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2018年7月28日土曜日

4Q252における申命記的特徴 Brooke, "The Deuteronomic Character of 4Q252"

  • George J. Brooke, "The Deuteronomic Character of 4Q252," in Pursuing the Text: Studies in Honor of Ben Zion Wacholder on the Occasion of His Seventieth Birthday, ed. John C. Reeves and John Kampen (JSOTSup 184; Sheffield: Sheffield Academic Press, 1994), 121-35.
H. Stegemannによると、4Q252写本は2つの別の写本から成っているという。普通であれば注解者はひとつのパターンに従うのに対し、4Q252はそうはなっていないからである。しかし、論文著者によると、写本の観察から、4Q252の6つの断片は皆同じ写字生によって作成されたひとつの写本に由来するという。そして内容的にも、6つの断片すべてに申命記的特徴が見られることから、写本はひとつだったことが分かる。

4Q252 3.2-6:M. Kisterは、この箇所では申13:14-18の「ヘレム」の法のことを指しているとするが、M. Bernsteinは、偶像崇拝のために犠牲を禁じる申命記的法のことをより明確に指摘している。申13章には、「חרם」「שלל」といった、4Q252のこの箇所に出てくる言葉が出てくる。4Q252 3.5の箇所も、申20:11の言い回しを想起させる。4Q252のソドムとゴモラに関する法的注解は、犠牲禁止の法に基づいてこの二都市の殲滅を正当化するものである。そのとき、4Q252は申命記をモーセ以前の出来事にも適用できると考えている(『ヨベル書』や『神殿巻物』も同様の考え方)。

4Q252 4.1-3:「アマレクの記憶を拭い去る」に関する部分で、Eisenman/WiseとStegemanは出17:14を典拠とするが、論文著者は申25:19とする。出エジプト記と異なり、申命記ではアマレクが滅ぼされなければならない理由が語られている。また申命記では4Q252のテーマである土地の贈与が語られている。さらに、申命記にある「主なる神が周囲のすべての敵からあなたの守って安らぎを与えるとき」というフレーズは、4Q252のように「日々の終わりに」という終末論と結びつきやすい。「日々の終わりに」という表現は五書では申命記のみに現れる。アマレクを滅ぼすという申命記の掟が終末、つまり編纂者の時代において成就するという考え方は『神殿巻物』にも見られる。

4Q252 5.1-2:エレ33:17が引用されているが、18節ではレビ人について触れている。この箇所はしばしば申18:1におけるレビ人の規定と結び付けられる。文脈を広く取ると、4Q252の編纂者は、自分たちはもともとレビ人だったが、今では「共同体の人」(4Q252 5.5)だと考えているのだろう。

4Q252 2.7:創9:27「彼はセムの天幕に住まう」の彼は、通常はヤペテが主語だが、4Q252はそれを神にすることでヤペテをセムの天幕から除外している。「שכן」のカル態は多く見られるが、そのピエル態は申命記のみに見られる。そして「彼の名前をそこに住まわせる」(申12:5, 11, 14)は、G. von Radによれば、申命記の中心的な思想のひとつである。「שכן」は死海文書の中では『神殿巻物』に頻出する単語である。また申命記における父祖への言及は、ひとつを除いてすべて土地の贈与の約束に関するものである。

祝福と呪い:M. Kisterは4Q252の主題を祝福だと考えた。確かに、五書における「ברך」の動詞のほとんどは創世記と申命記に集中している。しかし、論文著者はむしろ呪いこそが4Q252と申命記をより強くつないでいるとする。というのも、第一に、ソドムとゴモラ、アマレクなどへの言及があり、第二に、申27章のレビ人による呪いの掟からの影響が見られる(『共同体規則』にも似たような記述あり)。さらに第三に、申命記のレビ人と結びついた軍事的な敬虔さは、『戦いの巻物』における祭司とレビ人への言及と重なる。論文著者は、4Q252に見られる創世記の申命記的解釈は『戦いの巻物』と似ていると主張する。

以上のように、4Q252は創世記の注解でありながら、明示的にせよ暗示的にせよ、申命記の影響が認められる。ここから4Q252は、同じように申命記からの影響を受けた他のクムラン文書、たとえば『会衆規定』『ダマスコ文書』『神殿巻物』の解釈にも役立つ。

2018年7月27日金曜日

父祖の系譜としての『4Q創世記注解』 Saukkonen, "Selection, Election, and Rejection"

  • Juhana M. Saukkonen, "Selection, Election, and Rejection: Interpretation of Genesis in 4Q252," in Northern Lights on the Dead Sea Scrolls: Proceedings of the Nordic Qumran Network 2003-2006, ed. Anders K. Petersen, Torleif Elgvin, Cecilia Wassen, Hanne von Weissenberg, and Mikael Winninge (Studies on the Texts of the Desert of Judah 80; Leiden: Brill, 2010), 63-81.
Northern Lights on the Dead Sea Scrolls: Proceedings of the Nordic Qumran Network 2003-2006 (STUDIES ON THE TEXTS OF THE DESERT OF JUDAH)Northern Lights on the Dead Sea Scrolls: Proceedings of the Nordic Qumran Network 2003-2006 (STUDIES ON THE TEXTS OF THE DESERT OF JUDAH)
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論文著者は『4Q創世記注解』で博士論文を書いただけあって、たいへん説得的な論文である。
  • The Story behind the Text: Scriptural Interpretation in 4Q252 (Diss.; University of Helsinki, 2005).
全体として読むと、4Q252は困惑するような文書である。テクストのセクションをつなぐリンクや、全体を統合するはっきりとしたテーマのようなものを見つけることは困難である。聖書解釈のテクニックや方法論は、箇所によって大きく異なっている。文学的ジャンルへの分類や文学様式の同定も困難である。

このテクストの性質と目的については、とりわけGeorge BrookeとMoshe Bernsteinによって議論が交わされてきた。Bernsteinは4Q252を「シンプルな意味の釈義(simple-sense exegesis)」あるいは、主題的な統一性や特定のセクト的神学やイデオロギーを求めない創世記の釈義セレクションと見なしている(Niccumも同様の主張)。一方で、Brookeはテクストの背後に神学的・クムラン的なアジェンダがあると考える。

そこで、論文著者は4Q252を、形式、焦点、解釈テクニックに注目して検証する。まず文学形式について、論文著者は、再話聖書(rewritten scriptural text)、釈義的敷衍(exegetical paraphrase)、注解(commentary)、抜粋釈義(anthological exegesis)に分けている。これらのうち最初の3つは4Q252の中に見られる形式である。3つのうちでは、再話聖書と釈義的敷衍はより古い時代からあったが、注解形式が用いられるようになってからも、ヨセフスの聖書解釈に見られるように再話と敷衍は行われ続けた。

