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2017年9月21日木曜日

クムランの聖書学 クロス「ヘブライ語聖書テキストの背後にあるテキスト」

  • フランク・ムーア・クロス「ヘブライ語聖書テキストの背後にあるテキスト」、ハーシェル・シャンクス編『死海文書の研究』(池田裕監修、高橋晶子・河合一充訳)、ミルトス、1997年、217-38頁。
死海文書の研究死海文書の研究
池田 裕

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死海文書の発見以前には、すべての中世のヘブライ語聖書写本は、紀元後の早期に定着した単一の校訂本が底本となっていると考えられていた。すなわち、中世のテクストは単一の原型、一つの写本に由来すると信じられていたのである。

しかしながら、クロスによれば、クムランで発見された聖書写本と、死海南部で発見された聖書写本(ナハル・ヘヴェル、ワディ・ムラバアト、マサダ)とを比較すると、大きな違いがあるという。クムラン写本は70年の第一次ユダヤ反乱以前に書かれ、南部写本は70年から第二次ユダヤ反乱の135年の間に書かれた。南部写本は現在に伝わるマソラー本文から際立った逸脱が見られないテクストであるのに対し、クムラン写本はマソラー本文につきものの標準化が見られないのである。たとえばクムランからは、2種類のエレミヤ書や詩篇が見つかっている。

クロスは、こうしたさまざまなテクストタイプは、筆写による伝達の中で、地域ごとに発達したものだと考える(=「ローカル・テクスト理論」)。そしてとりわけ五書やサムエル記に関しては、パレスチナ、エジプト、バビロニアの三つの土地ごとの発達が見られるという。パレスチナ・テクストはサマリア五書へと至るものである。エジプト・テクストは七十人訳やクムランの短いエレミヤ書へと至るものであり、古パレスチナ・テクストから枝分かれしたものである。そしてバビロニア・テクストはマソラー本文の基礎となっている。

このように、聖書写本には本来少なくとも三つのタイプがあるはずであるが、南部写本からはマソラー本文と極めて近いテクストタイプがただ一つあるのみである。それゆえに、第一次ユダヤ反乱以後、少なくとも第二次反乱までに、マソラー本文の原型が権威あるものとして確定していたと言うことができる。

マカベア王朝以後の派閥の乱立の中で、さまざまなローカル・テクストがユダヤへ流れ込み、テクストの乱れにつながった。その後の前2世紀以降の宗派間の宗教論争によって、固定された権威あるテクストの必要性が生じた。そしてついに第二次反乱までにラビ校訂版が発布されたわけだが、クロスによればそれは大賢者ヒレルの仕事であったという。バビロニアからパレスチナへやってきたヒレルは、バビロニア起源のテクストを基礎として校訂版を作成したものである。その際に彼は、他のローカル・テクストから異同を取り出して折衷的な合成テクストを作ることはしなかった。とはいえこれは五書に限った話で、預言書ではパレスチナ・テクストが採用された。それは、マソラー本文では長い版のエレミヤ書が採用されていることからも見て取れる。

聖書の正典化、すなわち確定された聖書のリストに関して、確認できる最古のものはヨセフス『アピオーンへの反論』に収められたものである。クロスは、このヨセフスの記述はヒレルと彼の学派の教義に由来すると考えた。これまでしばしば後1世紀の終わり頃にヤブネでラビたちの会議が開かれ、そこで正典が確定したと考えられてきたが、ヤブネでは実際にはコヘレト書や雅歌について論じられていただけだったと、近年では考えられている。クロスによれば、ヤブネでの話し合いなどより以前のヒレルの意見に沿って、ヨセフスは聖典を挙げたのである。

また、この正典の確定はテクストの確定と連動している。ヒレル派のライバルの祭儀や暦の教義、競合する法的見解や神学的教義、そして黙示思想やグノーシスの神話解釈に対して、ヒレル派の弁論を構築する上で、テクストと正典の確定は必要なプロセスだった。

クムラン共同体の歴史 Vermes, "The History of the Community"

