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2012年3月13日火曜日

対象に逆らう語

  • ジョージ・スタイナー(亀山健吉訳)「対象に逆らう語」、『バベルの後に:言葉と翻訳の諸相』(上)、法政大学出版局、1999年、206-420頁。
バベルの後に〈上〉言葉と翻訳の諸相 (叢書・ウニベルシタス)バベルの後に〈上〉言葉と翻訳の諸相 (叢書・ウニベルシタス)
ジョージ スタイナー George Steiner

法政大学出版局 1999-03
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スタイナーの『バベルの後に』の第3章を読みました。これで邦訳の上巻を読み終えたことになります。この章では、言語について、ずっと弁証法的な対立軸が語られています。

第1節では、「肉体的・物理的なものとしての言語」と「精神的なものとしての言語」とが語られます。スタイナーによれば、言語学は人文学の中では例外的に科学的と見なされており、事実この分野で使われる術語は数学や数理論理学が模範とされ、対象も形式的な言語モデル=メタ言語が持ち出されます。言語は科学的に扱える、というこの前提をもとに、さらには、「人間の言語の性質が有機体としての人間に強い関わりを持ちつつ、比較解剖学や神経生理学の展開の主題のひとつになっている」(p. 228)ことさえあります。こうした〈肉体的・物理的なものとしての言語〉というのは、確かにひとつの側面ではあります。しかし、言語活動をそれだけで扱うことはできません。すなわち、〈精神的なものとしての言語〉という観点が必ず必要となります。このことを説明するために、スタイナーは自分自身の経験をもとに語り始めるのですが、これは本書で最も面白い記述のひとつですから、せっかくなのでどうぞ実際にお読みください(pp. 213-22)。

第2節では、言語の精神性のさらなる説明のために、言語と「時間」という観点が登場します(p. 235)。スタイナーによれば、我々の時間のイメージは、我々が用いる言語の文法によって形成されたもの(逆もまた然り)と考えられます。そこで、言語が「過去」と「未来」とにどのように作用するかをそれぞれ考えていくわけですが、スタイナーの真骨頂はこのうち「未来」の部分の記述にあるように思われます。たとえばヘブライ語には明確な時制がありませんが、このことが預言者たちの語る未来を「逆転可能」なものにしたのに対し、ギリシアの神託の厳格な決定性はギリシア語の未来形と深く関わっています。また時間が直線的に進み、しかも無限に開けていると考えたニュートンやカントの未来は、熱力学におけるエントロピーの原理を知ったサディ・カルノーやクラウジウスの未来とは大きく異なるはずです。しかしスタイナーは言語間のこのような違いはともかくとして、少なくとも言語を通して未来を望むことができるということこそが、人間だけが持った特別な能力だと述べます。
私は、人間だけが未来性という文法を発展させたことを、特に強く主張したいと思う。…人間の構文の仕方の進展は、人間の〔時間間隔に基づく〕歴史的自己把握と不可分な形で結びついているものである。前に向かって推理を働かせたり、期待を寄せたりする、前に述べたあの〈原則の役割を果たす虚構〉は、人間の意識が獲得した特殊の利益などに尽きるものでは決してない。こういう虚構こそ、人間が生きのびてゆくときの最重要な要因である、と私は信じている。未来をありありと思い浮かべることのできる観念や言語行動を持ち合わせていることは、我々のこの特殊な人間性を保持し発展させるのには不可欠なのである。ちょうど、夢が人間の頭脳の合理的な活動にとって不可欠であるのと同様である。未来と切り離されてしまえば、理性は萎えてしまうのである。(p. 282)
第3節では、ヴィトゲンシュタインの議論に沿って、「個人の言語(私的言語)」と「公共の言語」という観点が持ち出されます。スタイナーは、基本的に言語とは公共のものであり、「この地上で言語なるものが生じてくれば、それは文法の持っている可能性という、普遍的な筋道に沿って展開してくるものである」(p. 299)としつつも、すぐさま、「私的ということが直接重要な意味を担っている場合もあり得る」(p. 300)と述べます。その私的なことの重要性を体現するのが、「暗号」であり、「連想」であり、「タブー」なのです。また「言語の公共性への憤り」も示されます。
圧倒的に自分自身のものであると感じているさまざまな欲求、愛情、憎悪、内面への省察など、また、我々の個々人の個体としての自覚、我々の世界の自覚を促すこのような心の細やかな動きが、通常使われている当たり前の言語で言われなくてはならないこと—しかも我々が我々自身に語りかける場合でさえも、そうせざるを得ないこと—は、ほとんど耐えられないと言ってよい。いわば、我々の喉の渇きは我々に最も身近なものであり類を絶したものと言ってよいが、渇きを癒すためのコップは、長年、多くの他人の唇に触れてきたものでしかないのに似ている。(p. 309)
第4節では、言語における「真」と「偽」という対立が語られます。スタイナーは、これまで「真理の本来の性質とは何か」という命題については、言語哲学や論理学における長い議論があるけれども、「反-事実」の言語表現および「条件文」に注目した議論は少なかったと述べます(エルンスト・ブロッホなどを除いて)。しかも上記の「未来形」と同じく、この「反-事実」の言語表現こそが人間にとって重要なのです。
私の信ずるところでは、我々が〈偽〉を主として否定的なものとみなしている限り、また、我々が反-事実、矛盾、ならびに、条件法の多様な表現の仕方を、論理的に見れば正統でない特殊な様式と捉えている限り、言語の進展とか、言語と人間の行動との関係とかを理解しようと思っても、一歩も先に進むことはできまい。言語というものは、あるがままの世界を人間が受け容れることを拒むための主要な道具立てなのである。(p. 388)
ここで言われている「あるがままの世界」とは、この世界のことで、言い換えれば容赦のない「敵」であり、究極的には「死」のことを指しています。我々が使っている言語は、こうした者に対する「防禦」のための道具であり、決して〈真実〉を述べたり、〈事実についての正しい知識〉を伝達しようと思っているのではないといえます。つまりスタイナーに言わせれば、言語の精髄とは、まさに「隠蔽」と「虚構」にあるのです。読者はこのことを認識して初めて、「バベルの問題」に迫っていく端緒を得ることができます。

