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2021年6月14日月曜日

第二神殿時代のサラ #3

  •  Joseph McDonald, Searching for Sarah in the Second Temple Era: Images in the Hebrew Bible, the Septuagint, the Genesis Apocryphon, and the Antiquities (Scriptural Traces: Critical Perspectives on the Reception and Influence of the Bible 24; Library of Hebrew Bible/Old Testament Studies 693; London: T & T Clark, 2020), 88-138.

本章においては、創世記の七十人訳におけるサラのキャラクター性が論じられている。七十人訳におけるサラは複雑で(complex)だが一貫性のない(erratic)人物で、彼女の個性を制限する(limit her individuation)ようなさまざまなプレッシャーに常に直面している。それゆえに物語の初期段階ではサラは受け身(passive)で、不活発(inert)で、力なく(powerless)、ときに生命力すらない(inanimate)人物として描かれている。ハガルを虐待するときに力(agency)を得ることで、サラの不活発さは一時解消されるが、その不名誉な能動的な力は結局のところアブラハムのイミテーション、あるいはその派生にすぎなかった。結局サラはアブラハムに対する神の約束の成就における便利な道具(instrument)として役立っていたのだった。つまり、七十人訳におけるサラは、洗いざらしにされ(washed out )衰えた(faded)人物であり、自分の意志ゆえでなく、神とアブラハムの関係性の確立のために、一貫性を欠く行動を取るようになった。

七十人訳のサラに関する研究は、S. SchorchやJ. Dinesによるわずかな分量のテクストに基づくものと、S.A. Brayfordによる浩瀚なものの他にはほとんどない。Brayfordによると、サラは、翻訳者たちの社会環境にとって適切な性的な羞恥心を示すヘレニズム的貴婦人として描かれているというが、著者は、七十人訳のサラはマソラ本文のサラよりも受け身の人物で、わずかにある彼女自身の行為もアブラハムのそれからの派生として描かれていると主張する。                                                                                                                                                                                                                                        

七十人訳のテクストはしばしばマソラ本文と、テーマ、モチーフ、キャラクターの特徴などについて、本質的な一致を示すことがある。これは前者が後者の翻訳であることから当然である。すると、それらを最初から最後まで繰り返すことは読者の忍耐を試すようなことになってしまう。そのような状況下で取れる選択肢としては、第一に、マソラ本文での分析の繰り返しになろうとも、サラのキャラクターに関するすべての分析を完全に引き出すこと、そして第二に、両バージョンの連続性を、それらが関連するときに、ある程度濃縮したかたちで喚起することが挙げられる。著者は読者の利便性を考慮して、後者を選択したという。とはいえ、あるエピソードやシーンは時に異なり、時に一致するので、それらに図式的・均一的なアプローチをすることは有害である。そこで著者は連続性や矛盾への考察から議論を始めるときもあれば、連続性や矛盾を論じる前に両バージョンの衝突を論じることもある。そして何よりも物語の統一性(integrity)を重視している。

創11:26-12:9:ここでのサラは主として否定的な受け身の人物として描かれている。先祖や子孫などの肉親関係も示されていないため、サラが持っているのはアブラハムとの性的な社会婚姻関係だけである。マソラ本文との違いはわずかなものである。たとえば、七十人訳の方がサラの不妊がより永続的になっている。サラの名前の言葉遊びがない。能動的な力がなく受け身の姿勢がより強い(11:31のマソラ本文が「彼らは皆で出た」に対し、七十人訳は「彼(テラ)は彼らを出した」)。つまり、彼女は彼女が持っているものではなく、持っていないことやできなかったことによって定義されている。生殖能力が永続的でないことで、のちの神の計画に対する彼女の利用価値を一層高めているのである。また受け身の姿勢を強めることで、のちに起こるエジプトでの事件でサラの意志がよりなかったことになる。

