- William Horbury, "Old Testament Interpretation in the Writing of the Church Fathers," in Mikra: Texts, Translation, Reading and Interpretation of the Hebrew Bible in Ancient Judaism and Early Christianity, ed. Martin Jan Mulder and Harry Sysling (Compendia Rerum Iudaicarum ad Novum Testamentum; Philadelphia: Fortress, 1988), pp. 727-87.
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教父の時代の通して、ユダヤ人から受け継いだ聖書は、キリスト者にとっての主要文書であり続けた。霊と物質との強いコントラストを強調する同時代の哲学は、物質的な響きをする旧約聖書は批判の的になっていた。そうした観点から、グノーシス主義者や特にマルキオンは旧約聖書を否定し、その影響はマニ教にも及んだ。一方で、旧約聖書は異教徒をシナゴーグに引き寄せるほどに魅力的なものとしても捉えられていた。論文著者は、教父が旧約聖書を解釈した舞台として、説教、注解、要理教育、護教論、教会法、典礼、詩歌、美術を挙げている。
説教はもともとシナゴーグにおける文化だったが、教会もそれを採用した。説教には、内部向けも外部向けもあった。初期の説教はあまり新約を扱わず、むしろ旧約を扱った。説教の主題は、論争的、教義的、祈り的、倫理的、そして霊的なものだった。説教の名手としては、オリゲネス、アウグスティヌス、クリュソストモス、バシレイオス、ニュッサのグレゴリオス、グレゴリウス1世、アンブロシウスなどがいる。
注解において、ギリシア語で旧約聖書を扱ったものは、フィロンなど少数を除いて、皆キリスト者によるものであった。アレクサンドリア学派とアンティオキア学派とは、単純に言えば、それぞれ寓意的解釈の擁護者と批判者と言うことができる。シリア教父は、広義のアンティオキア学派に属する。個人の注解は4世紀に興隆したが、5世紀になると、さまざまな著者の抜粋を集めたカテーナが作られた。レンマを引用するなど注解に特徴的な点もあるが、説教と区別しすぎるべきではない。
要理教育(カテキズム)とは、信仰と倫理に関する教育のことである。これは、通常の説教において、またキリスト教教育の場において、特に洗礼前の候補者に対して行なわれた。第一に、創造神話から聖書が語りなおされ、第二に、聖書の証言の解説がなされる。
護教論において、キリスト者は最初フィロンの『ヒュポテティカ』やヨセフス『アピオーンへの反論』をモデルにしたが、その相手はユダヤ人であった。ユダヤ人に対しては、イエスがメシアであること、儀式的な律法は廃されたこと、異邦人の教会がイスラエルに取って代わったことを証明しようとした。異教徒に対しては、第一に、ヨセフスがしたように聖書の古代性を強調し、第二に、預言の正しさを主張し、そして第三に、モーセを哲学者たちに匹敵する者として描いた。
教会法においては、レビ記における祭司の決まりを取り入れたテルトゥリアヌスやアンモニオスのようなケースの他にも、再婚、祭司と信徒との結婚、信徒の維持、高利貸し、そして占いなど、旧約聖書に実際に書かれていないこともまた法規として取り入れられた。
典礼においては、3つないし2つのレッスンが語られるようになったが、前者の場合2つが旧約に関するものであり、後者の場合1つがそうであった。ただし、こうしたレッスンは聴衆が親しんでいる旧約物語に関するものであることが前提条件だったので、西方教会においてヒエロニュムスがヨナ書中の植物をヒョウタンからツタに変えるようなことは、聴衆には受け入れられなかった。
詩歌は、キリスト教においては、ヘブライ詩とギリシア詩の伝統の中で発展した。2世紀の『シビュラの託宣』のように六脚韻で書かれたものもある。内容的には、ヘブライ詩同様に教訓的なものが多かった。代表的な詩人としては、ギリシア世界ではメトディオス、ナジアンゾスのグレゴリオス、シュネシオス、シリア世界ではエフレム(同時代のピユートとの関係にも注目される)、ラテン世界ではアンブロシウス、プルデンティウス、ノラのパウリヌスがいる。
芸術としては、カタコンベ、壁画、写本などがある。それらは、一つの描写が旧新約における複数の場面を表わしたり、旧約の場面が新約の場面と共に表現されたり、また旧新約の場面が予型として表現されたりする。
