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2014年10月30日木曜日

過越し祭とミシュナー2 Bokser, "Ch. 5: A Jewish Symposium?"

  • Baruch M. Bokser, "Ch. 5: A Jewish Symposium? The Passover Rite and Earlier Prototypes of Meal Celebrations," in id., The Origins of the Seder: The Passover Rite and Early Rabbinic Judaism (Berkeley, CA: University of California Press, 1984), pp. 50-62.
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Baruch M. Bokser

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第四章より、ミシュナーは神殿崩壊後に過越し祭の食事を行なうに当たって、犠牲祭儀抜きのやり方を提示したことが分かった。しかし、過越し祭から犠牲祭儀を抜いてしまっては、単なるギリシア・ローマ的な饗宴(シュンポシオン)になってしまうのではないか、というのが本章の主題である。結論からいえば、ミシュナーは両者の類似性を意識しつつも、過越し祭の独自性を維持するために、両者を明確に区別した。

ギリシア文学における饗宴の記述としては、プラトン、クセノフォン、プルタルコス、アテナイオスらが挙げられる。論文著者は、こうしたソースから得られる饗宴の特徴とミシュナーおよびトセフタから得られる過越し祭の特徴と比較し、9つの類似点を指摘している。
  1. 食事を運ぶ給仕の使用。
  2. 食事するときに横になること。
  3. 食べ物をソースなどにディップすること。
  4. 前菜(オードブル)があること。
  5. 食前・食中・食後におけるワインの飲用。
  6. 浮かれること。
  7. 知的な議論を教育に用いること。
  8. 神のために歌い、賛美すること。
  9. 子供たちが起きていられるようにゲームをすること。
こうした類似点から、Siegfried Steinなどの研究者は過越し祭に対するギリシア・ローマ的影響を強調する議論を展開したが、著者は、ミシュナーが持つ前提である、過去との継続性と犠牲祭儀の喪失とがある限り、過越し祭の食事をギリシア・ローマの文脈だけで語ることには無理があると述べる。ヘレニズム時代およびローマ時代のユダヤ人たちにとって、共同の食事は重要な意味を持っていたが、それが必ずしもヘレニズム的かつローマ的なやり方を踏襲しているわけではないのである。それを見るために、著者はパリサイ派の食事、クムラン教団の食事、そしてフィロンによって記述されたテラペウタイの食事を検討している。

それによると、三者は共に、皆で集まり、共同で食事をし、聖書を学び解釈し、神を称え歌っている。といっても、それぞれの相違点はあり、ミシュナーのラビたちが失われた犠牲祭儀の代わりとして過越しの食事を解釈しているのに対し、パリサイ派は神の存在と神殿に関する自分たちの見解を表現する方法としてそれを見なしており、またフィロンは祭儀的な概念をテラペウタイの食事に転嫁している。クムランは祭儀的というよりも終末論的な観点から食事を捉えている。

こうした三者三様の考え方がありつつも、著者はそれらを「転移(transference)」という概念で包括的に説明できると考えている。ある共同体は自らの考え方や信仰を通じて現実を認識し、新しいことが起きてもそれを基にして自らを順応させる。しかし、彼らがある破綻を経験し、自分たちの考え方に意味を与えていた制度を失ったとき、彼らは何らかの代替物を用いてそれを解決しようとする(the need to find a substitute for sometiong unavailable, p. 59)。そしてその代替物に、先の制度と関係のある概念を「転移」させるのである。これらのユダヤ人たちも、エルサレムの神殿の喪失および接近不可能性によって、この考え方を用いたのだと説明できる。

上で挙げたような共同体は、食事こそが神殿祭儀を転移するに相応しい文脈であると考えた。そしてその転移は、ギリシア・ローマの饗宴からではなく、それぞれの共同体が応答を迫られていた宗教的な状況から来るものだったのである。そうした意味で、ミシュナーが過越し祭の食事に対して持っていた観点は、70年の神殿崩壊前に神殿から離れた場所に住んでいたユダヤ人たちが共同の食事に対して持っていた観点と極めて似ているということができる。

2014年10月26日日曜日

第四マカバイ記について Schürer, "The Fourth Book of Maccabees"

  • Emil Schürer, The History of the Jewish People in the Age of Jesus Christ (175 B.C.-A.D. 135), Vol. 3, Part 1, revised and edited by Geza Vermes, Fergus Millar and Martin Goodman (London: Bloomsbury, 2014), 588-93.
The History of the Jewish People in the Age of Jesus ChristThe History of the Jewish People in the Age of Jesus Christ
Emil Schnrer Fergus Millar

