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2014年10月30日木曜日

過越し祭とミシュナー2 Bokser, "Ch. 5: A Jewish Symposium?"

  • Baruch M. Bokser, "Ch. 5: A Jewish Symposium? The Passover Rite and Earlier Prototypes of Meal Celebrations," in id., The Origins of the Seder: The Passover Rite and Early Rabbinic Judaism (Berkeley, CA: University of California Press, 1984), pp. 50-62.
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Baruch M. Bokser

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第四章より、ミシュナーは神殿崩壊後に過越し祭の食事を行なうに当たって、犠牲祭儀抜きのやり方を提示したことが分かった。しかし、過越し祭から犠牲祭儀を抜いてしまっては、単なるギリシア・ローマ的な饗宴(シュンポシオン)になってしまうのではないか、というのが本章の主題である。結論からいえば、ミシュナーは両者の類似性を意識しつつも、過越し祭の独自性を維持するために、両者を明確に区別した。

ギリシア文学における饗宴の記述としては、プラトン、クセノフォン、プルタルコス、アテナイオスらが挙げられる。論文著者は、こうしたソースから得られる饗宴の特徴とミシュナーおよびトセフタから得られる過越し祭の特徴と比較し、9つの類似点を指摘している。
  1. 食事を運ぶ給仕の使用。
  2. 食事するときに横になること。
  3. 食べ物をソースなどにディップすること。
  4. 前菜(オードブル)があること。
  5. 食前・食中・食後におけるワインの飲用。
  6. 浮かれること。
  7. 知的な議論を教育に用いること。
  8. 神のために歌い、賛美すること。
  9. 子供たちが起きていられるようにゲームをすること。
こうした類似点から、Siegfried Steinなどの研究者は過越し祭に対するギリシア・ローマ的影響を強調する議論を展開したが、著者は、ミシュナーが持つ前提である、過去との継続性と犠牲祭儀の喪失とがある限り、過越し祭の食事をギリシア・ローマの文脈だけで語ることには無理があると述べる。ヘレニズム時代およびローマ時代のユダヤ人たちにとって、共同の食事は重要な意味を持っていたが、それが必ずしもヘレニズム的かつローマ的なやり方を踏襲しているわけではないのである。それを見るために、著者はパリサイ派の食事、クムラン教団の食事、そしてフィロンによって記述されたテラペウタイの食事を検討している。

それによると、三者は共に、皆で集まり、共同で食事をし、聖書を学び解釈し、神を称え歌っている。といっても、それぞれの相違点はあり、ミシュナーのラビたちが失われた犠牲祭儀の代わりとして過越しの食事を解釈しているのに対し、パリサイ派は神の存在と神殿に関する自分たちの見解を表現する方法としてそれを見なしており、またフィロンは祭儀的な概念をテラペウタイの食事に転嫁している。クムランは祭儀的というよりも終末論的な観点から食事を捉えている。

こうした三者三様の考え方がありつつも、著者はそれらを「転移(transference)」という概念で包括的に説明できると考えている。ある共同体は自らの考え方や信仰を通じて現実を認識し、新しいことが起きてもそれを基にして自らを順応させる。しかし、彼らがある破綻を経験し、自分たちの考え方に意味を与えていた制度を失ったとき、彼らは何らかの代替物を用いてそれを解決しようとする(the need to find a substitute for sometiong unavailable, p. 59)。そしてその代替物に、先の制度と関係のある概念を「転移」させるのである。これらのユダヤ人たちも、エルサレムの神殿の喪失および接近不可能性によって、この考え方を用いたのだと説明できる。

上で挙げたような共同体は、食事こそが神殿祭儀を転移するに相応しい文脈であると考えた。そしてその転移は、ギリシア・ローマの饗宴からではなく、それぞれの共同体が応答を迫られていた宗教的な状況から来るものだったのである。そうした意味で、ミシュナーが過越し祭の食事に対して持っていた観点は、70年の神殿崩壊前に神殿から離れた場所に住んでいたユダヤ人たちが共同の食事に対して持っていた観点と極めて似ているということができる。

2014年10月26日日曜日

第四マカバイ記について Schürer, "The Fourth Book of Maccabees"

  • Emil Schürer, The History of the Jewish People in the Age of Jesus Christ (175 B.C.-A.D. 135), Vol. 3, Part 1, revised and edited by Geza Vermes, Fergus Millar and Martin Goodman (London: Bloomsbury, 2014), 588-93.
The History of the Jewish People in the Age of Jesus ChristThe History of the Jewish People in the Age of Jesus Christ
Emil Schnrer Fergus Millar

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第四マカバイ記は、ユダヤ教を哲学として描こうとしている。四マカ著者の目的は、対象読者(あるいは聴者である)ユダヤ人の宗教的教化であったが、いわゆる説教ではなく哲学的な提題を用いてそれをしようとしている。その主張は、宗教的な理性の教えに従いさえすれば、敬虔な生活を送ることは難しいことではないというものである。なぜならば、そうした理性は情念を支配できるからである。こうした内容ゆえに、しばしばこの書は『理性の支配について』(エウセビオス『教会史』3.10.6)と呼ばれることもある。

四マカ著者はそうした哲学を裏打ちする具体例として、殉教者たちの事跡を持ち出している。彼の情報源は、第二マカバイ記と、それよりも詳細が描かれていたキレネのヤソンの著作(現存しない)だったと考えられる。二マカと四マカには記述に違いが見られ、その理由を四マカがヤソンの著作に依拠したからと考えることも可能だが、むしろ両著者の目的やジャンルの違いがそうした結果を生んだと考える方が妥当だろう。

四マカの哲学的背景は、中期プラトン主義および中期ストア派といえる。しかしより根本的なアイデアはユダヤ教である。というのも、彼が情念を支配する決め手として描く理性は、通常のギリシア哲学における理性ではなく、律法に従うことによって得られる宗教的理性(ホ・エウセベース・ロギスモス)である。つまり四マカ著者はギリシアの修辞的な記述法の中で、同時代の哲学的なアイデアを用いていたにすぎないのである。彼のユダヤ教由来の独特な見解は二つある。第一は、天上における不死性である。これはあくまで天上における永遠の生のことを指しているのであって、パリサイ派的な肉体的な復活とは異なる。第二は、義人の殉教による人々の贖罪である。

四マカはしばしばヨセフスに帰されるが、それはエウセビオスとヒエロニュムスによるものである。書かれた場所は不明である。書かれた時期については、一世紀中頃が有力で、少なくとも70年より以前と考えられる。写本としては、シナイ写本、アレクサンドリア写本などのギリシア語聖書写本に収録されたものと、ヨセフスの著作の写本に収録されたものとがあるが、前者の方が信頼性が高い。

2014年10月23日木曜日

過越し祭とミシュナー1 Bokser, "Ch. 4: The Mishnah's Response"

  • Baruch M. Bokser, "Ch. 4: The Mishnah's Response: The Meaning of Passover Continues without the Passover Sacrifice," in id., The Origins of the Seder: The Passover Rite and Early Rabbinic Judaism (Berkeley, CA: University of California Press, 1984), pp. 36-49.
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Baruch M. Bokser

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過越し祭を祝うために、ラビ・ユダヤ教以前には、子羊など動物の犠牲が必要不可欠だった。言い換えれば、聖書における過越し祭は神殿祭儀と密接に関わっていたのである。では神殿がなくなったあとのラビ・ユダヤ教はこれをどのように解決したのか。この論文の著者は、ミシュナーのモエード篇ペサヒーム10章を検証することで、ミシュナーが犠牲なしでの過越し祭をいかにして可能にしたかを論じている。それに際し、著者はミシュナーによる9つの試みを明らかにした。

1.過越し祭の食事を、時間や品目に関して犠牲の食事と「同期」させる。出12:8や申16:6のように、聖書は過越し祭の食事を夜に取ることを言明しているが、ミシュナー(・ペサヒーム、以下省略)10.1はこれを踏襲し、なおかつより厳密な規定を与えている。トセフタ(・ペサヒーム、以下省略)2.22はさらに細かい時間を指定し、なおかつ食事に必要な品目を挙げている。

