に『神殿巻物』との共通性が高く、両者はユダヤ法におけるサドカイ派の特徴を備えている。

第二部に関しては、『律法』と、『神殿巻物』、『ダマスコ文書』、そして『詞華集(Florilegium)』(4Q174)とを比較つつ、共通点を挙げている。まず『律法』と『神殿巻物』とは、犠牲の捧げ方や食べ方、また捧げるときに体が浄化されていなければならないこと、神殿の外で殺した動物を聖域に持って入ることの禁止、そして妊娠した動物を殺すことの禁止などに関して明らかにアイデアを共有している。しかもそれは、後代のラビ文学におけるサドカイ派の見解であり、明確に反パリサイ派的あるいは反ラビ的である。ただし、『神殿巻物』が神殿の中庭を聖性に従って三分類したときに「庭」という語を使うのに対し、『律法』とタナイーム資料は「野営地」という言葉を用いている。すなわち、『律法』は『神殿巻物』と相当の共通点として反パリサイ派的な特徴を持っているが、ときに両者は異なった観点も持っているということである。

『律法』と『ダマスコ文書』ともかなり似ている。女性の月経でない血を浄化すること、植栽の方法、目が見えない人や耳が聞こえない人を共同体に入れないこと、法的に禁じられた違法な結婚の規定、非ユダヤ人からの犠牲の拒否や非ユダヤ人が偶像に用いていた金属の再利用の拒否、神殿へ入れてはいけない不浄物の規定、犠牲は神殿自体ではなく祭司に属すること、そして妊娠した動物を殺すことの禁止などについて、両者は似た見解を持っている。これは翻ると、パリサイ派的・ラビ的アプローチの反対であり、サドカイ派的といえる。

『律法』と『詞華集』とは、異邦人や改宗者が終末のときに神殿に入ることを禁じている。ただしこれは神殿に入ることと同時に結婚のことも意味しているとも考えられる。これについて、『詞華集』と『神殿巻物』とは神殿へ入ることを禁じており、パリサイ派的・ラビ的伝統は結婚を禁じている。そして『律法』は両方の意味で取っている。共通のハラハー的問題を扱っているのは明らかだが、それぞれの文書が直接の影響関係を持っているわけではなさそうである。

第三部に関して。第二部では語りかける対象が複数形だったのに対し、第三部では単数形になっている。ここから論文著者は、複数形の呼びかけのときは、この文書の著者のかつてのサドカイ派の同僚で神殿に残った者たちを指しており、単数形の呼びかけのときは、第一神殿時代のイスラエルの王たちと比べられる当時の特定の支配者を指していると考えた。第三部は、主として申命記を下敷きにして、イスラエルによる神の裏切りや、その改悛による神からの救いなどについて説明されている。ここからは明らかに『神殿巻物』との類似性が指摘される。両者は共通のサドカイ派の法的・神学的伝統を受け継いでいる。ただし、直接の影響関係があるかどうかは分からない。

こうしたことから、『律法』は明らかに『神殿巻物』、『ダマスコ文書』、そして『詞華集』などとの共通点を持っており、それらは明らかにサドカイ派的伝統に立脚しているといえる。ただし、『律法』と『神殿巻物』にセクト的敵対心が希薄なのに対し、エルサレムからの分離のあとの文書である『ダマスコ文書』には濃厚である。つまり、『律法』は比較的初期のセクト的律法であるといえる。

2015年3月4日水曜日

『律法儀礼遵守論』(4QMMT)の概論 Kampen and Bernstein, "Introduction"

  • John Kampen and Moshe J. Bernstein, "Introduction," in Reading 4QMMT: New Perspectives on Qumran Law and History, ed. John Kampen and Moshe J. Bernstein (SBL Symposium Series, No.2; Atlanta, GA: Scholars Press, 1996), pp. 1-7.
本論文は、『律法儀礼遵守論(ミクツァット・マアセー・ハトーラー)』(4QMMT)研究の概論を示したものである。同書は、4Q394-399の六つの写本から構成されており、John StrugnellとElisha Qimronによって校訂され、DJDの第10巻として出版された。古文書学の分析によって、前75-後50年までに作成されたと考えられる。同書は三つの部分から成り立っており、第一に、冒頭の暦、第二に、律法のリスト、第三に、説教的結論である。

冒頭の暦部分に関しては、残りの部分との関係性が議論されている。この暦は、写本上ではA写本、すなわち4Q394にのみ見出される。Lawrence Schiffmanはこの暦は写字生によって写本作成の途中で挿入されたものだと考えている。

