- Andrew Cain, Jerome's Epitaph on Paula: A Commentary on the Epitaphium Sanctae Paulae (Oxford Early Christian Texts; Oxford: Oxford University Press, 2013), 1-39.
Jerome's Epitaph on Paula: A Commentary on the Epitaphium Sanctae Paulae (Oxford Early Christian Texts)
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Oxford Univ Pr
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本書は、長年のパートナーだったパウラの死を悼んでヒエロニュムスが書いたテクストの解説とコメンタリーである。パウラは347年5月5日にローマで生まれた。母親ブレシラはスキピオーとグラックス兄弟の子孫であり、父親ロガトゥスはアガメムノンを先祖に持つ高貴なギリシア系の家系に連なる者だった。パウラはユリウス・トクソティウスというあまり冴えない元老院議員と結婚し、ブレシラ、パウリナ、エウストキウム、ルフィナ、トクソティウスの5人の子供を産んだ。381年に夫と死別すると、パウラはその後の人生を修道に捧げ、寡婦として過ごした。
382年のサラミスのエピファニオスとアンティオキアのパウリノスのローマ訪問に際し、ラテン語通訳として同行したヒエロニュムスは、2人を客人として受け入れたパウラと知り合った。それ以降ヒエロニュムスとパウラは、404年のパウラの死が二人を分かつまで、長い時間を共に過ごすことになる。『聖パウラの墓碑銘』あるいは『書簡108』(以下『聖パウラ』)はパウラの死後数ヶ月経ってから書かれた。これは歴史的なパウラの生涯を再構成する際の主要な一次資料である。それと同時に、女性の霊性に関する核心的なテクストでもある。このテクストについては、Susan Weingartenなどの先行研究があるが、鍵となる文学性、プロパガンダ性、そして祭儀性といった側面が等閑視されてきた。
文学的系譜。『聖パウラ』は前もってよく考え抜かれた著作である。その底部にはきわめて高度な質の文学的技術が横たわっている。ジャンルとしては、演示弁論の一形態である追悼演説(エピタフィオス・ロゴス)と考えられる。これはデモステネスの注解者として知られるラオディキアのメナンドロスによって論じられているもので、彼によると、追悼演説は、家族(ゲノス)、生まれ(ゲネシス)、性質(フュシス)、生い立ち(アナトロフェー)、教育(パイデイア)、そして品行(エピテーデウマタ)に応じて、内的に整理されたものであるという。結部には何らかの慰めの言葉があることが多い。『聖パウラ』はこの枠組みによく馴染むが、はみ出しているところもある。ヒエロニュムスのような技術のある作家は、修辞学者が決めたルールを創造的に曲げ、自分の腕前を示すからである。
382年のサラミスのエピファニオスとアンティオキアのパウリノスのローマ訪問に際し、ラテン語通訳として同行したヒエロニュムスは、2人を客人として受け入れたパウラと知り合った。それ以降ヒエロニュムスとパウラは、404年のパウラの死が二人を分かつまで、長い時間を共に過ごすことになる。『聖パウラの墓碑銘』あるいは『書簡108』(以下『聖パウラ』)はパウラの死後数ヶ月経ってから書かれた。これは歴史的なパウラの生涯を再構成する際の主要な一次資料である。それと同時に、女性の霊性に関する核心的なテクストでもある。このテクストについては、Susan Weingartenなどの先行研究があるが、鍵となる文学性、プロパガンダ性、そして祭儀性といった側面が等閑視されてきた。
文学的系譜。『聖パウラ』は前もってよく考え抜かれた著作である。その底部にはきわめて高度な質の文学的技術が横たわっている。ジャンルとしては、演示弁論の一形態である追悼演説(エピタフィオス・ロゴス)と考えられる。これはデモステネスの注解者として知られるラオディキアのメナンドロスによって論じられているもので、彼によると、追悼演説は、家族(ゲノス)、生まれ(ゲネシス)、性質(フュシス)、生い立ち(アナトロフェー)、教育(パイデイア)、そして品行(エピテーデウマタ)に応じて、内的に整理されたものであるという。結部には何らかの慰めの言葉があることが多い。『聖パウラ』はこの枠組みによく馴染むが、はみ出しているところもある。ヒエロニュムスのような技術のある作家は、修辞学者が決めたルールを創造的に曲げ、自分の腕前を示すからである。
