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当然ネット上に原文が落ちているだろうといろいろ探してみたところ、驚いたことにジョージタウン大学のJames J. O'Donnellのホームページでは原文のみならず、O'Donnell自身による注まで見ることができました(トップページの一番下にあるBeginのところから。http://www.stoa.org/hippo/)。この原文と注は、どうやらオックスフォード出版から3冊本で出ている『告白』コメンタリーをオンラインでリプリントしたもののようです(私は書籍をまだ入手していないので、内容がまったく同じかどうか照らし合わせてはいませんが)。それにしてもこのコメンタリーは定評あるもので、買えばけっこういい値段すると思うんですが、ずいぶん太っ腹ですね。
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Confessions: Commentary Books 1-7 Saint, Bishop of Hippo Augustine James J. O'Donnell Clarendon Pr 1992-12 by G-Tools |
Confessions: Commentary on Books 8-13 : Indexes Saint, Bishop of Hippo Augustine James J. O'Donnell Clarendon Pr 1992-10 by G-Tools |
以下O'Donnellのホームページから取った原文と私訳です。
magnus es, domine, et laudabilis valde. magna virtus tua et sapientiae tuae non est numerus. et laudare te vult homo, aliqua portio creaturae tuae, et homo circumferens mortalitatem suam, circumferens testimonium peccati sui et testimonium quia superbis resistis; et tamen laudare te vult homo, aliqua portio creaturae tuae. tu excitas ut laudare te delectet, quia fecisti nos ad te et inquietum est cor nostrum donec requiescat in te. da mihi, domine, scire et intellegere utrum sit prius invocare te an laudare te, et scire te prius sit an invocare te. sed quis te invocat nesciens te? aliud enim pro alio potest invocare nesciens. an potius invocaris ut sciaris? quomodo autem invocabunt, in quem non crediderunt? aut quomodo credent sine praedicante? et laudabunt dominum qui requirunt eum: quaerentes enim inveniunt eum et invenientes laudabunt eum. quaeram te, domine, invocans te et invocem te credens in te: praedicatus enim es nobis. invocat te, domine, fides mea, quam dedisti mihi, quam inspirasti mihi per humanitatem filii tui, per ministerium praedicatoris tui.
あなたは偉大です、主よ、そして大いにほむべきです。あなたの力は大きく、あなたの知恵は数えられません*1。人間は、あなたの被造物のある部分として、あなたを讃えることを欲します。そして人間は、自らの死すべき性を身に携え、自らの罪の証拠と、「傲慢な者たちにはあなたが立ちはだかるであろう」証拠 *2 とを身に携えています。それにもかかわらず人間は、あなたの被造物のある部分として、あなたを讃えることを欲するのです。あなたは、あなたを讃えることを喜ばしくするために駆り立てます。なぜなら、あなたは私たちをあなたに向けて造ったからです。あなたのうちに憩うまでは、私たちの心は安らぎません。主よ、私が知り悟るようにしてください、あなたを呼び求めることと讃えることのどちらが先なのか、またあなたを知ることと呼び求めることのどちらが先なのかを。しかし、いったい誰があなたを知らずしてあなたを呼び求めるでしょうか。なぜなら、知らなければ、あるものの代わりに別のものを呼び求めることができてしまうからです。それともむしろ、知られるためにあなたは呼び求められるのでしょうか。しかし、信じていなかったものをどうやって呼び求めることができるでしょう。あるいは、宣べ伝える者なしにどうやって信じることができるでしょう。主を必要とする者が、主を讃えることができます。なぜなら求める者たちが主を見出し、見出す者たちが主を讃えるだろうからです。主よ、私はあなたを呼び求めつつ求めます。そしてあなたを信じつつ呼び求めます。なぜならあなたはすでに私たちに宣べ伝えられているからです。主よ、私の信仰があなたを呼び求めます。それはあなたが私に下さったもの、あなたが御子の人間性と、宣教者の奉仕を通じて、私に吹き込んでくださったものなのです。
注
*1 sapientiae tuaeと主語が複数なのに、動詞estが単数なのは抽象名詞だからか?
追記:ご指摘いただいたのですが、sapientiae tuaeは普通に単数属格で取ってnumerusにかけ、「あなたの知恵の数はない=あなたの知恵は測り知れない」としたらいいことですね。ありがとうございます。
*2 testimonium quia superbis resistis: 宮谷訳「「あなたは高ぶるものを退けたもう」その証拠を」。ここでの主語「あなた」は神のこと。この言葉は箴3:34、ヤコ4:6、Iペテ5:5の聖句からのものとされている。宮谷訳にあるように、一般的にはこのquiaをquisの中性複数の古形と捉え、superbisをsuperbusの複数与格、そしてresistisをresistoの二人称現在と捉えている(山田晶訳「「たかぶる者をしりぞけたもう」ことのしるしを」)。しかしquiaを理由を導く接続詞としたうえで、superbisを動詞superboの二人称現在と読み、「「おまえ〔人間〕が傲慢だから、お前は〔神に〕はむかうのだ」 という証拠を」という読みも可能ではないだろうか。つまり「自らの罪の証拠」と先に言っておいて、その罪の内容を、台詞のように挿入した言葉が説明しているということ。
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