言語とは、第1節で見たように「精神的なもの」であり、かつ第3節で見たように「個人的なもの」でもあります。そして第2節と第4節で見たように、「未来」や「反-事実」を語ることこそをその本質としています。こうしたことを踏まえて、2章で出された、「いったい、人間は何故、何千もの異なった、相互に了解し得ない言葉を語っているのであろうか」(p. 101)という問いに戻ると、次のような答えが得られます。すなわち、外面的伝達手段としての言語というのは実は二次的な機能であって、言語とはそもそも家族などの少人数の集団の中枢に入っていくための「合言葉」のようなものであり、かつそうした別の言語を使う各集団がそれぞれ、他者を排除し自分たちだけが分かる世界、すなわち、〈事実に反する世界〉を作り出すのに懸命になっていたことゆえに、言語は多様なままであったのだ、といえます(p. 412-13)。つまり上で見てきたような言語の虚構の精神と、人間の言語の多様性との間には、決定的な連関性があるのです。
人間の魂は特殊性を求め、自らを〈囲い込み〉、しかも、新しいものを創り出そうとする欲求を持っているが、それが非常に強いので、人間の歴史の全部を通じ、世界の言語がひとつになれば、人間相互の了解が容易になって目覚ましい利益が得られることは明白であるにも拘らず、そういう利点よりも、特殊性の方がごく最近まで立ち優っていたのである。この意味では、バベルの神話は、また、象徴的逆転の一例と言ってよい:人類は多くの言語の中に散りさすらうことによって滅ぼされたのではなく、却って、活力と独創性を得たのである。こうなると、翻訳活動とはどんなものでも—特にそれが成功した場合は—裏切りの感を禁じ得ない。〔ある言語を語る民族の中で〕貯えられた夢の数々、生きてゆく上でのさまざまな知恵などが、国境を超えて持ってゆかれてしまうからである。(p. 415)
さて、ここまで来て初めて「バベルの問題」=「翻訳の問題」を考える下地が揃ったので、おそらく次の章から翻訳論の中身に入っていくことになるのでしょう。

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