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第四マカバイ記は、ユダヤ教を哲学として描こうとしている。四マカ著者の目的は、対象読者(あるいは聴者である)ユダヤ人の宗教的教化であったが、いわゆる説教ではなく哲学的な提題を用いてそれをしようとしている。その主張は、宗教的な理性の教えに従いさえすれば、敬虔な生活を送ることは難しいことではないというものである。なぜならば、そうした理性は情念を支配できるからである。こうした内容ゆえに、しばしばこの書は『理性の支配について』(エウセビオス『教会史』3.10.6)と呼ばれることもある。

四マカ著者はそうした哲学を裏打ちする具体例として、殉教者たちの事跡を持ち出している。彼の情報源は、第二マカバイ記と、それよりも詳細が描かれていたキレネのヤソンの著作(現存しない)だったと考えられる。二マカと四マカには記述に違いが見られ、その理由を四マカがヤソンの著作に依拠したからと考えることも可能だが、むしろ両著者の目的やジャンルの違いがそうした結果を生んだと考える方が妥当だろう。

四マカの哲学的背景は、中期プラトン主義および中期ストア派といえる。しかしより根本的なアイデアはユダヤ教である。というのも、彼が情念を支配する決め手として描く理性は、通常のギリシア哲学における理性ではなく、律法に従うことによって得られる宗教的理性(ホ・エウセベース・ロギスモス)である。つまり四マカ著者はギリシアの修辞的な記述法の中で、同時代の哲学的なアイデアを用いていたにすぎないのである。彼のユダヤ教由来の独特な見解は二つある。第一は、天上における不死性である。これはあくまで天上における永遠の生のことを指しているのであって、パリサイ派的な肉体的な復活とは異なる。第二は、義人の殉教による人々の贖罪である。

四マカはしばしばヨセフスに帰されるが、それはエウセビオスとヒエロニュムスによるものである。書かれた場所は不明である。書かれた時期については、一世紀中頃が有力で、少なくとも70年より以前と考えられる。写本としては、シナイ写本、アレクサンドリア写本などのギリシア語聖書写本に収録されたものと、ヨセフスの著作の写本に収録されたものとがあるが、前者の方が信頼性が高い。

2014年10月23日木曜日

過越し祭とミシュナー1 Bokser, "Ch. 4: The Mishnah's Response"

  • Baruch M. Bokser, "Ch. 4: The Mishnah's Response: The Meaning of Passover Continues without the Passover Sacrifice," in id., The Origins of the Seder: The Passover Rite and Early Rabbinic Judaism (Berkeley, CA: University of California Press, 1984), pp. 36-49.
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Baruch M. Bokser

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過越し祭を祝うために、ラビ・ユダヤ教以前には、子羊など動物の犠牲が必要不可欠だった。言い換えれば、聖書における過越し祭は神殿祭儀と密接に関わっていたのである。では神殿がなくなったあとのラビ・ユダヤ教はこれをどのように解決したのか。この論文の著者は、ミシュナーのモエード篇ペサヒーム10章を検証することで、ミシュナーが犠牲なしでの過越し祭をいかにして可能にしたかを論じている。それに際し、著者はミシュナーによる9つの試みを明らかにした。

1.過越し祭の食事を、時間や品目に関して犠牲の食事と「同期」させる。出12:8や申16:6のように、聖書は過越し祭の食事を夜に取ることを言明しているが、ミシュナー(・ペサヒーム、以下省略)10.1はこれを踏襲し、なおかつより厳密な規定を与えている。トセフタ(・ペサヒーム、以下省略)2.22はさらに細かい時間を指定し、なおかつ食事に必要な品目を挙げている。

2.種無しパン(マッツァー)と苦菜(ハゼレット/メロリーム)を犠牲と同等に捉える。種無しパンと苦菜は聖書においても言及されているが、あくまで犠牲に対して二次的なものと考えられていた。これに対し、ミシュナー10.3(およびトセフタ10.9-10)は、種無しパンと苦菜をいわば格上げし、犠牲と同等のものと見なしたのである。さらにトセフタ2.22は、苦菜、種無しパン、犠牲を並べた上で、仮にどれかが欠けても残りのものは無効にならないと述べている。ミドラッシュの『メヒルタ・デ・ラビ・シムオン・バル・ヨハイ』の出12:18の解釈では、さらにはっきりとした区別を打ち出し、種無しパンを苦菜よりも上位に置いた。

3.聖書でも指示されている子供への教えは犠牲なしでも可能と言明する。出12:25-27, 13:8などで、両親は子供に過越し祭の意味を説明しなければならないとされているが、ミシュナー10.4では犠牲なしでの説明の方法が示されている。また苦菜を二度ディップすることや、種無しパンと(犠牲の代わりに)焼いた肉のみを食べることなども指示されている。

