- Robin Darling Young, "The ‘Woman with the Soul of Abraham:’ Traditions about the Mother of the Maccabean Martyrs," in "Women Like This:" New Perspectives on Jewish Women in the Greco-Roman World, ed. Amy-Jill Levine (Early Judaism and Its Literature 1; Atlanta: Scholars Press, 1991), pp. 67-81.
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二マカは、内容的にはセレウコス朝支配下のパレスチナを舞台に前180-161年頃のことを記している文書で、前1世紀に成立した。殉教物語は6:7-7:42に残されている。殉教物語を書いた目的は、第一に、マカバイ記の一連の出来事がユダヤ民族を全滅させるためではなく、教訓をもたらすためであることを思い出させるため(6:12; 17)、そして第二に、若者たちに高貴な模範を残し、彼らが律法のために高貴な死に方ができるようにするため(6:28)であった。
二マカには、ストア派的な影響、あるいはストア哲学のユダヤ教的受容が見られる。エレアザルが勇気(アンドレイア)の模範として描かれているところや(6:31)、母親の第一のスピーチの中で、男性的勇気によって女性的心情を奮い立たせているところ(7:21-23)などがそうである。一方で、極めてユダヤ教的な部分も見られる。たとえば、殉教者たちがユダヤ教の律法を遵守し、預言を成就する模範として描かれていることや、母親が息子たちに「父祖の言葉」で語りかけているところ、また復活あるいは不死を語るところなどがそうである。
つまり、二マカにおける殉教物語は、ストア的用語と宗教的アイデアとを用いて、新しいイスラエルの英雄像を描いているのだといえる。二マカは、彼らの英雄譚はマカバイ戦争とは別のところで語っているが、彼らの犠牲こそがユダヤ人の勝利につながったと考えているのである。
対する四マカは、二マカを解釈し、拡張している。前者で重視されていたマカバイ戦争はあまり重要視せず、より透徹したストア哲学を用いている。歴史的データをほとんど描いていない一方で、母親の行為やその解釈については、かなり複雑になっている。文学的には、修辞的なディアトリベーとパラエネシス(奨励)といったジャンルに分類することができる。思想的には、ストア哲学と中期プラトン主義の折衷といえるが、実際のところ、著者は、犠牲の概念、霊的な家族関係、律法の遵守、そして永遠の生への復活といったさまざまな事柄を、哲学的にというよりも神学的に解釈している。
四マカの目的は、敬虔な理性が情念を支配することができると証明することであり(1:1, 1:13; 76)、それを、徳のために死んだ人々、すなわちエレアザル、七人の兄弟とその母親の勇敢な行為(1:8)を通して証明しようとしているのである。四マカは基本的な構造を二マカに負っているが、ディアトリベーと賛辞を加え、さらに理性的に最も弱い者、すなわち母性につながれた母親における理性の勝利というパラドックスに紙幅を費やしている。四マカは、アンティオコス王に属する一時的な王制と、神の永遠の王制(あるいは、王の言葉に従うことによる一時的な安全[ソーテーリア]と、神に従った永遠の生をもたらす敬虔さ[エウセベイア])とを比較しているが、同時に、母親の、親としての愛情(ストロゲー)と、律法に従って訓練された母親の理性(ロギスモス)も比較している。
四マカは二マカよりも母親の人物像の倫理的側面に光を当てている。これは、二マカにもある母親の二つのスピーチと、四マカの二つのスピーチ(16:15-23, 18:6-23)とを比べると明らかである。四マカの第一のスピーチの中では、二マカで語られていた創造論などの神学的なことは語っていない。むしろ、アブラハム、イサク、ダニエルといった聖書の登場人物たちのように、律法を遵守して死を選ぶように諭している。第二のスピーチは、本の最後のところで補足のように伏されている(ゆえに、四マカの本当の結論はこのスピーチの前の17:7-18:5である)。この中では、興味深いことに、二マカには一切出てこない兄弟たちの父親のことが語られている。
母親の描写および説明は、14:11を皮切りに作品の終わりまで続いていくが、その中で一貫しているのはアブラハムのイメージである(14:20等)。彼女が兄弟たちを一時的な救いではなく、永遠の救いへと導いたことにより、神を畏れるアブラハムの勇敢さを思い出し(15:28)、ついには「民族の母」という、アブラハムと同等の地位にあると見なされている(15:29)。16:14では、「信仰のために戦った年老いた神の兵士」と、男性的な称号を授けられているが、これもアブラハムを暗示しているといっていい。極めつけは、17:2-6における母親へのアポストロフェーで、この中で母親は「アブラハムによって子供をもうけた」とまで言われている。この箇所で著者の念頭にあるのは、創22章のアブラハムによるイサクの奉献である。これは第一に、アブラハムのように、彼女の子供たちが星の中で数えられていること(17:5)、そして第二に、アブラハムのように、彼女は自ら進んで自分の子供を犠牲に捧げたことから、そのように言える。
四マカの目的は、敬虔な理性が情念を支配することができると証明することであり(1:1, 1:13; 76)、それを、徳のために死んだ人々、すなわちエレアザル、七人の兄弟とその母親の勇敢な行為(1:8)を通して証明しようとしているのである。四マカは基本的な構造を二マカに負っているが、ディアトリベーと賛辞を加え、さらに理性的に最も弱い者、すなわち母性につながれた母親における理性の勝利というパラドックスに紙幅を費やしている。四マカは、アンティオコス王に属する一時的な王制と、神の永遠の王制(あるいは、王の言葉に従うことによる一時的な安全[ソーテーリア]と、神に従った永遠の生をもたらす敬虔さ[エウセベイア])とを比較しているが、同時に、母親の、親としての愛情(ストロゲー)と、律法に従って訓練された母親の理性(ロギスモス)も比較している。
四マカは二マカよりも母親の人物像の倫理的側面に光を当てている。これは、二マカにもある母親の二つのスピーチと、四マカの二つのスピーチ(16:15-23, 18:6-23)とを比べると明らかである。四マカの第一のスピーチの中では、二マカで語られていた創造論などの神学的なことは語っていない。むしろ、アブラハム、イサク、ダニエルといった聖書の登場人物たちのように、律法を遵守して死を選ぶように諭している。第二のスピーチは、本の最後のところで補足のように伏されている(ゆえに、四マカの本当の結論はこのスピーチの前の17:7-18:5である)。この中では、興味深いことに、二マカには一切出てこない兄弟たちの父親のことが語られている。
母親の描写および説明は、14:11を皮切りに作品の終わりまで続いていくが、その中で一貫しているのはアブラハムのイメージである(14:20等)。彼女が兄弟たちを一時的な救いではなく、永遠の救いへと導いたことにより、神を畏れるアブラハムの勇敢さを思い出し(15:28)、ついには「民族の母」という、アブラハムと同等の地位にあると見なされている(15:29)。16:14では、「信仰のために戦った年老いた神の兵士」と、男性的な称号を授けられているが、これもアブラハムを暗示しているといっていい。極めつけは、17:2-6における母親へのアポストロフェーで、この中で母親は「アブラハムによって子供をもうけた」とまで言われている。この箇所で著者の念頭にあるのは、創22章のアブラハムによるイサクの奉献である。これは第一に、アブラハムのように、彼女の子供たちが星の中で数えられていること(17:5)、そして第二に、アブラハムのように、彼女は自ら進んで自分の子供を犠牲に捧げたことから、そのように言える。
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