ヒエロニュムスは、自分の作品を追悼演説として書きつつ、伝記的要素もかなり入れたが、他の文学形式のセレクションも組み合わせている。たとえば、旅行記(iter/itinerarium)、聖書注解、論争的な補遺、神学的な論争書(altercatio)、修道院法規(regula)、叙事詩、追悼詩などである。ヒエロニュムスはこれらの要素をシームレスに混ぜ合わせて、散文、詩文、悲歌、聖書へと分類するスキルを示したのだった。
ヒエロニュムスは、パウラの死による痛手がいかに大きいものだったかを、パウラの娘のエウストキウムに書き送っている。休むことを知らない多産なヒエロニュムスが研究できない状態にあるということは、その悲しみの大きさを物語っている。『聖パウラ』を書いたのも、パウラを賞賛し、エウストキウムを慰めることで、実際には自分自身にセラピー的に貢献したかったからである。またヒエロニュムスは、キリスト教世界を通じて『聖パウラ』が回覧され、多くの人々に読まれることを期待していた。
ヒエロニュムスとパウラが住んだベツレヘムは二様に有名だった。第一に、ダビデの町であること、そして第二に、ベツレヘム周辺の洞窟でイエスが生まれたとされていることゆえにである。福音書には書かれていないが、2世紀の後半までにはイエスが洞窟で生まれたという逸話が流布していた(ユスティノス、オリゲネス、ヨアンネス・カッシアウヌス)。327年にはコンスタンティヌス帝がこの洞窟を正式に聖なるものとし、その上に聖誕教会を作った。エルサレムから歩いて1時間20分ほどのところにあるベツレヘムは、巡礼者たちが引きも切らず訪れる場所となった。ヒエロニュムスが住むより前には、すでに2つの修道共同体があった。
4世紀にはエルサレムが最も聖なる場所とされることがしばしばあったが(『タンフマ』、エルサレムのキュリロス)、ヒエロニュムスはエルサレムよりもベツレヘムを高く評価した。F.-M. Abelはこの理由を、ヒエロニュムスがオリゲネス主義論争で仲たがいしたルフィヌスがエルサレムにいたためだと指摘しており、多くの研究者も同意している。ベツレヘムへの特別視はパウラも受け入れていた。ヒエロニュムスは『聖パウラ』でのローマからベツレヘム定住までのパウラをアブラハムになぞらえ、巡礼者たちの旅行ガイドブックとしても役に立つようにしている。
15-26章は特に、パウラの聖性を強調している。これは、パウラを聖書的な敬虔さのモデルとすることで、その指導者であるヒエロニュムス自身の修道的、神学的、学者的な関心の典型にしようとしたのである。修道的観点から見ると、パウラはヒエロニュムスの修道的原理を体現し、莫大な財産を惜しげもなく貧者に施している。このことを強調するために、ヒエロニュムスは『聖パウラ』における彼らのローマでの最後の3年間の時系列を変え、自分たちが聖書的原理に従って行動していたように描いている。
聖書の学者的観点から見ると、パウラはヒエロニュムスの聖書研究を代表する女性である。『聖パウラ』の中でパウラが何かを語るたび、彼はそこに聖書の一節を入れ、彼女が聖書を暗記していることを強調した。パウラはその死に際しても聖書を口の端に上している。つまり、「三言語の男」たるヒエロニュムスの女性版として理想化されているのである。それゆえに、パウラはラテン語なまりのないヘブライ語で詩篇を朗誦することができたと描写される。それだけでなく、そうした知識を用いて適切な聖書解釈を展開することさえできたという。聖パウラを通して、ヒエロニュムスはヘブライ語の学習が修道的敬虔さといったキリスト教徒としての原理に即することを示そうとした。
神学的な観点から見ると、ヒエロニュムスはパウラがオリゲネス主義をはじめとする異端に嫌悪感を抱いているさまを描いている。オリゲネス主義論争において特に役割を持っていたわけではないが、パウラは論争におけるヒエロニュムスの「勝利」を喜んだ。聖性を帯びたパウラが嫌っているということは、敵対者たちへの攻撃のよい口実になった。