再話聖書とは、第一に、宗教的権威を持つベース・テクストに従い敷衍するものであり、第二に、ベース・テクストに織り込まれた付加的な編纂的、改訂的、解釈的な素材を含むものであり、そして第三に、独立したものである。4Q252でこの定義を完全に満たすのは洪水前の120年の解釈である。部分的には、洪水物語やアブラムの時系列などもこの形式の特徴を有しているが、これらはソースの物語から独立していない。

洪水物語やアブラムの時系列は、むしろ釈義的敷衍と呼ぶことができる。こちらはソースの物語から独立しておらず、また聖書テクストの代替的あるいは付加的な版を示そうともしていない。釈義的敷衍は聖書で語られている物語の筋や構造よりも、釈義上の問題に関心を持つ。

注解は、引用と解釈という形式で定義される。引用は省略されることもあるが、多くの場合にはある。引用と解釈とがはっきりとそれと分かるように、何らかの定式が置かれることもある。注解の代表例はラビ的なミドラッシュである。第二神殿時代には、クムランのテクスト以外にはあまり見られない。4Q252ではカナンの呪い、アマレクの物語、ルベンの祝福がこれに当たる。とりわけルベンの祝福には「ピシュロ・アシェル」という定式がある。ところで、実はペシェル定式は多くの場合預言テクストか詩篇で使われているので、それが五書で使われている4Q252は珍しい例である。

解釈の焦点を分類すると、「シンプルな意味の釈義」(Berstein)と「実現の釈義」(Vermes)に分けられる。シンプルな意味の釈義とは、テクストの難解なところや不明瞭なところを明らかにし、矛盾を解決するものである。この場合の矛盾とは、内的、間テクスト的、外的なものがあり得る。代表例は再話聖書やラビ的なミドラッシュ。一方で、実現の釈義とは、テクストのメッセージを正当化したり適応させたりして、新しい歴史的な状況の中で理解する試みである。その性質上、実現の釈義にはイデオロギーの要素がつきまとう。その最たる例が終末論的解釈である。代表例はクムランのペシェルである。興味深いことに、4Q252にはこのシンプルな意味の釈義と実現の釈義が両方見出される。

解釈テクニックについて、紙幅の都合から論文著者は詳述していないが、同定、時系列の計算、引用や暗示の使用などが認められるという。

さて、こうした4Q252の形式面を確認した後、論文著者はそのテーマの検証へと移る。著者はいくつかのテーマが繰り返されていると主張する。創世記のテーマは4Q252と当然共通しているが、創世記のすべてのテーマが扱われているわけではない。研究史においては、4Q252のテーマとして、「祝福と呪い」「性的な罪」「土地」「時系列」などさまざまに提案されてきたが、どれも十分ではない。「性的な罪」は、編纂者の目的にとっては偶然扱われているのであって、必然的ではない。それは創6章におけるネフィリムの問題を扱っていないことから明らかである。「祝福と呪い」についても、神によるノアの祝福が扱われていないことから、比較的重要ではないといえる。「土地」と「時系列」はより重要なものとして扱われているが、やはりすべてではない。

そこで論文著者は、「継続的な父祖の系譜」という観点を導入する。編纂者は意図的な神学的かつイデオロギー的なアジェンダに合致するような節を選んでいる。つまり、4Q252は創世記のコンピレーションではあるが、ランダムではなく意図的な選択に基づいているのである。この「継続的な父祖の系譜」は、歴史における選出と拒絶の繰り返しである。これはそもそも創世記そのものから4Q252が受け継いだ特徴である。

このように、4Q252は、世代を通じた前進のようなものと見なすことができる。その中には、イスラエルの祖先のつながりにおける重要なときが描かれている。ノアから始まるのは、新たな始まりとしての洪水は、新鮮な出発点だからである。そして多くの父祖の系譜は絶たれ、ただノアの系譜のみが続いていく。洪水物語は土地の再生でもある。ここで、父祖の系譜が土地の問題とつながっていく。

アブラハム、イサク、ヤコブの子孫の扱われ方を分析すると、父祖の系譜を受け継いでいるのは長男ではないことが分かる。アブラハムの長男イシュマエルとイサクの長男エサウは言及すらされず、ヤコブの長男ルベンは否定的に扱われている(「性的な罪」がここで少し扱われる)。つまり息子たちは年功序列で系譜を受け継ぐのではなく、選出されたり拒絶されたりしているのである。また、たとえばイサクはヤコブに対し、カナン人の女性と結婚するのではなく、レベッカの家族、すなわちテラの子孫から誰かをめとるように言っていることから、父祖の系譜を純粋なものに保つ傾向が見られる。アマレクについても同様である。アマレクの父親エリファズは、エサウとヘト人の妻アダの息子なので、アマレクはカナン人である。そうしたイメージから、アマレクは編纂者の同時代の敵を表している。

4Q252では、ヨセフの物語がまったく言及されていないことが特徴的である。論文著者はその理由を二つ挙げる。第一に、クムラン文書の中には、ヨセフやその子孫エフライムとマナセに対して、神学的あるいはイデオロギー的な嫌悪を持っているものがあるから。彼らの名前は共同体の敵として用いられるのである。第二に、ヨセフ物語の主な舞台はエジプトであるが、4Q252の主たる関心はカナンの土地のそこで起きた出来事だから。

いずれにせよ、祖父の特定の系譜(カナン、イシュマエル?、エサウ?、アマレク、ルベン)は、道徳的な失敗や不明瞭な出自ゆえに、はっきりと拒絶されている。また別の系譜(ヤペテ、アブラハムの兄弟、おそらくルベンやユダの兄弟たちも)は、無視されたりより中立的に扱われている。そして選ばれた者たちは、創世記での扱いよりも積極的に扱われている。そして長男が特権を奪われ、下の兄弟がそれを得ることが多い。つまり、4Q252は創世記を、ある子孫の選出、そして別の子孫の拒絶の物語として読んでいる。そのとき、拒絶され、のちに敵となる子孫もまた同じ系譜にいた者だったという事実は、敵は外側から来るものではないという考えがあるともいえる。ただし、この父祖の系譜の選出と拒絶とは、全体を覆うテーマというよりは、編纂者の視点の問題と捉えた方がよい。

4Q252は一見その構造が分かりづらい。個々のセクションだけでは、その神学的かつイデオロギー的な実体に厚みがない。しかしながら、全体として読むと、より強いメッセージが浮かび上がるのである。この意味で、Brookeの研究は核心を突いている。文書全体のジャンルの特定は不可能である。再話聖書と釈義的敷衍と注解の形式が同居する文書は、4Q252の他にはない。しいて言えば、「選択的な主題別の注解(selective thematic commentary)」であろうか。

4Q252は、ペシェル形式、太陽暦、アマレクへの言及などクムラン写本の特徴となる要素を用いている。ただし、注解の対象である創世記は、必ずしもクムランでは主要な聖書文書ではない。クムランでは申命記、イザヤ書、詩篇などの方がより重視されていた。おそらく編纂者は、あえて創世記を扱うことで、共同体の歴史と立場に異なった視座を与えようとしたのだろう。