創12:10-13:2:やはりここでもサラはまるで意思を持った人物として描かれていない。エジプトの王のもとにアブラハムの「妹」として行く件で、アブラハムの口調はほとんどビジネスライクであり、説得ではなく命令を下している。アブラハムはサラのことを「顔がいい(エウプロソーポス)」と外見についてのみ描写する。サラはアブラハムの詐欺の美的な構成成分だけを強めている。サラの美しい顔は戦略的に有利な点となり、彼女のおかげでアブラハムは生き続けることができる。こうしたアブラハムの話に対してサラは沈黙したままである。サラはただアブラハムとファラオという二人の男によって肉体的・性的に代わる代わる所有された価値ある物体であった。彼女は美しさを持っていたが、それは彼女にとって不利益しか生まなかった。いわば彼女は人身売買され取引された犠牲者であり、安全も自由も力の意志も、さらには子供も欠いていた。マソラ本文と比べると、七十人訳ではサラは説得の対象ではなく、無遠慮で命令的な強制の対象になっている。意思がないので説得の必要があると見なされていないのである。サラはここでほぼ完全に受け身である。

創13:2-15:21:サラは登場しない。

創16:1-16:サラの重要な転換点となる部分である。サラはこれまでの無気力状態から脱し、意思らしきものを示すが、それはアブラハムの模倣においてであった。すなわち、ハガルからアブラハムの子孫を得ようとするサラのアイデアはアブラハム自身に端を発するものであった。さらにこの一連の話の中で主語の性がはっきりしないために、サラとアブラハムの区別が曖昧になっている。七十人訳がマソラ本文から大きく違うのは、ハガルがアブラハムの後継者を得るための代理母として最初に提案された奴隷ではないことである。すなわち15:2-3におけるアブラハムのセリフは、マソラ本文では「私の家を継ぐ者はダマスコのエリエゼルである」となっているが、七十人訳では「私の家の女奴隷マセクの子、この者はダマスコのエリエゼル」となっている。つまり「マセク」を人名と捉え、また「私の家」を「私の家の者」すなわち「女奴隷」と捉えている。こうしてアブラハムの息子かつ後継者として奴隷の子供を用いるというテーマが15章においてアブラハム自身によって先取りされているのである。つまり、ハガルの件でようやくサラが意志を示せそうになった機会が奪われ、アブラハムの受け売りのようになっているのである。

マソラ本文においてはエジプトでの詐欺とサラによるハガル代理母の件の繋がりが、アブラハムとサラそれぞれのセリフ構造の類似の中に示されていたが(ヒネ・ナで始まるなど)、七十人訳ではそれがなくなっている。オープニング・フレーズの形式的な一致がないので、読者にはセリフの類似に関するヒントがないのである。それゆえに、サラのエジプトでのひどい体験とサラによるハガルの処分との繋がりが薄まってしまっている。七十人訳の「マセクの子」の解釈もこの繋がりを弱めることになっている。またマソラ本文ではハガルの体によって「私が立てられる=私が息子を得る」というサラ自身への恩恵もあったが、七十人訳では「あなたが子を得る」という表現になっている。つまりサラのセリフはアブラハムの利益のみを述べているのである。こうして意志の力がさらに失われ、より限定的な個性しか発揮されなくなり、物語におけるサラの役割が小さくなる。

この個所ではジェンダー・アイデンティティの曖昧さが見られる。サラがアブラハムに「あなたが子を得る」と言っているギリシア語テクノポイエオーは、通常女性が子供を産む力を指すときの言葉である。また5節で「あなたのコルポスに私の奴隷を私が与えました」というサラのセリフも、本来であればいかにも男が言いそうなセリフである。そしてアブラハムの「コルポス」は「膝」とも訳せるが、もとは「穴」という意味なので、しばしば「女性器」を示す言葉である。6節でアブラハムがハガルを「好きなように使いなさい」と言っている際の「使う」が人を目的語に取るときは性的なニュアンスが伴うが、ここでハガル「使う」のはサラの役割である。すまりサラに男性の視点が与えられている。9節の神の使いのハガルでのセリフ「女主人のもとに帰ってその手に身を委ねよ」の動詞タペイノオーもしばしばレイプを示す語である。以上のような性の曖昧さは、サラとアブラハムの間のパワーバランスを再調整し、その役割を曖昧にするのに役立っている。これ以前の意志のないサラが突然ハガルに対して暴力的な意思を示すという急激な変化を和らげているのである。

