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2020年11月15日日曜日

聖書の校訂記号 Stein, "Kritische Zeichen"

  • Markus Stein, "Kritische Zeichen," in Reallexikon für Antike und Christentum 22 (Stuttgart: Anton Hiersemann, 2008), 133-63.

校訂記号とは、古代の編集者や釈義家たちによって単独あるいは組み合わせて用いられた線、点、文字のことで、通常は左の欄外の行の前に置かれた。記号は読者にテクストの本質やその理解、確かな特徴、内容の質などに関するヒントを与えるためのものだった。古代の文献学におけるδιόρθωσις, κρίσιςなどの領域で用いられた。

著者はこうした記号の非キリスト教的用法とキリスト教的用法を共に紹介する。そもそも校訂記号はキリスト教成立以前である前3世紀初頭に、アレクサンドリア文献学のホメロス解釈の伝統の中で生まれてきた。アレクサンドリア図書館の最初の館長エフェソスのゼノドトスはオベロス記号を発明し、彼が本物かどうか疑っている箇所に付した。疑わしい箇所を単に取り除くのではなくオベロス記号を付すことで、読者が自分で決定する可能性を奪うことなく校訂者が自分の決定を明らかにできる。続いてアリストファネスとアリスタルコスが新しい記号を発明し、校訂システムを修正・拡大した。ゼノドトスとアリストファネスは欄外の印をつけただけだったが、アリスタルコスは別個の注解に自分の見解を書き残した。アリスタルコスにとって校訂記号は、本文と注解を繋ぐものだった。

オベロス記号(−)は、真正性が疑われるテクストの目印のためにゼノドトスが開発した。アステリスコス記号(※)は、繰り返されている部分を示すためにアリストファネスが作った。アステリスコス記号はそのときどきの文脈で適切と思われる箇所にも使われ、一方で適切でない箇所にはオベロス付アステリスコス記号(※−)が付された。アステリスコス記号は他にも、Venetus Aにおいて神々や王たちに関する比喩や発言などの内容を特徴付けたり、叙情詩においては詩の終わりや始まりや、韻律の変化などを示したり、ヘルクラネウムのパピルスでは段落を終わりを指したり、プラトンのテクストではその教えの内的な一致を証明したりするためにも用いられた。

シグマ記号(Ϲ)は同じ内容を持つもともと連続する一節に、アンチシグマ記号(Ͻ)は節が置き換えられているところに、付点アンチシグマ記号(Ͽ)は疑わしい一節に付された。とはいえアリスタルコスをはじめ多くの場合、これらの記号について一貫した方法論は確立されていなかったようである。ホメロスや叙情詩の写本ではアンチシグマ記号は欄外に示された異読や本文に関するコメントを導入するために使われることが多く、節の置き換えを示すためにはめったに使われない。アンチシグマ記号と付点アンチシグマ記号の区別も明確でない。

ディプレー記号(>)はアリスタルコスが自身のホメロス注解で言語的・内容的なタイプをさまざまに解説するヒントとして役立った。とはいえ叙情詩や劇のテクストでは韻律の変化や段落の冒頭などを示すためにも用いられた。オベロス付ディプレー記号(>−)はテクストの内容の区分を示した。プラトンのテクストではディプレー記号がつくことで、それがプラトンの教説であることが分かるようになっている。付点ディプレー記号(>:)は、ゼノドトスが取り除くべきと判断したがアリスタリコスは別の判断を下した箇所に付された。また付点オベロス記号(÷)は先行者の恣意的な削除の批判を意味した。

めったに使われない記号としてケラウニオン記号がある。これはアリストファネスによる登場人物の倫理的評価を示すものではないかと考えられている。少なくともテクストの質や構造ではなく、物語の内容に関する記号と思われる。キー記号および付点キー記号は、ホメロス文献について口頭や注解で与えられる言語的・内容的なタイプの説明のためにアリストファネスが用いたが、のちの時代には完全に失われた。ホメロスのテクスト以外でも、さまざまな注解メモへの参照表示として用いられることがあった。プラトンのテクストでは、プラトンのスタイルの真正性をキー記号が、スタイル上の彩りを付点キー記号が示した。

パラグラフォス記号とコローニス記号は、詩や散文での段落を表し、とりわけ対話篇では話者の交代を示した。コローニス記号はより強い境界区分のために用いられた。斜線は、間違い、脱落、変化、補足、段落分けなどのヒントになり、付点斜線は斜線に比べてめったに出てこないが、本文と注解の間の参照表示として役立つ。アンコラ記号は抜かされた一節を指摘し、ページの欄外で情報を捕捉することもあった。他にも、アロゴス(文章が壊れて回復不能な部分を示す)や句読点、また組み合わせである文字クレーシモン(読者に読む価値のあるところを示す)、ホーライオン(法的文書において注意を喚起する記号)、ゼーテイ(テクストの質への問いを指す記号)、グラフェタイ(別の写本での異読を指す記号)などがある。

ユダヤ的用法では、削除記号としてアンチシグマ記号とシグマ記号が使われている。これらは間違って配列された一節や欄外に付加された一節を指した。アンチシグマ記号はのちに「逆転のヌン」と間違われた。パラグラフォス記号は大イザヤ写本などの段落の冒頭に置かれている。

キリスト教的用法も、異教のそれと同様にテクストの解明と保全が出発点である。オリゲネスのヘクサプラの目的は、七十人訳や諸訳を比較することで可能な限り確実なテクストを手に入れるという文献学的意図によるものとされているが、ユダヤ・キリスト教双方が受入可能なテクストを作り論争に役立てるという護教的意図によるものでもあった。オリゲネスは七十人訳がヘブライ語テクストに対して余剰を示すときにオベロス記号をつけ、一方で七十人訳で単語が文章が欠けているときにはその部分を別の訳で埋めた上でアステリスコス記号を付し、両者の量的違いを表した。オリゲネスは記号の使用に関して異教の文献学に依拠したことを認めている(Ep. 1.7)。テクストに直接干渉せずに自分の批判的見解を明らかにできるこの方法はオリゲネスの意図にかなっていた。オリゲネスのオベロス記号は写本によって変化するが(−, ~, ÷, ⨪)、機能は同じである。

エピファニオスはおそらくヘクサプラそのものを見たことはないが、記号について報告している。エピファニオスによると、アステリスコス記号とは、繰り返しを避けるために七十人訳者によって言語的・スタイル的観点から抜き取られた言葉を指すという。彼はこれを星のイメージを使って説明している。一方でオベロス記号とは、七十人訳者がギリシア語文としてより明晰にするために付加した箇所を指す(そこに神の霊感が現れる)。エピファニオスは普段はオリゲネスの激しい敵だったが、これらの記号の使用については賞賛している。