2.種無しパン(マッツァー)と苦菜(ハゼレット/メロリーム)を犠牲と同等に捉える。種無しパンと苦菜は聖書においても言及されているが、あくまで犠牲に対して二次的なものと考えられていた。これに対し、ミシュナー10.3(およびトセフタ10.9-10)は、種無しパンと苦菜をいわば格上げし、犠牲と同等のものと見なしたのである。さらにトセフタ2.22は、苦菜、種無しパン、犠牲を並べた上で、仮にどれかが欠けても残りのものは無効にならないと述べている。ミドラッシュの『メヒルタ・デ・ラビ・シムオン・バル・ヨハイ』の出12:18の解釈では、さらにはっきりとした区別を打ち出し、種無しパンを苦菜よりも上位に置いた。

3.聖書でも指示されている子供への教えは犠牲なしでも可能と言明する。出12:25-27, 13:8などで、両親は子供に過越し祭の意味を説明しなければならないとされているが、ミシュナー10.4では犠牲なしでの説明の方法が示されている。また苦菜を二度ディップすることや、種無しパンと(犠牲の代わりに)焼いた肉のみを食べることなども指示されている。

4.ワインの役割に関するさまざまな規定を示す。実際は聖書にはワインに関わる規定はなく、最初に言及したのは第二神殿時代の聖書文学であるヨベル書であるが、ミシュナーは杯の数、いつワインを飲むか、いつワインに祈るかなどを指示している。

5.三つのことを口に出して言うことでそれらの重要性を認識する。ミシュナー10.5では、ラバン・ガマリエルの教えとして、食事の中で、過越し祭(ペサハ)、種無しパン(マッツァー)、苦菜(メロリーム)という三つの言葉を口に出して言うことが指示されている。これは、あえて口に出して言うことでそれらの事柄に対する集中を促し、それが犠牲と同じくらい重要であると認識させるためである。

6.詩篇の朗誦を専門の朗誦者や犠牲がなくても可能にした。過越し祭の食事では、ハレルと呼ばれる詩篇113篇および114篇の朗誦があるが、ミシュナー10.5-6においては、専門の朗誦者も犠牲も楽器もいらないことが示されている。

7.祭日の重要な要素である幸福になることを犠牲なしでも可能にした。歴代誌やヨベル書で言及されている、肉を食べることで喜びを得られるという考え方は、ラビ・ユダヤ教以前では過越し祭でも同様であった。これに対し、ミシュナー10.1, 2, 4およびトセフタ10.4では、肉に取って代わり、ワインが喜びをもたらすことが示されている。これは特にトセフタの方に顕著な特徴である。

8.ペサヒーム内の章区分から見えるミシュナーの試み。ペサヒームの1章から4章にかけては、過越し祭の神殿崩壊後にも適用可能な側面が記されており、5章から9章にかけては、犠牲について記されている。そのあとに、本論文の対象である10章が来ることになる。ミシュナーは、最初の方の章でいろいろと原理を説明していったあと、最後にそれを適用するとどうなるかを論じるという特徴があるため、ペサヒーム10章もまさにそれに相当している。

9.過越し祭が犠牲を失うことは他の犠牲祭儀を失うことと何ら変わりないことを示す。ラビ・イシュマエルは過越し祭を他の祭りよりも重要と考え、過越し祭の祈りは他の祭りにも適用できるが逆は不可能と述べた。これに対し、ミシュナーは最後に、これに反対するラビ・アキバの意見を挙げることで、過越し祭が犠牲をなくしても、それは取り立てて大きな損失ではないと主張している。

結論としては、最初に述べたように、ミシュナーの目的は、過越し祭を祝うことは犠牲祭儀を欠いても可能であることを強調することであった。ただし、すると新たな問題が生じてしまう。犠牲祭儀は過越し祭の食事を特徴付けるものであったが、それを欠くと、過越し祭の食事とギリシア・ローマの饗宴(シュンポシオン)との区別がつかなくなってしまうのである。ミシュナーはこの問題を解決しなければならなかった。(つづく)

以下蛇足ながら紹介。過越し祭の食事では、ハガダーと呼ばれる特別なテクストを皆で読むが、2014年1月にヒブル・ユニオン・カレッジ(Hebrew Union College)の教授たちを中心にアメリカの改革派ユダヤ教が数十年ぶりにハガダーの改訂版を出版した。イスラエルで手に入るハガダーと比較することで、アメリカの改革派ユダヤ教の特徴を捉えることができるだろう。またアール・デコ風の印刷が美しいので、単純に手にとって眺めるだけでも楽しい。重要な箇所はヘブライ語と英語とが対訳になっているが、英訳は現代の改革派の現実に照らしてかなり解釈が入っている。
  • Rabbi Howard A. Berman and Rabbi Benjamin Zeidman (eds.), The New Union Haggadah: Revised Edition (New York: CCAR Press, 2014).
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2014年10月22日水曜日

トセフタとミシュナーとの関係 Zeidman, "An Introduction to the Genesis and Nature of Tosefta"

  • Reena Zeidman, "An Introduction to the Genesis and Nature of Tosefta: The Chameleon of Rabbinic Literature," in Introducing Tosefta: Textual, Intratextual, and Intertextual Studies, ed. Harry Fox and Tirzah Meacham (Hoboken, NJ: Ktav Publishing, 1999), 73-97.
0881256374Introducing Tosefta: Textual, Intratextual, and Intertextual Studies
Harry Fox
Ktav Pub Inc 1999-09-01by G-Tools
一般的に、ミシュナーの補遺と見なされているトセフタは、位置づけの難しい書物である。ミシュナー文学の領域に入れるべきか、タルムード文学の領域に入れるべきか、答えは簡単ではない。中世以来の定説では、トセフタは書物としてのミシュナー成立の一世代あとに、ラビ・ヒヤ(バビロニア生まれだったが、パレスチナに移住し、ラビ・ユダ・ハナスィのもとで学んだラビ)によって編纂されたものとされている。しかし、特に近代の研究者の中には、トセフタの成立をタルムード以後と考える者たちもいる。つまり、トセフタの成立について、ミシュナー成立のすぐあとくらいのより古い時代と考える者たちと、タルムード以後のよりあとの新しい時代と考える者たちがいる。

より古い時代と考える者たちは、中世より枚挙の暇がない。ラビ・シェリラ・ガオン、ラベヌ・ハナンエル、ラビ・ナタン・ベン・ラベヌ・イェヒエル、ラビ・ユダ・ハバルセロニ、ラシ、マイモニデス、メイリなどが代表である。同じ立場を取る近代の学者たちは(M.S. Zuckermandel, A. Spanier, A. Guttmann, Y.N. Epstein, B. Cohen, M. Moreshet, Y. Kutscher, B. DeVries, B.M. Bokser, J. Hauptman, D. Halivni, A. Goldberg, J. Neusner)、仮にトセフタに収録されている伝承に、タルムード中のバライタと同じ伝承=新しいものが含まれていたとしても、それはトセフタをタルムードに合わせて後代に改訂した結果であって、トセフタそのものが新しいものなのではないと主張した。一方で、トセフタとタルムードのバライタが異なることがあるのは、それぞれ別のソースを持っていたからだと結論付ける者もいた。一方で、より新しい時代と考える者たちは(D. Hoffmann, L. Friedlaender, J.H. Dunner, A. Schwarz, Ch. Albeck, S. Lieberman, Y. Elman)、トセフタの成立をアモライーム時代よりあと、すなわち両タルムードよりあとのこととしている。

両者は意見を異にしているが、いずれも、トセフタをタルムードとの関係の中に置いているところでは共通している。しかし、本論文筆者は、むしろトセフタはミシュナーとの関係の中に置くべきだと主張する。しかもそのとき、両者が「対位法(counterpoint)」を奏でているように考えるべきというのである。Neusnerのように、トセフタはミシュナーを拡張したものであり、一方ミシュナーはトセフタを要約したものと言うこともできるが、実際はElmanが述べているようにもっと複雑で、両者が相互に改訂していき(interactive redaction)、共存しているのである(symbiotic redactional scheme)。そのために、著者は、ミシュナーに対するトセフタからの付加の例、両者が対位法的に相互に作用している例、トセフタがミシュナーと関係せず独立している例などを挙げている。ただし、ミシュナーなしにトセフタを読むことができない箇所があるため、トセフタの方がより後代のものであることは変わらない。