以上より、4Q252の目的は、それをイスラエルの系譜の遡りとして、そして父祖の歴史における一連の選出と拒絶の連続的な語りなおしとして読んだときに、よく理解できる。編纂者は共同体の立場を神の選びとして正当化し、構成員の自信を強めようとしたのである。

2018年7月24日火曜日

非メシア待望、非終末論的テクストとしての『4Q創世記注解』 Niccum, "The Blessing of Judah in 4Q252"

  • Curt Niccum, "The Blessing of Judah in 4Q252," in Studies in the Hebrew Bible, Qumran, and the Septuagint Presented to Eugene Ulrich, ed. Peter W. Flint, Emanuel Tov, and James C. VanderKam (VTSup 101; Leiden: Brill, 2006), 250-60.
創49章の解釈である4Q252の断片6(第5欄)は1956年にJohn Allegroによって出版されている。メシアとヤハッドについて語っていることから、Yigael Yadinらから党派的文書と見なされてきた。Moshe Bernsteinは、4Q252の主題上の統一性のなさから、著者の意図は党派的な関心から形成されたというより、創世記の釈義上の問題点を解決することだったと考えた。その一方で、Bernsteinは、断片6に限っては「党派的」かつ「メシア的/終末論的」であり、またクムランにおける他の一節の背景の中で読むと、極めて「クムラン的」であると結論付けた。

論文著者は、Bernsteinの4Q252全体に関する立場を支持しながらも、断片6についての見解は疑問視する。他の断片の中で見ても、断片6におけるユダへの祈りの注解は釈義上の困難を解決しようとするものであり、他の断片と同じように、クムランやメシア待望と関連するものとは限らない。

創49のヤコブの祝福は、ユダヤの聖書解釈では終末論的に読まれてきた。とりわけ10節の「王笏はユダから離れず、統治の杖は足の間から離れない。ついにシロが来て、諸国の民は彼に従う」は、待望されたダビデの後継者の軍事的成功と、その支配の千年王国的な性質のことだと理解された。

創49のこのような解釈史は、ゼカ9:9-17に始まる。ここでは創49:10-12のテクストが軍事的な用語や終末論的な用語と関連付けられている。メシア的とまでは言わなくとも、預言者はユダへの祈りの成就が捕囚後のエルサレムにおけるダビデ的指導力になると考えている。次に、より後代のユダヤ解釈も同じ主題を展開する。たとえば、タルグム・オンケロス、『バビロニア・タルムード』、『創世記ラバー』などである。興味深いことに、イスラエルの敵を征圧するメシアというイメージは、ラビ文学でも後代に現れるものであり、そのときはいつも創49はイザ63章と関連付けられている(タルグム・偽ヨナタン、ナオフィティ、イザヤ・タルグム)。

ただし、これらのどれも4Q252における解釈とは異なっている。そこで関連付けられているエレ33:14-26は、創49章に関する何らかの伝承に依拠しており、ダビデのつながりと関連している。ここでは、第一に、神自身がその預言が未来のある時のことを指していると述べており(「その日、その時、わたしはダビデのために正義の若枝を生え出でさせる。彼は公平と正義をもってこの国を治める……」)、第二に、ダビデへの約束はレビ人への約束と関連しており、イスラエルの世俗的な支配と霊的な支配が結び付けられている(「量り知れない海の砂のように、わが僕ダビデの子孫と、わたしに使えるレビ人の数を増やす)。こうして、ユダへの祝福はメシアの到来までの現在進行中の聖書解釈となる。このとき、トーラーの学習はダビデ専制の最終的な到来を確かなものとすることに役立つ。すなわち、4Q252は、軍事的かつ千年王国的な解釈と共に発展した、創49章のハラハー的解釈でもある。

これと似たような解釈は、ユスティノス『対話』1.52に見られる。ただし、キリストの時代までは、イスラエルが霊的および政治的指導力を持っていたが、それ以来失ったという裏面からの論理である。またタルグム・オンケロスや『創世記ラバー』にも似た解釈がある。

以上より、ユダへの祝福を解釈する場合、もし注解者がメシアの到来に注目するときには、軍事的かつ千年王国的な考えが前面に出てくる。しかし、もしメシアの到来以前の状態に注目するときには、イスラエルの法的教えの同時代的な状態が強調される。4Q252はこのうち後者の立場に近い。

4Q252のテクスト上での「幾千もの人々」や「旗」への言及は、軍事的なメシアを想起させる。事実、Y. Yadinはこの箇所と『戦いの巻物』とを比較している。あるいは、他の研究者もダビデ的な軍事王をイメージしているが、これらの解釈は適当でない。なぜなら、第一に、創49を軍事と結びつけるのはイザ63章と関連付ける後代の解釈に見られるものであり、第二に、これ以外のヒントがないからである。

結論としては、4Q252は、創49章の3つの主なユダヤ的解釈のうち、ハラハー的なものに近い。このテクストは聖書解釈上の問題を解決しようとし、メシア待望とは離れた鍵語を持ち、契約と律法への関心が見られる。メシアの来臨を考えてはいるが、編纂者の関心は未来よりも現在であり、軍事的な制圧や千年王国的強調よりはトーラーの解釈である。この結論は、Bernsteinによる、4Q252は創世記の難解な箇所の注解だという主張を支持する。ただし、Bernsteinがこの箇所を他の部分とは異質なものと見たのは間違いである。なぜなら、中心的な課題はメシア的でも終末論的でもないからである。また「ヤハド」の語が見られるが、それ以外はクムラン的な感じは受けない。

2018年7月23日月曜日

クムランにおける聖書解釈 Vermes, "Bible Interpretation at Qumran"

  • Geza Vermes, "Bible Interpretation at Qumran" Eretz-Israel: Archaeological, Historical and Geographical Studies (Yigael Yadin Memorial Volume) 20 (1989): 184*-91*; repr. in Vermes, Scrolls, Scriptures and Early Christianity (The Library of Second Temple Studies 56; London: T & T Clark, 2005), ?
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クムラン聖書解釈の見取り図を描く古典的な論文である。本論文より以前に同様の試みをした研究には、F.F. Bruce, Otto Betz, Vermes, M.P. Horgan, Herve Gabrion, George J. Brooke, Devorah Dimantなどがあるが、本論文は聖書解釈の便宜的な分類をしている。

それに先立ち、論文著者はいくつかの用語の定義を行っている。まず「聖書」とは、後100年か少し前から、ラビ集団の中で認められたヘブライ語文書のまとまりを指す。死海文書が成立した時代にこれがどのようなものだったのかはよく分かっていないが、少なくともエステル記以外のすべての現在で言うところの聖書文書がクムランで見つかっている。死海文書中の聖書引用からも当時の正典を導き出すのは難しい。というのも、引用されているのは、「前の預言者」のうちではヨシュア記とサムエル記のみであり、諸書の中では詩篇と箴言のみだからである。

