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2019年11月15日金曜日

ヘクサプラ第5欄の目的 Schaper, "The Origin and Purpose of the Fifth Column"

  • Joachim Schaper, "The Origin and Purpose of the Fifth Column of the Hexapla," in Origen's Hexapla and Fragments: Papers Presented at the Rich Seminar on the Hexapla, Oxford Centre for Hebrew and Jewish Studies, 25th July-3rd August 1994, ed. Alison Salvesen (Texte und Studien zum Antiken Judentum 58; Tubingen: Mohr Siebeck, 1998), 3-15.

本論文はヘクサプラの第5欄のテクストの起源と、オリゲネスがこれを編纂した目的を明らかにするものである。ヘクサプラの実際のテクストに関する信頼できる証言というものは存在しないが、近年ではオリゲネスの注解やその他の著作のキーパッセージをより正しく理解できるようになってきたために、1875年にFieldがヘクサプラ校訂版を出版した時代よりは有利である。

ヘクサプラについてのオリゲネス自身の証言として重要なのが、『マタイ福音書注解』15.14、『アフリカヌスへの手紙』2-4、『ホセア書注解』(『フィロカリア』52-54所収)である。『マタ注解』によると、オリゲネスは旧約聖書のアンティグラファ間の「不協和音」を「癒す」ことを目指したという。ここでの「アンティグラファ」は、基本的にギリシア語訳聖書の諸版のことを指しているが、オリゲネスは校訂記号を用いてギリシア語とヘブライ語の両テクストの違いにも言及しているので、アンティグラファも両者を指すことがあるといえる。

ただし、オリゲネスはあくまでもギリシア語テクストに重きを置いており、その目的も究極的には教会の伝統的な七十人訳に基づいた信頼できるギリシア語テクストを作成することだった。ヘブライ語テクストは、テクスト批判の最後にギリシア語テクストに関する議論を裏付けるために参照するわけである。その意味で、オリゲネスはキリスト教伝統に忠実であると同時に、文献学への厳格な要求を持った人物だった。

『マタ注解』で論じられているのはヘクサプラの第5欄作成の方法論についてなのか、それともテクストとして分離した七十人訳についてなのか、これまで議論されてきた。後者を採る見解の依拠する理由としては、第一に、エウセビオスが第5欄における校訂記号の使用に言及していないから、第二に、現存するヘクサプラの写本には校訂記号が書かれていないから、第三に、ヘクサプラに校訂記号が書かれていたというエピファニオスの証言は信憑性が低いから、第四に、R. DevreesseやS. Jellicoeがまた違った角度から第5欄における校訂記号の使用を否定しているから、そして第五に、ヘクサプラのテクストがオリゲネスの改訂を反映しているのかパンフィロスとエウセビオスのそれを反映しているのかはっきりしないから、である。それゆえに、研究者たちはオリジナルのヘクサプラの第5欄は校訂記号を含んでいなかったし、またオリゲネスが『マタ注解』で言及しているのは切り離された七十人訳の改訂版だと主張した(Kahle, Barthelemy, Devreesse, Neuschaeferなど)。

ところがP. Nautinは上の説に反対し、第5欄のことが論じられていると考えた。なぜなら第一に、シロ・ヘクサプラには校訂記号があるから。第二に、ヒエロニュムスが『歴代誌序文』で用いているeditio Septuagintaという語は、分離された七十人訳の「エディション」と考えるべきではなく、むしろ単純に七十人訳の「ヴァージョン」と考えるべきだから、である。こう考えると、現存する写本に校訂記号がないことは「沈黙からの議論」にすぎないといえるし、またエピファニオスの主張の信憑性も回復する。さらに、ヘクサプラの現存する断片がそもそもオリゲネスによる第5欄に関するものなのか、それともパンフィロスやエウセビオスによる後代の改訂が入ったものなのかが、オープンクエスチョンになる。

Nautin説を参照しながら、論文著者は、オリゲネスが言及しているのは分離されたものではなく第5欄のことであり、オリゲネスはヘブライ語が初級レベルであるがヘブライ語写本をも参照しており、また結局のところヘブライ語写本よりもギリシア語写本を重く見ている、と説明する。ではオリゲネスは第5欄にどのような目的をあてがったのだろうか。Nautinによれば、ヘクサプラそのものにギリシア語テクストに対する本文批評的な理由は見出せず、むしろそれはヘブライ語原典を再構成するための個人的な批判的ツールだったという。しかし、Kamesarはこの見解に反対する。校訂記号は、読者を想定していたことを示している。

他には、第5欄は「学問的」なものなのか「論争的」なものなのか、という議論がある。つまり、第5欄が歴史的・文献学的に正確なテクストを作ろうとする学問的関心による産物なのか、それともキリスト教的護教論の要請に動機付けられたものだったのか、という問いである。「学問的」である証拠としては、第一に、聖書諸写本間の不協和音を「癒す」努力をしており、第二に、オリゲネスは聖書に登場するさまざまな名前をヘブライ語の形式に合わせて正しており、第三に、七十人訳の語順をテクスト破損の結果だと考えており、そして第四に、アステリスコス記号のもとにある(=七十人訳にはないがrecentioresにはある)箇所にコメントをしていることなどから、明らかである。

一方で、『アフリカヌスへの手紙』によれば、オリゲネスはその学問的な関心にもかかわらず、護教論に突き進んだ敬虔なキリスト者であり、第5欄もユダヤ教に対する論争における有用な武器だった、という解釈もある。さらに、護教的な理由から、本来であればヘブライ語テクストを中心にしたいという本心を持っていたが、それを隠していたという解釈も導かれる(N. de Lange)。しかし、Kamesarは、オリゲネスの究極的な関心は七十人訳であることから、この解釈を否定する。オリゲネスの聖書解釈には、翻訳には何らかの神的導きがあると信じる「オイコノミア」の考えに基づいているので、『エレミヤ書説教』15.5にもあるように、ヘブライ語の読みもギリシア語の読みも解釈の対象となるのである。Kamesarによれば、オリゲネスは七十人訳の逸脱も含む全体を肯定的に捉える一方で、ヘブライ語テクストに基づいてそれを正そうともしており、この両方の見解が自己矛盾していないのである。それゆえに、オリゲネスの意図を「学問的」か「論争的」かと対立的に考えることはできない。

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