et quomodo invocabo deum meum, deum et dominum meum, quoniam utique in me ipsum eum
vocabo, cum invocabo eum? et quis locus est in me quo veniat in me deus meus, quo deus veniat
in me, deus qui fecit caelum et terram? itane, domine deus meus? est quicquam in me quod
capiat te? an vero caelum et terra, quae fecisti et in quibus me fecisti, capiunt te?
an quia sine te non esset quidquid est, fit ut quidquid est capiat te? quoniam itaque et ego sum,
quid peto ut venias in me, qui non essem nisi esses in me? non enim ego iam inferi, et tamen
etiam ibi es, nam etsi descendero in infernum, ades. non ergo essem, deus meus, non omnino
essem, nisi esses in me.
an potius non essem nisi essem in te, ex quo omnia, per quem omnia, in quo omnia? etiam sic,
domine, etiam sic. quo te invoco, cum in te sim? aut unde venias in me? quo enim recedam extra
caelum et terram, ut inde in me veniat deus meus, qui dixit, `caelum et terram ego impleo'?
そして私はどのようにして、私の神、私の主に呼びかけましょう。私が彼を呼び入れるとき、確かに彼を私自身の中に呼ぶわけですけれども。私の神が来るのは、私の中のどんな場所でしょうか。天と地を造った方である神はどこから私の中に来るのでしょうか。はたして、私の神である主よ、あなたをとらえる何かが私の中にあるでしょうか。 それともあなたが作り、あなたが私をその中に造った天と地は、あなたをとらえることができるでしょうか。あるいは、あなたなしには何ものも存在することはできないのですから、存在するすべてのものがあなたをとらえるようになるのでしょうか。そうすると、私もまた存在しているのですから、なぜあなたが私の中に来るようにと求めるのでしょうか。あなたが私の中にいなければ、私は存在しないはずなのに。というのも、私は今黄泉の国の深淵にいるわけではありませんが、やはりあなたはそこにもおられます。なぜなら、たとえ私が地獄に下ってしまおうとも、あなたはそこにおられるからです。それゆえに、私の神よ、あなたが私の中にいなければ、私は存在できません。まったく存在できません。あるいはむしろ、私があなたの中にいなければ、私は存在できないのでしょうか。すべてのものはあなたから、あなたを通じて、あなたの中にあるのですから。そのとおり、主よ、そのとおりなのです。私があなたの中にいるとき、私はどこにあなたを呼び入れるのでしょうか。あるいはあなたはどこから私の中へと来るのでしょうか。また、私は天と地の外側のどこに退いたらいいでしょうか。「天と地を満たす」と仰る方、私の神がそこから私の中へと来るためには。
2012年4月28日土曜日
2012年4月19日木曜日
アウグスティヌス『告白』1.1.1
『アウグスティヌス著作集』に収録されていた宮谷宣史氏の訳によるアウグスティヌスの『告白』が、さきごろキリスト教古典叢書の一冊として出版されたこともあり、それを参考にしつつラテン語で『告白』を読むことになりました。
当然ネット上に原文が落ちているだろうといろいろ探してみたところ、驚いたことにジョージタウン大学のJames J. O'Donnellのホームページでは原文のみならず、O'Donnell自身による注まで見ることができました(トップページの一番下にあるBeginのところから。http://www.stoa.org/hippo/)。この原文と注は、どうやらオックスフォード出版から3冊本で出ている『告白』コメンタリーをオンラインでリプリントしたもののようです(私は書籍をまだ入手していないので、内容がまったく同じかどうか照らし合わせてはいませんが)。それにしてもこのコメンタリーは定評あるもので、買えばけっこういい値段すると思うんですが、ずいぶん太っ腹ですね。
以下O'Donnellのホームページから取った原文と私訳です。
magnus es, domine, et laudabilis valde. magna virtus tua et sapientiae tuae non est numerus. et laudare te vult homo, aliqua portio creaturae tuae, et homo circumferens mortalitatem suam, circumferens testimonium peccati sui et testimonium quia superbis resistis; et tamen laudare te vult homo, aliqua portio creaturae tuae. tu excitas ut laudare te delectet, quia fecisti nos ad te et inquietum est cor nostrum donec requiescat in te. da mihi, domine, scire et intellegere utrum sit prius invocare te an laudare te, et scire te prius sit an invocare te. sed quis te invocat nesciens te? aliud enim pro alio potest invocare nesciens. an potius invocaris ut sciaris? quomodo autem invocabunt, in quem non crediderunt? aut quomodo credent sine praedicante? et laudabunt dominum qui requirunt eum: quaerentes enim inveniunt eum et invenientes laudabunt eum. quaeram te, domine, invocans te et invocem te credens in te: praedicatus enim es nobis. invocat te, domine, fides mea, quam dedisti mihi, quam inspirasti mihi per humanitatem filii tui, per ministerium praedicatoris tui.