「解釈」について、論文著者はこれを3つのタイプに区分する:
  1. 編集タイプの暗示的解釈(『神殿巻物』)
  2. 聖書の個々の文書の解釈(再話聖書とペシェル)
  3. 主題別に集められたさまざまな文書からの抜粋の解釈
まず第一の「編集タイプの暗示的解釈」は、調和、合成、補足といった方法で聖書テクストを再構成するものである。代表例である『神殿巻物』は聖書そのものの改訂版といっていい。ここからは、第二神殿時代のソフェリームが、タルムード時代のラビたちよりも自由にテクストを扱っていたことが判る。

論文著者は第一の解釈の実例を4つ挙げている。第一に、「平行テクストの分類と照合」の例である『神殿巻物』51:19-52:3は、申16:21-22とレビ26:1でそれぞれやや異なって言及されている偶像崇拝の禁止をひとつにまとめ、両者が相互に解釈し合うようにしている。第二に、「調和的展開」の例である『神殿巻物』52:11-12は、レビ17:13で説明されている、殺した動物の血を地面に注がなければならないという規定の詳細を、申12:23-24に盛り込んでいる。第三に、「明確化するための付加」としては、申14:24で述べられている十分の一税を神殿に納めるには遠すぎる場所の距離が、『神殿巻物』43:12-15で「三日間歩くほどの距離」と定義されている。第四に、「改変と補足」では、申21:12-13で述べられている捕虜の女性と結婚するための決まりに対し、『神殿巻物』53:12-15では、その女性の花嫁支度を夫が世話すること、また完全に妻とするために7年かかること(それ以前はその女性は清浄規定に抵触する)が決められている。

第二の解釈タイプである「聖書の個々の文書の解釈」は、さらに下位区分として「再話聖書」と「ペシェル」に分けられる。「再話聖書」の代表例は『外典創世記』であり、これは聖書物語の明確化、装飾、完全化、更新のためにさまざまな説明的工夫を物語に盛り込むことで、論文著者は実例を3つ挙げている。第一に、「明確化するための付加」としては、創12:11-13でアブラハムが妻サラに自分の妹だと偽ってもらう箇所で、なぜアブラハムが命の危険を感じたかの説明が『外典創世記』19:13-16に付加されている。第二に、「装飾のための付加」としては、創12:15でわずかに語られているのみのサラの美しさを、『外典創世記』20:2-8は長々と説明している。第三に、「弁明的な置き換え」としては、創12:16でアブラハムがサラをエジプトの王に差し出したことで多くの家畜を得たことに対し、『外典創世記』20:10-11, 14, 29-32ではアブラハムがサラを失ったことを一晩中嘆いたあとに贈り物を得たことが説明される。

このように、「再話聖書」の目的は解説的なものであって、歴史的あるいは神学的なものではない。聖書の地名をアップデートするといった、一見歴史的な改変も、物語を判りやすくするための解説的な措置なのである。

ペシェル」は形式と内容によって定義される。形式的には、聖書テクストの引用(通常3節以下の長さ)から始まり、導入的な語が続いたあと、引用テクストの解説となる。『ハバクク書ペシェル』などが代表例である。内容的には、預言として理解される聖書テクストを(注解者の)同時代あるいはほぼ同時代の出来事に関係付ける。これは「成就の解釈」と呼ぶことができる。ペシェルの解釈者は歴史記述をしようとしていたのではなく、あくまで聖書解釈を目的としていた。もし歴史を書こうとしていたのなら、必要な部分だけを選んでいただろうが、実際には一節ずつ、一章ずつ解釈している。

論文著者はペシェルの4つの実例を挙げている。第一に、「秘密の歴史的解釈」。預言書には、聖書の預言者が感じていた終末、すなわちクムラン共同体にとっての現在が書かれているわけだが、ペシェル解釈者はそれを外部に知られないように専門用語(「ユダの家」「裁きの家」「義の教師」)を多用した難解なかたちで示す(『ハバクク書ペシェル』8:1-3)。第二に、「判りやすい歴史的解釈」としては、ナホ2:11の「ライオン」をセレウコス王のデメトリオスやアンティオコスと見なす(同時に「滑らかなものを探す者」「キッティーム」といった専門用語も用いる)。第三に、「神学的解釈」では聖書テクストに党派的な原理を読み込み、義の教師の役割などを強調する(『ハバクク書ペシェル』6:14-7:8)。第四に、「中立的解釈」では、歴史的あるいは教義的な暗示をまったく含まない解釈が扱われる(『ハバクク書ペシェル』12:13-13:4)。

第三の解釈タイプである「主題別の解釈」は、複数の文書からの抜粋を扱うこともあれば、同一文書からの連続的でない箇所を扱うこともある。論文著者は3つの実例を挙げる。第一に、「テスティモニア」の実例である4Q175は、3つのメシア的な預言の集成である(申5:28-9, 18:18-19; 民24:15-17; 申33:8-11)。第二に、「主題別の選集」の実例は、イザ40-55章に基づく『慰めの言葉(4Q176)』と、詩6-16篇に基づく『詩篇カテーナ(4Q177)』である。第三に、「クムラン・ミドラッシュ」では、注解者が異なった聖書箇所を用いて特定の主題に関する自らの教えを展開する。代表例は『フロリレギウム(4Q174)』である。

論文著者は、結論として、本論文ではカバーしなかった2点を挙げている。第一に、聖書解釈本は論文で扱った釈義的文書のみならず、神学的、論争的、説教的な文書にもあるが、スペース上の問題から取り扱わなかった。第二に、ポスト聖書的ユダヤ教における聖書解釈のコーパスに死海文書を入れ込んでみることは重要である。すなわち、外典、偽典、新約聖書、ヨセフス、タルグム、ミドラッシュにおける並行現象を調査するのである。

2018年7月21日土曜日

『4Q創世記注解』の理解をめぐるブロックへの批判 Bernstein, "A Response to George J. Brooke"

  • Moshe J. Bernstein, "4Q252: Method and Context, Genre and Sources. A Response to George J. Brooke 'The Thematic Content of 4Q252,'" Jewish Quarterly Review 85 (1994-95): 61-79; repr. in Bernstein, Reading and Re-Reading Scripture at Qumran (Studies on the Texts of the Desert of Judah 107; Leiden: Brill, 2013) 1:133-50.
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本論分は、次の論文におけるBrookeの主張に対し、Bersteinが反論を試みたものである。
Brookeは第二神殿時代のユダヤ文学との比較を頻繁にするが、それはある文書の文脈を無視して誤った読みに堕すことを防いでくれるが、一方でその文書自身に語らせる前に、それをより大きな知的世界に近づけすぎてしまう危険がある。つまり、Brookeは外的な視点を持ちすぎるあまり、内的な観点を忘れている。

