- Robert Renehan, "The Greek Philosophic Background of Fourth Maccabees," Rheinisches Museum für Philologie 115 (1972): 223-38.
第四マカバイ記の著者の思想的背景について、しばしば次のような2つの疑問が投げかけられている。
- 著者はきちんとギリシア哲学の学習をしたのか?表面的に哲学的彩色を施しているだけなのではないか?
- もし哲学的素養があるのだとすれば、いったいどの学派に属しているのか?
第一の疑問に対し、Heinemannは四マカ著者の哲学的素養は聞きかじりにすぎないとする一方で、Pfeifferはフィロン以外では最もギリシア哲学に詳しいヘレニズム・ユダヤ文学であるとする。また第二の疑問に対し、Pfeifferはストア派と見るのに対し、Wolfsonはストア派というよりユダヤ色がを強調する。さらにHadasに至ってはプラトン哲学からの直接的な影響を指摘する(同時にストア的記述には誤りが多いと述べる)。すなわち、四マカ著者の哲学的背景については、議論百出の状態である。しかし本論文の著者Renehanは大筋で四マカ著者をストア派と認めている。
多くの研究者たちが四マカ著者の哲学的背景がストア派とはいえないと考えるのは、四マカにおける特徴的な情念論のためである。すなわち、正統的なストア派は情念を完全に根絶できるものと考えるのに対し、四マカ著者は情念を支配することはできるが根絶はできないと述べる。しかしストア派といっても一枚岩ではない。中期ストア派のポセイドニオスはプラトンの思想に回帰しつつ、情念の根絶でなく支配を説いたことが知られている(ポセイドニオス自身の『情念について』は現存しないが、後代の医学者ガレノスの著作から彼の思想を知ることができる)。ゆえに、Renehanによれば、ポセイドニオスがストア派といえるのであれば、四マカ著者もストア派といえるという。彼らのような、正統的な哲学の学派に創意を加えた折衷的な立場を、Festugiereは「philosophic koine」と呼んだ。
また、四マカ著者に対しては、ユダヤ教的背景に関する検証が必要である。たとえば、多くの研究者たちは、四マカ5.19-21における、倫理的な罪に軽重があることを伺わせるようなエレアザルの台詞をユダヤ教的発想にもストア派的発想にもない、著者独自の見解と考えた。つまり、ここから四マカ著者は哲学的にはストア派ではないという結論が導かれる。しかしRenehanは同箇所の文脈から、これはエレアザルが相手の考え方を先取りして述べているだけであって、実際ここでのエレアザル=四マカ著者の考え方はむしろ言われていることの間逆であると主張する。すなわち、四マカ著者はユダヤ教的・ストア派的見解とを統合して、罪に軽重はなく、いかなる罪も罪であると考えているのである。ところで、この場合はユダヤ教的見解とストア派的見解とが相反さなかったために問題はなかったが、四マカ著者は、基本的には(中期)ストア哲学に依拠していながらも、ある哲学的見解がユダヤ思想とぶつかる場合、躊躇なくストアを捨てるユダヤ人であった。つまり、彼の思想においてストア哲学と異なる点があっても、それがユダヤ思想に由来するものである限り、彼のストア性を否定する証拠にはならないということである。
Renehanは、さらに四マカ著者のストア哲学的背景を検証していく。四マカ第3章の冒頭には、理性による情念の支配に関する記述があるが、それと酷似した表現がガレノスの著作にもある。Renehanは、内容以外にも、両者共にτις οὐという極めて珍しい表現(οὐδείςの意。τίς οὐではない)がδύναταιに付随して現れていることを指摘する。そうしたさまざまな証拠から、四マカ著者とガレノスとは同じソースを持っていたといえる(The uncommon phrase would have been converted to commoner coin, p. 238)。そしてガレノスのソースは、ポセイドニオスであったことが相当程度証明できるため、四マカ著者のソースもまたポセイドニオスであったといえるのである。四マカ著者の特徴である、1)ストア派的な記述と、2)情念は支配できるが根絶できないという主張とは、共にポセイドニオスの特徴でもあった。
多くの研究者たちが四マカ著者の哲学的背景がストア派とはいえないと考えるのは、四マカにおける特徴的な情念論のためである。すなわち、正統的なストア派は情念を完全に根絶できるものと考えるのに対し、四マカ著者は情念を支配することはできるが根絶はできないと述べる。しかしストア派といっても一枚岩ではない。中期ストア派のポセイドニオスはプラトンの思想に回帰しつつ、情念の根絶でなく支配を説いたことが知られている(ポセイドニオス自身の『情念について』は現存しないが、後代の医学者ガレノスの著作から彼の思想を知ることができる)。ゆえに、Renehanによれば、ポセイドニオスがストア派といえるのであれば、四マカ著者もストア派といえるという。彼らのような、正統的な哲学の学派に創意を加えた折衷的な立場を、Festugiereは「philosophic koine」と呼んだ。
また、四マカ著者に対しては、ユダヤ教的背景に関する検証が必要である。たとえば、多くの研究者たちは、四マカ5.19-21における、倫理的な罪に軽重があることを伺わせるようなエレアザルの台詞をユダヤ教的発想にもストア派的発想にもない、著者独自の見解と考えた。つまり、ここから四マカ著者は哲学的にはストア派ではないという結論が導かれる。しかしRenehanは同箇所の文脈から、これはエレアザルが相手の考え方を先取りして述べているだけであって、実際ここでのエレアザル=四マカ著者の考え方はむしろ言われていることの間逆であると主張する。すなわち、四マカ著者はユダヤ教的・ストア派的見解とを統合して、罪に軽重はなく、いかなる罪も罪であると考えているのである。ところで、この場合はユダヤ教的見解とストア派的見解とが相反さなかったために問題はなかったが、四マカ著者は、基本的には(中期)ストア哲学に依拠していながらも、ある哲学的見解がユダヤ思想とぶつかる場合、躊躇なくストアを捨てるユダヤ人であった。つまり、彼の思想においてストア哲学と異なる点があっても、それがユダヤ思想に由来するものである限り、彼のストア性を否定する証拠にはならないということである。
Renehanは、さらに四マカ著者のストア哲学的背景を検証していく。四マカ第3章の冒頭には、理性による情念の支配に関する記述があるが、それと酷似した表現がガレノスの著作にもある。Renehanは、内容以外にも、両者共にτις οὐという極めて珍しい表現(οὐδείςの意。τίς οὐではない)がδύναταιに付随して現れていることを指摘する。そうしたさまざまな証拠から、四マカ著者とガレノスとは同じソースを持っていたといえる(The uncommon phrase would have been converted to commoner coin, p. 238)。そしてガレノスのソースは、ポセイドニオスであったことが相当程度証明できるため、四マカ著者のソースもまたポセイドニオスであったといえるのである。四マカ著者の特徴である、1)ストア派的な記述と、2)情念は支配できるが根絶できないという主張とは、共にポセイドニオスの特徴でもあった。
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