2014年10月20日月曜日

フィロン、第四マカバイ記、初期キリスト教の情念理解 Aune, "Mastery of the Passions"

  • David C. Aune, "Mastery of the Passions: Philo, 4 Maccabees and Earliest Christianity," in Hellenization Revisited: Shaping a Christian Response within the Greco-Roman World, ed. Wendy E. Helleman (Lanham: University Press of America, 1994), pp.125-58.
Hellenization Revisited: Shaping a Christian Response Within the Greco-Roman World (Institute for Christian Studies S)Hellenization Revisited: Shaping a Christian Response Within the Greco-Roman World (Institute for Christian Studies S)
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この論文では、フィロンと第四マカバイ記著者(以下四マカ著者)の情念理解が比較されつつ、それらが初期キリスト教思想でどのように受容されたかが議論されている。ストア哲学では、魂の病的・非理性的衝動を情念(パテー)と呼んでいるが、その情念は快楽(ヘドネー)、欲望(エピテュミア)、悲しみ(リュペー)、恐怖(フォボス)に分類されている。そしてこの病的な感情である情念の根絶こそがアパテイアと呼ばれる状態である。

フィロンは、プラトンによる魂の三部構造(理性的な部分ロギコス、活発な部分テュミコス、欲望的な部分エピテュメーティコス)と、ストア派の情念論(情念とは魂の非理性的・非自然的・病的な状態である)とを組み合わせ、魂の非理性的部分(=ロギコス以外)は、その本性において非理性的・非自然的・病的であると考えた。またフィロンは、倫理的に完全な者は自らこの病的部分であるテュミコスとエピテュメーティコスとを切り離すことができるが、他の者たちはロギコスによって病的部分を支配するに留まるとしている。そして、トーラーこそが真の哲学を含んでいるのであるから、トーラーを遵守することこそがこのロギコスによる病的部分の支配を可能にさせるのだというのである。

フィロンにとって最高の目標は、情念を根絶してアパテイアに至ることではある。しかし、これは神のように倫理的に完全な者以外にはほぼ不可能なことである。そこで、フィロンは自制の獲得に段階を設けた。すなわち、アパテイアほど高度に理想的な状態ではなくても、ある程度情念を支配しているメトリオパテイアに至ることができれば僥倖であるし、さらにそこまでも至っていない者でも、向上する努力を続けている限り、そのこと自体が善であると考えたのである。そして聖書の登場人物たちの中にも、さまざまな段階が見られるとして、具体例を挙げている。フィロンによれば、モーセは外科医のように情念を根絶し、完全なるアパテイアに至った人物であり、なおかつそれを何らの痛みあるいは労苦なく(アネウ・ポノン)成し遂げた点が重要である。アロンは倫理的向上の途中にある者(プロコプトン)であり、情念の完全な根絶はできなかった。しかし、理性と徳という薬を使って情念を癒し、メトリオパテイアに至った。アブラハム、イサク、ヤコブのうちでは、フィロンは、生まれ持った徳でアパテイアを達成したイサクを最上としている。アブラハムはいくつかの情念を克服することはできたが(イサク奉献やサラの死のときなど)、残りのものは緩和できただけであった。ヤコブは訓練(アスケーシス)によって神を見ることができるようになったが、高度の徳が得られる場合とそうでない場合とがあった。フィロンは、他にもエッセネ派やテラペウタイの修道生活や自分自身の例を挙げて、徳の獲得には、個人の能力差や段階があることを示している。言い換えれば、アパテイアに至ることができる者はほとんどいないが、トーラーの学習と遵守によって、プロコプトンでも段階的に情念のない状態に近づくことができるのである。

一方で、四マカ著者は、プラトンの魂の三部構造の否定と、快楽(ヘドネー)と苦痛(ポノス)を中心とした情念理解という特徴を持っている。四マカ著者の魂理解は、理性的部分である精神(ヌース)が、非理性的部分である情念(パテー)と特性(エーテー)とを支配しているというモデルである。しかも情念と特性とは神が人間の魂に植えつけたものなので、根絶することは不可能である(中期ストア派のポセイドニオスの教説からの影響)。それゆえに、彼にとってアパテイアとは、情念の根絶ではなく、情念の完全な支配のことといえる。またストア派の通常の情念理解は上に述べたとおりで四分類だが、四マカ著者はそれに喜び(カラー)と痛み(ポノス)を加えて六分類に増やしている。肉体に由来する情念である快楽を中心に、欲望(エピテュミア)と喜び(カラー)があり、一方で魂に由来する情念である苦痛を中心に、恐怖(フォボス)と悲しみ(リュペー)がある。そして、快楽と苦痛とは、怒り(テュモス)によって結ばれている。詳細はともかく、四マカ著者の特徴は、情念の基礎を快楽と苦痛に置いていることであり、それによって、マカバイ戦争の殉教者たちが世俗的な快楽に溺れず、拷問の苦痛にも耐えたことを哲学的に解釈したのである。

そして四マカ著者はこうした情念を支配し、アパテイアを獲得するために重要になるのが「敬虔な理性(ホ・エウセベース・ロギスモス)」、すなわちトーラーの厳密な解釈および適用に合致した理性的思考であるとした。この考え方は、トーラー遵守を前提としていることから、フィロンでいうところのプロコプトンによる情念支配の状態と近い考え方といえるが、四マカ著者は徳の獲得に個人の能力差や段階を認めない。つまり、フィロンのように徳を獲得できない人々への寛容さをあまり持たず、より厳格なのである。それは、作中で挙げているマカバイ戦争での殉教者たちの例、すなわちエレアザル(老人)、7人の青年(若者)、そしてその母親(女性)からも見て取れる。いわば彼は、エウセベース・ロギスモスを持ちさえすれば、すべての人が情念(快楽+苦痛)を支配し、アポノス・アパテイア(痛みのないアパテイア)を獲得することが可能だと主張しているのである。

初期キリスト教もまた、聖書がいかに徳をもたらすものかを証明することに腐心した。といっても、特に新約聖書においては、パトスという語の多くはキリストの受難を表すものであり、プラトン・ストア派的な哲学上の意味合いはない。これはヘドネーやエピテュミアといった情念の内容を表す語に関しても同様である。ギリシア哲学のような情念支配を新約聖書の考え方に当てはめるならば、それはキリストによって魂が完全に新しくされることで達成されるものであり、その際にはフィロンや四マカ著者のようにトーラーの遵守は前提とされないといえる。いわば、情念はキリストと共に十字架に架けられるべきということである。ただし、情念を支配するという姿勢自体はキリスト教でも歓迎されるものであるため、二世紀になるとキリスト者もギリシア哲学を取り入れるようになっていった。特に代表的なのがアレクサンドリアのクレメンスであり、彼はフィロンの多大なる影響下にあって、ギリシア哲学のよいところは吸収しようとした。それどころかトーラー遵守(特に食餌規定)でさえ情念支配を可能にする要件と考えた。むろん両者を手放しで受け入れたわけではなく、彼にとってはギリシア哲学とユダヤ教とは、キリスト教の準備(praeparatio evangelica)のためのものだったのである。彼の思想の背景にはフィロンからの色濃い影響があったが、フィロンが個々人の能力と段階を考慮したのに対し、クレメンスは、キリストの導きがあるのだから、すべての人がアパテイアを獲得できるはずと考えた。この点で、クレメンス自身はおそらく四マカを読んだことがなかったにもかかわらず、四マカ著者の思想に近づいているといえる。クレメンスの思想は、オリゲネス、カッパドキア教父、アンブロシウス、ヒエロニュムスらに引き継がれていくことになる。

2014年10月16日木曜日

イブン・エズラの雅歌注解 Reif, "Abraham Ibn Ezra on Canticles"

