- Donatien De Bruyne, "La correspondance échangée entre Augustin et Jérôme," Zeitschrift für die neutestamentliche Wissenschaft 31 (1932): 233-48.
少々古いですが、アウグスティヌスとヒエロニュムスの往復書簡について書かれた論文を読みました。ネット上ではdeepdyveという有料サービスに登録するとダウンロードできるようです。前回のO'Connell論文で気になっていたようなことが説明されていて、とてもわかりやすい論文でした。特に、双方のやりとりを時系列に並べた表があるのが助かります。
De Bruyneによると、この往復書簡には次の3つの問題点があり、それらに注意して見ていかなければなりません。すなわち、1)アウグスティヌス側(Goldbacher)とヒエロニュムス側(Hilberg)の2つの校訂版があること、2)それら近代の校訂版と、古代における編集が加味された写本とを常に比べてみなければならないこと、3)アウグスティヌスはともかく、当時のヒエロニュムス側の事情がよく分かってないこと、の3点です。まずDe Bruyneは、校訂版で20通ある書簡を時系列に沿って、第1グループ(12通)、第2グループ(5通)、第3グループ(3通)に分けています。そしてそれぞれの書簡を精査しながら、上の3つの問題点に関わることどもを検討していきます。
のっけから驚いたことに、最初の書簡28(アウグスティヌス→ヒエロニュムス、以下A→J)のあとには失われた書簡Aと書簡Bがあること、またGoldbacher校訂版では書簡28の次に来る書簡39(J→A)は、実際にはHilberg校訂版での順番(書簡68のあと)が正しいこと、が示されます。前者の書簡A, Bは、さほど重要でなかったのか、双方の写本伝承上でも落とされています。書簡39に関しては、文中で言及されている「手紙」が書簡Bである説(ゆえに書簡39の成立は397年)、または書簡68である説(ゆえに403年)があり、De Bruyneは前者ではないかと考えているようですが、双方の写本上で書簡68のあとに置かれているために、最終的には写本に従った順番に並べています。つまりDe Bruyneはロジカルに考えてGoldbacherの判断を是としたわけですが、エビデンスとして存在する写本はやはり尊重されねばならないのでしょう。このあたり判断が難しいところです。
書簡40(A→J)でアウグスティヌスが末尾にサインをしなかったために、その返事である書簡68(J→A)でヒエロニュムスは、書簡40が本当にアウグスティヌス本人の手になるものなのかを疑い、腹を立てているようですが、De Bruyneはこのヒエロニュムスの怒りは実は「怒っているフリ」なのだと述べます。というのも、そもそもアウグスティヌスがサインをしなかったわけではなく、彼自身が書いた書簡40はヒエロニュムスのもとに届かず、その写しが届いたために末尾のサインが消えていたと考えられるからです(他にもいろいろ理由はありますが)。ではなぜわざわざ「フリ」をせねばならなかったのかというと、ガラテヤ書のパウロとペテロの衝突(2:11-14)について、かつてはオリゲネスに従った解釈をしていたが、オリゲネス異端論争を受けて自分が変節したことを知られないようにするためと、オリゲネスと同じ解釈をしているアウグスティヌスを糾弾するためであったといいます。ヒエロニュムスというと怒りっぽいイメージがありますが、De Bruyneは、もうちょっと冷静だったはずだと考えているみたいですね。ちなみに書簡68のあとにも失われた書簡Cがあったようです。
書簡75(J→A)は、文体的に教養あふれる傑作書簡のようで、内容的には、ヒエロニュムスがこれまでの議論をまとめつつ、やんわりと議論を終えようとしているものになっています。これは公開を前提として書かれました。なぜそれが分かるかというと、そもそもこの往復書簡には、アウグスティヌス自身の編集が入った写本伝承と、ヒエロニュムス自身による編集が入った写本伝承とがあるわけですが、そのうちヒエロニュムス側の写本では、書簡75がやり取りの最後になっているからです。つまり彼は公開を前提として気合を入れて書いた書簡75を最後に持ってくることで、この議論で勝利したのは自分であるというイメージを残そうとしたのでした。悪いですね~ヒエロニュムス。実際はこのあと書簡81(J→A)、書簡82(A→J)が続き、第1グループの12通になるわけですが、ヒエロニュムス側の写本では10通しかありません。いやはや悪いですね~ヒエロニュムス。
第2グループにはさしたる問題はありませんが、第3グループでは書簡123(J→A)をどこに設定するかが問題になります。Goldbacher校訂版ではこの書簡は孤立してしまっており、Hilberg校訂版では書簡195のあとに配置されています。この書簡の成立は、文中でアラリックによるローマの占領についてほのめかしていることから410年説(Les Mauristes, Goldbacher, Lietzmann)と、内容的に考えて418年説(Vallarsi, Grützmacher, Cavallera)とがありますが、De Bruyneはこの書簡が実際には書簡195の追伸であったと考え、後者の説を取っています。また書簡123では、ローマの占領はペラギウス派からの誘惑に乗ってしまったからだと比喩的に語っているわけですが、カルタゴ公会議で教皇ゾシムスによってペラギウス派が異端とされたのが418年であることから、書簡123も同年以降に書かれたと考えられるわけです。この書簡の後に失われた書簡D, Eが続き、書簡202(J→A)を最後にヒエロニュムスが亡くなります。
最後にDe Bruyneによる往復書簡の評価を引用しておきます。これを読むに、やはりヒエロニュムスの方が学識や文体の美しさに関しては定評があるようです。
Au point de vue religieux, psychologique, scientifique et littéraire, ces lettres sont parmi les plus intéressantes de la littérature latine. On y voit les deux plus grands génies de cette époque dépeints sur le vif et par eux-mêmes. L'un joint à une érudition et une habileté incomparables un style étincelant, plein de brusqueries et de douceurs. L'autre a un style plus terne, plus calme, un peu fatigant, mais il a un cœur plus aimant, une âme plus sincère, une intelligence plus pénétrante. Et ces deux hommes entrent en conflit, ils déploient toutes les ressources de leurs talents! (p. 247)
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