4.ワインの役割に関するさまざまな規定を示す。実際は聖書にはワインに関わる規定はなく、最初に言及したのは第二神殿時代の聖書文学であるヨベル書であるが、ミシュナーは杯の数、いつワインを飲むか、いつワインに祈るかなどを指示している。

5.三つのことを口に出して言うことでそれらの重要性を認識する。ミシュナー10.5では、ラバン・ガマリエルの教えとして、食事の中で、過越し祭(ペサハ)、種無しパン(マッツァー)、苦菜(メロリーム)という三つの言葉を口に出して言うことが指示されている。これは、あえて口に出して言うことでそれらの事柄に対する集中を促し、それが犠牲と同じくらい重要であると認識させるためである。

6.詩篇の朗誦を専門の朗誦者や犠牲がなくても可能にした。過越し祭の食事では、ハレルと呼ばれる詩篇113篇および114篇の朗誦があるが、ミシュナー10.5-6においては、専門の朗誦者も犠牲も楽器もいらないことが示されている。

7.祭日の重要な要素である幸福になることを犠牲なしでも可能にした。歴代誌やヨベル書で言及されている、肉を食べることで喜びを得られるという考え方は、ラビ・ユダヤ教以前では過越し祭でも同様であった。これに対し、ミシュナー10.1, 2, 4およびトセフタ10.4では、肉に取って代わり、ワインが喜びをもたらすことが示されている。これは特にトセフタの方に顕著な特徴である。

8.ペサヒーム内の章区分から見えるミシュナーの試み。ペサヒームの1章から4章にかけては、過越し祭の神殿崩壊後にも適用可能な側面が記されており、5章から9章にかけては、犠牲について記されている。そのあとに、本論文の対象である10章が来ることになる。ミシュナーは、最初の方の章でいろいろと原理を説明していったあと、最後にそれを適用するとどうなるかを論じるという特徴があるため、ペサヒーム10章もまさにそれに相当している。

9.過越し祭が犠牲を失うことは他の犠牲祭儀を失うことと何ら変わりないことを示す。ラビ・イシュマエルは過越し祭を他の祭りよりも重要と考え、過越し祭の祈りは他の祭りにも適用できるが逆は不可能と述べた。これに対し、ミシュナーは最後に、これに反対するラビ・アキバの意見を挙げることで、過越し祭が犠牲をなくしても、それは取り立てて大きな損失ではないと主張している。

結論としては、最初に述べたように、ミシュナーの目的は、過越し祭を祝うことは犠牲祭儀を欠いても可能であることを強調することであった。ただし、すると新たな問題が生じてしまう。犠牲祭儀は過越し祭の食事を特徴付けるものであったが、それを欠くと、過越し祭の食事とギリシア・ローマの饗宴(シュンポシオン)との区別がつかなくなってしまうのである。ミシュナーはこの問題を解決しなければならなかった。(つづく)

以下蛇足ながら紹介。過越し祭の食事では、ハガダーと呼ばれる特別なテクストを皆で読むが、2014年1月にヒブル・ユニオン・カレッジ(Hebrew Union College)の教授たちを中心にアメリカの改革派ユダヤ教が数十年ぶりにハガダーの改訂版を出版した。イスラエルで手に入るハガダーと比較することで、アメリカの改革派ユダヤ教の特徴を捉えることができるだろう。またアール・デコ風の印刷が美しいので、単純に手にとって眺めるだけでも楽しい。重要な箇所はヘブライ語と英語とが対訳になっているが、英訳は現代の改革派の現実に照らしてかなり解釈が入っている。
  • Rabbi Howard A. Berman and Rabbi Benjamin Zeidman (eds.), The New Union Haggadah: Revised Edition (New York: CCAR Press, 2014).
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2014年10月22日水曜日

トセフタとミシュナーとの関係 Zeidman, "An Introduction to the Genesis and Nature of Tosefta"

  • Reena Zeidman, "An Introduction to the Genesis and Nature of Tosefta: The Chameleon of Rabbinic Literature," in Introducing Tosefta: Textual, Intratextual, and Intertextual Studies, ed. Harry Fox and Tirzah Meacham (Hoboken, NJ: Ktav Publishing, 1999), 73-97.
0881256374Introducing Tosefta: Textual, Intratextual, and Intertextual Studies
Harry Fox
Ktav Pub Inc 1999-09-01by G-Tools
一般的に、ミシュナーの補遺と見なされているトセフタは、位置づけの難しい書物である。ミシュナー文学の領域に入れるべきか、タルムード文学の領域に入れるべきか、答えは簡単ではない。中世以来の定説では、トセフタは書物としてのミシュナー成立の一世代あとに、ラビ・ヒヤ(バビロニア生まれだったが、パレスチナに移住し、ラビ・ユダ・ハナスィのもとで学んだラビ)によって編纂されたものとされている。しかし、特に近代の研究者の中には、トセフタの成立をタルムード以後と考える者たちもいる。つまり、トセフタの成立について、ミシュナー成立のすぐあとくらいのより古い時代と考える者たちと、タルムード以後のよりあとの新しい時代と考える者たちがいる。