  • Geza Vermes, The Complete Dead Sea Scrolls in English (Fiftieth anniversary edition; London: Penguin Books, 2011), pp. 49-66.
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死海文書には、厳密な意味での歴史テクストは見つかっていない。聖書においても歴史は預言の中で語られ、それはのちに終末論へとかたちを変えたが、クムランにおいては歴史は主として聖書解釈の中で語られている。これは、聖書の中に自分たちの共同体の過去から現在までの出来事を読み込むペシェルのような解釈法を用いていたからである。クムランの歴史は、こうした非歴史文書の他には、考古学的データと外部資料(ヨセフス、マカベア書、フィロン)などから再構成される。

歴史資料を欠く死海文書の中で、それでも比較的歴史的な情報を含んでいるものとしては、『ダマスコ文書』、『ハバクク書注解』、『詩篇注解』、『証言(4Q175)』、『ナホム書注解』(4Q448、4Q339、4Q468eと共に、実際の歴史上の人物の名前を含む)などがある。

『ダマスコ文書』によれば、ネブカドネザルによってユダ王国が攻略された前586年から「390年後」である「怒りの時代」、すなわち前196年に共同体が始まり、その後20年の手探りの時代を経て、前176年頃に「義の教師」が登場するという。Vermesはこうした数字は、ユダヤ人作家の常としてあまり信頼できるものではなく、ダニエル書で象徴的に描かれる490年などにかこつけたものであろうと述べる。

死海文書にたびたび現れる「キッティーム」は、もともとは「海辺から来た人々」を意味したが、『第一マカベア書』(1:1、8:5)ではギリシア人を、七十人訳ダニエル書(11:30)ではローマ人を指している。多くの場合、当時の支配者だが必ずしもユダヤ人の敵ではないグループを意味する。

『ダマスコ文書』で言及される「怒りの時代」は、アンティオコス4世とヤソンによる「ヘレニズム改革」(前175年頃)と同一視される。Vermesは、ここから「あざけりの人」、あるいはそれと同一人物と考えられる『ハバクク書注解』の「悪の祭司」を同定しようとする。悪の祭司はユダヤ人の指導者であり、祭司的な権力と世俗の権力を併せ持っていた。それゆえに、悪の祭司とはエルサレム神殿の大祭司の誰かだったと考えらえる。そしてアンティオコス4世の治世(前175年以降)からクムラン共同体設立(前150-前140年)までの間でこれに該当するのは、ヤソン、メネラオス、アルキモスら親ギリシア派と、マカベア兄弟のヨナタンとシモンである。Vermesは、この5人のうちで悪の祭司と思われるのはヨナタンとシモン、特にヨナタンであるという。

他にも、さまざまな同定が可能である。たとえば、「なめらかなものを求める者たち」あるいは「エフライム」を絞首刑にした「怒れる獅子」は、パリサイ派を多数殺したアレクサンドロス・ヤンナイオスであり、「マナセ」はサドカイ派、そして「ダマスコ」はクムランのことを指しているという。

2017年9月13日水曜日

クムラン共同体 Vermes, "The Community"

  • Geza Vermes, The Complete Dead Sea Scrolls in English (Fiftieth anniversary edition; London: Penguin Books, 2011), pp. 26-48.
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クムラン共同体の人々は自分たちは真のイスラエルを体現していると考えていた。『共同体の規則』において、この宗派は、「共同体」あるいは「共同体の評議会」として自らを規定している。彼らは食事や祈祷などを教導で行なっていた。彼らの祈祷はエルサレム神殿のそれとは別物として行なわれていた。

『共同体の規則』によれば、人々は瞑想を行なったようだが、これは当時のユダヤ教の伝統では珍しいことだった。また人々は二つの霊――正しい霊と偽りの霊――の知識に通暁することを期待された。『共同体の規則』に組み込まれた「二つの霊に関する指導」という神学書を読み、光の子と闇の子の区別を学ぶのだった。

共同体のリーダーシップを取ったのは大祭司の家系であるツァドク派の者たちである。この祭司たちは共同体でのどの集まりにも出席することが求められていた。この祭司のうち、マスキールと呼ばれる者が共同体を指導した。共同体の評議会は、12人の平信徒と3人の祭司から構成されていた。評議会では、律法、現在の商取引、新規加入者の受け入れや拒否、係争中の裁判などが議論された。

