- Shaye J.D. Cohen, "Canonization and Its Implications," in id., From the Maccabees to the Mishnah (Louisville: Westminster John Knox Press, 1987), pp. 174-95.
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本論文には、第二神殿時代にどのように聖書の正典化が起きたかについて書かれている。過去の書物の選別や崇拝はcanonizationと呼ばれる。もともとカノンとは「棒」や「杖」といった意味だったが、それが「規範」や「基準」といった意味になり、さらに4世紀になると権威ある書物の確定されたセレクションという現在の意味に転じた。しかしこのカノンという言葉を古代のユダヤ人は聖書に用いなかった。彼らはただ聖書のことを「Scripture」と呼んだのである。とはいえ、それはそうした言葉を用いなかっただけであって、コンセプト自体を知らなかったわけではない。
ある文書が正典になる基準として、著者は3つの特徴を指摘する:第一に、その文書は古い世代によって作成されたものである。第二に、そのテクストは確定されていて、変化を許さない。そして第三に、それは共同体によって「権威ある」ものと見なされている。これは何もユダヤ教やキリスト教の正典だけの特徴ではなく、さまざまな文化で生み出されてきた正典的な文書にもあてはまる特徴である。
第一の点に関してさらに言うと、こうした権威ある書物は、のちの世代によって学ばれ、模倣され、保存される。ヘレニズム期の特徴としては、ユダヤ人もギリシア人も、自分たちが古典期のあとに生きていて、文学の最盛期はすでに過ぎてしまっているという意識を持っていたことが挙げられる。いうなればこれは時代の特徴であり、聖書のみを規定するそれではない。
第二の点についてさらに言うと、古代のユダヤ人やキリスト教徒たちは、聖書が権威ある書物なのは、それが神によって啓示され、また霊感を受けているテクストだと考えていたからである。しかしながら、このことは聖書の正典化のみに見られる特徴ではない。ギリシアの詩人たちは、自身の作品がアポロンやムーサによって霊感を得て書かれたものだとよく述べているからである。
ヘブライ語聖書や新約聖書が特別なのは、第三の点、すなわち、信仰の共同体の中で特別な地位を享受していたことがその理由である。いうなれば、聖書は永久に有効で(eternally valid)、実存的な意味を持っている(existentially meaningful)と考えられていたがゆえに、他の正典的な文書とは一味違ったものになっているのである。著者は聖書とその他の正典的な文書とを区別して、biblicalという言葉を用いている。すなわち、ギリシア文学やミシュナーはcanonical/classicalだが、永久に有効なものではないので、権威は持っていてもbiblicalな書物ではないのである。
さて、聖書は五書、預言書、諸書に分かれているわけだが、著者はそれぞれの成立を説明している。五書を意味するトーラーという言葉は、元々は「教え」ほどの意味だったが、ペルシア時代になると、学ぶべきモーセのトーラーという意味になっていく。正典化のはじまりである。ただし、サマリア五書など別の版も存在したので、前2世紀まではトーラー・テクストはまだ確定していなかったと考えられる。まだトーラーの権威も確定していなかったので、『神殿巻物』や『ヨベル書』といった、トーラーに取って代わろうとするような書物も作成されたほどであった。
預言書に関しては、前200年頃のベン・シラが、律法学者は知恵と預言を知らなければならないと書いていることが知られる。しかしこれではまだ預言書の権威が確定していたとはいえない。預言書が正典的と見なされるのは、前2世紀のダニエル書の中で、エレミヤの権威を認める記述まで待たなければならない。同様の読み方は、クムランのペシャリームや新約聖書やラビ文学に引き継がれていく。
こうして預言書も締め切られたときに書かれたダニエル書は、預言書ではなくて諸書に入れられている。諸書まで含めた正典化は、これまでラビたちによるヤブネの「公会議」で決定されたという説明をされてきたが、これは証拠がないので現在は信じられていない。しかしながら、後1世紀以降、新たな文書が聖書に付け加えられることはなかった。
この五書、預言書、諸書の三部構成は、ベン・シラの孫による序文で初めて明示されている。しかしこの三部構成はゆるやかなもので、上でみたように特に諸書はまだ確定されていなかった。三部構成すべてが正典と見なされたのは、後1世紀になってからであり、そのことを示す証言は3つある。第一にフィロン『観想的生活』3.25、第二にルカ24:44、そして第三にヨセフス『アピオーンへの反論』1.8.38-41である。この中で特に重要なのはヨセフスであり、彼によれば、聖書は22書あり、すべて神の霊感を受けたものであり、預言者によって書かれ、祭司によって正確に伝えられてきたという。バビロニア・タルムードや第四エズラ記などは、22書ではなく24書という数え方をしている。三部構成に関する上の三つの証言の他には、七十人訳聖書の写本そのものが三部構成の最大の証拠となっている。
どの文書が正典に入り、どの文書が入らないかについては、分かりやすい決まった基準があったわけではない。同時期に書かれたダニエル書と『ヨベル書』は、前者は正典に入ったが後者はそうではなかった。言えることとしては、セクトやほかのグループの中で所有されていたような謎めいた書物は正典化されることはなかったということである。ユダヤ教においては、共同体全体で所有されていたような「聖なる書物」が正典となっていったのである。