これを是正するために、Bersteinは、テクストをそれ自身の用語で読み、第二神殿時代の文学のそれを用いないとする。また、テクストの中に何があるかに注目し、そこにないものは扱わない。そしてテクストの目的ではなく中身を分析するという。つまり、先入観を持たないようにするのである。

Brookeはテクストを次の八部分に分けていた。(1)洪水の時系列、(2)ノアからアブラハムへ、(3)アブラムの時系列、(4)ソドムとゴモラと土地の浄化、(5)イサクの縛り、(6)イサクによるヤコブの祝福、(7)アマレク、(8)ヤコブによる祝福。

Bersteinは、まず(1)洪水の時系列を二つに分ける。すなわち、120年の解釈と洪水の時系列である。第一の部分について、『4Q創世記注解』(以下4Q252)は、創6:3の120年を洪水までに人間に残された時間と見なす。第二の部分について、Brookeは時系列の中にポイントが暗示された神学的なアジェンダがあると考えるが、Bernsteinは、第二神殿時代の文学には神学的でないものもあるし、4Q252が神学的であるとして、その証拠を示すべきと反論する。Brookeは、ノアたちが暦を守ることで神の好意を得たと主張するが、暦の遵守などテクストには出てこない。4Q252を『ヨベル書』に基づいて読むのは誤りである。

(2)ノアからアブラハムについては、Brookeは断片的にしか分からないテクストの全体の構造を議論するという過ちを犯している。またBrookeは、この箇所に『ダマスコ文書』2.15-3.2との並行関係を見ているが、十分に堅密な言語的なつながりは見られない。さらに『ダマスコ文書』が語っている罪への傾斜や欲望の目を、カナンの呪い、ソドムの滅亡、アマレクの殲滅、ルベンがビルハと寝たことなどとつなげて、4Q252が性的な罪について語っていると解釈するが、ルベンの場合以外は特に性的な暗示は見当たらない。またBrookeはこの箇所が土地の贈与とそこに住む人について語っていると解釈する。確かに土地の贈与について語られてはいるが、そこに神学的なニュアンスは少ない。

(3)アブラムの時系列について、Brookeは、それを明らかにすることで神がいかに約束を守ったかを示していると解釈する。しかし、この箇所の主眼は、創11:26と12:4との表面上の矛盾の解消と、イスラエルの民のエジプト滞在に関する創15:13と出12:41の矛盾の解消である。神の約束の問題は、テクストのどこでも語られていない。テクスト上の問題点を解決することだけが編纂者の目的である。断片的でないテクストの神学的立場を明らかにすることですら困難なのだから、断片的なテクストはなおさらである。アブラムの時系列の箇所で、彼の子孫への土地贈与に関する神の約束が語られているとは思えない。

(4)ソドムとゴモラの箇所では、土地やその浄化については出てこない。そしてテクスト上では、ソドムとゴモラの罪が性的なものであったことなども語られていない。テクストに明らかに書かれていることのみを扱うべきである。

(5)イサクの縛りの問題は、注解というよりは再話聖書の形式で書かれているようである。Brookeはここでも土地の問題を持ち出すが、それもテクスト上では明らかでない。編纂者がなぜこの箇所を取り上げ、釈義を施しているのかは分からない。編纂者や読者が土地の後継者であるかのようだというBrookeの解釈は飛躍である。

(6)イサクによるヤコブの祝福にについては特に言及なし。

(7)アマレクについて、Brookeは申25:19「アマレクの記憶を拭い去りなさい」が引用されていることから、同26:1「あなたの神、主が嗣業として賜わる国にはいって、それを所有し、そこに住む時は」の記述に(勝手に)つなげ、4Q252のテーマは土地の所有だとする。確かに土地の問題はこのテクストのテーマではあろうが、この主張は引用してもいない箇所に基づいていることと、また引用されている25章の部分でも土地についての記述はオミットされていることを無視している。むしろ、土地の記述の代わりに「日々の終わりに」という一節を置いていることからは、編纂者があえて土地問題に言及しなかったことが分かる。また編纂者は、ここで成就が不完全な神の命令について語っているというよりは、聖書のあとの部分で重要になってくる存在としてアマレクについて言及していると思われる。それゆえに、サウルへの言及も、彼がアマレクを殲滅し尽くさなかったからではなく、とにかくアマレクに勝利したからと考えるべきである。Brookeは『十二族長の遺訓』や『聖書古代誌』との類似を説くが、これも根拠のない主張である。Brookeが言うアマレクの性的退廃や土地の浄化、またエサウの拒絶についてなども、テクストに言及はない。確かにこれらは第二神殿時代のユダヤ文学の重要なテーマではあるが、単純に4Q252はそれらに言及していないのである。

(8)ヤコブによる祝福の部分とアマレクの部分には共に「日々の終わりに」という用語が出てくるため、Brookeは両部分のつながりを説明しようとするが、この用語は実際に4Q252の中で引用されている部分に出ているわけではない。また個々の部分のダイナミックさの前では、それらの部分同士のつながりを無理やり作ろうとするのは無駄なことである。

以上のことから、BernsteinはBrookeの主張を退ける。Brookeは4Q252において「成就していない祝福と呪い」が語られていると主張したが、少なくとも呪いはテクスト上では表現されていない。洪水では時系列のみに集中しているし、ソドムとゴモラの物語は断片的過ぎるし、アブラハムの祝福は聖書のパラフレーズの中でわずかに触れられているだけである。編纂者は解釈困難な箇所の解釈に集中しているだけである。

Brookeの解釈は、土地の神学や土地の約束に関する先入観を反映してしまっている。彼は、どの箇所にも一度も「土地の約束」は言及されていないという事実を無視している。また彼は第二神殿時代の文学やクムランの文学のより広範な関心に従ってしまっている。『ダマスコ文書』などと単純に比較をすることで、4Q252をそれ自体から読むことの権利を奪っている。

Bernsteinの理解では、4Q252の本質はそれ以降には見られないような原始的な注解である。基本的な聖書解釈的な問題を選択的に扱いつつ、クムランに特徴的ないかなるイデオロギー的あるいは神学的な考えも語らない。つまり党派的な特徴はない。いわば、4Q252は再話聖書と聖書注解の間のどこかに位置しているのである。そして、Bernsteinによれば、これ以上我々は理解を進めることはできない。

また独自のテクストというよりは、すでにあったテクストを編纂者が自分の興味にしたがってまとめたものと考える方がよい。その場合、テクストの構造と選択は編纂者によってなされ、個々の注解はより前の解釈者によってなされたものであろう。また個々の注解についても、アマレクやルベンに関する部分は「注解」タイプ、洪水やアブラハムに関する部分は「再話聖書」タイプだったことから、解釈のスタイルには拘泥していない。

そして個々の解釈をつなげるような一貫した理由や方法論は見出されない。強いてつながりを挙げるならば、それはヘブライ語聖書の解釈困難な箇所であるというだけである。Bernsteinは、ユダの祝福部分を除いて、いかなる党派的な関心や用語も見られないと主張する。4Q252には党派的なメッセージはないし、論争点も欠いている。個々の解釈のみならず、編纂の段階においても、4Q252にクムランに特徴的な箇所はない。

関連記事

2018年7月20日金曜日

土地の所有という創世記解釈 Brooke, "The Thematic Content of 4Q252"

  • George J. Brooke, "The Thematic Content of 4Q252," Jewish Quarterly Review 85 (1994): 33-59.