より古い時代と考える者たちは、中世より枚挙の暇がない。ラビ・シェリラ・ガオン、ラベヌ・ハナンエル、ラビ・ナタン・ベン・ラベヌ・イェヒエル、ラビ・ユダ・ハバルセロニ、ラシ、マイモニデス、メイリなどが代表である。同じ立場を取る近代の学者たちは(M.S. Zuckermandel, A. Spanier, A. Guttmann, Y.N. Epstein, B. Cohen, M. Moreshet, Y. Kutscher, B. DeVries, B.M. Bokser, J. Hauptman, D. Halivni, A. Goldberg, J. Neusner)、仮にトセフタに収録されている伝承に、タルムード中のバライタと同じ伝承=新しいものが含まれていたとしても、それはトセフタをタルムードに合わせて後代に改訂した結果であって、トセフタそのものが新しいものなのではないと主張した。一方で、トセフタとタルムードのバライタが異なることがあるのは、それぞれ別のソースを持っていたからだと結論付ける者もいた。一方で、より新しい時代と考える者たちは(D. Hoffmann, L. Friedlaender, J.H. Dunner, A. Schwarz, Ch. Albeck, S. Lieberman, Y. Elman)、トセフタの成立をアモライーム時代よりあと、すなわち両タルムードよりあとのこととしている。

両者は意見を異にしているが、いずれも、トセフタをタルムードとの関係の中に置いているところでは共通している。しかし、本論文筆者は、むしろトセフタはミシュナーとの関係の中に置くべきだと主張する。しかもそのとき、両者が「対位法(counterpoint)」を奏でているように考えるべきというのである。Neusnerのように、トセフタはミシュナーを拡張したものであり、一方ミシュナーはトセフタを要約したものと言うこともできるが、実際はElmanが述べているようにもっと複雑で、両者が相互に改訂していき(interactive redaction)、共存しているのである(symbiotic redactional scheme)。そのために、著者は、ミシュナーに対するトセフタからの付加の例、両者が対位法的に相互に作用している例、トセフタがミシュナーと関係せず独立している例などを挙げている。ただし、ミシュナーなしにトセフタを読むことができない箇所があるため、トセフタの方がより後代のものであることは変わらない。

2014年10月20日月曜日

フィロン、第四マカバイ記、初期キリスト教の情念理解 Aune, "Mastery of the Passions"

  • David C. Aune, "Mastery of the Passions: Philo, 4 Maccabees and Earliest Christianity," in Hellenization Revisited: Shaping a Christian Response within the Greco-Roman World, ed. Wendy E. Helleman (Lanham: University Press of America, 1994), pp.125-58.
Hellenization Revisited: Shaping a Christian Response Within the Greco-Roman World (Institute for Christian Studies S)Hellenization Revisited: Shaping a Christian Response Within the Greco-Roman World (Institute for Christian Studies S)
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この論文では、フィロンと第四マカバイ記著者(以下四マカ著者)の情念理解が比較されつつ、それらが初期キリスト教思想でどのように受容されたかが議論されている。ストア哲学では、魂の病的・非理性的衝動を情念(パテー)と呼んでいるが、その情念は快楽(ヘドネー)、欲望(エピテュミア)、悲しみ(リュペー)、恐怖(フォボス)に分類されている。そしてこの病的な感情である情念の根絶こそがアパテイアと呼ばれる状態である。

フィロンは、プラトンによる魂の三部構造(理性的な部分ロギコス、活発な部分テュミコス、欲望的な部分エピテュメーティコス)と、ストア派の情念論(情念とは魂の非理性的・非自然的・病的な状態である)とを組み合わせ、魂の非理性的部分(=ロギコス以外)は、その本性において非理性的・非自然的・病的であると考えた。またフィロンは、倫理的に完全な者は自らこの病的部分であるテュミコスとエピテュメーティコスとを切り離すことができるが、他の者たちはロギコスによって病的部分を支配するに留まるとしている。そして、トーラーこそが真の哲学を含んでいるのであるから、トーラーを遵守することこそがこのロギコスによる病的部分の支配を可能にさせるのだというのである。