古代には葬礼でのスピーチを洗練させた聖者伝がしばしば書かれた。ヒエロニュムスは『聖パウラ』を聖人伝として書くことで、それが「聖パウラの祭り」の土台となるはずだと考えていた。初期キリスト教会では、殉教者たちが霊的完成を体現しているとされていたが、ヒエロニュムスの時代には、血を流さない殉教者として修道者がその代わりを努めるようになった。そして殉教者が教会で祭られているように、修道者であるパウラもまた祭られるべきと考えたのだった。ただし当時からすでに、殉教者を祭ることは一種の偶像崇拝であるとして、この見解を批判するウィギランティウスのような人物もいた。これに対しヒエロニュムスは反論し、殉教者を賛美することは、彼らが仕えていた神を賛美することだと主張した。そのためにヒエロニュムスはパウラの墓の場所を正確に記し、彼女への祭儀(蝋燭を灯し、一晩中その火を守る)の焦点とした。『聖パウラ』に付された2つのヘクサメトロス形式の墓碑銘も、読者がベツレヘムに来るための手引きの役割を持っている。またパウラとイエスが同じ聖なる場所を共有しているほど近い関係であることも強調した。
ヒエロニュムスはパウラがいかに愛される存在だったかを描いている。そのため、彼女の葬礼のために多くの人が集まったことを紹介している。そして教会の聖餐式で他の殉教者たちと共に名前が呼ばれるように、殉教者名簿に載せられるべき聖人であることを強調した。その甲斐あって、最初の普遍的な教会祭儀のカレンダーであるMartyrologium Hieronymianumでは1月26日が聖パウラの日とされている。この殉教者名簿の作成者は、明らかにヒエロニュムスの『聖パウラ』をソースとしている。このほかにも、ベーダ、フロルス、アドー、ウスアルドらがパウラについて書くときは、『聖パウラ』に依拠している。
結論としては、『聖パウラ』はヒエロニュムスの作品のうちでも最上のもののひとつである。エウストキウムを慰め、また生涯の友人を記念するという個人的な理由のほかにも、霊的な成功をおさめたパウラを自分の指導の成果として描くことで、彼女を自分の修道思想のアイコンにするという理由もあった。パウラは日々語学の研鑽を欠かさず、語る言葉も聖書からのものばかりだった。ここでも、ヒエロニュムスは自分の聖書研究を受け継ぐ者として彼女を描いている。パウラのパトロネジ活動もまた彼女の聖性を証している。『ヨシュア記序文』では、「彼女の生涯は徳の模範である(vita virtutis exemplum est)」と現在形を使うことで、パウラの生涯が単に賞賛の対象であるだけでなく、いつの時代も模範とされるべきものだと示した。ヒエロニュムスはベツレヘム、そしてパウラの墓を、パウラを祭るための地理的な焦点とした。そしてパウラの祭儀を赤子としてのキリストの祭儀と関係付けた。パウラがのちに教会で祭儀の対象となったのは、ヒエロニュムスの『聖パウラ』に拠っている。
ヒエロニュムスは、パウラの死による痛手がいかに大きいものだったかを、パウラの娘のエウストキウムに書き送っている。休むことを知らない多産なヒエロニュムスが研究できない状態にあるということは、その悲しみの大きさを物語っている。『聖パウラ』を書いたのも、パウラを賞賛し、エウストキウムを慰めることで、実際には自分自身にセラピー的に貢献したかったからである。またヒエロニュムスは、キリスト教世界を通じて『聖パウラ』が回覧され、多くの人々に読まれることを期待していた。
ヒエロニュムスとパウラが住んだベツレヘムは二様に有名だった。第一に、ダビデの町であること、そして第二に、ベツレヘム周辺の洞窟でイエスが生まれたとされていることゆえにである。福音書には書かれていないが、2世紀の後半までにはイエスが洞窟で生まれたという逸話が流布していた(ユスティノス、オリゲネス、ヨアンネス・カッシアウヌス)。327年にはコンスタンティヌス帝がこの洞窟を正式に聖なるものとし、その上に聖誕教会を作った。エルサレムから歩いて1時間20分ほどのところにあるベツレヘムは、巡礼者たちが引きも切らず訪れる場所となった。ヒエロニュムスが住むより前には、すでに2つの修道共同体があった。
4世紀にはエルサレムが最も聖なる場所とされることがしばしばあったが(『タンフマ』、エルサレムのキュリロス)、ヒエロニュムスはエルサレムよりもベツレヘムを高く評価した。F.-M. Abelはこの理由を、ヒエロニュムスがオリゲネス主義論争で仲たがいしたルフィヌスがエルサレムにいたためだと指摘しており、多くの研究者も同意している。ベツレヘムへの特別視はパウラも受け入れていた。ヒエロニュムスは『聖パウラ』でのローマからベツレヘム定住までのパウラをアブラハムになぞらえ、巡礼者たちの旅行ガイドブックとしても役に立つようにしている。