エピファニオスは、オベロス記号やアステリスコス記号が付された箇所の終わりの印としてメトベロス記号ついても説明している。また七十人訳においてヘブライ語テクストや諸訳と異なる順序で言葉が並べられているとき、オベロス付アステリスコス記号が付されるという。エピファニオス(とエルサレムのヘシュキオス)はさらにレムニスコス記号(÷)とヒュポレムニスコス記号(⨪)をオリゲネスに帰している。エピファニオスによれば、レムニスコス記号は、聖書を互いに独立して訳した36の翻訳ペアのうち2つが大多数とは異なる表現を選んだところに付けられる(÷の真中の線が行を、また2つの点が二人の翻訳ペアを示す)。ヒュポレムニスコス記号はひとつのペアだけが異なるときに使われる。この報告はエピファニオスのでっち上げであるという解釈が支配的だが、Fieldらはこれが正しい可能性を排除しない立場を取る。実際はこれらの記号はオリゲネスには由来しない。

10世紀のCodex Patmiacus 270には、ポントスのエウァグリオスの著作に対するスコリアがあり、その冒頭には記号についての説明に3章が割かれている。第1章ではオベロス記号とアステリスコス記号について、ヘブライ語テクストに対する量的な違いの観点から説明される。さらにテクストの順序の相違を表すために両記号が一緒に用いられることも指摘される。第2章のその例を挙げる。第3章は写本の欄外にあった4種の書き込みについて説明される。第一は、エウァグリオスのスコリア。第二は、オリゲネスのスコリア。第三は、七十人訳と諸訳の異読を扱うスコリア。第四は、七十人訳テクストで欠けている言葉や異読。

オベロス記号とアステリスコス記号はヘクサプラ版七十人訳写本の外でも使われることがある。たとえばルキアノス改訂版写本である。ここではオベロス記号はルキアノスによる付加を表す可能性があるが、記号の付け方はしばしば完全に恣意的になっているので確証はない。たとえばアステリスコス記号の代わりにオベロス記号が付けられたり、逆のことが起こったりしている。

ヒエロニュムスは聖書テクストに関する著作の中で、しばしばオリゲネスの記号について言及している。さらにはこれらの記号を同じように自分の聖書翻訳(七十人訳に基づく)でも利用している。エピファニオス同様に、記号の説明に星の比喩も使っている。これに対し、アウグスティヌスはヒエロニュムスの方法を理解せず、記号が示すのは非ヘクサプラ版の七十人訳テクストに対し、ヘクサプラ版七十人訳に基づくヒエロニュムスのラテン語訳(ヨブ記)の違いだと考えた(Ep. 28.2)。ヒエロニュムスはこのアウグスティヌスの誤解を正している(Ep. 112.19.1)。中世になると、オベロス記号とアステリスコス記号はガリア詩篇の写本において、ヘブライ語詩篇との相違を表すためにも用いられるようになった。

以上のような文献学的な問題だけでなく、神学的・釈義的ヒントとして記号が使われることもあった。エピファニオスは、聖書の預言書において預言が成立する10種の条件を示す記号や、そのときどきの預言のテーマを読者に示す記号を説明している。またカッシオドルスは、教父の著作中の異端的思想にアルケーシモン記号を、また正統的思想にクレーシモン記号を付した。カッシオドルスはこの方法を他の修道士たちにも薦めつつ、自身の『詩篇注解』などでも一貫して使用している。こうした著作の冒頭では13種の記号のリストが与えられており、その意味や先行者が説明されている。ときに、すでに知られていた記号に新しい意味が与えられる場合もあった。たとえばアステリスコス記号は注解の中で天文学的なテーマが扱われている箇所を示すために用いられた。カッシオドルスのこうした努力は、教義学、倫理学、文法学を用いて聖書を注解するためのみならず、神学的学問や世俗的学問においてテクストを通して聖書を覚えていくような教科書を作ろうとしたためだった。

ナジアンゾスのグレゴリオスの説教へのスコリアと共に、一連の写本には欄外の記号がある。この記号はおそらく6世紀前半のスコリア作者に由来するものと考えられる。このスコリアはグレゴリオスの説教の教義上の内容説明やそうした箇所へのヒントを通して、異端者による利用から守るためのものだった。たとえばグレゴリオスが神について取り扱っているところにはヘーリアコン・セーメイオン記号が付された。アステリスコス記号は新しい意味を得て、キリストの受肉やそれと結びついた救済計画について論じていることを示した。組み合わせ文字のホーライオン記号はスタイル的・思想的に優れた箇所を、セーメイオーサイ記号は読者に内容的にも言語的にも何か奇妙なところを指す。オベロス記号は、テクスト削除という伝統的な用法を応用し、削除されるべき異端者の意見に付された。ディプレー記号は聖書からの引用を意味した。

他にも、ギリシア語やコプト語やシリア語の聖書写本およびパピルスでの用法についても触れられている。

2020年9月7日月曜日

ラテン語詩篇について Gross-Diaz, "The Latin Psalter"

  • Theresa Gross-Diaz, "The Latin Psalter," in The New Cambridge History of the Bible 2, ed. Richard Marsden and E. Ann Matter (Cambridge: Cambridge University Press, 2012), 427-45.

150篇を数える詩篇は中世のさまざまな人々にとって同様に、聖書の中でも最も重要な文書である。修道者にとってそれは祈りの基礎であり、観想の導きであった。教会作家にとっては新たなアイデアを試す主要テクストであった。また説教者にとっては説教を構成するための汲めども尽きせぬハンドブックであった。詩篇は説教や礼拝における口頭で聴くものばかりか、本として所有するものだった。

詩篇について強調するべきは、第一に、他の聖書文書についてはヒエロニュムスのヘブライ語に基づく翻訳が徐々に受け入れられていったのに対し、詩篇についてガリア詩篇が優先された。第二に、ガリア詩篇のテクストは中世において完全に安定してはいなかった。

ヒエロニュムスは3種類の詩篇を作った。最初に作成した古ラテン語訳の改訂はいわゆる「ローマ詩篇」であり、ピウス5世の時代までローマで、ヴァティカヌス2世の時代までサン・ピエトロ寺院でも用いられたものだと見なされてきたが、De Bruyneの研究以降これは否定されている。第二の詩篇である「ガリア詩篇」は、オリゲネス『ヘクサプラ』に基づき既存のラテン語訳を改訂したものである。第三はヘブライ語テクストに基づいた翻訳であるが、実際にはヘブライ語テクストだけでなく諸ギリシア語訳にも多くを負っている。これは研究と論争(特にユダヤ人との)のために作った翻訳だった。