フィロンにとって最高の目標は、情念を根絶してアパテイアに至ることではある。しかし、これは神のように倫理的に完全な者以外にはほぼ不可能なことである。そこで、フィロンは自制の獲得に段階を設けた。すなわち、アパテイアほど高度に理想的な状態ではなくても、ある程度情念を支配しているメトリオパテイアに至ることができれば僥倖であるし、さらにそこまでも至っていない者でも、向上する努力を続けている限り、そのこと自体が善であると考えたのである。そして聖書の登場人物たちの中にも、さまざまな段階が見られるとして、具体例を挙げている。フィロンによれば、モーセは外科医のように情念を根絶し、完全なるアパテイアに至った人物であり、なおかつそれを何らの痛みあるいは労苦なく(アネウ・ポノン)成し遂げた点が重要である。アロンは倫理的向上の途中にある者(プロコプトン)であり、情念の完全な根絶はできなかった。しかし、理性と徳という薬を使って情念を癒し、メトリオパテイアに至った。アブラハム、イサク、ヤコブのうちでは、フィロンは、生まれ持った徳でアパテイアを達成したイサクを最上としている。アブラハムはいくつかの情念を克服することはできたが(イサク奉献やサラの死のときなど)、残りのものは緩和できただけであった。ヤコブは訓練(アスケーシス)によって神を見ることができるようになったが、高度の徳が得られる場合とそうでない場合とがあった。フィロンは、他にもエッセネ派やテラペウタイの修道生活や自分自身の例を挙げて、徳の獲得には、個人の能力差や段階があることを示している。言い換えれば、アパテイアに至ることができる者はほとんどいないが、トーラーの学習と遵守によって、プロコプトンでも段階的に情念のない状態に近づくことができるのである。

一方で、四マカ著者は、プラトンの魂の三部構造の否定と、快楽(ヘドネー)と苦痛(ポノス)を中心とした情念理解という特徴を持っている。四マカ著者の魂理解は、理性的部分である精神(ヌース)が、非理性的部分である情念(パテー)と特性(エーテー)とを支配しているというモデルである。しかも情念と特性とは神が人間の魂に植えつけたものなので、根絶することは不可能である(中期ストア派のポセイドニオスの教説からの影響)。それゆえに、彼にとってアパテイアとは、情念の根絶ではなく、情念の完全な支配のことといえる。またストア派の通常の情念理解は上に述べたとおりで四分類だが、四マカ著者はそれに喜び(カラー)と痛み(ポノス)を加えて六分類に増やしている。肉体に由来する情念である快楽を中心に、欲望(エピテュミア)と喜び(カラー)があり、一方で魂に由来する情念である苦痛を中心に、恐怖(フォボス)と悲しみ(リュペー)がある。そして、快楽と苦痛とは、怒り(テュモス)によって結ばれている。詳細はともかく、四マカ著者の特徴は、情念の基礎を快楽と苦痛に置いていることであり、それによって、マカバイ戦争の殉教者たちが世俗的な快楽に溺れず、拷問の苦痛にも耐えたことを哲学的に解釈したのである。

そして四マカ著者はこうした情念を支配し、アパテイアを獲得するために重要になるのが「敬虔な理性(ホ・エウセベース・ロギスモス)」、すなわちトーラーの厳密な解釈および適用に合致した理性的思考であるとした。この考え方は、トーラー遵守を前提としていることから、フィロンでいうところのプロコプトンによる情念支配の状態と近い考え方といえるが、四マカ著者は徳の獲得に個人の能力差や段階を認めない。つまり、フィロンのように徳を獲得できない人々への寛容さをあまり持たず、より厳格なのである。それは、作中で挙げているマカバイ戦争での殉教者たちの例、すなわちエレアザル(老人)、7人の青年(若者)、そしてその母親(女性)からも見て取れる。いわば彼は、エウセベース・ロギスモスを持ちさえすれば、すべての人が情念(快楽+苦痛)を支配し、アポノス・アパテイア(痛みのないアパテイア)を獲得することが可能だと主張しているのである。