  • Stefan C. Reif, "Abraham Ibn Ezra on Canticles," in Abraham Ibn Ezra y su tiempo: Acatas del Simposio Internacional: Madrid, Tudela, Toledo. 1-8 febrero 1989, ed. Fernando Diaz Esteban (Madrid: Asociacion Espanola de Otientalistas, 1990), pp. 241-49.
8460075001Abraham Ibn Ezra y su tiempo: Actas del simposio internacional : Madrid, Tudela, Toledo, 1-8 febrero 1989 = Abraham Ibn Ezra and his age : proceedings of the international symposium (Spanish Edition)
Asociacion Espanola de Orientalistas 1990by G-Tools

イブン・エズラの聖書注解を理解する上で問題となるのは、彼が遍歴生活の中でそれらを書いたために、しばしば一貫性を欠くことがある点である。Moritz SteinschneiderとAdolf Neubauerによる研究から、彼が自分の注解をしばしばあとで改訂していたことが分かっている。雅歌注解に関して、Michael Friedlanderは、イブン・エズラが二度の改訂を施していると考えた上で、フランスにいたときの二度目の改訂をA、イタリアにいたときの一度目の改訂をBと呼んだ。またFriedlanderは、改訂Bの方が改訂Aよりもテクストに対して批判的であり、非ミドラッシュ的な傾向が見られるが、その理由は当時のイタリアのリベラルな風潮がイブン・エズラにそのような改訂を可能にしたからだと主張している(Uriel Simonはこの説明には懐疑的)。Yehuda Fleischerは、Friedlanderの区分を踏襲しつつ、二度目の改訂Aがなされたのは、1156年から翌年にかけて、フランスのドルーという町でのことだったと述べている。

イブン・エズラの雅歌注解は、言語的注解(linguistic)、字義的・文学的注解(literal and literary)、そしてミドラッシュ的・寓意的(midrashic and allegorical)の三部に分かれている。改訂Aの雅歌注解では、全体に関する序文と、この三部のそれぞれに対する特別な序文が付されている。全体に対する序文では、著者とされるソロモン王を称賛し、また雅歌が性的な詩ではなく神とイスラエルとの関係を比喩的に表していることを述べている。第一部の序文では、抽象的・宇宙論的な解釈を否定し、ラビ的伝統における寓意を方法論とする旨を言明している。第二部の序文では、乙女と若者の愛のメタファーについて叙述している。そして第三部の序文では、自身はミドラッシュ・ラバーの解釈で満足しているが、それでも自らの寓意的な解釈をする必要があることを述べている。

改訂Aの第一部、すなわち言語的注解においては、他の聖書文書における彼の注解とさほど変わらないスタイルが採られている。文法的なトピックとしては、男女両性の名詞(common gender)、音位転移(metathesis)、ハパクス・レゴメナ(hapax legomena)、欠性動詞(privative verbs)、畳語形(reduplicated form)などが扱われている。また、ある語の説明のために、聖書ヘブライ語のみならず、アラム語、ラビ・ヘブライ語、スペイン語、そしてアラビア語を引くこともあった。さらに、鳥、動物、植物、石、あるいは地形などの自然物に関する定義も多く行なっている。彼は注解において、たくさんの説を挙げた上で、そうと言わずに自説を述べ、結局他の説を捨てるという手順を踏んでいた。

改訂Aの第二部の字義的・文学的注解においては、雅歌で描かれている若者と乙女の詩をそのまま解釈し、恋愛的な内容にも踏み込んでいる。ただし、そうした内容を明確に解釈したいという意志と、検閲を恐れる意識とが緊張感をはらんでいるようにも見える。また興味深いことに、イブン・エズラは雅歌をもとにして作られた当時のムスリムの恋愛詩を知っていたため、それについての言及もなされている。

改訂Aの第三部のミドラッシュ的・寓意的注解においては、族長物語や出エジプトなど、聖書の歴史的部分に関する寓意的解釈(historical allegory)と、信仰、改悛、教訓、トーラー、性的倫理などといった神学的な問題に関する寓意的解釈(theological allegory)が扱われている。ここでのイブン・エズラの記述は、自身が第一部の序文で抽象的・宇宙論的な解釈を否定しているにもかかわらず、当時の新プラトン主義哲学を濃厚に反映しているという。

一方で、改訂BはAに比べてあまり構造的でなく、スタイルにも一貫性がない。また第一部と第二部に関しては40パーセントも少なくなっており、自身の他の聖書文書の注解へのリンクもない。序文に関してもより短くなっており、全体の序文は第一部の序文と一緒になっている。ただし、Bの方が写本に関しては良好に保たれている。改訂Bの第一部では、Aと異なり、イブン・エズラの自説は匿名でなく開陳されるが、他言語に依拠した説明は少なくなっている。改訂Bの第二部では、ユーモアや性的な言及は減ったが、医学的な見解が加味されている。ムスリムの恋愛詩への言及はない。改訂Bの第三部では、抽象的・宇宙論的な議論はシンプルになり、ユダヤ的な説明においても思想よりも実践に重きが置かれている。

以上より、論文著者は三つの結論を導いている:
  1. イブン・エズラの三部の解釈は、しばしば互いに一貫していないが、雅歌に対する一つの包括的なアプローチを代表するものである(筆者注:何を指しているのか不明)。
  2. 二つの改訂に見られる変化から、遍歴を重ねる中で、イブン・エズラが自らの著作を改訂・加筆する必要を感じていたといえる。
  3. 二つの改訂に見られる変化の原因は、必ずしもイブン・エズラがイタリアからフランスに移ったからではない。すなわち、変化の原因を書いた場所に帰するべきではなく、遍歴の中で移り変わっていったと考えるべきである。

2014年10月12日日曜日

6つのヒエロニュムス像 Fürst, "Hieronymus"

  • Alfons Fürst, "Hieronymus: Theologie als Wissenschaft," in id., Von Origenes und Hieronymus zu Augustinus: Studien zur antiken Theologiegeschichte (Arbeiten zur Kirchengeschichte 115; Berlin: De Gruyter, 2011), 25-42.
Von Origenes und Hieronymus zu Augustinus: Studien Zur Antiken Theologiegeschichte (Arbeiten Zur Kirchengeschichte)Von Origenes und Hieronymus zu Augustinus: Studien Zur Antiken Theologiegeschichte (Arbeiten Zur Kirchengeschichte)
Alfons Furst

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ヒエロニュムスは同時代の教父たちの中で、ほとんど孤立した存在であるといっていい。その特徴は教義上の問題への無関心であるといえる。当時アウグスティヌスらによって盛んに論じられていた、三位一体論やキリスト論、あるいは創造と救済の出来事における自由論、恩寵論、認識論といった事柄についてはわずかなコメントを残しているばかりである。本論文の著者によれば、ヒエロニュムスの貢献は、むしろ苦行運動と学術活動の二つに代表されるという。そうした見取り図をもとに、著者はヒエロニュムスの6つの人物的側面に光を当てている。以下興味を持った点のみ挙げる。

苦行者としてのヒエロニュムス。ヒエロニュムスはアクィレイアおよびカルキス砂漠で苦行生活をし、さまざまな苦行者たちの伝記を書いていたが、都会人である本人はそうした生活に向いていなかった。彼は、文化も文明も捨ててしまうようなシリアの隠遁者たちの極端な苦行を求めていたわけではなく、むしろ古代の異教文化・教養を捨てることなく、キリスト教的・苦行的生活を送ろうとしていたのである。すなわち、福音と(世俗的)文化、あるいはキリスト教的・修道的霊性と古代の学術とを結び付けようとした。ただし彼は、ペラギウスに代表される誰もが参加できるスタイルの苦行ではなく、少数のエリートのための苦行こそが理想的であると考えていた。

学者としてのヒエロニュムス。学者として、個人の図書館を持っていたことが重要な点である。彼は、キリスト教の著作、さまざまな言語の聖書の版、聖書注解などをすぐに参照できる場所に置いていたが、416年にベドウィンたちの襲撃で焼かれてしまった(彼自身はペラギウス派による襲撃だと思い込んでいた)。また学友であったパンマキウスなど、貴族のパトロンを多く持っていたために、金銭的な援助を受けることができていた。言語に関しては、母語であるラテン語に加えて、ギリシア語、シリア語、アラム語、ヘブライ語に通じていた。

