- Elizabeth Shanks Alexander, Transmitting Mishnah: The Shaping Influence of Oral Tradition (Cambridge: Cambridge University Press, 2006), pp. 1-34.
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『ミシュナー』は、法典(law code)として理解されることもあれば(Zacharias Frankel, J.N. Epstein, Alexander Guttman, Menahem Elon)、教育的なハンドブック(pedagogical handbook)として理解されることもある(Abraham Goldberg, Robert Goldenberg)。『バビロニア・タルムード』「ババ・メツィア」86aの記述をもとに、ラビ・ユダ・ハナシーの編纂とされることもあるが、G. Stembergerを始めとしてこの起源を疑問視する者は多い。
本書はこの『ミシュナー』の口伝性(orality)について解明しようとしている。しばしば研究者たちは、成文律法と区別される口伝律法は、実際には口伝ではなく、底本となるテクストを成句で記憶し(rote memorization)、文字通り再現したもの(verbatim reproduction of a fixed text)なのではないか、と考えてきた。しかし本書は、底本が必ずしもあったわけではないし、口伝とは文字通りの再現を目指したものではないという前提のもとに議論を進めている。テクストの口伝的観点(oral view of textuality)をもとに、テクスト様式の多様性や流動性を認めようとするのである。
本書はこの『ミシュナー』の口伝性(orality)について解明しようとしている。しばしば研究者たちは、成文律法と区別される口伝律法は、実際には口伝ではなく、底本となるテクストを成句で記憶し(rote memorization)、文字通り再現したもの(verbatim reproduction of a fixed text)なのではないか、と考えてきた。しかし本書は、底本が必ずしもあったわけではないし、口伝とは文字通りの再現を目指したものではないという前提のもとに議論を進めている。テクストの口伝的観点(oral view of textuality)をもとに、テクスト様式の多様性や流動性を認めようとするのである。
こうした口伝概念のレンズ(oral conceptual lens)をもとに、著者は『ミシュナー』の権威が従来考えられていたほどすぐに確立したわけではないこと、そして『ミシュナー』にはそれを口伝で伝えてきた者たちによる積極的な関わりがあったことを指摘している。これまでは、『ミシュナー』といえば成句の記憶によって伝えられてきたものとばかり考えられてきたので、そこに伝達者たちの分析的な関わりがあることが見落とされてきたのであった。そうした積極的な関与はむしろアガダーのような自由度の高い解釈にのみ適用されるものと考えられてきた。
口伝概念のレンズ。著者が『ミシュナー』分析に用いた、口伝概念のレンズとは、Milman Parryのホメロス研究とAlbert Lordの説話研究に基づくものである。Parryは、繰り返しのフレーズ(formula)や主題(traditional thematic units)に着目することで、古代の詩人の価値とは、詩人自身の独自の考えを述べたことではなく、それまでの伝統をどのようにうまく利用したかにかかっていたことを示した。Parryの弟子であるLordは、師の理論を現代に生きている伝統に当てはめるために、ユーゴスラビアの詩人たちを対象にした。
ParryとLordの研究は、文字を読めない人たちが多くいる社会における口承の価値について、文字を読める人の社会からは見えづらいことを指摘した。第一に、あるテクストを完全に伝達するなどという発想は文字を読める社会の発想であり、詩人たちはあるテクストの文字通りの再現などもとから求めていなかった。第二に、詩人は独創的であることよりも、既存の伝統の枠内で、それに積極的に関わっていることを評価された。すなわち、テクストの伝達とは決して受動的なプロセスではなかったのである。
ParryとLordの研究は、文字を読めない人たちが多くいる社会における口承の価値について、文字を読める人の社会からは見えづらいことを指摘した。第一に、あるテクストを完全に伝達するなどという発想は文字を読める社会の発想であり、詩人たちはあるテクストの文字通りの再現などもとから求めていなかった。第二に、詩人は独創的であることよりも、既存の伝統の枠内で、それに積極的に関わっていることを評価された。すなわち、テクストの伝達とは決して受動的なプロセスではなかったのである。
口伝の成立理論。ParryとLordの研究は、テクストはもとより多様なものであり、他の版よりも独自で正統な版など存在し得ないことを示している。ただし、彼らの研究は、口伝と文書との中間にあるような「過渡的なテクスト(transitional text)」を認めず、両者を明確に区別している。この口伝と文書との決定的な区別(Great Divide between orality and literary)を批判し、相互の連続的な関係性を強調した研究者がRuth Finneganである。さらにBrian Stockもまた、口伝と文書との間にあるグレイエリアに注目し、両者の相互性と同時性とを指摘した。口伝性はテクストが書かれるときでも維持され得たし、情報が口承で伝えられるときでもテクストは書かれ得たのである。
『ミシュナー』における文書性と口伝性。『ミシュナー』研究における通説では、同書の口伝性が文書性に先んじていたのであり、口伝の方がより権威を持っていたとされている。Saul Liebermanは、古代の書物の複製を基にした『ミシュナー』成立観を提示した。彼にとって『ミシュナー』とは、口伝的モデルにせよ文書的モデルにせよ、朗唱者が何らかの「底本」を基礎にして復唱したものであった。つまり、タナイームにとって重要なことは口伝律法の理解ではなく、正しい復唱だったということになる。Jacob Neusnerもまた、口伝であれ文書であれ、何らかの底本の正しい記憶に基づく復唱こそが、『ミシュナー』の口伝性だと考えていた。いわば両者の主張は、口伝を問題としながらも、究極的には『ミシュナー』の文書性にプライオリティを与えていることになる。
これに対し、Steven Fraadeは、『ミシュナー』の文書的な性格が形成されるより前に、パフォーマティヴな口伝性が存在したのだと主張した。すなわち、『ミシュナー』のテクストは成句的な記憶のための底本ではなく、口伝的なパフォーマティヴな出来事のための仮の脚本のようなものだった、という理解である。Martin Jaffeeは、『ミシュナー』テクストの多様性を強調した。我々の前にあるテクストはいくつもあった可能性のうちの一つにすぎず、それぞれの可能性のどれもが特別に権威があったわけではないのである。初期の賢者たちにとっては等しく重要だったテクストが、世代を経るにつれて、一つの権威あるテクストに集約していったのだとJaffeeは考えた。
テクスト破損の理論。子供の伝言ゲームのように、成句の複製は完全になり遂げられることはあり得ない。研究者たちは、こうした複製の不完全性を否定的に捉えるが、それはある底本があるというモデルに基づいた考え方をするからであって、J.N. Epsteinのようにテクストの流動性に注目すれば、むしろ当たり前のことである。つまり、『ミシュナー』の別の読みや、別の解釈や、空白を埋める別のテクストなどを想定するべきなのである。ただし、Epsteinは真正なテクストが次第に破損していったと考えている点では、「底本」の存在から抜け出せてはいない。つまり、初期から後期へという時間軸の変化だけを破損の原因と考えるのではなく、伝承者たちによる積極的な解釈の繰り返しこそが『ミシュナー』を「破損」させてきたと考えるべきである。後代の解釈者たちは、受動的な受け手だったのではなく、積極的な解釈者だったといえる。