初期キリスト教もまた、聖書がいかに徳をもたらすものかを証明することに腐心した。といっても、特に新約聖書においては、パトスという語の多くはキリストの受難を表すものであり、プラトン・ストア派的な哲学上の意味合いはない。これはヘドネーやエピテュミアといった情念の内容を表す語に関しても同様である。ギリシア哲学のような情念支配を新約聖書の考え方に当てはめるならば、それはキリストによって魂が完全に新しくされることで達成されるものであり、その際にはフィロンや四マカ著者のようにトーラーの遵守は前提とされないといえる。いわば、情念はキリストと共に十字架に架けられるべきということである。ただし、情念を支配するという姿勢自体はキリスト教でも歓迎されるものであるため、二世紀になるとキリスト者もギリシア哲学を取り入れるようになっていった。特に代表的なのがアレクサンドリアのクレメンスであり、彼はフィロンの多大なる影響下にあって、ギリシア哲学のよいところは吸収しようとした。それどころかトーラー遵守(特に食餌規定)でさえ情念支配を可能にする要件と考えた。むろん両者を手放しで受け入れたわけではなく、彼にとってはギリシア哲学とユダヤ教とは、キリスト教の準備(praeparatio evangelica)のためのものだったのである。彼の思想の背景にはフィロンからの色濃い影響があったが、フィロンが個々人の能力と段階を考慮したのに対し、クレメンスは、キリストの導きがあるのだから、すべての人がアパテイアを獲得できるはずと考えた。この点で、クレメンス自身はおそらく四マカを読んだことがなかったにもかかわらず、四マカ著者の思想に近づいているといえる。クレメンスの思想は、オリゲネス、カッパドキア教父、アンブロシウス、ヒエロニュムスらに引き継がれていくことになる。

2014年10月16日木曜日

イブン・エズラの雅歌注解 Reif, "Abraham Ibn Ezra on Canticles"

  • Stefan C. Reif, "Abraham Ibn Ezra on Canticles," in Abraham Ibn Ezra y su tiempo: Acatas del Simposio Internacional: Madrid, Tudela, Toledo. 1-8 febrero 1989, ed. Fernando Diaz Esteban (Madrid: Asociacion Espanola de Otientalistas, 1990), pp. 241-49.
8460075001Abraham Ibn Ezra y su tiempo: Actas del simposio internacional : Madrid, Tudela, Toledo, 1-8 febrero 1989 = Abraham Ibn Ezra and his age : proceedings of the international symposium (Spanish Edition)
Asociacion Espanola de Orientalistas 1990by G-Tools

イブン・エズラの聖書注解を理解する上で問題となるのは、彼が遍歴生活の中でそれらを書いたために、しばしば一貫性を欠くことがある点である。Moritz SteinschneiderとAdolf Neubauerによる研究から、彼が自分の注解をしばしばあとで改訂していたことが分かっている。雅歌注解に関して、Michael Friedlanderは、イブン・エズラが二度の改訂を施していると考えた上で、フランスにいたときの二度目の改訂をA、イタリアにいたときの一度目の改訂をBと呼んだ。またFriedlanderは、改訂Bの方が改訂Aよりもテクストに対して批判的であり、非ミドラッシュ的な傾向が見られるが、その理由は当時のイタリアのリベラルな風潮がイブン・エズラにそのような改訂を可能にしたからだと主張している(Uriel Simonはこの説明には懐疑的)。Yehuda Fleischerは、Friedlanderの区分を踏襲しつつ、二度目の改訂Aがなされたのは、1156年から翌年にかけて、フランスのドルーという町でのことだったと述べている。

イブン・エズラの雅歌注解は、言語的注解(linguistic)、字義的・文学的注解(literal and literary)、そしてミドラッシュ的・寓意的(midrashic and allegorical)の三部に分かれている。改訂Aの雅歌注解では、全体に関する序文と、この三部のそれぞれに対する特別な序文が付されている。全体に対する序文では、著者とされるソロモン王を称賛し、また雅歌が性的な詩ではなく神とイスラエルとの関係を比喩的に表していることを述べている。第一部の序文では、抽象的・宇宙論的な解釈を否定し、ラビ的伝統における寓意を方法論とする旨を言明している。第二部の序文では、乙女と若者の愛のメタファーについて叙述している。そして第三部の序文では、自身はミドラッシュ・ラバーの解釈で満足しているが、それでも自らの寓意的な解釈をする必要があることを述べている。

改訂Aの第一部、すなわち言語的注解においては、他の聖書文書における彼の注解とさほど変わらないスタイルが採られている。文法的なトピックとしては、男女両性の名詞(common gender)、音位転移(metathesis)、ハパクス・レゴメナ(hapax legomena)、欠性動詞(privative verbs)、畳語形(reduplicated form)などが扱われている。また、ある語の説明のために、聖書ヘブライ語のみならず、アラム語、ラビ・ヘブライ語、スペイン語、そしてアラビア語を引くこともあった。さらに、鳥、動物、植物、石、あるいは地形などの自然物に関する定義も多く行なっている。彼は注解において、たくさんの説を挙げた上で、そうと言わずに自説を述べ、結局他の説を捨てるという手順を踏んでいた。