本論文は、『4Q創世記注解』の公式エディターであるBrooke(マンチェスター大学)による同テクストのテーマをめぐる議論であるが、これに対し、タルグムと死海文書の研究者であるM. Bernstein(イェシバー大学)がのちに反論を試みている(その論文は後日まとめる)。両者共に、死海文書の聖書解釈についての専門家である。

まずBrookeは公式エディターとして実物を手にすることができたので、観察の結果得られた3つの知見を説明する。第一に、4Q252は6つの断片および6つの欄から成っており、第1欄と第2欄の大部分を含む断片1はテクスト全体の冒頭を含んでいる。4Q252 1:1には先行詞がないままに「彼らの終わり」という言葉があるが、それは編纂者が読者の創世記の知識を前提にしているからである。第二に、編纂者は新しいセクションを余白などで示すが、第1欄の冒頭にはそのようなものはない。第三に、現存する断片は、創世記の6章から49章までをカバーしている。これより前の部分(1章から5章)や出エジプト記の注解があったと考える根拠はない。

1-2:5は洪水の時系列を扱う。この中では、箱舟の建設や洪水の被害などについては語られず、専らそれぞれの出来事が起こった日付について扱われる。洪水が太陽暦の364日間続いたとする点で、編纂者の関心は『ヨベル書』のそれに似ている。Brookeによれば、この聖なる太陽暦を守ることは倫理的な正義を遵守することとなるという。つまり、暦の問題を扱うことは、他の多くの第二神殿時代の文学と同様に、倫理的な奨励になっているのである。

2:5-8のノアに始まりアブラハムに終わる部分は、架け橋となるパッセージである。内容的には、呪いと祝福を含んでいる。引用されている創9:27「彼はセムの天幕に住まう」は、マソラー本文では曖昧な主語をはっきりと神にすることで、『ヨベル書』やいくつかのクムラン文書(『戦いの巻物』『ネヘミヤ書ペシェル』『ダマスコ文書』等)同様の反ギリシア的な排外主義を示している。またノアからアブラハムにジャンプするという構成は、『ダマスコ文書』2.15-3.2にも見られる。ここでは、罪に傾くことや欲望の目を持つことを避けるように説かれている。Brookeは、『4Q創世記注解』において、洪水の時系列のみならず、カナンへの呪い、ソドムの破壊、アマレクの殲滅、ルベンの不貞などが語られていることから、ここでも罪や欲望の問題が扱われていると考える。そしてそれらは、神からの土地の贈与と、そこの住人の問題とも大きく関わっている。

アブラムの時系列。Brookeによれば、編纂者の関心は、アブラハムのカナン入りの時系列と、その子孫への土地の贈与にあるという。

ソドムとゴモラと土地の浄化。この中では申13:13-19における偶像崇拝の町に関する法が暗示されている。ただし、この部分の暗示は、申20:10-18における戦争の法によるものかもしれない。Brookeは、『4Q創世記注解』2.8においては、アブラハムが神の友人として描かれていると主張する。そしてこの神とアブラハムとの友情がソドムとゴモラの破壊と密接につながっているという解釈が、フィロンとタルグム・ネオフィティに見られる。またソドムとゴモラの物語は、第二神殿時代のユダヤ文学においては、性的な罪とその浄化と関係していると考えられてきた。

イサクの奉献。アブラハムがまさにイサクを殺そうとしているところから始まっているが、その意図は判りづらい。これまでの注解でテーマとされている土地の贈与がここにも関わっているとすると、アブラハムの子孫が土地を所有するという神の約束を成就させるのはイサクとその子供たちだと示しているといえる。あるいは、代下3:1から、イサクを縛ったのはエルサレムだったことも重要視されていたかもしれない。

イサクによるヤコブの祝福。ここには「全能の神(エル・シャダイ)」という、創17:1-2および35:9-12にしか現れない語が用いられている。またその祝福は、ヤコブの繁栄と土地の約束から成っている。Brookeによれば、編纂者はあたかも自分やその読者が父祖たちへの土地の約束の後継者であるかのように考えているという。

第4欄のアマレクに関する箇所は最も興味深いものである。申25:19「アマレクの記憶を拭い去りなさい、天の下から」には、「日々の終わりに」というフレーズが挿入されている。これは第四洞窟出土のテクストの中では、4Q174および4Q177に見られる。申命記では、モーセに対してアマレクの殲滅されるべき終末の時間が語られている。サウルはアマレクを殲滅するべきだと見なされていたが、完遂できず(サム上15:1-34)、その成就は後の時代に託されていた。また「日々の終わりに」というフレーズは、民24:14のバラムの託宣とのつながりを示している。

Brookeは、このアマレクに関する奇妙な言及は、まだ完全に完遂されていない神の命令を示していると解釈する。アマレクの殲滅は、エサウの拒絶、すなわち選ばれたのはヤコブでありイスラエルの民であったということを示す。アマレクの問題については、『十二族長の遺訓』の「シメオン」5:4-6:5と偽フィロン『聖書古代誌』などにも見られる。こうしたことから、Brookeは、『4Q創世記注解』がアマレクに言及するのは、アマレクの殲滅こそが、土地を所有する者たちにとっての約束された終末論的やすらぎとなるからだと考える。つまり、ノア、ソドムとゴモラ、カナンなどの物語と共に、アマレクの殲滅は、性的な不品行による汚染から土地を浄化することなのである。アマレクというエサウの子孫を殲滅することは、相続権がヤコブとその子孫に属していることを意味する。

ヤコブの祝福。ここに至る前のヨセフ物語集成(Joseph cycle)は完全に省略されている。エレ33:17「ダビデのために王座につく者は滅ぼされることはない」が引用されている。この先の部分であるエレ33:22「わたしは数えきれない満天の星のように、量り知れない海の砂のように、わが僕ダビデの子孫と、わたしに仕えるレビ人の数を増やす」は、創22:17-18「あなたを豊かに祝福し、あなたの子孫を天の星のように、海辺の砂のように増やそう。あなたの子孫は敵の城門を勝ち取る。地上の諸国民はすべて、あなたの子孫によって祝福を得る。あなたがわたしの声に聞き従ったからである」の再話である。