4節でハガルが妊娠したことで、サラがハガルの目に重要でなくなったが、ここでのギリシア語アティマゾーはヘブライ語よりも強い言葉である。しかし「彼女の目において」という部分が「彼女の目の前で(エナンティオン)」と変わることで、サラが面目を失ったのはハガルの前だけということになっている。Brayfordはここでハガルの地位がやや上がったとするが、著者はサラが「女主人(キューリア)」と呼ばれていることから、やはりハガルは依然としてサラの所有物にすぎないと主張する。しかも神はサラによるハガルの虐待の積極的な協力者になっている。サラのこれまでの受け身で無気力な状態は、ハガルの虐待によって終わり、新たに意思を持ちオープンに話をしているが、その実彼女の行為はアブラハムのそれの反響にすぎない。12章で強調されていた「顔の良さ」も、内面の真意との格差を示していることがはっきりとする。

創17:1-27:この部分での七十人訳とマソラ本文の違いは大きくない。

創18:1-15:ハガル虐待以来サラは読者の目から隠れている。ここでもサラは天幕の中にいるせいで、せっかく出かけていた意思が制限されてしまっている。ただし、アブラハムにパンを作るように言われたにもかかわらず、おそらく何も行動を起こしていないところからは、サラのイニシアチブ、サラに言えば反抗の様子を見て取れる。さらに、神の使いがサラの将来の出産について語ると、サラはそれをもっともなことに疑う。ただしそれは自分自身の老齢ゆえに無理だと考えているわけではなく(サラ自身の状態についての言及は一切ない)、アブラハムが老いたからである。この疑いやそれに伴う笑いはサラの意志の表れのはずだが、すぐにアブラハムが同じようなことをするため、その意味が薄れている。マソラ本文ではアブラハムとサラの行動が相似形になるような言葉が使われているが、七十人訳は異なっており、その結果サラのイニシアチブは骨抜きとなり、精彩や生命力を示す機会がなくなった。

12節のサラの独白も、マソラ本文においてはアブラハムとの実りのない性関係への怒りと性行為そのものの悦びがないことに関する不信といったたくましいイメージが表現されていたが、七十人訳では妊娠の不可能性に関する冷静な考えが表現されている。ここからBrayfordは、七十人訳のサラは翻訳者のアレクサンドリアの環境の感覚により適切な「恥」のヘレニズム的女性として描かれていると主張しており、著者もそれにある程度同意している。ただし著者によれば、そうした社会的な規範に沿うことで、サラの文学的なキャラクターは後退しているという。

15節の「笑っていません」というごまかしと、その理由としての「恐れ」との繋がりは、マソラ本文でも七十人訳でもはっきりしていない。そこで著者は、「サラが恐れゆえにごまかした」という語り手の説明そのものを退ける。サラが笑いをごまかしたのは、彼女の意志とイニシアチブの表れである。しかしそれは神の反駁と語り手の不明瞭化によって制限されてしまっている。

無気力で見た目のよいモノというイメージは、ハガルへの残酷な仕打ちというかたちにしろ、意思を持った人間としてのサラの定義へと転換された。しかしその切っ先は、続くサラの提案を派生的なものにしたり、動詞のジェンダーを曖昧にしたりすることで鈍ってしまった。こうして七十人訳のサラはより青ざめた、活力を垂れ流しにするキャラクターになってしまった。サラは依然として神のアブラハムへの約束を成就させるための利用価値を認められているが、その知らせも直接聞いたわけではなく、そこにおけるいかなる自発性や話すことさえ認められていない。