翻訳者としてのヒエロニュムス。ラテン語世界全体のギリシア語リテラシーが落ちていた時代だったので、彼はオリゲネス、カイサリアのエウセビオス、アレクサンドリアのディデュモス、サラミスのエピファニオス、アレクサンドリアのテオフィロス、パコミオス、ギリシア語訳されたコプト語文書などを盛んにラテン語に翻訳していた。同様の翻訳活動をしていた人物としては、アクィレイアのルフィヌスとケレダのアニアヌスなどが挙げられる。また最初の翻訳理論家でもある。聖書とそれ以外の書物との翻訳に関してはフレキシブルに対応したために、自身の理論との矛盾が生じたが、なるべく首尾一貫した理論とエレガントなラテン語訳を目指していた。

聖書翻訳者としてのヒエロニュムス。聖書翻訳を可能にしたのは、さまざまな言語の聖書を所蔵する図書館と、彼のギリシア語およびヘブライ語への精通であった。最初から彼の基本方針は、極力原文を参照するということだった。それゆえに、聖書翻訳において、それぞれ「ヘブライ語の真理(Hebraica veritas)」、「アラム語の真理(Chaldaica veritas)」、「ギリシア語の真理(Graeca veritas)」という言葉を残している。彼のヘブライ語からの翻訳は確かに死後には評価されたが、生前はアウグスティヌスらによって七十人訳の権威を貶めるものとの評価を受けていた。しかしヒエロニュムス自身は柔軟な考え方をしていた。すなわち、学問的には、七十人訳およびそれに基づくラテン語訳は不正確なので自分の新しい訳に取って代わられるべきだが、教会的には、使い慣れたものが礼拝で用いられるべきであり、自分の訳と注は参照されればよいと考えていた。

聖書注解者としてのヒエロニュムス。ヒエロニュムスの注解はアレクサンドリア学派(オリゲネス、ナジアンゾスのグレゴリオス、アレクサンドリアのディデュモス)とアンティオキア学派(ラオディケイアのアポリナリオス)の折衷である。前者からの影響としては、類型論と寓意的解釈を方法論として用いている。オリゲネスの注解には特に大きく依拠しており、ときに盗作とさえいえるような内容もある。一方で、後者からの影響としては、本文批評(特に写本伝承への関心)、緒論学(著者、成立年代、歴史背景、地名、人物像、語源学)の重視などが挙げられる。これにユダヤ的な聖書解釈が加わることで、ヒエロニュムスの注解は特に個性的なものとなった。

教義学者としてのヒエロニュムス。彼が関与した代表的な教義論争は三つ。第一に、コンスタンティノポリスやニケーアでの公会議で議論されていた存在論については、ヒエロニュムスは複雑な競技的・教会政治的な状況をよく分かっておらず、また現実の教義史の発展を誤解してもいた。第二に、オリゲネス主義論争では、オリゲネス批判派にまわり、擁護派のルフィヌスとの不和を招いた。ヒエロニュムスは、教義理解に関してはオリゲネスを異端と見たが、聖書解釈に関しては継続的に参照していた。第三に、ペラギウス派論争では、意志の力によって罪のない生を生きることができると主張したペラギウスに対し反論した。ヒエロニュムスは、反ペラギウスということでアウグスティヌスと結託していたが、アウグスティヌスの恩寵論や原罪論のような思弁的な議論にはついに馴染まないままだった。

ヒエロニュムスは、神学的には秀でていなかったが、アンブロシウスやアウグスティヌスらと共に有力な教父と見られていた。彼は古代の学識(philologie)とキリスト教的霊性(theologie)とをつなぎ、苦行運動(asketischen Bewegung)と世俗的な成果(weltlichen Errungenschaft)とをつなぎ、また修道制(Askese)と聖書学(Bibelgelehrsamkeit)とをつないだ。さらに、学識ある修道士や、学術の中心としての図書館を持つ修道院といったイメージのもとにもなった。彼の為したこととは、古代の文化、修道的な霊性、そして学術的な神学を、ユダヤの聖書解釈を含めつつ、キリスト教的に統合したことであるといっていい。

2014年10月8日水曜日

カライ派の雅歌解釈 Frank, "Karaite Commentaries on the Song of Songs"

  • Daniel Frank, "Karaite Commentaries on the Song of Songs from Tenth-Century Jerusalem," in With Reverence for the World: Medieval Scriptural Exegesis in Judaism, Christianity, and Islam, ed. Jane Dammen Mcauliffe, Barry D. Walfish and Joseph W. Goering (Oxford: Oxford University Press, 2003), 51-69.
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ユダヤの聖書解釈は、当初はミドラッシュやタルグムのように、個人名義でないある種のアンソロジーのかたちをとることが多かったが、9世紀のダーウード・イブン・マルワーン・アル=ムカッマスの登場で初めて個人名義かつシステマティックな構成を取るようになったとされている。彼はユダヤ人であったが、一時期キリスト教に改宗したことがあったため、キリスト教の聖書解釈の著作法を知っていたのだという。しかも興味深いことに、イラク人である彼はその注解をアラビア語で書いたという。10世紀にはサアディア・ガオンと、カライ派ヤークーブ・アル=キルキサーニーが個人名義の注解を著した。彼らの著作は当時のイスラームの合理主義の影響を色濃く受けていた。

雅歌については、サアディアが注解を残したことが知られているが、現存しない。現存するユダヤ人による最古の個人名義の雅歌注解は、共にカライ派のサルモン・ベン・イェロハムとヤフェット・ベン・アリによってユダヤ・アラビア語で書かれたものである(ヤフェットは聖書文書全体の注解を初めて書いたユダヤ人でもある)。これらは一節ごとの釈義と、聖書の逐語的なアラビア語訳から構成されている。彼らはなるべくひとつの「正しい」解釈を提供するようにしていた。複数の注解を挙げる場合も、どれが最も好ましいかを必ず述べていた。また彼らの解釈は、当時のユダヤ人たちの中でも、「ショシャニーム」と呼ばれる党派的な共同体の聖書解釈を反映しているとされている。彼らの特徴は3つあり、第一に、現在から見た終末への強い意識、第二に、孤立および象徴的解釈、第三に、イスラームおよびラビ・ユダヤ教に対する派閥意識である。

サルモンによれば、雅歌は3つの重要な要素を持っているという。第一に、律法を教えてくれるようにという神への嘆願、第二に、イスラエルの罪に対する自責の念と罰への嘆き、第三に、イスラエルがメシア的な救済を求めていることの表明である。こうした要素を、サルモンは雅歌を寓意的に解釈することで発見した。彼によれば、雅歌の冒頭から7:10までは人が創造主へ向けて語っており、そこから結末までは人がメシアに向けて語っている。またすべての女性の表現はイスラエルを示しているのだという。彼の注解が寓意的である一方で、彼の聖書のアラビア語訳はプシャットを旨とした字義的なものだった。

ヤフェットの注解はより学問的で、一貫しており、明晰であった。彼は雅歌を完全にエゾテリックな書物として寓意的に解釈した。彼にとって雅歌注解とは、救済史的な観点から、雅歌のメタファーを終末の日の祈りと出来事とに関係付けることだった。とはいえ、それには段階があり、まずヘブライ語をまったく逐語的にアラビア語訳した上で、字義通りの意味(al-zahir)を確認し、最後に寓意的な解釈(ta'wil)に取り掛かるのである。ときにラビ的解釈を援用することもあったが(1:9を出エジプトに重ね合わせるなど)、それは自身の終末論的解釈を補うときのみに限られた。彼の注解の中には、ラビ・ユダヤ教に対する論争の様子が数多く残されている。特に、暦、祭りの遵守、食餌規定などといったハラハーに関する事柄に関して激しい論争が繰り広げられた。