ローマ詩篇は8世紀までにヨーロッパに広がった。これはベネディクト派の修道制の伝播と軌を一にしている。このためローマ詩篇は修道的な礼拝に深く影響を及ぼした。逆に礼拝において音楽に乗せて歌われたため、ローマ詩篇のフレーズが保存されることになった。スペインではローマ詩篇ではなく、類似テクストである「モサラベ詩篇(Mozarabic psalter)」が、またミラノでは「アンブロシウス詩篇(Ambrosian psalter)」が支配的だった。しかし、カロリング朝下での礼拝と聖書の改革によって、ローマ詩篇はその支配的立場から退くことになる。

ヒエロニュムス自身はヘブライ語詩篇こそが最も正確だと自負していたが、中世ヨーロッパにおいて最終的に支配的だったのはガリア詩篇だった。これはカロリング聖書にこれが収録されたためである。ただし、オルレアン司教テオドゥルフのように、正確なテクストに基づく正しい礼拝を求めたカロリング朝の政治的・教育的な宗教改革の担い手のうちには、ヘブライ語詩篇を採用した者もいた。

アルクインは七十人訳に基づく詩篇を求めた。これはカール大帝の宮廷でもそうだったし、のちに有名な写字室を持ったトゥールでもそうだった。そしてそれゆえに、アルクインが採用した詩篇はガリア詩篇と呼ばれるようになったのである。ただし、アルクインの聖書は本文批評については適切でなく、学術的な観点からテクストを校訂したものではなかった。ヒエロニュムスのオベロス記号やアステリスコス記号もほとんど保存していない。

アルクインがガリア詩篇を自分の聖書の詩篇に選んだ理由はよく分からない。ガリアにおいてもローマ詩篇が長く支配的だった。しかもカロリング詩篇が詩篇の選定と順番について従っているカンタベリーの8世紀のウェスパシアヌス詩篇(Vespasian Psalter)は、ガリア詩篇ではなくローマ詩篇である。ここからアルクインによるガリア詩篇への偏愛は偶然ではなく意図的だったと言えるだろう。

ガリア同様、イングランドでもローマ詩篇は支配的だったが、アイルランドでは影響力はなかった。アイルランドでは600年頃に古ラテン語訳からガリア詩篇に変わったことが知られている。同時にアイルランドではヘブライ語詩篇も知られていた。カール大帝の宮廷ではアイルランドの学者からの影響力が大きかったので、アルクインもガリア詩篇を重視したのではないかと論文著者は論じている。

11世紀になるとガリアからイングランドにガリア詩篇が輸入され、Eadwine Psalter(12世紀、カンタベリー)からも分かるように、他の版を圧倒するようになった。同時にガリア詩篇はガリアからスペインにも紹介されただけでなく、ローマやイタリアに再び戻ってきた。ラツィオで作られた「アトランティック聖書」は、カロリング朝の理想に則るかのようにガリア詩篇を採用している。アルクインによるガリア詩篇の選択は中世を超えて現代にまで影響を及ぼした。今でも詩篇の番号がヘブライ語と異なるのはこのためである。またガリア詩篇はパリ聖書を通じてグーテンベルクの印刷聖書にまで続いている。

カロリング朝のあとにもガリア詩篇は大きな影響力を持ったが、一方でテクストの正確さを追求する精神も続いていた。詩篇は神の言葉なのであるから、その神聖な言葉を正しく知りたいと考えたのである。12世紀のシトー会のステファン・ハーディングは、ユダヤ人の助けを借りてガリア詩篇を改訂した。シトー会のニコラス・マンジャコリアもローマでユダヤ人と共に3種類の詩篇を比較検討し、ヘブライ語詩篇が最も優れていると評価した。これらシトー会の修道士たちによる詩篇改訂の機運は、詩篇という礼拝の中心テクストに対する修道的な観点からの関心によるものである。

13世紀になると「パリ聖書」に代表される本文批評の試みも生まれた。ロジャー・ベーコンに言わせると、パリの者たちの聖書テクスト選択は恣意的で、単一のテクストをほしい学者たちのニーズに合わせたものにすぎなかったという。確かにパリ聖書のテクストは完全に正確でも安定的でもない。ただし、サン・シェールのヒューゴーやウィリアム・デ・ラ・メアら多くのcorrectoresによる科学的な観点からの批判が加えられた。彼らはヒエロニュムスの3種類の版、古ラテン語訳、教父やカロリング期の注解のレンマなどを比較し、カテーナ形式で自分の発見を記録した。

修道者たちは世俗の教会よりも多くの時間を祈りに使うことができたので、詩篇を朗読することは聖務日課の基礎となった。とりわけ、一週間で詩篇全篇を朗誦するベネディクト会の修道制が盛んになったので、その方法が基準となった。特定の詩篇(66, 148-150など)は毎日朗誦され、別のものは特別の祭日や特定の礼拝においてのみ朗誦された。また詩篇を朗誦することは敬虔さの証とも見なされた。

平信徒の詩篇に対する関心も高かった。9世紀のある富裕な家族は家族全員が詩篇を本で持っていたという。また中世の終わりにもなると、一般的な人々が競って詩篇を所有しようとしていた。彼らはラテン語と英語が併記された詩篇を読んでいたようだが、ここから平信徒であってもラテン語を一部理解していた可能性が示唆される。また平信徒にとっての詩篇朗誦は、何らかの罪を犯したときの厳しい罰の代わりの温情として機能することもあった。たとえば、本来であれば一年間パンと水しか口にできないところを、詩篇の150篇を三日三晩朗誦することで許されたのである。

修道士たちのものであれ平信徒たちのものであれ、詩篇は聖書の一部(三部あるいは五部に分けられてパンデクトの中に収められる「聖書的詩篇(biblical psalter)」としてよりも、礼拝のテクスト一式として見なされていた(「礼拝的詩篇(liturgical psalter)」)。とりわけ詩篇6, 31, 37, 50, 101, 129, 142篇は「7つの改悛詩篇」として特別な位置を占めていた。このように詩篇の祈祷書は、修道者と世俗の平信徒によって聖務日課のために用いられた礼拝的詩篇のハイブリッドだった。

中世を通して、詩篇は修道院や大聖堂における共同の礼拝の書であり、個人の祈りや平信徒の信心の導きであり、教養を教え芸術的な観念の霊感となるテクストであり、神学者や説教者の汲めども尽きせぬ源泉だった。

2020年9月5日土曜日

13世紀のパリ聖書 Light, "The Thirteenth Century and the Paris Bible"

  • Laura Light, "The Thirteenth Century and the Paris Bible," in The New Cambridge History of the Bible 2, ed. Richard Marsden and E. Ann Matter (Cambridge: Cambridge University Press, 2012), 380-91.