20:1-18:ゲラルにおけるアビメレクとの物語においても、七十人訳の発展が見られる。アビメレクはアブラハムに金を支払っているが、それについてサラに「あなたの顔の名誉(ティメー)のために」と述べている。このティメーという語は「名誉」や「尊厳」といった意味と共に、「値段」や「価値」といった意味も持っている。つまりここには、サラの顔の美しさを商品と見なす意識が現れている。またマソラ本文ではエジプトのときと異なり、ゲラルではサラもまた詐欺の片棒を担ぐことである程度の意志を示していたが、七十人訳ではゲラルでも沈黙し、意思を放棄しており、ほとんど無気力のままである。こうして七十人訳のサラの態度は極めて一貫性を欠いた(erratic)なものとなっている。ただし、登場人物のmimeticな理解は、その人物に統一性だけを見るのではなく、こうした人間的な非一貫性や矛盾をも考慮に入れるべきである。

21:1-14:イサク誕生に関して、マソラ本文はサラの笑いについてアンビバレントな評価を下していたが、七十人訳における彼女の笑いは本当に幸せであることを示している。6節は「主は私のために笑いを作ってくれた。このことを聞く者は皆私と共に喜ぶだろう」となっている。つまり、これはサラが他の者たちと共有することを期待する幸せな笑いなのである。8節の「(イシュマエルが)イサクと遊んでいる」というところのパイゾーはしばしば性的なニュアンスを含む語だが、ここではそれは問題となっていない。むしろ問題は「イサク『と』」のメタという前置詞である。なぜなら9-10節で「私の息子イサク『と』財産を相続することはできない」にも同じ前置詞が使われているからである。イサク誕生の喜びのすぐあとにハガルとイシュマエルを追放させるサラは、子を持つ母親のステレオタイプを叩き切っている。これは語り手がサラの複雑な気持ちに寄り添いつつ真に人間的に扱うというよりも、単に神の約束の成就の道具として扱っているということである。こうしてわずかに見えたサラのイニシアチブはまたしても弱められてしまっている。

創23:1-20:サラの無気力と受け身は、サラの死において完全なものとなっている。つまりここでサラは完全にアブラハムのモノになっている。

結論としては、マソラ本文におけるサラは複雑ではあっても一貫していたが(coherent)、七十人訳のサラは複雑でしかも一貫しておらず(erratic)、ギクシャクしていてたどたどしい。またマソラ本文にはあった獲得と喪失、所有と欠如のテーマは七十人訳には見られない。またマソラ本文のようにサラが人の目を気にする様子もない。七十人訳はサラの個人性を損なうほど、彼女の行動をアブラハムのそれの派生として描こうとしている。そのようにしてサラの個人性を洗い落として色あせさせているのは語り手である。彼女のイニシアチブは、それを行使しようとする前に奪われ、行為しようとする意志は制限を課されてしまう。このようにサラの主体性が狭く制限されるのは、語り手がアブラハムに訳された神の約束の成就の道具としてサラを見なしているからである。それゆえに、マソラ本文に比べて七十人訳のサラが他者への共感を欠いているという理解はフェアではない。ここでのサラはそもそも知識や理解というものを持っていないのである。わずかな救いとしては、アブラハムとサラの死後、イサクはアブラハムに対しては悲しみを見せないが、サラについては、リヴカとの結婚を経てようやくその死への慰めを得たという記述があることである(24:67; 25:20)。

2021年6月3日木曜日

第二神殿時代のサラ #2

  •  Joseph McDonald, Searching for Sarah in the Second Temple Era: Images in the Hebrew Bible, the Septuagint, the Genesis Apocryphon, and the Antiquities (Scriptural Traces: Critical Perspectives on the Reception and Influence of the Bible 24; Library of Hebrew Bible/Old Testament Studies 693; London: T & T Clark, 2020), 32-87.