ラビたちの雅歌解釈は、自らの権威を称揚しつつ、神とイスラエルの民との歴史的な関係をテクストに読み込んでいくものだったが、カライ派の雅歌解釈は、このラビたちの解釈を部分的に受け入れつつも、それを終末論をはじめとする自らの共同体の歴史理解に当てはめていくものだった。彼らの聖書解釈はラビたちによっては無視されたが、中世に百花繚乱の様相を呈することになる、個人名義で注解を書いた聖書注解者たちのモデルになったのである。

2014年10月7日火曜日

雅歌タルグムの歴史理解 Menn, "Targum of the Song of Songs"

  • Esther M. Menn, "Targum of the Song of Songs and the Dynamics of Historical Allegory," in The Interpretation of Scripture in Early Judaism and Christianity: Studies in Language and Tradition, ed. Craig A. Evans (Sheffield: Sheffield Academic Press, 2000), 423-45.
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5世紀から8世紀にかけて成立したとされる雅歌タルグムは、単なる翻訳ではなく、雅歌全体を出エジプトからメシアの時代までの歴史として解釈したものである。雅歌ラバーやアガダット・シール・ハシリームなど、雅歌に関するラビ文学も、雅歌をイスラエルと神との歴史として見なしてはいるが、雅歌タルグムのみがそれをひとつながりのものとして提示している。

男女の愛を描き、神の名が出てこない雅歌は、他の聖書文書と軌を一にしていないと見なされることがあった。そこで雅歌タルグムは雅歌を神とイスラエルとの関係のメタファーとして解釈することで、他の文書との不協和音を解消しようとしたのである。これは、ギリシア神話の非倫理的なエピソードをアレゴリカルに解釈しようとした運動と似ている。しかし、こうした通常の寓意的解釈が、具体的なエピソードを一般化していく(particular → universal)のに対し、雅歌タルグムの寓意的解釈は、男女の愛という一般的なテーマを神とイスラエルの親密さへと具体化している(universal → particular)。そういった意味で、雅歌タルグムの寓意的解釈は、フィロンのようなヘレニズム・ユダヤ文学におけるそれとも異なっている。

イスラエルの歴史観は直線的で不可逆なものとされることが多いが、雅歌タルグムの歴史理解はむしろ、罪と悔い改めの反復に基づいている。雅歌タルグムは歴史を網羅的に描くことを目的としているわけではなく、特定の目的のためである。Mennによると、雅歌タルグムがこのような歴史理解をするのには、次の3つの目的があるという。
  1. 正典的(canonical purpose)
  2. 実践的(practical purpose)
  3. 遂行的(performative purpose)
正典的目的。雅歌タルグムは、聖書の中での雅歌の役割を周辺的なものではなく、むしろすべての文書をつなぐような核にするために、雅歌を神とイスラエルの歴史として解釈している。雅歌タルグムは、雅歌は世俗的な愛の歌ではなく、霊感を受けた聖なる書物であると考えている。いうなれば、雅歌を預言書ジャンルにあるものと見なしているのである。高度にシンボリックなため一見分かりづらい点、あるいは神とイスラエルとが男女に喩えられている点などは、共に預言書の特徴でもある。

実践的目的。雅歌タルグムは、外国人の支配を受ける中でユダヤ人がユダヤ的生活を守っていくために、雅歌を神とイスラエルの歴史として解釈している。バビロン捕囚を含意しつつも、雅歌タルグムはローマやイスラーム支配下のユダヤ人を対象としている。雅歌タルグムが、そうした捕囚・離散にあって最も重要だと考えたのは、ラビ的な価値観(rabbinic value)であった。すなわち、宗教的態度、祈り、シナゴーグへの出席、学塾などを維持していくことである。そのため、雅歌タルグムはモーセのような預言者を賛美はするが、それと同時にイスラエルの民をも賛美している。これはすなわち、待っていれば預言が向こうからやってきた時代は終わり、自らトーラーを学んで神の声を聞かなければならなくなったことを表している。

遂行的目的。雅歌タルグムは、のちの者たちが最終的な贖いを得ることができるために、雅歌を神とイスラエルの歴史として解釈している。雅歌タルグムは、イスラエルの人々は救いを経験するたびに神を賛美する歌を歌ってきており、全部で十歌あると考えている(第一にアダムが罪を見逃されたとき、第二にモーセが海を渡ったとき、第三にモーセが砂漠で水を得たとき、第四にモーセがこの世を去るとき、など)。雅歌はそのうち第九番目であって、第十歌は贖いのときに歌われる。ユダヤ人はこの第十歌を歌うことができるまで、イスラエルを存続させなければならないのである。

2014年10月5日日曜日

聖書解釈者としてのイブン・エズラ Sarna, "Abraham Ibn Ezra as an Exegate"

  • Nahum M. Sarna, "Abraham Ibn Ezra as an Exegate," in Rabbi Abraham Ibn Ezra: Studies in the Writings of a Twelfth-Century Jewish Polymath, ed. Isadore Twersky and Jay M. Harris (Cambridge, MA: Harvard University Press, 1993), 1-27.
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日本ではスピノザ『神学・政治論』の「ネタ元」として知られているアブラハム・イブン・エズラ(1092-1167)は、ミクラオット・グドロットではおそらくラッシーの次によく参照される聖書解釈者である。スペインにおいて、「星の巡り合わせの悪いとき」に生まれた彼は、パトロンの庇護を受けて生活していたため、次々と新しいスポンサーを求めて諸国を遍歴することになった。しかしそうした遍歴生活によって、さまざまな知識を得ることができたともいえる。またイスラーム・スペインからローマをはじめとするキリスト教諸国へ移動したために、彼はアラビア語ではなくヘブライ語で著作を残した。これが現在でも彼の著作がよく読まれている一つの要因といえる。

驚くべきことに、彼が著作活動を始めたのは50歳になったときだった。なぜ50歳から書き始めたのかは明らかではないが、その少し前に病気をしたから、あるいはローマで異端として告発されたので異端ではないことを証明したかったから、などさまざまな理由が考えられる。彼が残した注解は聖書すべてをカバーするものではない。現存するのは五書、イザヤ書、十二小預言書、詩篇、ヨブ記、メギロット(エステル記、コヘレト書、雅歌、哀歌、ルツ記)のみである。しかし彼は他にもヨシュア記、士師記、サムエル記、列王記、エレミヤ書、エゼキエル書、箴言、エズラ・ネヘミヤ記、そして歴代誌の注解も書いたと述べている。

彼は他の中世聖書注解者の誰よりも聖書解釈の歴史に対する知識が深かったといわれる。彼はトーラー注解の序文において、彼以前の聖書解釈を批判的に4つのタイプに分けている。
  1. ゲオニーム:世俗の科学の成果を過剰に含んでいる。
  2. 異端カライ派:伝承と口伝律法を否定し、恣意的な解釈をしている。
  3. キリスト者:聖書にエゾテリックな意味を求め、主観的・寓意的な解釈をしている。
  4. キリスト教世界におけるユダヤ聖書解釈:タルムード賢者たちの説教を字義的に取り、ヘブライ語文法を無視している。
彼自身の聖書解釈の方針は、文法的、文献学的、そして文脈に即した研究を基にした(grammatical analysis and intellectual acceptability, p. 6)、テクストのストレートな解釈であった。しかし同時に、トーラーにおけるハラハー上の問題に関しては、賢者たちの解釈の権威を認めていた。当時聖書写本の正確さでずば抜けていたスペインで育ったイブン・エズラは、所与の聖書本文をそのままで解釈することを目指した。そのため、彼は当時すでに写本に記されていた「写字生の修正(ティクネ・ソフェリーム)」を無視することもあった。また彼は、テクストの破損や改訂の必要性を仄めかすヨナ・イブン・ジャナハの「置き換え理論(substitution theory)」にも激しく反対した。むしろ彼は、聖書における語の用法、スタイル、レトリックに注目し、またヘブライ語の文法に依拠することで難局を乗り切ることを目指したのである。彼はヘブライ語や聖書のスタイルとして次のような特徴を指摘している。
  1. 省略(ellipsis):冗長な言葉を省略できる。
  2. 転置・逆転(transposition, invert):語順、節順、エピソード順が逆転する。
  3. 並置(juxtaposition):節と節との並置には何らかの関連した意味がある。
  4. キアスムス(Chiasmus):二つのものが言及されるとき、二度目には二つ目が先に言及される。
  5. 間隔を置いた要約的反復(resumptive repetition following an interval or interruption):ある出来事が言及されたあとに、しばらくして同じ出来事に言及することがある(出14:8,9; Ex 20:15, 18; Num 32:2, 5)。
イブン・エズラは、カライ派を批判していたことからも分かるとおり、口伝律法を重視する立場を取る。特に、聖書におけるハラハー的な箇所については、賢者たちの伝承に依拠している。一方で、ハラハー以外の箇所については賢者たちの解釈に遠慮なく批判を加えた。彼は、代々伝えられてきた伝承(カバラー)と、賢者たち自身がロジックや討論の実践によってテキストから導き出した事柄(セヴァラー)とを厳密に区別していたのである。そして場合によっては、ラビたちの見解をまったく否定することもすらあった。