13世紀は中世の聖書の歴史にとって3つの意味で根本的な発展の時代だった。第一に、写された聖書の数、第二に、ほとんどの聖書がパンデクト(一冊本)だった、第三に、新しい形式であるポータブル聖書が登場した。ここからわかるように、この時代に聖書は、教会関係者や金満家らといった個人に所有されるようになったのである。パンデクトが作られるということは、聖書が様々な文書のよせあつめではなく統一的な全体と見なされるようになったということである。そしてそうした聖書の全体性は、単語をアルファベット順に並べた辞書やコンコルダンスといったツールで検索するという意識を生んだ。

13世紀の聖書フォーマットは2つに区分できる。第一に、1200-30年には大きめのパンデクトの数が増えた。テクストは小さな文字で行間を詰めて書くことにより、欄外の面積が増えて、そこに書き込みをするようになった。ポータブル聖書もあったが、技術的にすべてのテクストは書けず、大幅な省略もされた。

第二の時期は1230年以降で、ポータブルな「ポケット聖書」が発明された。これは極めて薄い羊皮紙や小さく圧縮されたゴシック文字が開発されたことで可能になった。ポケット聖書は国際的な現象で、フランス、イングランド、スペイン、イタリアなどで見つかっている。こうした小さな聖書は旅をする辻説法師にぴったりだった。

13世紀のさらなる偉大な成果が「パリ聖書」である。これは北フランス、特にパリで写された聖書のひとつのタイプである。強調すべきは、この用語が指すのはあくまで一般的なテクスト・タイプであって、聖書の物理的な形式ではない。つまり、パリ聖書にはポケット聖書もあれば大型写本もあり、分冊もあればパンデクトもあり、また高価な装飾写本もあれば質素な即物的な写本もあった。

パリ聖書は1200年以前の写本には見出されない新しい順序で聖書文書が配置している。詩篇はガリア詩篇を採用した。聖書テクストと共に64もの序文を収める。多くはヒエロニュムスによる序文だが、さまざまな来歴の序文もある。さらに6つの新しい文章をも序文として収録している。(1)ヒエロニュムス『コヘレト書注解』序文、(2)不詳の著者のアモス書への序文、(3・4)ラバヌス・マウルスによる『マカベア書』への序文、(5)ヒエロニュムスの福音書注解への序文を短くしたマタイ福音書への序文、(6)黙示録への序文である。

パリ聖書の章分けは伝統的にステファン・ラングトンに帰されるものだが、この章分けシステムは実はラングトンによる発明ではなく、既存のシステムが彼によって奨励されたものである。章による聖書テクストの区分は古くからあったが、さまざまな異なったシステムが使われてきた。1225-30年にもなるとラングトン・システムが一般的になり、一方で古いシステムと密接に関係しているエウセビオスの対観表や要約(capitula)はなくなっていった。節による区分はかなり新しく、16世紀になってからである。

パリ聖書の聖書部分のあとには、ヒエロニュムスの著作に基づくが大幅に改訂・増補された『ヘブライ語の名前説明(Interpretatio hebraicorum nominum)』が付された。これは聖書中のヘブライ語名の説明をアルファベット順に並べたものである。1230年以降の聖書に見られる。

パリ聖書の起源は、1200年頃にウルガータを大幅に改訂したプロト・パリ聖書にある。これは聖書文書の新しい順番や新しい序文を含むが、古い章分けがなされており、『ヘブライ語の名前説明』は収録されていない。これが1230年頃になってより成熟したパリ聖書となる。ただしこれら2種類のパリ聖書の実際のテクストについての知識は不完全である。というのも、現代のウルガータ編纂者たちはヒエロニュムスのテクストにとって重要なより古い写本に関心を持つからである。

19世紀の学者たちはパリ聖書のことをパリの神学者たちの公式聖書だったと考えていたが、そうした主張を裏付ける文書上の証拠はない。論文著者は、むしろ当時の商業的な書籍売買の文脈で、神学の学生や教師がパリの本屋から聖書を委託されたのではないかと述べている。通説の典拠としてよく引用されるロジャー・ベーコンの『オプス・ミヌス』(1266-7年)には、パリの多くの神学者や本屋が聖書の写しを出版した旨が書かれている。ベーコンによれば、本屋は注意深くなく知識も欠いているので、この写しのテクストは劣化しており、それをさらに写すことでよりひどくなったという。そして神学者たちがそれを直そうとしたが、統括する者がいなかったので好き勝手に修正する羽目になったとベーコンは主張している。ここから分かるように、ベーコンはパリ聖書がパリの学派の公式聖書だとは言っていない。むしろ重要なのは中世の本文批評の様子が描かれていることである。中世の釈義家たちもテクストの異読に気づいていた。

パリ聖書は初期の印刷聖書の直接の祖先となる。グーテンベルク聖書もシクストゥス=クレメンス聖書もそうである。それゆえに、パリ聖書の現代世界への影響力は相当なものといえる。

2020年9月4日金曜日

カロリング朝のラテン語聖書 Ganz, "Carolingian Bibles"

  • David Ganz, "Carolingian Bibles" in The New Cambridge History of the Bible 2, ed. Richard Marsden and E. Ann Matter (Cambridge: Cambridge University Press, 2012), 325-37.