Brookeによると、ヨセフ物語が完全に省略されている一方で、ノア、アブラハム、イサク、ヤコブなどが取り上げられていることから、『4Q創世記注解』は、まだ成就していないあるいはまだ解決していない祝福と呪いに関心を示している。また素材の選択に関しては、D. Clinesが五書そのもののテーマとして述べているそれと近しい。すなわち、父祖との約束や父祖への祝福の部分的な成就である。Brookeによると、カナンの呪い、セムの天幕、アブラハムの時系列、ソドムとゴモラの滅亡、イサクからヤコブへの祝福、アマレクの殲滅などはすべて、土地の約束に関係している。しかし、土地の継承はいかなる性的不品行にも関わらなかった者のみに属している。ノアの裸の罪を帰されたカナン、邪悪な住人の住むソドムとゴモラ、政敵放縦のアマレク、ビルハと寝たルベンらは、その性的不品行によってその資格を失った。

こうしたことから、Brookeは『4Q創世記注解』と『ダマスコ文書』との類似を指摘する。『ダマスコ文書』において「今こそ聞け」という言葉で始まる三つの奨励が皆、土地の正当な所有や性的放縦と関係しているからである。

2018年7月15日日曜日

再話聖書から聖書注解へ Bernstein, "4Q252: From Re-Written Bible to Biblical Commentary"

  • Moshe J. Bernstein, "4Q252: From Re-Written Bible to Biblical Commentary" Journal of Jewish Studies 45 (1994): 1-27; repr. in Bernstein, Reading and Re-Reading Scripture at Qumran (Studies on the Texts of the Desert of Judah 107; Leiden: Brill, 2013) 1:92-125.
Reading and Re-Reading Scripture at Qumran (Studies of the Texts of the Desert of Judah)Reading and Re-Reading Scripture at Qumran (Studies of the Texts of the Desert of Judah)
Moshe J. Bernstein

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論文著者はまず、古代における字義的解釈(Simple-sense exegesis)を定義する。字義的解釈とは、理性的な読者が直面する言語、文法、文脈、問題における難点によって引き起こされる問題に注目するものであり、そしてそうした問題をある一定程度まで聖書テクストの条件や境界の中でのみ解決することを試みる解釈である。字義的解釈をしばしば含む古代の文学は、たとえば、古代の翻訳聖書再話聖書(『ヨベル書』『外典創世記』)である。これらの解釈は、歴史的観点や神学的観点からではなく、専ら解説的(expository)観点から、テクストのぎこちない構造をなめらかにし、明らかな矛盾を調和させた。

これに対し、注解(commentaries)は、翻訳のようにテクストの単語や文章に縛られないし、再話聖書のように原点の物語構造にそれほど密接に従属していない。むしろ、問題がある箇所や注解者の関心を引いた箇所を、選択的に次々に進んでいく。それは例えば、フィロンの寓意的解釈やクムランのぺシェルであるが、両者共に字義的解釈を超えたところをゴールにしている。

G. Vermesは、クムランにおける聖書解釈は、再話聖書とぺシェルに二分されるとしたが、この区別においては、クムランの字義的解釈は再話聖書(とある種のハラハー的著作)の方に見られることになる。ぺシェルは聖書テクストの字義的解釈よりも、その歴史的あるいは終末論的な実現を目指している。

論文著者によれば、『4Q創世記注解A』は、クムランで見つかったテクストの中で、その解釈方法の幅広さとテクストの範囲のまばらさに関して、著しく他と異なっている。それは、秘儀的でなくまた偏向的でない字義的解釈の「注解」の最初の一歩を体現しているからである。『創世記詞華集』と呼ばれたこともあるが、注解を加える箇所の選択に基準がなさそうに見えることから、この名称は当たらない。形式的にも概念的にも、古代にはこのようなテクストはなかった。

『4Q創世記注解A』の特徴を列挙すると、(1)それは党派的あるいは終末論的なペシェル聖書解釈ではない(わずかな例外を除いて)。(2)その解釈は暗示的でない。(3)同時代の出来事や当時の歴史を反映していない。(4)聖書を預言的に読まない。(5)中立的でも文脈的でもない。(6)再話聖書ではなく、引用+釈義を持つ「注解」である。(7)特定の問題を選択し、その問題だけが注解の対象になっている。(8)再話聖書と注解が同居していることから、新しいジャンルへの過渡的かつ暫定的な性質を持っている。

カレンダーやメシアニズムといった要素は、確かにクムランの党派的テクストの特徴ではあるが、これらは多かれ少なかれ当時のユダヤ人が共有していた感覚でもあった。『4Q創世記注解A』の個々のコメントのどこにも、党派的なメッセージは見出されない。それらのコメントは、ヘブライ語聖書の解釈上の問題に解答を与えているだけである。

もしこのテクストがクムランで発見されたのでなければ、われわれはそれがクムラン由来であるかもしれないと疑うかもしれないが、典型的なクムラン的テーマの欠如を訝しく思うことだろう。個々の解釈はあまりに多様なので、統一的なテクストとして読むべきではない。そうした意味で、このテクストはより早い時代に書かれた作品の抜粋なのかもしれない。

2018年7月5日木曜日

初期ユダヤ教注解の問題 Brooke, "4Q252 as Early Jewish Commentary"

  • George J. Brooke, "4Q252 as Early Jewish Commentary," Revue de Qumran 17 (1996), pp. 385-401.

4Q252の各セクションの多様性をどのように説明するかは難問である。この多様性の説明方法としては、3つ挙げられる。第一に、写本のテクストの再構成をした者が間違えたと考えることである。H. Stegemannは、1から3欄目の途中までと、そこから6欄目までとは別のテクストだったと考えた。しかし、写本の観察や、4Q252を通して創世記のテクストが選択的かつ多様に扱われていることから、これを2つの別のテクストと考えるのは難しい。

第二に、個別のセクションの解釈を詳細に扱い、それらが一体であるかどうかについては触れないという方法である。M. Bernsteinの基本的な考えは、ユダヤ教の注解は聖書箇所における問題点を解決することというものである。しかし、4Q252はテクスト上に問題がないところも扱っているので、この方法は適切でない。

第三に、実は統一的な目的があると考えるという方法である。R.H. EisenmanとM.O. Wiseによれば、編纂者は性的事柄や姦淫の非難と共に、逃避と救済の物語に関心を持っているという。M. Kisterによれば、ユダヤ民族の父祖たちへの約束と祝福、そして他民族の殲滅の正当性の議論が問題だという。論文著者は、土地の贈与、祝福と呪い、性的事柄などが編纂者の関心だとする。

これらの三つの方法は、いずれも不十分である。論文著者は、4Q252を表現するに最適な用語は「注解」だと述べる。ぺシェルやミドラッシュという用語は不適切である。ミドラッシュは通常はっきりと聖書が引用され、それと独立した解釈が付されるような明示的解釈(explicit interpretation)であるのに対し、4Q252にはいわゆる再話聖書(rewritten Bible)のような暗示的解釈(implicit interpretation)が含まれているし、そもそもクムランの解釈を後代の方法論であるミドラッシュと呼ぶことはアナクロニズムである。