本章においては、創世記のマソラ本文におけるサラのキャラクター性が論じられている。著者はサラが実在の人物であるかのように、自分自身の経験というフィルターを通じてmimetic readingで創世記を読み解く。

創11:26-12:9:サラはまず女性および妻(つまり性的に成熟した女性)として定義されている。サラはアブラハムによって妻として「取られた」のであり、それゆえにアブラハム「の女」と呼ばれる。主導権ははっきりとアブラハムにあるので、彼よりも力は弱い。「サラ」という名前の語源は「支配、優越、所有」といった意味を持つが、実際には「所有される者」(「所有する者」ではなく)として描かれている。たとえばサラは「子供がいない」と説明されている。その原因はアブラハムではなくサラに帰されている。アブラハムの妻、ロトの叔母、テラの義理の娘といったかたちで家族関係を得るが、テラの死によってそれを失う。しかしアブラハム一行がある程度財産を得ると、それは家族間で共有されるので、サラもわずかながら「所有する者」となる。こうした「所有」と「喪失」のパターンが繰り返される。

創12:10-13:2:エジプトで起こったこの事件はサラのキャラクターづけに重要な意味を持っている。サラはここで「見た目が美しい」とされている。つまり彼女は美しく人目を惹くわけだが、これは単にいい意味だけではなく、「モノ化(objectification)」され、高価な品のように扱われてしまうという悪い意味も持つ。実際エジプトでの出来事においてもサラは貿易の品のようにやり取りされるのみで何一つ自分で決めることがない。神からの助けも、サラがアブラハムの妻だから差し出されたものだった。それどころか神は、サラを売り飛ばした張本人であるアブラハムのもとに彼女を返している。つまりここでサラは明らかに人身売買の被害者である。彼女には価値があるが、それは家畜や奴隷のような意味での価値である。しかし、一連のエジプトでの事件の結果、アブラハム一家は巨額の富を築くことに成功した。こうしてサラもアブラハムの親族としてある程度の力を手に入れたのである。

創13:2-15:21:この部分ではサラは登場しない。しかしこの間のエピソードにおける人間関係から、サラのキャラクターについても学ぶことができる。たとえばサラは甥のロトを失っている。二人は何年も共に旅し、共にアブラハム以外の家族関係がないという共通点を持っていたが、ロトがいなくなったことでサラが大きな失意を味わったことは想像に難くない。エジプトでのトラウマとロトの喪失はサラの人間性を硬化させ、所有物への執着心を強めたのだった。また神がアブラハムの子孫を「星の数ほど」増やすと約束したことに対しアブラハムが実現可能か懸念を表明していることは、サラもまた同様の心配をしていたことを示唆している。

創16:1-16:サラのキャラクターは、アブラハム、ハガル、そして神との関係の中で理解される。対アブラハム:16:2でサラは初めてセリフを言うが(「見てください、ヤハウェは私に子を授けません。わが使え女のところに入ってください。きっと彼女によって私は立てられましょう」)、これは12:11-13のエジプトでのアブラハムの最初のセリフ(「見なさい、あなたが姿の美しい女性と私は知っている。……私の妹だ、と言ってくれ。私が厚遇されるように」)と同じ文章構造になっている。ヒネ・ナという同じ言葉から始まる両セリフからは、サラがアブラハムから甘言の弄し方を学んだことが分かる。アブラハムが自分に下謀略や虐待を学び、彼のようになったのである。サラはアブラハムに呪いの言葉すらかけている(16:5)。対ハガル:サラは子供を持っていないが、ハガルという奴隷を得た。サラは女主人としてハガルの性能力と生殖能力をいかようにもできたのでアブラハムに与えた。つまりサラはエジプトでアブラハムにされたのと同じような仕打ちをハガルにしたのである。また自分の見た目について自覚的なサラは、ハガルが自分を軽視するという「酷な仕打ち」(16:5)ゆえに、身重の彼女を「苦しめた」(16:6)という。「酷な仕打ち(ハマス)」をしたのはハガルというよりサラである。また「苦しめる(アナー)」は相当残忍な行為(女性が目的語になる場合しばしば性的含意を有する)を指す。対神:さらに神的存在がこうした残虐さを是認し、ひどいことをした張本人のもとに被害者を返しているのもエジプトの時と同様である。以上のことから、この16章には12章のエジプトでの出来事との類似と反響があり、結果として、エジプトで人間扱いされなかったサラがここでハガルを人間扱いしないことにより、虐待された者が今度は虐待する者になってしまった。