カロリング朝時代、とりわけカール大帝の治世768-814年には聖書テクストに関する議論、たとえば正しいテクストや校合などに関する議論が盛んになった。この時代以前にもノーサンブリアのモンクウェアマウス=ジャロウ修道院で6世紀にカッシオドルスのために作られたCodex grandior(のちにケオルフリースのために3つの複製が作られ、そのうちのひとつがアミアティヌス写本として残る)のような一冊本は存在したが、パンデクトがより一般的になるのは9世紀以降のことである。

この時代には特定の日に福音書やパウロ書簡の一部が礼拝において朗誦されており、読む箇所のリストも存在した。村落の教会には聖書そのものが置かれていたのではなく、司祭はミサ用のの聖句集を用いて説教をした。

この時代、大聖堂や修道院においてもまだ分冊の聖書が読まれていた。スイスのザンクト・ガレン修道院における9世紀のウェルド修道院長による写本、ハルトムート修道院長による「ハルトムート聖書(大と小)」、グリマルド修道院長による写本などがそれに当たる。ザンクト・ガレン以外では、福音書と詩篇以外の文書はほとんど残っていない。福音書写本には、ヒエロニュムスによるダマスス宛書簡、エウセビオスの対観表、章分けの表などが付されていた。

一方で、聖書文書すべてを含む一冊本や二冊本(パンデクト)も登場するようになった。最初の大きな版のパンデクトはメスの大司教アンギルラムのために791年より少し前に作られたものと考えられる。それより少し後には、オルレアンのテオドゥルフのパンデクト(携行可能な小さなもの)がある。これは聖書の時系列や解釈に関するテクストも含んだもので、聖書テクストはヘブライ語に基づく修正を経たイタリアの写本に由来する。

9世紀になると、トゥールにおけるサン・マルタン修道院やマルムーティエ修道院の写字室で、アルクインの指導のもと、一冊本が作られるようになった(そもそも一冊の聖書をパンデクトと呼んだのがアルクインその人であった)。アルクインの修正は文法的・様式的な部分に留まり、テクスト自体を編集することはなかった。それゆえに正字法もあまり確立していなかった。

トゥールの聖書は18の完全な写本と28の断片が現存する。ここからトゥールでは少なくとも年間2つの聖書が写されていたことが分かる。聖書の筆写は公の場での朗誦のためになされていたが、詩篇と福音書に関しては単独で写された。聖書の各文書は大きな装飾付の頭文字で始まる。文書のタイトルはしばしばローマの碑文のような優雅な大文字で書かれ、またテクストのセクションの冒頭などでは赤文字が使われた。

B. Fischerによると、トゥール聖書の時系列はテクストからは分からないという。というのも、写字室では複数の写本が同時に制作されていたので、それぞれの写本は同じ手本に基づいていないからである。聖書文書の順番や序文の有無などもまちまちである。共通しているのは、ヒエロニュムスの序文(ときに『書簡53』も)を含むこと、ガリア詩篇を収録していること、さまざまな文書の章分けのリストがあることである。

トゥールの聖書は重要な人物たちへの贈り物だった。たとえば皇帝やその親類、また大きな宗教的な施設の長たちである。写字生の数は写本によって異なるが、だいたい10数人いたのではないかと考えられている。写字生のうち名前が分かっている者たちとしては、アマルリクス、ヒルデベルトゥスなどがいる。彼らは作業効率を上げるために、手本の写本のページを外せる場合は外し、同時に作業をした。作業が終わると1丁(表裏2頁)ごとにチェックし、REQ(requistium est)というマークを書いた。

一冊のパンデクトを写すという点で、アルクインやテオドゥルフは発明者といえる。パンデクト制作はパリやコルビーなどさまざまな地域に広まっていったが、アルクインのテクストはその土地のテクストを修正するのに使われたのであって、それ自体が権威を持ったわけではなかった。アルクイン自身も自分で聖書を引用するときや注解を書くときには、トゥールの聖書を使わなかった。

12世紀になると、分冊の聖書には各節に関する教父たち(たとえば大グレゴリウス、オリゲネス、ヒエロニュムス、クリュソストモス、フラバヌスなど)の重要な注解が写された「注釈付聖書(glossed Bible)」が多く使われるようになるが、この形式が最初に表れたのもカロリング期である。とりわけ詩篇、福音書、パウロ書簡にこの形式が多い。ラテン語の注釈のみならず、10世紀の古高地ドイツ語の注釈も見つかっている。さらに詩篇、福音書、パウロ書簡には、ギリシア語とラテン語の対訳写本も作られた。

こうした聖書のみならず、アウグスティヌスの『詩篇注解』やグレゴリオスの『ヨブ記注解』なども大聖堂や修道院の図書館の必需品となった。オリゲネス、クリュソストモス、カッパドキア教父たちの聖書解釈のラテン語訳も広く写された。テオドゥルフやフラバヌスらは聖書テクストに関してユダヤ人の協力を得ていたことも知られている。

カロリング期には完全な一冊本のみならず、分冊本、福音書写本、聖句集などさまざまなものが筆写されていた。これはこの時代に、礼拝や職務日課などでの聖書朗読が定着し、序文が付され章分けされた聖書が広く手に入るようになってきたことがその理由である。

2020年8月30日日曜日

ラテン語訳聖書の歴史(900年~トレント公会議まで) Van Liere, "The Latin Bible, c. 900 to the Council of Trent, 1546"

  •  Frans van Liere, "The Latin Bible, c. 900 to the Countil of Trent, 1546," in The New Cambridge History of the Bible 2, ed. Richard Marsden and E. Ann Matter (Cambridge: Cambridge University Press, 2012), 93-109.

10世紀以降の聖書写本に関する組織的研究は少ない。この論文はカロリング・ルネッサンス以降のラテン語訳聖書の本文史を概観するものである。1592年のシクストゥス=クレメンス版に取って代わる編纂プロジェクトとしては以下のものがある。1889年から1954年にかけて、John WordsworthとHenry Whiteがウルガータの新約部分の校訂版を出版した。1907年に教皇レオ8世にウルガータの旧約部分の校訂版作成を委託されたベネディクト会は、ローマのサン・ジローラモ修道院で作業を始めた。彼らは1926年に第一巻を出し、1994年にすべてを完成させた。

Dom Henri Quentinによると、旧約校訂版の編纂原理は、ヒエロニュムスが5世紀に見たとおりのウルガータ本文を作るというもので、そのために900年以降の写本は信頼できないと見なした。彼が重視した写本伝承は、アルクイン型(アミアティヌス写本)、テオドゥルフ型(オットボニアヌス写本)、スペイン型(トゥロネンシス写本)である。イタリアの2種類(アトランティック聖書やモンテ・カッシーノ修道院のベネヴェント写本)は、これらより後代のもので、重要性に関しても劣る。

900年以降のウルガータ本文の研究においては、パリのアトリエで制作された装飾写本の研究には蓄積があるが、実際のテクスト伝承についてはあまりよく知られていない。福音書についてだけはHans Hermann Glunzの浩瀚な研究があり、それによると12~13世紀のウルガータ本文は、初期の写本に基づいた校訂版よりも、15~16世紀の印刷版により似ているという。つまり、900~1500年という時代はウルガータのtextus receptusの成立を知るために特別なものということである。

