- Arnaldo Momigliano, "An Apology of Judaism: The Against Apion by Flavius Josephus," in idem, Essays on Ancient and Modern Judaism, ed. Silvia Berti (trans. Maura Masella-Gayley; Chicago: The University of Chicago Press, 1994), pp. 58-66.
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ユダヤ教の護教論にとって、最も重要な時代は、ヘレニズム・ローマ時代である。ギリシア的なメンタリティーに巻き込まれて、ユダヤ教は何らかの変化を被らずにはいられなかった。ヘレニズム・ローマ時代のユダヤ教は、ギリシア性に対する賛成と反対との間を行きつ戻りつしていた。
ユダヤ教の本質は、教義ではなく、律法の日常的な実践にこそある。それゆえに、ヘレニズム・ローマ時代のユダヤ教の護教家たちもまた、信仰の態度といったような観念的なものではなく、日常の詳細な規範を守ろうとしていた。それゆえに、彼らにとって危機的なのは、律法を過度に抽象化して形而上的な概念にしてしまい、そこにある実例としての教訓を見失ってしまうことだった。そのような抽象化の結果として、哲学論文や注解書などが書かれるに至った。
しかしながら、ヨセフスはユダヤ教を律法そのものとして提示し、決して律法の理論にはしなかった。ヨセフスはモーセがギリシアの法学者たち――ミノス、ザレウコス、ソロンら――に先行する者であるとしている。そして、ユダヤ教の護教論にはよくあることだが、これらのギリシアの法学者たちがモーセに依拠したのだと指摘している。さらに、ヨセフスによれば、神がモーセを通してイスラエルに律法を課したのではなく、モーセが律法を通して神にイスラエルを課したのであり、その状態をテオクラシーと呼ぶのだという。いうなれば、ヨセフスには、神とモーセとの間にあった関係が、預言者的な霊感を通じたものだというような感覚がまったくないのである。それゆえに、フィロンがモーセを、王、律法制定者、祭司、預言者などとして描くのに対し、ヨセフスはあくまで律法制定者としてのみ描いている。
ヨセフスにとってのモーセ像は、ユダヤ教の文脈ではなく、むしろヘレニズムのメンタリティーの文脈から見るとよく理解できる。神の霊感という感覚は、異教世界にもあったが、それは口寄せ、命令、外的な推進力によって表現されるのであって、ユダヤ教の預言のように、神の意志と人間の行動との直接的な接触によってではなかった。ヨセフスの場合、モーセの霊感は、ヘレニズム的な意味での、律法制定者としてのモーセとして表現されている。
こうしたことは、ヨセフスの宗教性の欠如であるといえる。宗教性を持った他のユダヤ人たちは、その宗教的情熱にかられてローマとの最終決戦へと突入していったわけだが、ヨセフスにはその情熱がなく、ローマとの戦いが不毛であることを見抜いていた。彼の態度は、ユダヤ教への正統的な忠誠心があるにもかかわらず、自分の民族の魂から離れていたことを示している。ヨセフスのパリサイ派主義は、豊かな宗教性といったかたちではなく、彼の規範主義の中にその表現を見つけたのである。彼にとってユダヤ教はあくまで律法そのものである。
『アピオーンへの反論』の中には、ユダヤ教に通常見られる、罪に対するあがき、完全な正義への熱望、神の国の祈念、イスラエルの悲劇的運命への傷心といったものが見られない。ヨセフスによっては、神すらも、モーセの律法の一側面にすぎないのである。神への献身は、律法の主たる動力ではなく、律法そのもののあとに来るものである。律法という概念が神の概念を持っているのであって、神の概念が律法の概念を持っているのではない。『アピオーンへの反論』の中に見られるのは、信仰そのものではなく、信仰の対象の描写のみである。なぜならヨセフスにはユダヤ的な宗教性がなく、ユダヤ教をヘレニズム的なメンタリティーで解釈しているからである。
ユダヤ教の本質は、教義ではなく、律法の日常的な実践にこそある。それゆえに、ヘレニズム・ローマ時代のユダヤ教の護教家たちもまた、信仰の態度といったような観念的なものではなく、日常の詳細な規範を守ろうとしていた。それゆえに、彼らにとって危機的なのは、律法を過度に抽象化して形而上的な概念にしてしまい、そこにある実例としての教訓を見失ってしまうことだった。そのような抽象化の結果として、哲学論文や注解書などが書かれるに至った。
しかしながら、ヨセフスはユダヤ教を律法そのものとして提示し、決して律法の理論にはしなかった。ヨセフスはモーセがギリシアの法学者たち――ミノス、ザレウコス、ソロンら――に先行する者であるとしている。そして、ユダヤ教の護教論にはよくあることだが、これらのギリシアの法学者たちがモーセに依拠したのだと指摘している。さらに、ヨセフスによれば、神がモーセを通してイスラエルに律法を課したのではなく、モーセが律法を通して神にイスラエルを課したのであり、その状態をテオクラシーと呼ぶのだという。いうなれば、ヨセフスには、神とモーセとの間にあった関係が、預言者的な霊感を通じたものだというような感覚がまったくないのである。それゆえに、フィロンがモーセを、王、律法制定者、祭司、預言者などとして描くのに対し、ヨセフスはあくまで律法制定者としてのみ描いている。
ヨセフスにとってのモーセ像は、ユダヤ教の文脈ではなく、むしろヘレニズムのメンタリティーの文脈から見るとよく理解できる。神の霊感という感覚は、異教世界にもあったが、それは口寄せ、命令、外的な推進力によって表現されるのであって、ユダヤ教の預言のように、神の意志と人間の行動との直接的な接触によってではなかった。ヨセフスの場合、モーセの霊感は、ヘレニズム的な意味での、律法制定者としてのモーセとして表現されている。
こうしたことは、ヨセフスの宗教性の欠如であるといえる。宗教性を持った他のユダヤ人たちは、その宗教的情熱にかられてローマとの最終決戦へと突入していったわけだが、ヨセフスにはその情熱がなく、ローマとの戦いが不毛であることを見抜いていた。彼の態度は、ユダヤ教への正統的な忠誠心があるにもかかわらず、自分の民族の魂から離れていたことを示している。ヨセフスのパリサイ派主義は、豊かな宗教性といったかたちではなく、彼の規範主義の中にその表現を見つけたのである。彼にとってユダヤ教はあくまで律法そのものである。
『アピオーンへの反論』の中には、ユダヤ教に通常見られる、罪に対するあがき、完全な正義への熱望、神の国の祈念、イスラエルの悲劇的運命への傷心といったものが見られない。ヨセフスによっては、神すらも、モーセの律法の一側面にすぎないのである。神への献身は、律法の主たる動力ではなく、律法そのもののあとに来るものである。律法という概念が神の概念を持っているのであって、神の概念が律法の概念を持っているのではない。『アピオーンへの反論』の中に見られるのは、信仰そのものではなく、信仰の対象の描写のみである。なぜならヨセフスにはユダヤ的な宗教性がなく、ユダヤ教をヘレニズム的なメンタリティーで解釈しているからである。