さらに、彼の傾向として、タルムードより後代のラビ的解釈にはほとんど重きを置かなかった。彼はサアディア・ガオン、ヨナ・イブン・ジャナハ、サムエル・ベン・ホフニ、ラッシーをはじめ、40人ほどの先行者たちに言及しているが、そのほとんどを、莫迦にした枕詞をつけて紹介している。特にカライ派と、ヒッウィー・アル・バルヒ(9世紀)と某イツハキに対しては容赦がない。ただ彼がこうした聖書解釈者たちを単に捨て置かず、いちいち名を挙げて批判しているのは、裏返せば彼らの著作がイブン・エズラ当時よく読まれていたことの証左でもある。スピノザへとつながっていく彼の「本文批評」の意識は、こうした「文壇」事情に促されるかたちで形成されていったともいえる。

そうした「本文批評」の意識の中で、イブン・エズラは聖書中のアナクロニズムに注目した。申命記32章はモーセを三人称で描いているが、これは、五書の著者はモーセだとする当時の見解に矛盾する。彼はこの箇所を後代の付加だと見なしている。これは、なるべく聖書本文をそのままのかたちで意味が通るように解釈するという彼の基本方針に反するようにも思える。実際Sarnaも、「It is hard to establish the criterion by which Ibn Ezra differentiated acceptable from inadmissible anachronisms, p. 19」と述べている。彼はまた、モーシェ・ハコーヘン・イブン・チキティラ(1080年没)の影響下で、イザヤ書の複数著者説に言及している。

最後に、イブン・エズラの聖書解釈の特徴として、注解することで自身の哲学を開陳しているということが挙げられる。彼は晩年に哲学に特化した小品をものしてはいるが、彼の哲学はむしろ注解の中から導き出される。それによると、彼はソロモン・イブン・ガビロールに影響を受けた新プラトン主義者というのが定説になっている。

2014年10月4日土曜日

第四マカバイ記、ガレノス、ポセイドニオス Renehan, "The Greek Philosophic Background of 4th Maccabees"

第四マカバイ記の著者の思想的背景について、しばしば次のような2つの疑問が投げかけられている。
  1. 著者はきちんとギリシア哲学の学習をしたのか?表面的に哲学的彩色を施しているだけなのではないか?
  2. もし哲学的素養があるのだとすれば、いったいどの学派に属しているのか?
第一の疑問に対し、Heinemannは四マカ著者の哲学的素養は聞きかじりにすぎないとする一方で、Pfeifferはフィロン以外では最もギリシア哲学に詳しいヘレニズム・ユダヤ文学であるとする。また第二の疑問に対し、Pfeifferはストア派と見るのに対し、Wolfsonはストア派というよりユダヤ色がを強調する。さらにHadasに至ってはプラトン哲学からの直接的な影響を指摘する(同時にストア的記述には誤りが多いと述べる)。すなわち、四マカ著者の哲学的背景については、議論百出の状態である。しかし本論文の著者Renehanは大筋で四マカ著者をストア派と認めている。

多くの研究者たちが四マカ著者の哲学的背景がストア派とはいえないと考えるのは、四マカにおける特徴的な情念論のためである。すなわち、正統的なストア派は情念を完全に根絶できるものと考えるのに対し、四マカ著者は情念を支配することはできるが根絶はできないと述べる。しかしストア派といっても一枚岩ではない。中期ストア派のポセイドニオスはプラトンの思想に回帰しつつ、情念の根絶でなく支配を説いたことが知られている(ポセイドニオス自身の『情念について』は現存しないが、後代の医学者ガレノスの著作から彼の思想を知ることができる)。ゆえに、Renehanによれば、ポセイドニオスがストア派といえるのであれば、四マカ著者もストア派といえるという。彼らのような、正統的な哲学の学派に創意を加えた折衷的な立場を、Festugiereは「philosophic koine」と呼んだ。

また、四マカ著者に対しては、ユダヤ教的背景に関する検証が必要である。たとえば、多くの研究者たちは、四マカ5.19-21における、倫理的な罪に軽重があることを伺わせるようなエレアザルの台詞をユダヤ教的発想にもストア派的発想にもない、著者独自の見解と考えた。つまり、ここから四マカ著者は哲学的にはストア派ではないという結論が導かれる。しかしRenehanは同箇所の文脈から、これはエレアザルが相手の考え方を先取りして述べているだけであって、実際ここでのエレアザル=四マカ著者の考え方はむしろ言われていることの間逆であると主張する。すなわち、四マカ著者はユダヤ教的・ストア派的見解とを統合して、罪に軽重はなく、いかなる罪も罪であると考えているのである。ところで、この場合はユダヤ教的見解とストア派的見解とが相反さなかったために問題はなかったが、四マカ著者は、基本的には(中期)ストア哲学に依拠していながらも、ある哲学的見解がユダヤ思想とぶつかる場合、躊躇なくストアを捨てるユダヤ人であった。つまり、彼の思想においてストア哲学と異なる点があっても、それがユダヤ思想に由来するものである限り、彼のストア性を否定する証拠にはならないということである。

Renehanは、さらに四マカ著者のストア哲学的背景を検証していく。四マカ第3章の冒頭には、理性による情念の支配に関する記述があるが、それと酷似した表現がガレノスの著作にもある。Renehanは、内容以外にも、両者共にτις οὐという極めて珍しい表現(οὐδείςの意。τίς οὐではない)がδύναταιに付随して現れていることを指摘する。そうしたさまざまな証拠から、四マカ著者とガレノスとは同じソースを持っていたといえる(The uncommon phrase would have been converted to commoner coin, p. 238)。そしてガレノスのソースは、ポセイドニオスであったことが相当程度証明できるため、四マカ著者のソースもまたポセイドニオスであったといえるのである。四マカ著者の特徴である、1)ストア派的な記述と、2)情念は支配できるが根絶できないという主張とは、共にポセイドニオスの特徴でもあった。

2014年10月1日水曜日

ヒエロニュムス研究の最前線 Kamesar, "Jerome"

  • Adam Kamesar, "Jerome," in The New Cambridge History of the Bible, ed. James Carleton Paget and Joachim Schaper (4 vols; Cambridge: Cambridge University Press, 2013), 1: 653-75.
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本論文が収録された『新ケンブリッジ版聖書の歴史(The New Cambridge History of the Bible)』全4巻(既刊2巻)には、旧版として『ケンブリッジ版聖書の歴史(The Cambridge History of the Bible)』全3巻がある。後者は、1970年前後の聖書学の最新の成果を反映させた集大成として出版されたものである。そこでは、E.F. SutcliffeとH.F.D. Sparksの二人がヒエロニュムス関連の項目を執筆している。
  • H.F.D. Sparks, "Jerome as Biblical Scholar," in Cambridge History of the Bible, ed. P.R. Ackroyd and C.F. Evans (3 vols; Cambridge: Cambridge University Press, 1970), 1: 510-541.
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  • E.F. Sutcliffe, "Jerome," in Cambridge History of the Bible, ed. G.W.H. Lampe (3 vols; Cambridge: Cambridge University Press, 1969), 2: 80-101.
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今回取り上げる論文は、このシリーズの新しい集大成として2013年に出版された、『新ケンブリッジ版聖書の歴史』の第1巻に収録されており、ヒエロニュムス研究の2013年時点での最新の成果であるといっていい。