中世のテクストというと、写字生の間違いやテクストの変更などによって劣化していったという印象が強いが、写字生たちの意図は、Vorlageや教父引用、さらにはヘブライ語やギリシア語の原典と比較することで、正しいテクストを作ることにあった。その結果もともとあった多様性が失われることもあった。こうした複雑さゆえに系統図は仮説の域を出ない。

900~1500年にかけての時代は、ウルガータのテクスト伝承を語ることはできず、むしろ「スコラ的ウルガータ(scholastic Vulgate)」とGlunzが呼ぶような新しいテクストの形成を語るべきである。つまり、聖書テクストをただ筆写するだけでなく、写字生が積極的にテクストを評価し、それを向上させるのである。ベックのランフランクスはまさにそうしたことをした人物だった。彼はさまざまなコーデックスを比較して聖書テクストを定めただけでなく、正統的な信仰に基づいてテクストを修正したのである。こうした試みは当然ながらテクストの汚染を招いた。

この時代の聖書筆写は、「修道院改革(monastic reform)」と「スコラ的運動(scholastic movement)」と関係している。修道院改革では、聖書は特定の修道院における共同使用のための手本として使われることが前提とされていた。たとえばシトー会修道院長ステファン・ハーディングの4巻聖書がその代表例である。彼は写本の古さに依拠したり時にはユダヤ人の専門家の助けを借りてテクストを修正し、さまざまなテクスト伝承を混ぜ合わせた。同じくシトー会のマニアコリアのニコラスもヘブライ語の知識を駆使して詩篇に関する論文を書いた。

Quentinは重視しなかったが、イタリアのアトランティック聖書は11世紀のグレゴリオ改革と関係がある。この改革は司教座と修道院の結びつきを強め、また大きなパンデクト形式の一巻本の聖書を作成することを常とした。この改革下(11~12世紀)での聖書作りの中心はローマだったが、写本はスタヴロ、ザルツブルク、カンタベリー、ダラムにも広まった。改革者たちはこうした聖書作りにおいて普遍教会の信仰における統一を求めて、よく校合されたテクストを作成しようとした。そこで写字生らは、アルクイン、テオドゥルフ、そしてスペインの写本伝承を比較し、アミアティヌス写本にも頼った。特徴としては、ローマ詩篇やヘブライ語詩篇の代わりにガリア詩篇を収録し、またアポクリファも含んだ。

スコラ的運動の中心地のひとつは、ランフランクスが聖書を作成したベックをはじめ、ランス、オセール、フルーリー、ランなどがある。このうちランでは、ランのアンセルムス(およびその兄弟ランのラルフス)が中世における最も影響力の大きな注解である『グロッサ・オルディナリア(Glossa ordinaria)』を作成した。これは教父たちの解釈を欄外や行間に書き込む形式の注解である。個々の聖書文書のグロスは、異なった時代に、異なった作者によって、異なった場所で作成された。12世紀になると、こうしたグロス聖書の中心地はパリになった。

Glunzによれば、ウルガータ聖書の形成に当たっては、修道院改革の運動よりもこうしたスコラ的グロスの運動の方が影響力が大きかったという。修道院改革ではテクストについては保守的で、これを変更するようなことはなかったが、スコラ的聖書解釈ではテクストはそれが意図する意味に準じるとされた。それゆえに後者ではテクストを教父的解釈や神学的意味に当てはめて書き換えることがあったのである。こうしてアミアティヌス写本やアルクインの改訂などには見られないが、より後代の印刷版には見られるような特定の読みが出てきた。

こうしたGlunzの見解には反論もあるが、中世後期のウルガータ本文の形成段階は1100年から1150年の間に起きたことは確かである。サン・ヴィクトル学派の聖書はその代表例である。サン・ヴィクトル修道院のヒュー、リカルドゥス、ペトルス・コメストル、アンドリューらは多くの聖書解釈をものしたが、よくあるウルガータ本文とは異なった読みを提供するために、『オルディナリア』をはじめ、他のコーデックス、ヘブライ語テクスト、古ラテン語訳なども参照した。

QuentinやJ.P.P. Martinらによると、13世紀にパリ大学の神学者たちによって選別された公式聖書である「パリ聖書」ができたという。一方でGlunzらはこれは「公式」ではなく、単にパリでよく手に入れることができた聖書にすぎないと主張した。「パリ聖書」という用語は、Quentinが「an exemplar Parisiense」と呼ぶ仮説的なテクストを指したり、13世紀の中ごろにパリで作られた聖書のことを指したりする。パリ聖書はアポクリファを含むパンデクトで、ヒエロニュムスの序文やヘブライ語の名前の辞典を収録している。また13世紀のカンタベリー大司教ステファン・ラングトンによる章分けがなされている(節分けはまだされていない)。

13世紀のパリ聖書は商業的に生み出され、パリの学生たちや托鉢修道会(ドミニコ会やフランシスコ会)の修道士の間で人気があった。特徴としては、フォーマット上の統一性に対しテクスト上の多様性が挙げられる。後者の特徴は印刷技術が生み出されるまではよくあることだった。いわゆるパリ聖書以外にも、2巻本(2巻目は箴言から始まる)や多巻本(グロスつき)もあれば、収録される文書の違いやや同じ文書でも版の違いなどがあった。

パリ聖書は人気があったのでテクスト改訂や異読欄が必要とされた。オックスフォードのフランシスコ会のロジャー・ベーコンは、パリ聖書は専門的な写字生ではなく、平信徒の雇われ写字生によって筆写されたものだと述べている。こうしたテクスト上の問題を解決するために、少なくとも5つの訂正表(correctoria)が作られた。15世紀のヴィンデスハイムではパリ聖書とより古いカロリング期の写本を比較して本文を作る試みも行われた。

最初の印刷されたウルガータ聖書は、1452-6年にマインツでヨハンネス・グーテンベルクによって印刷された2巻本である。これは平信徒による聖書所有の希望によってできたものである。章の分け方はラングトン方式が採られた。その後各地で印刷された聖書(マインツ1462年、バーゼル1474年、ヴェネツィア1475年、バーゼル1479-89年、バーゼル1491-5年)のテクストは、古い写本ではなく最初のグーテンベルク聖書に依拠している。