創17:1-27:この間にサラは登場しない。ただアブラムはアブラハムに、サライはサラに名前が変わっている。この名前の変化を契機に、サライの不妊はサラの多産へと切り替わる。ただしこれはアブラハムだけに与えられた啓示なので、サラ自身はその変化を知らない。

創18:1-15:この個所ではサラが実際にテントの中にいるさまが描かれている点が他と異なっている。アブラハムはサラにパンを焼くように言いつけるが、アブラハムを呪いハガルを虐待したサラが唯々諾々と従ったとは思えない。神の使者たちがサラの出産を予言すると、サラはそれを鼻で笑った。「老いてしまった私に喜びなどあるだろうか」(18:12)という部分は閉経、すなわち不妊を指すが、それだけでなく、アブラハムとの性的関係への悦びを失ったことをも指している。つまり「鼻で笑った」のは「性的に不能であるアブラハムに失望している自分が彼と子供を作ることなどあり得ない」という意味であったわけだが、神はそれをサラが「老いた自分に子供産ませるのは神でも不可能だ」と考えたのだと誤解した。そこで唯一この個所でのみサラに直接神が語りかけている。17章ではアブラハムも神に対して疑義を呈していたが、神はアブラハムよりもサラに対してより強く怒っている。16章におけるサラは不妊だが性的な積極性を持ち、奴隷を虐待する女主人だったが、18章では閉経し、性行為をやめてしまっている。子供への関心があるかどうかも曖昧である。対アブラハム:18章においてはアブラハムとの力関係は微妙に変わっており、サラは彼の言いつけを無視し、その性的不能を笑っている。対神:神との関係はより個人的なものとなっている。ハガルの事件において神はサラを肯定することで彼女のキャラクターを硬化させたが、ここではサラの笑いを誤って解釈し、あまつさえ脅すような物言いをすることで、やはり彼女を硬化させている。

創18:16-19:38:サラは登場しない。

創20:1-18:ゲラル寄留は12章のエジプト寄留と密接な並行関係にある。サラ自身についても、いずれの個所でもセリフはなく、外国の支配者に「取られ」ているとおり、男性の所有物であり、最終的に大きな報酬を受けている。しかしながら、12章と20章は一見似ていても、その間にサラが大きく変容している。まず20章にはアブラハムによるサラの説得の会話がない。12章の行いはアブラハムをポン引きとする売春行為であったが、20章のそれは美人局に近い。そうした意味ではサラは単なる売春の商品ではなく、詐欺行為に加担している。それはサラ自身がアビメレクに対して「彼は私の兄です」(20:5)と述べていることからも分かる。12章のエジプトでのサラはアブラハムによる性的人身売買の犠牲者であり、人間扱いされないことに慣れ、神の共謀を受けて自分を虐待する者に加わった。しかし、20章のサラは自分の虐待と喪失をより力のない性的代替者に向け、アブラハムを呪い、その性的不能を陰で笑い、奴隷とその腹の中の子を暴力に曝した。これだけの変化を経て、20章のサラ(older, harder Sarah)が12章でのサラと同じように声なき被害者であったはずがない。20:12においてアブラハムは、サラが実際に義理の妹である旨を説明しているが、これは明らかに一連の詐欺行為における策略の一部であろう。20章における本当の被害者はサラではなく、サラゆえに子供を産めなくなった王宮の女たちである(20:17-18)。サラはアブラハム同様、他の人たちの生命に対する配慮を欠いている。

