- Benjamin G. Wright III, "Access to the Source: Cicero, Ben Sira, The Septuagint and their Audiences," Journal for the Study of Judaism 34 (2003): 1-27.
突然ですが、キケロー、ベン・シラ、七十人訳の共通点は何でしょうか。答えは・・・・・・「翻訳」です。最後が七十人「訳」ですから、すぐにわかってしまったでしょうか。この論文は、これら三者の翻訳に対するアプローチを、翻訳学(Translation Studies)の成果を用いながら明らかにした一篇です。正直なところ、かなり感銘を受けました。
翻訳学というと、どうしても言語学的な理論化のイメージが先行しますが、そもそもが学際的な性格を持っていますので、古典文学を扱った歴史的なアプローチもなされています。しかしその場合、「キケロー以降」の「ギリシア語からラテン語翻訳」に重点が置かれ、それ以前のとりわけヘレニズム期の翻訳論が注目されることは多くありませんでした。理由としては、1)古典学者と宗教学者との没交渉、2)ラテン文学における翻訳論への関心の集中、3)古典語といえばギリシア語とラテン語のみという言語的な制約、などが挙げられます。この論文は、言うなればこうした傾向に対し、「キケロー以前」、「ヘブライ語からの翻訳」という要素を加えた形になるでしょう。この論文におけるWrightの意気込みは、次の言葉からひしひしと伝わってきます。
As I have spent more time reading works in Translation Studies, I have become convinced that this field of study has the potential to contribute greatly to our ability to understand translations like the Septuagint. I also think that the converse is true, that scholars who have spent much of their careers working on texts like the Septuagint have something to contribute to the field of Translation Studies. (p. 3)大枠で言うと、Wrightは翻訳に関して、キケロー対ベン・シラおよび七十人訳という構図を描いています。彼はSusan Bassnett-McGuireの言を引きつつ、両者の違いは、読者が原典を確認できる状況にあったかなかったかという点にあると述べます。つまり、キケローは大胆な意訳をしましたが、それは原典の言語がギリシア語であり、読者が原典を確認することができるという前提の上でなされたものだったからでした。当時のローマ知識人はラテン語だけでなく、学問の言葉としてのギリシア語も解しました。キケローは、読者がラテン語の訳文を読みつつギリシア語原典を確認することで、かえって自らの翻訳のラテン語としての美しさが読者に認められると考えていたのです。一方、ベン・シラと七十人訳は、ヘブライ語を読めないディアスポラのユダヤ人たちのためになされた翻訳ですから、読者が原典を確認できないことは最初から分かっています。すると、なるべく原典から逸脱しないように直訳になるわけです。Wrightは両者の違いを、Louis Kellyの分類を用いつつ、"personal"と"positional"という言葉を使って表しています。
The True Interpreter: A History of Translation Theory and Practice in the West Louis G. Kelly Palgrave Macmillan 1979-11 by G-Tools |
キケローのpersonalな翻訳に対してベン・シラと七十人訳のpositionalな翻訳があるわけですが、ベン・シラと七十人訳の間にも違いがあります。両者は共に直訳をしたわけですが、それが意図的なものだったかどうかという違いです。そうした意味では、ベン・シラはねらって直訳をしたわけではなく、翻訳者としての未熟さゆえに直訳になってしまったのでした。というのも彼は序文においてはかなりエレガントなコイネー・ギリシア語を操っており、その序文をよく読むと、序文と訳文のギリシア語の質が違うことを弁明していることが分かります(これはWrightの新しい読みによる解釈です)。一方、七十人訳については、Albert Pietersmaによる、「インターリニアとしての七十人訳」という解釈が活用されています。Pietersmaによると、七十人訳は独立した文書ではなく、教育用に、原典のあんちょこのようなものとして使われていたと考えられるそうです。であるならば、そもそも七十人訳はあんちょことして直訳されなければならなかったはずですし、現に翻訳者はそれを目指したことでしょう。ここからは、しばしば主張される、七十人訳が直訳されたのは聖典の翻訳だからだという言説が、誤りであることが分かります。Wrightによれば、こうした考え方が出てきたのは、アリステアスの手紙をはじめとする後代の伝説をもとに、七十人訳が、原典から独立した書物としての地位を得ていく中で、テクストの聖性という要素が付加され、聖典を意訳するわけにはいかないと考えられるようになったためだといいます。しかし実際はそうではなく、七十人訳の直訳は、原典の補助という実践的な性格によるものだったのです。
以上が要旨で、非常によくまとまっていますが、やはり気になる点がいくつかあります。第一に問題なのは、ヒエロニュムスの翻訳論が完全に落ちてしまっていることです。キケローを扱ったところで、Wrightはヒエロニュムスもラテン文学ということで一緒くたにしてしまっているのですが、これはあまりに乱暴な扱い方です。そもそも、キケローの翻訳の特色が読者による原典の確認可能性にあるというのであるならば、ヒエロニュムスのウルガータ聖書の場合、読者である西方世界のキリスト者が原典のヘブライ語を確認できなかったのは明らかなわけですから、この時点で一緒にできないことは明らかです。とまれ、Wrightがヒエロニュムスについて手つかずにしておいてくれたおかげで、研究の余地があるとも言えます。第二に、Wrightが採用したPietersmaの「インターリニアとしての七十人訳」という見解は、結構偏ったものではないかという恐れがあります。Pietersmaは七十人訳について、原典のあんちょこ以上の価値を認めていませんが、七十人訳学者の中には「独立したギリシア文学としての七十人訳」という見解を取る人もいます。私の理解によれば、その筆頭がライデン大学の村岡崇光氏になります。村岡氏は七十人訳のギリシア語辞書を編纂していますが、七十人訳を単なる翻訳と見なすならば、専用の辞書は必要ありません。事実、そう考えているPietersmaは、七十人訳を読むのにはリデル=スコットがあれば十分と考えています。しかし、少なくとも後代のキリスト者たちが、七十人訳を原典から独立するもの、さらには原典を超えるものとして考えていたわけですから、かなり古い時代からこうした考え方があったとしてもおかしくはありません。このあたりは私の守備範囲を越えてしまうのであまり下手なことは言えませんが、さしあたり上の二点は気になるところです。
- Albert Pietersma, "A New Paradigm for Addressing Old Question: The Relevance of the Interlinear Model for the Study of the Septuagint," in Bible and Computer, ed. Johann Cook (Leiden: Brill, 2002), 337-64.
Bible and Computer: The Stellenbosch Ai Bi-6 Conference : Proceedings of the Association Internationale Bible Et Informatique "from Alpha to Byte". University of Stellen Johann Cook Brill Academic Pub 2002-12 売り上げランキング : Amazonで詳しく見る by G-Tools |
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