15-26章は特に、パウラの聖性を強調している。これは、パウラを聖書的な敬虔さのモデルとすることで、その指導者であるヒエロニュムス自身の修道的、神学的、学者的な関心の典型にしようとしたのである。修道的観点から見ると、パウラはヒエロニュムスの修道的原理を体現し、莫大な財産を惜しげもなく貧者に施している。このことを強調するために、ヒエロニュムスは『聖パウラ』における彼らのローマでの最後の3年間の時系列を変え、自分たちが聖書的原理に従って行動していたように描いている。
聖書の学者的観点から見ると、パウラはヒエロニュムスの聖書研究を代表する女性である。『聖パウラ』の中でパウラが何かを語るたび、彼はそこに聖書の一節を入れ、彼女が聖書を暗記していることを強調した。パウラはその死に際しても聖書を口の端に上している。つまり、「三言語の男」たるヒエロニュムスの女性版として理想化されているのである。それゆえに、パウラはラテン語なまりのないヘブライ語で詩篇を朗誦することができたと描写される。それだけでなく、そうした知識を用いて適切な聖書解釈を展開することさえできたという。聖パウラを通して、ヒエロニュムスはヘブライ語の学習が修道的敬虔さといったキリスト教徒としての原理に即することを示そうとした。
神学的な観点から見ると、ヒエロニュムスはパウラがオリゲネス主義をはじめとする異端に嫌悪感を抱いているさまを描いている。オリゲネス主義論争において特に役割を持っていたわけではないが、パウラは論争におけるヒエロニュムスの「勝利」を喜んだ。聖性を帯びたパウラが嫌っているということは、敵対者たちへの攻撃のよい口実になった。
古代には葬礼でのスピーチを洗練させた聖者伝がしばしば書かれた。ヒエロニュムスは『聖パウラ』を聖人伝として書くことで、それが「聖パウラの祭り」の土台となるはずだと考えていた。初期キリスト教会では、殉教者たちが霊的完成を体現しているとされていたが、ヒエロニュムスの時代には、血を流さない殉教者として修道者がその代わりを努めるようになった。そして殉教者が教会で祭られているように、修道者であるパウラもまた祭られるべきと考えたのだった。ただし当時からすでに、殉教者を祭ることは一種の偶像崇拝であるとして、この見解を批判するウィギランティウスのような人物もいた。これに対しヒエロニュムスは反論し、殉教者を賛美することは、彼らが仕えていた神を賛美することだと主張した。そのためにヒエロニュムスはパウラの墓の場所を正確に記し、彼女への祭儀(蝋燭を灯し、一晩中その火を守る)の焦点とした。『聖パウラ』に付された2つのヘクサメトロス形式の墓碑銘も、読者がベツレヘムに来るための手引きの役割を持っている。またパウラとイエスが同じ聖なる場所を共有しているほど近い関係であることも強調した。
ヒエロニュムスはパウラがいかに愛される存在だったかを描いている。そのため、彼女の葬礼のために多くの人が集まったことを紹介している。そして教会の聖餐式で他の殉教者たちと共に名前が呼ばれるように、殉教者名簿に載せられるべき聖人であることを強調した。その甲斐あって、最初の普遍的な教会祭儀のカレンダーであるMartyrologium Hieronymianumでは1月26日が聖パウラの日とされている。この殉教者名簿の作成者は、明らかにヒエロニュムスの『聖パウラ』をソースとしている。このほかにも、ベーダ、フロルス、アドー、ウスアルドらがパウラについて書くときは、『聖パウラ』に依拠している。
結論としては、『聖パウラ』はヒエロニュムスの作品のうちでも最上のもののひとつである。エウストキウムを慰め、また生涯の友人を記念するという個人的な理由のほかにも、霊的な成功をおさめたパウラを自分の指導の成果として描くことで、彼女を自分の修道思想のアイコンにするという理由もあった。パウラは日々語学の研鑽を欠かさず、語る言葉も聖書からのものばかりだった。ここでも、ヒエロニュムスは自分の聖書研究を受け継ぐ者として彼女を描いている。パウラのパトロネジ活動もまた彼女の聖性を証している。『ヨシュア記序文』では、「彼女の生涯は徳の模範である(vita virtutis exemplum est)」と現在形を使うことで、パウラの生涯が単に賞賛の対象であるだけでなく、いつの時代も模範とされるべきものだと示した。ヒエロニュムスはベツレヘム、そしてパウラの墓を、パウラを祭るための地理的な焦点とした。そしてパウラの祭儀を赤子としてのキリストの祭儀と関係付けた。パウラがのちに教会で祭儀の対象となったのは、ヒエロニュムスの『聖パウラ』に拠っている。