印刷聖書の登場は、本文批評を中心的な課題として当時急成長していた人文主義の台頭とも軌を一にしている。1522年のルターによる新約聖書のドイツ語訳は、ウルガータではなく、エラスムスによる1519年のギリシア語校訂版に基づいている(ルターの旧約ドイツ語訳は1532年)。ヘブライ語聖書の校訂版は15世紀末に、そして最初のラビ聖書はヴェネツィアで1516/17年に出版された。このようなヘブライ語とギリシア語原典に対する学術的な興味は、その忠実な翻訳とはいい難いウルガータの不足を強調した。

そこで原典に忠実なウルガータを作成するという試みも行われた。シスネロスのフランシスコ・ヒメネスは、ヘブライ語、アラム語、七十人訳、ウルガータの並行箇所を並べて、コンプルテンシアン・ポリグロット聖書を作った。ウルガータの最初の批判的改訂版のひとつは1530年のゴベリヌス・ラリディウスによるものだった。より重要なものとしては、サン=ジェルマンからの2つの9世紀の写本を校合し、ヘブライ語テクストとも比較したロベール・エティエンヌのものがある。

しかしながら、こうしたウルガータの校訂版は多くの宗教改革者たちにとって有効なものではなかった。ヒエロニュムスのウルガータはすでに西方キリスト教世界の唯一の聖書としての地位を失いつつあった。これを守るために、1546年4月8日のトレント公会議はウルガータを唯一の権威ある聖書と宣言した。そしてシクストゥス5世の命で1585年に新しいテクストを作り、1590年にいわゆるシクストゥス版として出版したが、強行自身のテクストへの介入により多くの間違いを含んでいたので、1592年にクレメンス8世がシクストゥス版をを改良したいわゆるシクストゥス=クレメンス版を公にした。

2020年8月25日火曜日

ラテン語訳聖書概説 Bogaert, "The Latin Bible"

  • Pierre-Maurice Bogaert, "The Latin Bible," in The New Cambridge History of the Bible 1, ed. James C. Paget and Joachim Schaper (Cambridge: Cambridge University Press, 2013), 505-26.

紀元600年までのラテン語聖書の歴史は、第一に、ギリシア語から翻訳された古ラテン語訳、第二に、ヘクサプラ的ギリシア語およびヘブライ語から翻訳されたヒエロニュムスの訳、そして第三に、初期の翻訳と新しい翻訳との合流に分けられる。

古ラテン語訳は、詳しいことはほとんど分かっていないが、2世紀の終わり頃にローマ属州アフリカで作られたと考えられる。最初のラテン語訳がイタリアではなくアフリカでできたことはやや驚きだが、当時の北アフリカにおけるラテン語のキリスト教文学の興隆(テルトゥリアヌスやキュプリアヌスら)を物語っている。北アフリカにはラテン語を話すユダヤ人共同体もあったので、彼らの助言があった可能性もある。

ギリシア語聖書のラテン語訳の歴史は、ギリシア語テクストと一致させるための改訂と、ラテン語テクストそのものの改訂から成っている。古ラテン語訳に関する我々の知識の源は、第一に、教父や中世文学の引用(場所と時代が特定しやすいが、問題としては、ウルガータに合わせた標準化、注解中の聖書引用は後代の付加、校訂者による聖書引用の誤同定の可能性がある)、第二に、古ラテン語訳が使われていた当時の写本(場所と時代は特定しやすいが、断片やパリンプセストのことが多い)、第三に、カロリング期あるいは中世の写本、第四に、ヒエロニュムス訳への付加、第五に、礼拝の式文、第六に、文中の短いタイトル(tituli)などに由来する。

古ラテン語訳は教父時代には独立した権威を持っておらず、あくまで霊感のある七十人訳に付随するものだったが、七十人訳の歴史に関する重要な証言でもある。テクストの種類としては、古アフリカ型(K)、アフリカ型(C)、古ヨーロッパ型(D)、イタリア型(I, J)、スペイン型(S)、ミラノ型(M)などがある。他の記号としては、ヘクサプラに基づくヒエロニュムスの翻訳(O)、ヘブライ語に基づく翻訳(H)、ウルガータになる型(V)がある。

ラテン語訳聖書あるいはラテン文学全般は巻物に書かれることはなく、いつもコーデックスに書かれた。4世紀前半になると、ギリシア語聖書は旧約と新約が一つの大きなコーデックスに写されるようになった(シナイ写本、ヴァチカン写本)。ラテン語聖書については、カッシオドルスがこうしたコーデックス聖書を「法典(pandect)」と呼ぶようになった。

教父たちにとっては、「ウルガータ」という名称はギリシア語聖書あるいはそのラテン語訳のことを指すものだった。アウグスティヌスは古ラテン語訳のイタリア形式を表すために「イタラ」という用語を使っている。「古ラテン語訳」とは、ヒエロニュムスの翻訳以外のラテン語訳聖書で、ギリシア語を底本としているものを表すための今日的な名称である。その古ラテン語訳の個々の文書は章(capitula)に分けられ、数字とタイトル(brevis, titulus)が振られている。タイトルは赤文字(rubric)で書かれることが多い。このシステムはヒエロニュムスは採用しなかった。福音書とパウロ書簡の古ラテン語訳には序文が付されていた。福音書は反マルキオン主義の序文やモナルキア主義の序文、パウロ書簡はマルキオン主義の序文に依拠していた。

福音書の順序はヒエロニュムスの改訂が受け入れられるまでさほど広まっていなかった。北イタリアではマタ・ヨハ・ルカ・マコ、5世紀の偽テオフィロスの福音書注解ではマタ・マコ・ヨハ・ルカ、クラロモンタヌス写本ではマタ・ヨハ・マコ・ルカ、何人かの教父たち(アンブロシアステル、ヒエロニュムス、アウグスティヌスら)はマタ・ルカ・マタ・ヨハ、初期の教父たち(テルトゥリアヌス、ペタウのウィクトリヌス)はヨハ・マタ・ルカ・マコという順番があった。

ヒエロニュムスは注解や翻訳をするたびに序文を書いて、自分の翻訳方法などの情報を提供している。翻訳の順番としては、まず福音書の改訂から始めた。このとき参照したギリシア語写本は有力大文字写本ではなく、アンティオキアのコイネー版だった。底本としたラテン語訳写本はイタリアのb ff2 qグループであった。次に詩篇を手がけたが、ローマ詩篇については何も分かっていない。ヘクサプラ改訂版に基づくギリシア語からのラテン語訳詩篇は、校訂記号が付されている。このときはソロモンの書、ヨブ記、歴代誌も手がけた。その後のヘブライ語からの翻訳は、預言書とヨブ記から始めた。ヒエロニュムス自身は自分の翻訳をまとまったかたちで発表することはなかった。文書ごとに個別のコーデックスのかたちで回覧されていた。