逆説的なようだが、正典が確定し、新しい正典が生まれなくなったあとにこそ、ユダヤ文学は大きな自由を獲得することになった。正典が確定する前には、テクストと解釈との区別もまた不明瞭だったが、依拠するべきテクストが確定したあとには、自由な想像力を広げてそれを解釈していくことができるようになったのである。つまり、第二神殿時代の後半の文学の特徴としては、次の2つの一見矛盾したポイントを挙げることができる。第一に、過去に対する現在の劣等感と従属の感覚。そして第二に、その劣等感がもたらした創造の自由である。
ある文書が正典になる基準として、著者は3つの特徴を指摘する:第一に、その文書は古い世代によって作成されたものである。第二に、そのテクストは確定されていて、変化を許さない。そして第三に、それは共同体によって「権威ある」ものと見なされている。これは何もユダヤ教やキリスト教の正典だけの特徴ではなく、さまざまな文化で生み出されてきた正典的な文書にもあてはまる特徴である。
第一の点に関してさらに言うと、こうした権威ある書物は、のちの世代によって学ばれ、模倣され、保存される。ヘレニズム期の特徴としては、ユダヤ人もギリシア人も、自分たちが古典期のあとに生きていて、文学の最盛期はすでに過ぎてしまっているという意識を持っていたことが挙げられる。いうなればこれは時代の特徴であり、聖書のみを規定するそれではない。
第二の点についてさらに言うと、古代のユダヤ人やキリスト教徒たちは、聖書が権威ある書物なのは、それが神によって啓示され、また霊感を受けているテクストだと考えていたからである。しかしながら、このことは聖書の正典化のみに見られる特徴ではない。ギリシアの詩人たちは、自身の作品がアポロンやムーサによって霊感を得て書かれたものだとよく述べているからである。
ヘブライ語聖書や新約聖書が特別なのは、第三の点、すなわち、信仰の共同体の中で特別な地位を享受していたことがその理由である。いうなれば、聖書は永久に有効で(eternally valid)、実存的な意味を持っている(existentially meaningful)と考えられていたがゆえに、他の正典的な文書とは一味違ったものになっているのである。著者は聖書とその他の正典的な文書とを区別して、biblicalという言葉を用いている。すなわち、ギリシア文学やミシュナーはcanonical/classicalだが、永久に有効なものではないので、権威は持っていてもbiblicalな書物ではないのである。
さて、聖書は五書、預言書、諸書に分かれているわけだが、著者はそれぞれの成立を説明している。五書を意味するトーラーという言葉は、元々は「教え」ほどの意味だったが、ペルシア時代になると、学ぶべきモーセのトーラーという意味になっていく。正典化のはじまりである。ただし、サマリア五書など別の版も存在したので、前2世紀まではトーラー・テクストはまだ確定していなかったと考えられる。まだトーラーの権威も確定していなかったので、『神殿巻物』や『ヨベル書』といった、トーラーに取って代わろうとするような書物も作成されたほどであった。
預言書に関しては、前200年頃のベン・シラが、律法学者は知恵と預言を知らなければならないと書いていることが知られる。しかしこれではまだ預言書の権威が確定していたとはいえない。預言書が正典的と見なされるのは、前2世紀のダニエル書の中で、エレミヤの権威を認める記述まで待たなければならない。同様の読み方は、クムランのペシャリームや新約聖書やラビ文学に引き継がれていく。
こうして預言書も締め切られたときに書かれたダニエル書は、預言書ではなくて諸書に入れられている。諸書まで含めた正典化は、これまでラビたちによるヤブネの「公会議」で決定されたという説明をされてきたが、これは証拠がないので現在は信じられていない。しかしながら、後1世紀以降、新たな文書が聖書に付け加えられることはなかった。
この五書、預言書、諸書の三部構成は、ベン・シラの孫による序文で初めて明示されている。しかしこの三部構成はゆるやかなもので、上でみたように特に諸書はまだ確定されていなかった。三部構成すべてが正典と見なされたのは、後1世紀になってからであり、そのことを示す証言は3つある。第一にフィロン『観想的生活』3.25、第二にルカ24:44、そして第三にヨセフス『アピオーンへの反論』1.8.38-41である。この中で特に重要なのはヨセフスであり、彼によれば、聖書は22書あり、すべて神の霊感を受けたものであり、預言者によって書かれ、祭司によって正確に伝えられてきたという。バビロニア・タルムードや第四エズラ記などは、22書ではなく24書という数え方をしている。三部構成に関する上の三つの証言の他には、七十人訳聖書の写本そのものが三部構成の最大の証拠となっている。
どの文書が正典に入り、どの文書が入らないかについては、分かりやすい決まった基準があったわけではない。同時期に書かれたダニエル書と『ヨベル書』は、前者は正典に入ったが後者はそうではなかった。言えることとしては、セクトやほかのグループの中で所有されていたような謎めいた書物は正典化されることはなかったということである。ユダヤ教においては、共同体全体で所有されていたような「聖なる書物」が正典となっていったのである。
逆説的なようだが、正典が確定し、新しい正典が生まれなくなったあとにこそ、ユダヤ文学は大きな自由を獲得することになった。正典が確定する前には、テクストと解釈との区別もまた不明瞭だったが、依拠するべきテクストが確定したあとには、自由な想像力を広げてそれを解釈していくことができるようになったのである。つまり、第二神殿時代の後半の文学の特徴としては、次の2つの一見矛盾したポイントを挙げることができる。第一に、過去に対する現在の劣等感と従属の感覚。そして第二に、その劣等感がもたらした創造の自由である。
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