あなたは偉大です、主よ、そして大いにほむべきです。あなたの力は大きく、あなたの知恵は数えられません*1。人間は、あなたの被造物のある部分として、あなたを讃えることを欲します。そして人間は、自らの死すべき性を身に携え、自らの罪の証拠と、「傲慢な者たちにはあなたが立ちはだかるであろう」証拠 *2 とを身に携えています。それにもかかわらず人間は、あなたの被造物のある部分として、あなたを讃えることを欲するのです。あなたは、あなたを讃えることを喜ばしくするために駆り立てます。なぜなら、あなたは私たちをあなたに向けて造ったからです。あなたのうちに憩うまでは、私たちの心は安らぎません。主よ、私が知り悟るようにしてください、あなたを呼び求めることと讃えることのどちらが先なのか、またあなたを知ることと呼び求めることのどちらが先なのかを。しかし、いったい誰があなたを知らずしてあなたを呼び求めるでしょうか。なぜなら、知らなければ、あるものの代わりに別のものを呼び求めることができてしまうからです。それともむしろ、知られるためにあなたは呼び求められるのでしょうか。しかし、信じていなかったものをどうやって呼び求めることができるでしょう。あるいは、宣べ伝える者なしにどうやって信じることができるでしょう。主を必要とする者が、主を讃えることができます。なぜなら求める者たちが主を見出し、見出す者たちが主を讃えるだろうからです。主よ、私はあなたを呼び求めつつ求めます。そしてあなたを信じつつ呼び求めます。なぜならあなたはすでに私たちに宣べ伝えられているからです。主よ、私の信仰があなたを呼び求めます。それはあなたが私に下さったもの、あなたが御子の人間性と、宣教者の奉仕を通じて、私に吹き込んでくださったものなのです。
注
*1 sapientiae tuaeと主語が複数なのに、動詞estが単数なのは抽象名詞だからか?
追記:ご指摘いただいたのですが、sapientiae tuaeは普通に単数属格で取ってnumerusにかけ、「あなたの知恵の数はない=あなたの知恵は測り知れない」としたらいいことですね。ありがとうございます。
*2 testimonium quia superbis resistis: 宮谷訳「「あなたは高ぶるものを退けたもう」その証拠を」。ここでの主語「あなた」は神のこと。この言葉は箴3:34、ヤコ4:6、Iペテ5:5の聖句からのものとされている。宮谷訳にあるように、一般的にはこのquiaをquisの中性複数の古形と捉え、superbisをsuperbusの複数与格、そしてresistisをresistoの二人称現在と捉えている(山田晶訳「「たかぶる者をしりぞけたもう」ことのしるしを」)。しかしquiaを理由を導く接続詞としたうえで、superbisを動詞superboの二人称現在と読み、「「おまえ〔人間〕が傲慢だから、お前は〔神に〕はむかうのだ」 という証拠を」という読みも可能ではないだろうか。つまり「自らの罪の証拠」と先に言っておいて、その罪の内容を、台詞のように挿入した言葉が説明しているということ。
告白録 (キリスト教古典叢書) アウグスティヌス Sanctus Augustinus 教文館 2012-03 売り上げランキング : Amazonで詳しく見る by G-Tools |
当然ネット上に原文が落ちているだろうといろいろ探してみたところ、驚いたことにジョージタウン大学のJames J. O'Donnellのホームページでは原文のみならず、O'Donnell自身による注まで見ることができました(トップページの一番下にあるBeginのところから。http://www.stoa.org/hippo/)。この原文と注は、どうやらオックスフォード出版から3冊本で出ている『告白』コメンタリーをオンラインでリプリントしたもののようです(私は書籍をまだ入手していないので、内容がまったく同じかどうか照らし合わせてはいませんが)。それにしてもこのコメンタリーは定評あるもので、買えばけっこういい値段すると思うんですが、ずいぶん太っ腹ですね。
Confessions: Introduction and Text Saint, Bishop of Hippo Augustine James J. O'Donnell Clarendon Pr 1992-12 by G-Tools |
Confessions: Commentary Books 1-7 Saint, Bishop of Hippo Augustine James J. O'Donnell Clarendon Pr 1992-12 by G-Tools |