旧約聖書と新約聖書との関係においては、旧約の否定や、旧新約との調和など、さまざまな折衷案が試された。旧約を否定したのはマルキオンである。彼は、旧約聖書の非一貫性に基づき、キリスト者をユダヤ人の上に置いたのだった。ただし、それでもユダヤ人は異教徒よりは上に置いた。同様に、プトレマイオスや偽クレメンスは律法には誤りが含まれていると主張した。
エイレナイオスは、キリスト教の法に繋がる十戒と、モーセの律法とを区別することで、旧新約との調和をも目指した。テルトゥリアヌスもまた、十戒における倫理的な法と、モーセによる一時的な儀式的な法とを区別した。オリゲネス、アンブロシウス、アレクサンドリアのキュリロスなど、多くの教父たちも、旧新約の調和を目指した。
教父たちの聖書解釈の背景は三つあり、第一に、聖書テクストの独特の特徴、第二に、アリストテレス論理学、そして第三に、キリスト教以前の予型論と寓意的解釈である。アレクサンドリアのクレメンスは、「モーセの哲学」を、倫理学、自然学、形而上学の三分野に分けた。オリゲネスは、聖書には肉体(歴史)、魂(倫理)、そして霊(神秘)の三重の意味があると主張した。その後、聖書解釈はさまざまに変遷を遂げたが、クレメンスとオリゲネスによる字義的意味と霊的意味との二分法こそが最も大きな影響を与えた。
予型論と寓意的解釈との違いは、前者が旧約の歴史的な舞台を深刻に捉えるのに対し、後者が聖書における無時間的な真理を引き出すことである。とはいえ、教父たちは両者を繰り返し混同してはいる。予型論とは、原型の意味における「予型」に由来しており、預言とその成就と近しい関係にある。教父たちの予型論は、要理教育、護教論、礼拝、そして芸術にも見られる。
寓意は、旧約聖書と古典文学に根差している。特にストア派によるホメロスの哲学的解釈からは強い影響を受けている。フィロンとヨセフスを通して受け継いだ寓意的解釈という方法を、教父たちは自身の関心に従って、聖書的律法や物語に当てはめた。ただし、それぞれが自身の関心に従うために、同じ箇所に基づいてまるで真逆のことを示すこともある。またこうした寓意の説教的かつ倫理的な用い方は、フィロンのようなアレクサンドリアの伝統のみならず、ラビ・ユダヤ教のミドラッシュとも近しいものである。
字義的解釈は、予型論や寓意的解釈が猛威を振るう中でも、常に重要なものとしてあった。千年王国説を主張するネポスや、歴史性を問題にするアフリカノスや、寓意的解釈に批判的なポルフュリオスは、字義的解釈を重視した。寓意的解釈の代表者であるオリゲネスは、霊的解釈であるテオーリアを奉じるアンティオキア学派――エメサのエウセビオス、ラオディキアのアポリナリオス、ヨアンネス・クリュソストモス、モプスエスティアのテオドロス、テオドレトスら――によって批判された。また字義的解釈は、とりもなおさずユダヤ的解釈のことと見なされた。
ヘブライ語テクストとユダヤの聖書解釈。ヒエロニュムス、オリゲネス、アレクサンドリアのクレメンス、エウセビオスなどは、しばしば「ヘブライ人が次のように言った」という決まり文句で、ユダヤの聖書解釈を紹介している。ヒエロニュムス以外は、必ずしもヘブライ語を知らなかったが、ユダヤ人教師とはギリシア語で会話したものと思われる。ただし、教父たちがユダヤの聖書解釈を引用するのは、必ずしも肯定的な意図ではなく、否定するためにすることもあった。教父たちは、シナゴーグにおいてや家庭教師としてのラビから直接聞いたのかもしれないし、フィロンやヨセフスのような前段階の伝承を知っていたのかもしれない。ユダヤ・キリスト者の同胞から聞いたとも考えられる。
代表的な教父の歴史は、以下のように分類される。
ニカイア公会議(325年)以前の教父:『クレメンスの第一の手紙』、ローマのクレメンス、『バルナバの手紙』、ユスティノス、サルディスのメリトー、エイレナイオス、テルトゥリアヌス、マルキオン、キュプリアヌス、ヒッポリュトス、アレクサンドリアのクレメンス、オリゲネス、カイサリアのエウセビオス
アレクサンドリア学派:アタナシオス、盲目のディデュモス、アレクサンドリアのキュリロス
アンティオキア学派:エメサのエウセビオス、ラオディキアのアポリナリオス、タルソスのディオドロス、モプスエスティアのテオドロス、キュロスのテオドレトス
シリア教父:アフラハト、エフレム
カッパドキア教父:カイサリアのバシレイオス、ナジアンゾスのグレゴリオス、ニュッサのグレゴリオス
ラテン教父:ポワティエのヒラリウス、アンブロシアステル、ヒエロニュムス、アンブロシウス、アウグスティヌス
5-6世紀の教父:エルサレムのヘシュキオス、ガザのプロコピオス、カッシオドルス、グレゴリオス一世
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