中盤の律法リストに関しては、ハラハー的観点からの議論がなされている。この箇所において特に興味深いのは、律法遵守の原則と共に、著者の敵対者の見解が想定されていることである。文書の著者自身は、Lawrence Schiffmanによって、ラビ伝承に現れるサドカイ派と似た傾向があると指摘されている。またこの部分から、『律法儀礼遵守論』の全体のジャンルを「ハラハー的な手紙」とする説があるが、手紙らしい挨拶などが欠けている。また結論部分の激励も事態を複雑にしている。Strugnellは、それゆえに、この部分は手紙や論文というより、申命記をモデルとした律法のコレクションとみなすべきと主張する。

最後の説教的な結論部分は、奨励的なエピローグ(hortatory epilogue)と考えられている。この箇所に関する研究が最も薄く、さらなる研究が待たれている。Hana Eshelなどは、この箇所をもとにハスモン朝時代の歴史の再構成を試みた。

こうしたテクストの部分に関する研究のほかに、『律法儀礼遵守論』全体の議論をもとに、新約聖書との関係を研究する向きもある。

以上のように、『律法儀礼遵守論』をめぐって、第二神殿時代およびラビ時代に対する同書の律法理解について、同書の聖書利用について、聖書の律法と同書のハラハーについて、そのタイトルやジャンルについて、といったさまざまな研究トピックが考えられる。

2015年3月3日火曜日

クムラン考古学について Magness, "Methods and Theories in the Archaeology of Qumran"

  • Jodi Magness, "Methods and Theories in the Archaeology of Qumran," in Rediscovering the Dead Sea Scrolls: An Assessment of Old and New Approaches and Methods, ed. Mexine L. Grossman (Grand Rapids, MI: Eerdmans, 2010), pp. 89-107.
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本論文は、クムラン遺跡の考古学について基礎的な知識を提供するものである。死海文書を理解するために、考古学がどのような貢献を果たすのかを教えてくれる。Roland de Vauxが最初にクムラン遺跡を発掘して出した結論は、現在でも広く受け入れられている。すなわち、クムラン遺跡は死海文書を所有していた共同体のものであり、エッセネ派である可能性が高い、というものである。しかしながら、Robert DonceelとPauline Donceel-Vouteらは、クムラン遺跡をエルサレムの富裕層の別荘とした。他にも、砦、荘園、壺焼き場、商品貯蔵庫などといった諸説がある。こうした諸説が乱立する理由は、De Vauxがきちんとした分析結果を書面にして残す前に亡くなってしまったからである。

著者は、考古学が遺跡に残されたマテリアルを扱うものであるのに対し、歴史学は文書を扱うものであるとする。両者は相互に補い合う必要があり、なんとなれば、文書からは文書を書けるほどのハイクラスの人間のことしか分からないのに対し、考古学的証拠からは当時の社会のさまざまな階層の人々の生活が分かるからである。パレスチナ地域には、テルと呼ばれる人工の丘があり、そこには何層もの遺跡が含まれているが、その解明は複雑である。というのも、あとの時代の人間が新しい町を作るときに、前の時代の遺跡を掘り起こしてしまうことがあるので、ある時代に見つかったものが必ずしもその時代のものであるかは分からないのである。そうしたことに注意しながら、考古学者は遺跡をロクスと呼ばれる四角い区画に分けて少しずつ掘っていく。一度掘ってしまうと遺跡は必ず破壊されてしまうので、日記や記録を入念につける。

実際の時代の判定には、五種類の方法がある。第一に、カーボン14による判定。これは自然科学的な方法だが、かなりの誤差があるので、他の方法と補完し合うように用いられるのが望ましい。なおかつ炭素を含むものにしか使えない。第二に、コインによる判定。第三に、碑文による判定。第四に、歴史的文書による判定。第五に、壺のタイプによる測定。壺自体からは年代が分からないので、壺単独ではなく、同じ遺跡から発掘された、時代が特定されたものとの比較によって、年代が判定されていく。壺は土地によって、同じ時代でもタイプが異なることがあるので注意が必要である。しかし、壺はどんな遺跡からでも大量に発掘されるので、これを活用できるに越したことはない。

以上の方法に対し、人間や動物の骨や金属は年代の特定には不向きである。というのも、人間の骨の場合、ある程度のコラーゲンが残っていないと測定できないからであり、金属の場合、金属は貴重だったために何度も溶かされて再利用されている可能性があるため年代を特定できないからである。考古学は完全な科学ではなく、必ず人間の解釈を必要としている。この不完全性は、同じ証拠をもとにまったく別の解釈を引き出してしまうこともある。基本的には、最も多くの問題を解決し、最も多くの証拠を説明できる解釈が正しい解釈であるといえる。