E. Tovは、4Q252は第1欄から第3欄に反映している再話聖書と、第4欄から第6欄までのぺシェルの「中道(middle course)」にあると評価している。論文著者はこの議論をさらに進め、4Q252の中では暗示的解釈(再話聖書)と言えるセクションの中にも明示的解釈があるし、明示的解釈と言えるセクションの中にも他の聖書箇所への暗示的解釈があるという。

論文著者は、4Q252を「注解」と呼ぶが、それには3つの基準がある。第一に、注解はテーマではなく聖書のシークエンスに沿って解釈する。テーマに沿う形式は、ミドラッシュに顕著である。第二に、注解は相当程度の聖書テクストをカバーする。この点で、4Q252は限られた量しかカバーしていないので、より正確には、「抜粋されたあるいは選択的な注解(excepted or selective commentary)」と呼ばれるべきかもしれない。第三に、注解は、質的にベース・テクストに取って代わらない。『神殿巻物』はこの点で不明瞭である。4Q252は、ある程度これら3つの基準を満たしている。ただし、ヨセフ物語が欠如していることや、釈義が6章から始まっていることなど、例外的な部分もあるので、単なる注解というより、抜粋された注解である。

4Q252の特質を明らかにするためには、明示的解釈と暗示的解釈のコンビネーションと、その成立年代が重要である。明示的解釈の代表例は『ハバクク書ぺシェル』である。ただしこの注解は、テクスト上の問題以上に、解釈者の共同体にとってのハバクク書の重要性に関心を持っている。暗示的解釈は、明示的解釈よりも広範な読者層を期待できる。そうした観点からみると、『神殿巻物』はクムラン共同体を超えたオーディエンスを意図していたと考えられる。

また論文著者は、4Q252の統一性は、時間的なスキームにおいて表される主題的な関心のコンビネーションにかかっているとも指摘する。著者によると、最初のセクションは「現在を決定する過去のこと」(大洪水、カナンの呪い、アブラハムの時系列)を、真ん中のセクションは「現在の状況」(イシュマエルよりイサク、ソドムとゴモラ、イサクの奉献、イサクによるヤコブ祝福)を、そして最後のセクションは「共同体の希望の成就」(アマレクの殲滅、ヤコブの祝福)を解釈しているという。

成立年代に関しては、おそらく再話聖書の年代記の部分は、第4欄や第5欄の個別主義的な解釈よりも古い。4Q252の成立自体は、初期ヘロデ時代、すなわち前1世紀の後半と見なされている。

こうしたことをまとめると、共同体での生活は、次のような二極の間にある。一方では、主として通時的に書かれている再話聖書のセクションの読みには、さらにより広い読者層の期待がこめられている。他方では、主として共時的に書かれている明示的解釈のセクションを読みつつ、共同体の終末論的観点に注目する。

後1世紀の終わりまで、聖書の再話、パラフレーズなどがしばしば行われていた。一方で、前1世紀の後半くらいから、ぺシェルのような明示的な解釈も登場した。すなわち、両方の解釈法は重なっている時期があるのである。聖書の正典化に伴い、次第に明示的な解釈法が主流となり、暗示的な解釈法はタルグムが代表するようになった。4Q252の特徴は、明示的な釈義の要素を含むような暗示的な解釈と、他の聖書文書への暗示を用いるような明示的な釈義の両方を持っていることである。この点で、4Q252は、初期ユダヤ教の聖書解釈のよりよい理解のために、またクムランの聖書解釈の評価のために、極めて重要なテクストであるといえる。それは聖書の「注解」形式であり、ユダヤの聖書解釈が過渡期にあったことを我々に教えてくれる。

2018年7月2日月曜日

『4Q創世記注解』のジャンル Brooke, "The Genre of 4Q252"

  • George J. Brooke, "The Genre of 4Q252: From Poetry to Pesher," Dead Sea Discoveries 1 (1994): 160-79.

4Q252の断片の外面的な特徴は次のようなものである:皮でできた6つの断片はおそらくもともと一つの写本だった。主要な断片は、横に最大で20.3センチ、縦に13.0センチである。こうした外面的な特徴から、論文著者は以下の6つの点を指摘する。

第一に、断片1の右側部分で、2.8センチ×1.1センチの皮が、0.4センチ幅の斜めの印と共に変色している。これは何かが上にあったためと考えられる。そのすぐ横にある、欄が完全に残っている部分では、上端から6.5から7.8センチほどのところに、同様の印が残っている。これはだいたい欄の真ん中くらいである。これらの印は、おそらく写本をまとめるための紐がかかっていた部分と考えられる。ここから、断片1の第1欄は、注解全体の最初の欄だと論文著者は述べる。

第二に、第一の観点は他のことからも支持される。通常、紐をつける場合には、皮の端を畳んで補強するのだが、断片1の右側の、上端から5センチのところに、畳まれていたであろう余白部分が見られる。

第三に、断片1の裏側からも、第1欄が最初の欄であることを示している。皮の裏側表面の変色は、最初の6センチ部分に限られている。これは、ここまで巻物が巻かれていたからであり、またそのとき皮の裏側が表に出ていたということである。その表に出ていた裏側は、かなり劣化している。

第四に、写本がきつく巻かれていたことから、表側の文字が巻いたときに重なっていたところ(裏側)に、鏡文字として移り、残っている場合がある。この鏡文字のために、テクストを再現できる場合もあれば、巻物全体の長さを予測できる場合もある。巻物全体の長さが分かることによって、4Q252には7つ目の欄はなかったことも予測される。

第五に、第1欄と第2欄、第2欄と第3欄、第3欄と第4欄、第5欄と第6欄の行間が、それぞれ同一の皮に残されていることから、この巻物は6欄が一緒に書かれていたことが分かる。

第六に、断片の最初の部分が残っているので、この巻物には題名が付されていなかったことが分かる。

論文著者は、さらに4Q252のテクストを詳細に分析した結果、これを『4Q創世記注解』とシンプルに呼ぶことにした。このテクストは、創世記全体に注解を施そうとするものではなく、選択的である。それに、創世記以外の聖書文書や非聖書文書からの引用もある。それにもかかわらず、創世記のシークエンスからは逸脱しない。この点で、『4Q創世記注解』はパラフレーズとは言えない。なぜなら、パラフレーズはシークエンスを必ずしも遵守しないからである。このように、創世記は、注解の構造に、制限を加えるような影響を及ぼしている。

4Q252の個々の引用章句は、独特の性質を持っている。あるときは年代記、またあるときは物語、さらには祝福や呪いまで見出される。いわば、詩歌からぺシェルまで揃っているのである。