著者は、本論文の中で当然ながらヒエロニュムスの伝記的側面にも触れるが、あくまでヒエロニュムスが当時の聖書研究に対し、どのような貢献をしたかを中心に語っている。内容としては、生涯と著作、聖書の版と正典観、文学的評価と翻訳、注解の4つに大別される。以下、興味を持った点を挙げていく。

生涯と著作。ヒエロニュムスがローマ遊学時に文法学者アエリウス・ドナトゥスに師事したことは、重要なポイントである。彼がそこで学んだ文法学(グラマティケー)とは、いわゆる「文法」だけでなく、文学テクストのシステマティックな学習をも含む、より広い意味での文法学を指している。ドナトゥスの影響は、後年の聖書研究にも大いに生かされることになる。またヒエロニュムスは、アウグスタ・トレウェロルムにおいてポワティエのヒラリウス『詩篇論』を読むことで、聖書の文学的分析の方法、翻訳論、ユダヤ人教師の有用性などを学んだ。彼の著作は4種類:
  1. 聖書の改訂と翻訳
  2. ギリシア語の聖書解釈作品の翻訳と翻案
  3. 注解
  4. 説教
ヒエロニュムスはこれらを彼のパトロンや文通者の求めに応じて書いていたので、順番や時系列に体系性はあまりない。

聖書の版と正典観。ヒエロニュムスは、ローマで教皇ダマススの求めによって古ラテン語訳の福音書と詩篇を改訂するが、彼はこれをemendatioと呼んでいる。これは、ワッローによって定められたギリシア・ラテン文法学上のタームとして捉えるべきである。福音書以外の新約聖書の改訂は彼の弟子であるシリア人ルフィヌスによってなされた。パレスチナに行ったあとに、彼はヘクサプラの七十人訳に照らして古ラテン語訳の改訂をするが、聖書のすべての文書を改訂したわけではない。さらにそのすぐあとの391年頃にヘブライ語からの翻訳を始めたため、彼のヘブライ語への目覚めはこの頃のことされることが多い。しかし、ヘブライ語の重要視自体は彼のキャリアのもっと早い時代、ローマ時代からの特徴である。またヘクサプラによる改訂を、彼はのちのちまでひとつの作品として誇りとしており、ヘブライ語に目覚めたから途中でやめたとはいえない。七十人訳理解に関して、ヒラリウス、エピファニオス、アウグスティヌスがそれを唯一無二と考え、またエメサのエウセビオス、タルソスのディオドロス、モプスエスティアのテオドロスらアンティオキア学派がそれは唯一の聖書ではないが最重要視されるべきと考えたのに対し、ヘブライ語の原典に戻るべきというヒエロニュムスの考えは極めてラディカルなものだった。彼はラテン語読者にとってのラテン語訳聖書が、ギリシア語読者にとってのヘクサプラのような存在になることを願っていた。

文学的評価と翻訳。ヒエロニュムスの大きな特徴のひとつは、聖書に対する文学的評価の繊細さである。当時、教養ある層の人々の多くは、聖書が文学としては劣ったものだという見解を持っていた。これに対する反論としては、次の二通りが挙げられる:
  1. 聖書のよさは文学的な形式ではなく内容である。
  2. 聖書は実は文学的にも優れている(2-1:翻訳では劣っているが原語では優れている、2-2:翻訳だがそれでも文学的に優れている)。
アウグスティヌスら多くの者は一点目のような説明をしたが、ヒエロニュムスは一点目に加えて、「2-1:原語ではすぐれている」という議論を展開した(つまり「2-2:翻訳だがそれでも文学的に優れている」という見解は取らない)。こうした見解をもとに、ヒエロニュムスはイザヤ、エレミヤ、エゼキエルのヘブライ語での文体を、それぞれ、「都会風」「田舎風」「その中間」と評価している。異なる文学スタイルを三つ挙げて比較することは(三人の著者の場合もあれば、一人の著者の三作品の場合もある)、ギリシア・ラテン文学においてよく用いられる比較法だった。また「都会風」「田舎風」という評価基準は、ラビ文学と異教文学の注解に見られる。すなわち、ヒエロニュムスは聖書の読みに関してユダヤ人教師に依拠していたが、それを解釈するに際し、かつて学んだ文法学と修辞学を用いた古典的解釈法を聖書に当てはめたのである。彼のラテン文学伝統への依拠は、二つにまとめられる:
  1. 文学スタイルへの注目
  2. 翻訳それ自体を芸術と捉える観点
一点目に関して、ヒエロニュムスは、文学スタイルに注目することで、七十人訳が原典の風味を維持していないことを指摘し、それゆえに新訳が必要だと論ずる。二点目に関して、ヒエロニュムスは翻訳論を語る。Ep. 57において、ヒエロニュムスは聖書に関しては逐語訳を旨としたと語っているが、一方で、Ep. 112では意訳をしたとも語っている。Kamesarによれば、ヒエロニュムスはEp. 57においては、聖書翻訳は逐語訳すべきと言っているのではなく、自分より以前の聖書翻訳の伝統(アクィラ訳、古ラテン語訳など)は逐語訳だったと説明しているのだという。その上で、あくまで自身はラテン語としてのエレガンスに拘り、聖書の文学スタイルを維持しようとしたのである。

注解。彼の注解は、世俗のラテン文学の伝統とギリシア教父文学の伝統とが根幹となっている(ラテン教父文学からの影響はわずか)。パウロ書簡の注解はオリゲネスなどギリシア教父文学からの影響が強い。しかし、パウロのヘブライ的背景を理解するにはヘブライ語が必要と考えた。またそれによってオリゲネスの仕事を超えることを目指した。ヒエロニュムスは、そうした目標をもとにコヘレト書注解を書いた。この注解ではヘブライ語に関する事柄にかなり触れており、またユダヤの聖書解釈を取り入れている。さらに創世記問答においては、彼の文献学的な方法論を具体例によって正当化するという試みをしている。エメサのエウセビオスも同様に創世記の注解をものしているが、彼がシリア語とタルグムの解釈をベースにしたのに対し、ヒエロニュムスはヘブライ語とヘクサプラをベースにし、かつユダヤの聖書解釈の伝統を盛り込んだ。すなわち、前者はアンティオキア学派として非ヘクサプラ的アプローチを取ったのに対し、後者はアレクサンドリア学派としてヘクサプラ的アプローチを取ったといえる。アンティオキア学派はシリア語によってヘクサプラを超えることを目指したが、ヒエロニュムスはヘクサプラをより洗練された方法で活用したのである。預言書の注解では、アレクサンドリアの解釈伝統である、字義的解釈と寓意的解釈の両輪による解釈を展開した。そのとき、ヘブライ的伝統を字義的解釈の方法論とし、ギリシア教父の伝統を後者の方法とした。そして、聖書の一節を引くときには、ヘブライ語からの訳と七十人役からの訳とを併記するようになった。これを一貫性がないと批判するエクラヌムのユリアヌスのような者もいれば、うまくやっていると評価するカッシオドルスのような者もいた。

ヒエロニュムスは神学者ではなく、編集者、翻訳者、そして文献学者であった。ラテン世界で生きたことが幸いし、ギリシア語一辺倒だったギリシア教父たちを相対化することができ、ヘブライ語に注目することができた。同時に優れたラテン作家として、文学的なスタイルに対する感覚の繊細さも持ち合わせていた。そして注解ではギリシアとヘブライの伝統を併せ持つ作品を残すことができた。

さらなる参考文献。
  • Adam Kamesar, "S. Gerolamo, la valutazione stilistica dei profeti maggiori et i genera dicendi," Adamantius 11 (2005): 179-83. 
  • L. Fladerer, "Übersetzung," Der Neue Pauly 12.2 (2002), cols. 1186-7.
  • S. Brock, "Aspects of Translation Technique in Antiquity," GRBS 20 (1979): 69-87.