死海文書に関しては、考古学と文書とを切り離す必要はなく、文書を含むすべての証拠をもとに解釈するべきと著者は述べる。現在のところ、クムラン遺跡は文書を所有する共同体の住居であり、エッセネ派かどうかはともかく何らかのセクト主義者たちであったというのがコンセンサスであり、一方で、クムラン共同体はセクトではなく、文書も彼らのものではないというのがノン・コンセンサスである。後者のようなポスト・モダニズム的な解釈は、三つの問題をもたらす。第一に、文書なしでの解釈はあまりにも漠然としてしまうこと。第二に、すべての解釈が同等になってしまうこと。第三に、聖書考古学のミニマリスト・マキシマリスト論争のような様相を呈してしまうこと、である。著者は、学術的な探求においては、綿密な研究を通して、相対的な価値から何かを選び取り、説の妥当性を吟味するべきだと述べる。

クムランの特徴的な点としては、多くのミクヴェがあること、動物の骨が多く見つかること、大きな墓地があること、共同の食堂があること、多くの職人がいたこと、特殊な金属製品があることなどが挙げられる。こうした特徴から、クムラン共同体が特別なハラハーに則った祭司的な生活をしており、極めて浄不浄の概念に敏感だったことが分かる。これらは他の場所で見つかった遺跡とは一線を画すものである。

2015年3月2日月曜日

クムラン墓地について Hachlili, The Qumran Cemetery Reassessed"

  • Rachel Hachlili, "The Qumran Cemetery Reassessed," in The Oxford Handbook of the Dead Sea Scrolls, ed. Timothy H. Lim and John J. Collins (Oxford: Oxford University Press, 2012), pp. 46-78.
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本論文は、クムラン墓地について考古学的知見から解説したものである。多くの研究者は墓地のあるクムラン遺跡を、前2世紀に作られ、後68年にローマに滅ぼされたエッセネ派の居住跡であると考えており、また洞窟で見つかった死海文書はこのクムランに住んでいたエッセネ派に属するものであると考えている。しかし、他の研究者たちは、クムラン遺跡は富裕なエルサレム居住者の別荘であるとか、砦であるとか、壺焼き場であると考えてもいる。

居住区の東側にある墓地は、四つの部分に分かれている。これらから、現在までに56基が発掘された。こうしたクムランの典型的な墓は、以下のようにまとめられる。第一に、墓を南北に伸びるかたちで置くこと。第二に、墓石には楕円形の自然石が用いられること。第三に、内部は竪穴式で、底部に小房が付されていること。第四に、しばしば焼かれていないレンガの蓋がついていること。第五に、遺体をひとりひとり個別に仰向けに横たえ、頭を南向きにすること。第六に、壺を墓の内部に置く場合があること。第七に、木製の棺の中に入れる場合があること(この埋葬法はエリコやエン・ゲディでも見られる)、である。ベドウィンやムスリムの墓がこうした古代の墓の中に混ざっている場合があるが、これらの特徴とは異なった埋葬を施されている(墓が東西に伸びるかたちで置かれていること、小房がないこと、遺体を体の横部分を下にして置くこと、など)。死海文書の中で、埋葬法に言及したものとしては、『神殿巻物』がある。

発掘がすすんでいないので、すべての墓が調べられたわけではないが、現在のところ男性34人、女性16人、子供6人、不明6人が見つかっている。女性や子供はメインの墓地ではなく、二次的な墓地の中から見つかっている。女性が見つかっていることから、クムラン共同体が独身主義であったとは考えにくい。ただし、男性の比率が高いことは確かである。また子供の比率が著しく低いことも特徴的である。

エルサレムやエリコの墓地では小房型の墓がほとんどであるのに対し、クムラン墓地は竪穴式墳墓になっている。著者は、エルサレムのベート・ザファファ、エリコ、エン・エル・グーウェイル、ヒアム・エルサーガ、キルベット・カゾーネなどの遺跡と比較している。キルベット・カゾーネはナバテア人の遺跡と考えられているが、著者によれば、この遺跡はクムラン遺跡と多くの共通点を持っている。クムラン遺跡は、場所としてはエルサレムやエリコにより近いにもかかわらず、死海の南東部の遺跡との共通点を持っているのである。

こうしたことから、クムラン共同体の律法や宗教的規則は、当時の一般的なユダヤ教のそれとは異なっていたといえる。エルサレムやエリコの埋葬法は、個別の埋葬をする場合は木製の棺に入れ、何人かを共同で埋葬する場合は大理石でできた共同の棺に入れたり、小房の中に積み上げたりした。このことから、クムラン遺跡がエルサレム在住者の別荘、砦、壺焼き場である可能性は低いといえる。なぜならば、もしそうであったら、クムラン墓地はエルサレム・エリコ型の埋葬法を取られていたはずだからである。クムラン共同体は通常のユダヤ的習慣とは別の方法を取っており、典型的なユダヤ的共同体からは孤立していたのである。また墓を南北に向けて置くのは、『エノク書』に代表される天的なエルサレムを目指したものであり、エッセネ派の特徴ともいえる。個人的な埋葬法から、彼らにとって家族よりも個人の方が重要だったことも分かる。