Confessions: Commentary on Books 8-13 : Indexes Saint, Bishop of Hippo Augustine James J. O'Donnell Clarendon Pr 1992-10 by G-Tools |
以下O'Donnellのホームページから取った原文と私訳です。
magnus es, domine, et laudabilis valde. magna virtus tua et sapientiae tuae non est numerus. et laudare te vult homo, aliqua portio creaturae tuae, et homo circumferens mortalitatem suam, circumferens testimonium peccati sui et testimonium quia superbis resistis; et tamen laudare te vult homo, aliqua portio creaturae tuae. tu excitas ut laudare te delectet, quia fecisti nos ad te et inquietum est cor nostrum donec requiescat in te. da mihi, domine, scire et intellegere utrum sit prius invocare te an laudare te, et scire te prius sit an invocare te. sed quis te invocat nesciens te? aliud enim pro alio potest invocare nesciens. an potius invocaris ut sciaris? quomodo autem invocabunt, in quem non crediderunt? aut quomodo credent sine praedicante? et laudabunt dominum qui requirunt eum: quaerentes enim inveniunt eum et invenientes laudabunt eum. quaeram te, domine, invocans te et invocem te credens in te: praedicatus enim es nobis. invocat te, domine, fides mea, quam dedisti mihi, quam inspirasti mihi per humanitatem filii tui, per ministerium praedicatoris tui.
あなたは偉大です、主よ、そして大いにほむべきです。あなたの力は大きく、あなたの知恵は数えられません*1。人間は、あなたの被造物のある部分として、あなたを讃えることを欲します。そして人間は、自らの死すべき性を身に携え、自らの罪の証拠と、「傲慢な者たちにはあなたが立ちはだかるであろう」証拠 *2 とを身に携えています。それにもかかわらず人間は、あなたの被造物のある部分として、あなたを讃えることを欲するのです。あなたは、あなたを讃えることを喜ばしくするために駆り立てます。なぜなら、あなたは私たちをあなたに向けて造ったからです。あなたのうちに憩うまでは、私たちの心は安らぎません。主よ、私が知り悟るようにしてください、あなたを呼び求めることと讃えることのどちらが先なのか、またあなたを知ることと呼び求めることのどちらが先なのかを。しかし、いったい誰があなたを知らずしてあなたを呼び求めるでしょうか。なぜなら、知らなければ、あるものの代わりに別のものを呼び求めることができてしまうからです。それともむしろ、知られるためにあなたは呼び求められるのでしょうか。しかし、信じていなかったものをどうやって呼び求めることができるでしょう。あるいは、宣べ伝える者なしにどうやって信じることができるでしょう。主を必要とする者が、主を讃えることができます。なぜなら求める者たちが主を見出し、見出す者たちが主を讃えるだろうからです。主よ、私はあなたを呼び求めつつ求めます。そしてあなたを信じつつ呼び求めます。なぜならあなたはすでに私たちに宣べ伝えられているからです。主よ、私の信仰があなたを呼び求めます。それはあなたが私に下さったもの、あなたが御子の人間性と、宣教者の奉仕を通じて、私に吹き込んでくださったものなのです。
注
*1 sapientiae tuaeと主語が複数なのに、動詞estが単数なのは抽象名詞だからか?