改訂Aの第二部の字義的・文学的注解においては、雅歌で描かれている若者と乙女の詩をそのまま解釈し、恋愛的な内容にも踏み込んでいる。ただし、そうした内容を明確に解釈したいという意志と、検閲を恐れる意識とが緊張感をはらんでいるようにも見える。また興味深いことに、イブン・エズラは雅歌をもとにして作られた当時のムスリムの恋愛詩を知っていたため、それについての言及もなされている。

改訂Aの第三部のミドラッシュ的・寓意的注解においては、族長物語や出エジプトなど、聖書の歴史的部分に関する寓意的解釈(historical allegory)と、信仰、改悛、教訓、トーラー、性的倫理などといった神学的な問題に関する寓意的解釈(theological allegory)が扱われている。ここでのイブン・エズラの記述は、自身が第一部の序文で抽象的・宇宙論的な解釈を否定しているにもかかわらず、当時の新プラトン主義哲学を濃厚に反映しているという。

一方で、改訂BはAに比べてあまり構造的でなく、スタイルにも一貫性がない。また第一部と第二部に関しては40パーセントも少なくなっており、自身の他の聖書文書の注解へのリンクもない。序文に関してもより短くなっており、全体の序文は第一部の序文と一緒になっている。ただし、Bの方が写本に関しては良好に保たれている。改訂Bの第一部では、Aと異なり、イブン・エズラの自説は匿名でなく開陳されるが、他言語に依拠した説明は少なくなっている。改訂Bの第二部では、ユーモアや性的な言及は減ったが、医学的な見解が加味されている。ムスリムの恋愛詩への言及はない。改訂Bの第三部では、抽象的・宇宙論的な議論はシンプルになり、ユダヤ的な説明においても思想よりも実践に重きが置かれている。

以上より、論文著者は三つの結論を導いている:
  1. イブン・エズラの三部の解釈は、しばしば互いに一貫していないが、雅歌に対する一つの包括的なアプローチを代表するものである(筆者注:何を指しているのか不明)。
  2. 二つの改訂に見られる変化から、遍歴を重ねる中で、イブン・エズラが自らの著作を改訂・加筆する必要を感じていたといえる。
  3. 二つの改訂に見られる変化の原因は、必ずしもイブン・エズラがイタリアからフランスに移ったからではない。すなわち、変化の原因を書いた場所に帰するべきではなく、遍歴の中で移り変わっていったと考えるべきである。

2014年10月12日日曜日

6つのヒエロニュムス像 Fürst, "Hieronymus"

  • Alfons Fürst, "Hieronymus: Theologie als Wissenschaft," in id., Von Origenes und Hieronymus zu Augustinus: Studien zur antiken Theologiegeschichte (Arbeiten zur Kirchengeschichte 115; Berlin: De Gruyter, 2011), 25-42.
Von Origenes und Hieronymus zu Augustinus: Studien Zur Antiken Theologiegeschichte (Arbeiten Zur Kirchengeschichte)Von Origenes und Hieronymus zu Augustinus: Studien Zur Antiken Theologiegeschichte (Arbeiten Zur Kirchengeschichte)
Alfons Furst

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ヒエロニュムスは同時代の教父たちの中で、ほとんど孤立した存在であるといっていい。その特徴は教義上の問題への無関心であるといえる。当時アウグスティヌスらによって盛んに論じられていた、三位一体論やキリスト論、あるいは創造と救済の出来事における自由論、恩寵論、認識論といった事柄についてはわずかなコメントを残しているばかりである。本論文の著者によれば、ヒエロニュムスの貢献は、むしろ苦行運動と学術活動の二つに代表されるという。そうした見取り図をもとに、著者はヒエロニュムスの6つの人物的側面に光を当てている。以下興味を持った点のみ挙げる。

苦行者としてのヒエロニュムス。ヒエロニュムスはアクィレイアおよびカルキス砂漠で苦行生活をし、さまざまな苦行者たちの伝記を書いていたが、都会人である本人はそうした生活に向いていなかった。彼は、文化も文明も捨ててしまうようなシリアの隠遁者たちの極端な苦行を求めていたわけではなく、むしろ古代の異教文化・教養を捨てることなく、キリスト教的・苦行的生活を送ろうとしていたのである。すなわち、福音と(世俗的)文化、あるいはキリスト教的・修道的霊性と古代の学術とを結び付けようとした。ただし彼は、ペラギウスに代表される誰もが参加できるスタイルの苦行ではなく、少数のエリートのための苦行こそが理想的であると考えていた。