『共同体の規則』において、追放刑にされる行為は以下の5つである:第一に、一字一句でもモーセ律法に違反したとき、第二に、神聖な神の名を口にしたとき、第三に、評議会を抽象したとき、第四に、共同体の権威に対して謀反を企てたとき、そして第五に、評議会の委員となって10年経っても心が頑なであるとき、である。その他にも、2年以下の苦行によって許される違反、1年以下(6ヶ月、3ヶ月、30日、10日など)の懲役で許される違反などがある。

共食の食卓はクムランの日常生活にとって重要なものである。人々は食事の前に沐浴をしたようである。そして食卓が準備されると、祭司が祝福し、それから食事が始まる。彼らが飲んでいた「ワイン」は、発酵前のぶどうジュースであったかもしれない。

共同体に入会するためには、2年間、あるいはそれ以上の年月の試験を経なければならない。最初に共同体の守護者との面接がある。その後に誓いを立てると、共同体の規則について指導を受ける。最後に再び評議会で吟味され、受け入れられるか否かが決まる。そこで受け入れが決まっても、次の1年はまだ完全には受け入れられていない。厳格な清浄規定ゆえに、まだ食器などに触ることが許されないのである。それゆえに共食の食卓につくこともできない。その1年が終わると食器には触れるようになるが、より汚れやすいと考えられていた液体に触ることはまだ許されない。2年目が終わって、ようやく新規入会者は正式に受け入れられる。このとき、預けていた自分の財産もまた共同体のものとして納入される。

クムラン共同体が独身制だったのか結婚が許されていたのかは難しい問題である。『共同体の規則』から再構成される共同体は女性を忌避する男性的な社会であるが(「女性」という単語すら出てこない)、『ダマスコ文書』から見える共同体には結婚した者たちが含まれている。クムラン遺跡からは、実際に6人の女性と3人の子供の骨が見つかっている。『ダマスコ文書』には、他のユダヤ人や異邦人の近くで暮らす町の共同体が描かれているが、彼らは厳格な規則に従いつつも妻や子供を持っていた。ここではトーラー学習や2つの霊のことなどは出てこない。『共同体の規則』につながっている『会衆の規則』では、20歳になると結婚が許される旨が記されている。

『ダマスコ文書』にも、共同体の頭目としてのメバケルという役職の者が出てくる。彼は共同体への新規加入希望者を吟味する。それと同時に、共同体の内部の者たちが外部の者たちと親しく付き合わないように監視してもいた。

『ダマスコ文書』は死刑判決に関する記述も含んでいるが、他のユダヤ人やローマ人が勝手な死刑判決を容認していたとは考えにくいので、これは宗派の将来的な方針を示しているにすぎない。妻帯を前提とする『ダマスコ文書』は性交についても述べている。それによると、生理中あるいは妊娠中の女性との性交は、生殖を目的としていないので禁じられている。安息日にはいかなる理由でも1000キュビト以上歩いてはならないが、家畜を連れているなら町から2000キュビトまで離れてもよい。安息日違反は『共同体の規則』では追放刑だったが、『ダマスコ文書』では懲役7年であった。追放刑が課されるときは、共同体から呪いの言葉を向けられるセレモニーがあったようである。

『ダマスコ文書』からは、町の共同体と荒野の共同体とに違いがあることが分かる。町の共同体は家族で寄り集まっているが、紺屋の共同体は孤立している。前者は町の礼拝に参加するが、後者は決してしない。前者への新規加入者は皆外部から来るが、後者へはメンバーの子供なども加入する。前者は加入まで2年の月日と2つの霊に関する指導があるが、後者はそのようなものはない。ただし両者とも自らを真のイスラエルと考え、ツァドク派の祭司によって率いられ、また10人組・50人組・100人組・1,000人組のように組織化されている。他にもさまざまな共通点があるので、両者は同じ宗教運動の別ブランチであると考えられる。