- Hugo Rahner, "Flumina de ventre Christi: Die patristische Auslegung von Joh 7, 37. 38," Biblica 22 (1941), pp. 269-302, 367-403.
本論文は、ヨハネ福音書7:37-38を教父たちがどのように解釈したかを詳細に分析したものである。ヨハ7:37-38はイエスの言葉であり、伝統的に次のような意味で読まれてきた:
M.-J. Lagrangeは、こうした従来の読みではなく、コンマを打つ場所を変えることで、次のような読みにするべきだと提案した(1936年):もし誰かが渇いているなら、私のところに来て飲みなさい。
私を信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人(=私を信じる者)の内から命の水の川が流れ出るようになる。
ἐάν τις διψᾷ ἐρχέσθω πρός με καὶ πινέτω.
ὁ πιστεύων εἰς ἐμέ καθὼς εἶπεν ἡ γραφή, ποταμοὶ ἐκ τῆς κοιλίας αὐτοῦ ῥεύσουσιν ὕδατος ζῶντος.
もし誰かが渇いているなら、私を信じる者は、私のところに来て飲みなさい。従来の読みでは、「彼の内から」というフレーズの「彼」は「私を信じる者」となるが、Lagrangeの読みでは、「イエス」と読むことができるようになる。Lagrangeはむろんのこと、論文著者もまた、Lagrangeの読みの方が神学的な聖書解釈としては正しいと考えている。ただし、論文著者はそうした現代的な解釈に飛びついて、どちらがいいかを決める前に、まず伝統的に教父たちがどのようにこの箇所を解釈してきたのかを分析しているのである。
聖書に書いてある通り、彼(=イエス)の内から命の水の川が流れ出るようになる。
ἐάν τις διψᾷ ἐρχέσθω πρός με καὶ πινέτω ὁ πιστεύων εἰς ἐμέ.
καθὼς εἶπεν ἡ γραφή, ποταμοὶ ἐκ τῆς κοιλίας αὐτοῦ ῥεύσουσιν ὕδατος ζῶντος.
そのために、論文の第一部において、著者は従来の読みを採用した教父たちを取り上げ、(1)「信じる者」が命の水の源となるとはどういう意味なのか、(2)「聖書に書いてあるとおり」というときの旧約の引用元はどこなのか、という二点が検証されている。続いて第二部では、Lagrangeと同じ読みを採用した教父たちを取り上げ、「イエス」が命の水の源であるという解釈の起源はどこにあるのか、(2)旧約の引用元はどこなのか、という二点が検証される。ここでは、第一部のみをまとめることにする。
このように、アンブロシウスとヒエロニュムスとは、ヨハネにおけるイエスの台詞には旧約からの引用があり、それは箴言であると考えていたわけだが、エルサレムのキュリロス、モプスエスティアのテオドロス、クリュソストモス、そしてアレクサンドリアのキュリロスらは、そもそもこれを特定の引用とは見なさなかった。彼らによれば、イエスは旧約を正確に引用したのではなく、むしろより一般的な意味で聖書の全体を指し、水と泉のメシア的救済のイメージを利用しつつ、「聖書が信じることを命じているように、私を信じる者は」と述べているのだという。
命の水の源を「信じる者」とする解釈はオリゲネスに端を発する。オリゲネスのヨハネ福音書注解において、7章部分は失われてしまっているので、彼の見解は他の注解から探してこなければならない。その上で、論文著者によれば、オリゲネスはヨハネの引用元は七十人訳の箴言5:15-16であると考えていたという(オリゲネスの解釈の神学的な側面のまとめは省略):
πῖνε ὕδατα ἀπὸ σῶν ἀγγείων
καὶ ἀπὸ σῶν φρεάτων πηγῆς.
μὴ ὑπερεκχείσθω σοι τὰ ὕδατα ἐκ τῆς σῆς πηγῆς,
εἰς δὲ σὰς πλατείας διαπορευέσθω τὰ σὰ ὕδατα·
あなたの入れ物から飲みなさい
またあなたの泉の貯水池から〔飲みなさい〕
あなたの井戸からあなたに水を溢れさせてはならない
むしろあなたの水をあなたの通りへと流れさせなさい
オリゲネスは、文献学的には、3行目の否定語はあとからの挿入の可能性があることを指摘している。神学的には、フィロンの解釈を取り入れつつ、この箇所には結婚における誠実さなどといった、神秘的な意味合いがあると考えていた。
命の水の源を「信じる者」と見なすこのオリゲネスの解釈は、アタナシオス、ディデュモス、アレクサンドリアのキュリロス、エルサレムのキュリロス、エウセビオスなどといったアレクサンドリアの伝統において、またバシレイオス、ナジアンゾスのグレゴリオス、ニュッサのグレゴリオスといったカッパドキアの伝統において、さらにモプスエスティアのテオドロス、クリュソストモスといったアンティオキアの伝統において、そしてアンブロシウス、ヒエロニュムス、ヒラリウス、アウグスティヌスといったラテン世界の伝統において、それぞれ受け継がれていった。
中でもオリゲネスの解釈を有名にさせたのは、アンブロシウスとヒエロニュムスの二人であった。特にアンブロシウスは、ラテン語のオリゲネスといってもいいほどに、オリゲネス(とフィロン)の聖書解釈に通じていた。アンブロシウスは「命の水」を聖霊および福音書的な認識と見なし、その水が湧き出る場所である「腹」をヌースと見なした。彼は、オリゲネスが指摘したように、箴言をヨハネの引用元であると見なした。そして、旧約の歴史的な出来事をキリスト教的に内面化するような寓意的解釈によって、この箇所を、新約聖書という泉から水を飲んだ者が今度は別の人にとっての泉になるという意味で捉えたのだった。
ヒエロニュムスは、ウルガータ聖書という新しい翻訳を作成したことで、七十人訳の権威を失墜させたとして激しく批判されていたが、ヨハ7:38におけるイエスの台詞の分析に基づいて、自身の翻訳を弁明したのだった。すなわち、ヒエロニュムスによれば、この箇所においてイエスが引用している旧約箇所は、ヘブライ語テクストとは一致するが七十人訳とは一致しないというのである。ただし、彼はその旧約箇所の引用元がどこであるかについては、ただ箴言であると指摘するのみで、具体的な箇所は述べていない。そこで、論文著者は、オリゲネスとアンブロシウスの見解に基づいて、ヒエロニュムスも引用元を箴5:15-16と考えていたに違いないと結論する。ただし、論文著者が言及しているとおり、この結論は、彼以前に16世紀スペインのイエズス会士フランツ・トレドによってすでに導かれていた。一方で、ヒエロニュムスの校訂版を編纂した18世紀のイエズス会士Dominic Vallarsiは、箴18:4こそが引用元であると指摘したが、論文著者はこの決定は恣意的であると断じている。
このように、アンブロシウスとヒエロニュムスとは、ヨハネにおけるイエスの台詞には旧約からの引用があり、それは箴言であると考えていたわけだが、エルサレムのキュリロス、モプスエスティアのテオドロス、クリュソストモス、そしてアレクサンドリアのキュリロスらは、そもそもこれを特定の引用とは見なさなかった。彼らによれば、イエスは旧約を正確に引用したのではなく、むしろより一般的な意味で聖書の全体を指し、水と泉のメシア的救済のイメージを利用しつつ、「聖書が信じることを命じているように、私を信じる者は」と述べているのだという。