創21:1-14:イサク誕生とハガルとイシュマエルの追放の物語からは、サラのキャラクターとしての硬化が残酷さを伴って固定されているのが分かる。サラの妊娠には神が関与しているが、イサクは神の血統というわけではなく、神の配慮のたまものである。サラはイサクの誕生によって柔和な人間になったわけではない。21:6には、「神は私に笑いをくれた。これを聞いた者たちは皆私と笑うでしょう」という肯定的な解釈のみならず、「神は私を笑い者にした。これを聞いた者たちは皆私を嘲笑うでしょう」という否定的な解釈も可能である。後者の場合、サラは子供の誕生という幸福の中でさえ他人の目を気にしていたことになる。イサクの乳離れの祝宴において、サラはイシュマエルが「戯れる」のを見たが、これは単に「戯れ」ているとも取れるし、誰かを「笑い者にする」とも取れる。後者だとすると、他人に笑われることを最も気にするサラを刺激したことだろう。酒宴の酔いも手伝い、サラはかつてないほど無慈悲な行動、すなわちハガルとイシュマエルをアブラハムに追放させることを決めた。アブラハムは躊躇したが、神がサラを後押ししたのだった。興味深いことに、これ以降サラも物語から消えてしまう。こうした無慈悲で残酷で弱さに基づく行為について、著者は怒りよりも哀れみを感じたと述べている。

創23:1-20:サラは127歳で死んだという。サラが死んだのはキルヤット・アルバであり、アブラハムはベエル・シェバで暮らしていたと書いてあるので、二人が一緒に暮らしていたかどうかは不明である。イサクの奉献の顛末も知らなかった可能性がある。サラは死してなお都合のいい道具として扱われている。というのも、アブラハムはサラを埋葬することを口実にマムレの近くの土地をヘト人から購入することに成功したからである。つまりサラの死体はカナンの地の獲得という最終目標の第一歩のために、あたかも道具のように用いられたのだった。

結論:対アブラハム:エジプトでアブラハムはサラを動物や奴隷のように売り買いの道具として用いた。このトラウマはサラ自身によるハガルの虐待を導いた。そのようにしてアブラハムそっくりになっていったサラはゲラルにおいて詐欺行為に加担する。このようにアブラハムはサラが使えるうちに使いつくし、最後には遺体までをも自分の利益のために利用した。対神:神はサラを自分の目的のために使っている。エジプトにおいてサラを救ったのはサラ自身のためではなく、サラをアブラハムのもとに返すためだった。神はサラが虐待者へと変貌することも後押しした。サラは神にとって、約束を成就させるための道具として重要だったのである。神は自分の目的を達成するためにサラの人間性を引き下げることすら厭わなかった。対ハガル:サラとハガルの関係は、アブラハムとサラの関係に似ている。サラはハガルの肉体を自分の目的のために用い、彼女を暴力的に虐待した。そして最終的にはハガルとイシュマエルの放逐に一役買った。こうした一連のひどい行為はアブラハムと神によって是認されていた。

以上のようにサラの周りには獲得と喪失、所有と欠如といったお題目が付いて回った。著者はそんなサラに共感や哀れみを抱いている。サラは搾取と残酷さという気の毒なサイクルの中で、ときに犠牲者に、ときに加害者になった。サラが次第に残酷さを受け入れていくのは、その方が神の計画を実行するために都合がよかったからである。ただしわずかな救いとして、著者はイサクの人間的に高潔な態度にサラとイサクとが意義深い関係性を築くことができたことが伺われると考えている。