追記:ご指摘いただいたのですが、sapientiae tuaeは普通に単数属格で取ってnumerusにかけ、「あなたの知恵の数はない=あなたの知恵は測り知れない」としたらいいことですね。ありがとうございます。
*2 testimonium quia superbis resistis: 宮谷訳「「あなたは高ぶるものを退けたもう」その証拠を」。ここでの主語「あなた」は神のこと。この言葉は箴3:34、ヤコ4:6、Iペテ5:5の聖句からのものとされている。宮谷訳にあるように、一般的にはこのquiaをquisの中性複数の古形と捉え、superbisをsuperbusの複数与格、そしてresistisをresistoの二人称現在と捉えている(山田晶訳「「たかぶる者をしりぞけたもう」ことのしるしを」)。しかしquiaを理由を導く接続詞としたうえで、superbisを動詞superboの二人称現在と読み、「「おまえ〔人間〕が傲慢だから、お前は〔神に〕はむかうのだ」 という証拠を」という読みも可能ではないだろうか。つまり「自らの罪の証拠」と先に言っておいて、その罪の内容を、台詞のように挿入した言葉が説明しているということ。
2012年4月15日日曜日
Religious Studies in Japan, Vol.1 (2012)
宗教学会のオンライン英文雑誌『Religious Studies in Japan』の創刊号がオンライン出版されていました。雑誌のホームページ(http://jpars.org/online/)によると、4月12日にアップされたようです。
この雑誌は、『宗教研究』あるいはその他の学術雑誌などですでに日本語で発表した論文の英訳も受け付けてくれるようです(その旨を明記すれば)。これは英断ですね。日本語でこれまで蓄積されてきた宗教研究の成果が、国境を超えて広く共有されていくことを祈ります。以下もくじ。
http://jpars.org/online/view-issue/vol_1_2012
-----------------------
FOREWORD
INOUE Nobutaka
vol. 1: 1–2
President of the Japanese Association for Religious Studies
ARTICLES
SHIMAZONO Susumu
vol. 1: 3–23
From Salvation to Spirituality: The Contemporary Transformation of Religions Viewed from East Asia
OCHIAI Hitoshi
vol. 1: 25–38
The Theology of Simone Weil and the Topology of André Weil
Mira SONNTAG
vol. 1: 39–59
Divine Healing in the Early Holiness Movement of Japan
REVIEW ARTICLE
OKUYAMA Michiaki
vol. 1: 61–77
“Civil Religion” in Japan?: Rethinking the Arguments and their Implications
BOOK REVIEWS
INOUE Nobutaka and the Religious Information Research Center, eds., Aum Shinrikyo in the Information Age, reviewed by SAKURAI Yoshihide
vol. 1: 79–85
INABA Keishin, Altruism and Religion, reviewed by Ranjana MUKHOPADHYAYA
vol. 1: 86–90
この雑誌は、『宗教研究』あるいはその他の学術雑誌などですでに日本語で発表した論文の英訳も受け付けてくれるようです(その旨を明記すれば)。これは英断ですね。日本語でこれまで蓄積されてきた宗教研究の成果が、国境を超えて広く共有されていくことを祈ります。以下もくじ。
http://jpars.org/online/view-issue/vol_1_2012
-----------------------
Religious Studies in Japan
ISSN 2186-9952
Vol. 1 (2012)
ISSN 2186-9952
Vol. 1 (2012)
(Published online 12 April 2012)
FOREWORD
INOUE Nobutaka
vol. 1: 1–2
President of the Japanese Association for Religious Studies
ARTICLES
SHIMAZONO Susumu
vol. 1: 3–23
From Salvation to Spirituality: The Contemporary Transformation of Religions Viewed from East Asia
OCHIAI Hitoshi
vol. 1: 25–38
The Theology of Simone Weil and the Topology of André Weil
Mira SONNTAG
vol. 1: 39–59
Divine Healing in the Early Holiness Movement of Japan
REVIEW ARTICLE
OKUYAMA Michiaki
vol. 1: 61–77
“Civil Religion” in Japan?: Rethinking the Arguments and their Implications
BOOK REVIEWS
INOUE Nobutaka and the Religious Information Research Center, eds., Aum Shinrikyo in the Information Age, reviewed by SAKURAI Yoshihide
vol. 1: 79–85
INABA Keishin, Altruism and Religion, reviewed by Ranjana MUKHOPADHYAYA
vol. 1: 86–90
登録:
投稿 (Atom)