学者としてのヒエロニュムス。学者として、個人の図書館を持っていたことが重要な点である。彼は、キリスト教の著作、さまざまな言語の聖書の版、聖書注解などをすぐに参照できる場所に置いていたが、416年にベドウィンたちの襲撃で焼かれてしまった(彼自身はペラギウス派による襲撃だと思い込んでいた)。また学友であったパンマキウスなど、貴族のパトロンを多く持っていたために、金銭的な援助を受けることができていた。言語に関しては、母語であるラテン語に加えて、ギリシア語、シリア語、アラム語、ヘブライ語に通じていた。

翻訳者としてのヒエロニュムス。ラテン語世界全体のギリシア語リテラシーが落ちていた時代だったので、彼はオリゲネス、カイサリアのエウセビオス、アレクサンドリアのディデュモス、サラミスのエピファニオス、アレクサンドリアのテオフィロス、パコミオス、ギリシア語訳されたコプト語文書などを盛んにラテン語に翻訳していた。同様の翻訳活動をしていた人物としては、アクィレイアのルフィヌスとケレダのアニアヌスなどが挙げられる。また最初の翻訳理論家でもある。聖書とそれ以外の書物との翻訳に関してはフレキシブルに対応したために、自身の理論との矛盾が生じたが、なるべく首尾一貫した理論とエレガントなラテン語訳を目指していた。

聖書翻訳者としてのヒエロニュムス。聖書翻訳を可能にしたのは、さまざまな言語の聖書を所蔵する図書館と、彼のギリシア語およびヘブライ語への精通であった。最初から彼の基本方針は、極力原文を参照するということだった。それゆえに、聖書翻訳において、それぞれ「ヘブライ語の真理(Hebraica veritas)」、「アラム語の真理(Chaldaica veritas)」、「ギリシア語の真理(Graeca veritas)」という言葉を残している。彼のヘブライ語からの翻訳は確かに死後には評価されたが、生前はアウグスティヌスらによって七十人訳の権威を貶めるものとの評価を受けていた。しかしヒエロニュムス自身は柔軟な考え方をしていた。すなわち、学問的には、七十人訳およびそれに基づくラテン語訳は不正確なので自分の新しい訳に取って代わられるべきだが、教会的には、使い慣れたものが礼拝で用いられるべきであり、自分の訳と注は参照されればよいと考えていた。

聖書注解者としてのヒエロニュムス。ヒエロニュムスの注解はアレクサンドリア学派(オリゲネス、ナジアンゾスのグレゴリオス、アレクサンドリアのディデュモス)とアンティオキア学派(ラオディケイアのアポリナリオス)の折衷である。前者からの影響としては、類型論と寓意的解釈を方法論として用いている。オリゲネスの注解には特に大きく依拠しており、ときに盗作とさえいえるような内容もある。一方で、後者からの影響としては、本文批評(特に写本伝承への関心)、緒論学(著者、成立年代、歴史背景、地名、人物像、語源学)の重視などが挙げられる。これにユダヤ的な聖書解釈が加わることで、ヒエロニュムスの注解は特に個性的なものとなった。

教義学者としてのヒエロニュムス。彼が関与した代表的な教義論争は三つ。第一に、コンスタンティノポリスやニケーアでの公会議で議論されていた存在論については、ヒエロニュムスは複雑な競技的・教会政治的な状況をよく分かっておらず、また現実の教義史の発展を誤解してもいた。第二に、オリゲネス主義論争では、オリゲネス批判派にまわり、擁護派のルフィヌスとの不和を招いた。ヒエロニュムスは、教義理解に関してはオリゲネスを異端と見たが、聖書解釈に関しては継続的に参照していた。第三に、ペラギウス派論争では、意志の力によって罪のない生を生きることができると主張したペラギウスに対し反論した。ヒエロニュムスは、反ペラギウスということでアウグスティヌスと結託していたが、アウグスティヌスの恩寵論や原罪論のような思弁的な議論にはついに馴染まないままだった。

ヒエロニュムスは、神学的には秀でていなかったが、アンブロシウスやアウグスティヌスらと共に有力な教父と見られていた。彼は古代の学識(philologie)とキリスト教的霊性(theologie)とをつなぎ、苦行運動(asketischen Bewegung)と世俗的な成果(weltlichen Errungenschaft)とをつなぎ、また修道制(Askese)と聖書学(Bibelgelehrsamkeit)とをつないだ。さらに、学識ある修道士や、学術の中心としての図書館を持つ修道院といったイメージのもとにもなった。彼の為したこととは、古代の文化、修道的な霊性、そして学術的な神学を、ユダヤの聖書解釈を含めつつ、キリスト教的に統合したことであるといっていい。