翻訳方法としては、アクィラやシュンマコスのギリシア語訳を非常にしばしば参照し、キケロー的散文と古ラテン語訳的逐語訳の中間の文体を作った。ヘブライ語聖書に伝わっておらずギリシア語聖書にしかない文書は翻訳対象としなかった。福音書の改訂は教皇ダマススに捧げられているため、ヒエロニュムス自身も大きな権威と持つようになった。ヒエロニュムスの福音書にはエウセビオスの対観表も付されていて便利なので、彼の生前からよく写されるようになった。写本はイタリアからアルプスを越えて、イングランドにまで広まった。

ヒエロニュムスは新約聖書全体を翻訳したと3箇所で述べているが、疑わしい。というのも、福音書以外の文書への序文を書いていないから、自分自身の改訂・翻訳を引用していないから、そして福音書以外の文書の特徴が福音書と異なるからである。少なくともパウロ書簡の改訂とその序文については、シリア人ルフィヌス(ヒエロニュムスの弟子の一人だったが、ローマのペラギウス派の有力者でもあった)の手になるものと考えられる。序文がない使徒行伝、公同書簡、黙示録についてもルフィヌスに帰することができるかもしれない。しかしながら、最終的には新約聖書すべてが大きな権威を持つヒエロニュムスのものと考えられるようになった。旧約新約共にヒエロニュムスのものとされるようになった最初の証拠は、サン=ジェルマン=デ=プレ聖書の署名欄に見られる。

ヒエロニュムスのヘブライ語に基づく旧約翻訳は重視されるようになったが、ヨブ記、ソロモンの書、詩篇などについては、ヘクサプラのギリシア語テクストからの訳がアフリカやガリア南部などで、主に礼拝の場で広く用いられ続けた。

ヘブライ語からの翻訳が古ラテン語訳と混合することがあった。そもそもヒエロニュムス自身がエステル記のヘブライ語からの翻訳にオベロス記号を付し、そこにギリシア語からの翻訳を加えている(逆にルフィヌスが古ラテン語訳にヘブライ語から文章を付加したものもあった)。七十人訳の方がヘブライ語より長いサムエル記のヒエロニュムスの翻訳にも、古ラテン語訳からの付加が見られる。箴言については、ペレグリヌスなる人物がヒエロニュムスのヘクサプラ改訂版に古ラテン語訳の訳文を付け加えたことが知られている。

5~6世紀になると、詩篇や雅歌といったテクストは礼拝に重要なものとなった。詩篇については、ヘブライ語からの翻訳ではなく、ヘクサプラ校訂版に基づくガリア詩篇が礼拝で用いられた。600年以前の詩篇写本としては、サン=ジェルマン詩篇、エジプト出土のパピルス、リヨン詩篇などがある。古ラテン語訳には詩篇151篇が含まれていたが、ヒエロニュムスのヘブライ語詩篇にはなかった。

ギリシア語とラテン語のバイリンガル聖書も作られた。有名なベザ写本をはじめ、クラロモンタヌス写本(5世紀後半、イタリア南部)、エジプト・アンティノオポリスの断片、リベル・コンモネイ(6世紀半ば)、ヴェローナ詩篇(7世紀、イタリア北部)などがそうである。福音書とパウロ書簡については、ゴート語とラテン語のバイリンガル聖書も5世紀末から6世紀にかけて作られた。

アウグスティヌスが使った聖書としては、詩篇とパウロ書簡についてはイタリアから持ってきたイタラ訳だったことが分かっている。ヒッポを出てどこかで説教をするときには、その土地土地の聖書を用いた。ヒエロニュムスの仕事については次第に知るようになった。とりわけ、ヘブライ語に基づく翻訳よりも、七十人訳に基づく改訂を称賛し、すべてを所有しようとヒエロニュムスに書簡を送った。

その後の重要な証言としては、ギルダスによる引用がある。ギルダスは旧約についてはヒエロニュムスの新訳を重視したが、いくつかの旧約文書や新約文書については古ラテン語訳を使い続けた。カッシオドルスはヒエロニュムスの翻訳が一冊のpandectに写されるように依頼しつつ、「アウグスティヌスによる」聖書と彼が呼ぶ古ラテン語訳も用いた。

ギリシア語聖書の歴史は、このように、ラテン語訳聖書の歴史を知らずしては語れない。古ラテン語訳はラテン教父たちにとっては聖書そのものだった。彼らの聖書注解を正確に理解するためには、我々はヘブライ語から得た読みをときに忘れなければならない。600年頃の時代には、ヒエロニュムスの翻訳は完全な権威を持っていたわけではないが、その重要性は明らかなものだった。

2020年8月7日金曜日

アブラハムとロトの別れ(6) Rickett, Separating Abram and Lot #6

  • Dan Rickett, Separating Abram and Lot: The Narrative Role and Early Reception of Genesis 13 (Themes in Biblical Narrative 26; Leiden: Brill, 2020), 158-88.

本書は次の3つの問題を扱っているものだった。第一に、ロトがアブラムの潜在的な後継者であり、また敬虔なアブラムに対する不敬虔な相手という読みは妥当なのか。第二に、こうした読みはどこから来るのか。そして第三に、こうした読みが適切でないなら、では創世記13章とロトの目的や機能はどのように理解されるべきなのか。

第一と第二の問いに対しては回答済みなので、第6章はこの第三の問いに答えている。著者は、創世記における他の「兄弟」物語と比較することで、アブラハム物語全体や創世記13章におけるロトの機能を分析している。後継者としてのロトの問題は、アブラムの息子探しに関係している。15章に出てくるダマスコのエリエゼルや17章に出てくるイシュマエルははっきりと「後継者」として明言されているが、ロトはそうではなく「兄弟」と呼ばれている。そしてこの「兄弟」性は「別離」と分かちがたく結び合っているというのが著者の見立てである。というのも、神の約束は兄弟たち皆のためのものではなく、兄弟たちのうち一人と、その後継者たちのものだからである。つまり、ある者と別の者が「兄弟」である限り、その者たちは一緒に住むことはできず、必ず「別れ」なければならない。

創世記における「兄弟」物語として、著者はカインとアベル、ノアとその子たち、イシュマエルとイサク、ヤコブとエサウ、ヤコブとラバン、ヨセフとその兄弟たちなどを取り上げる。これらとアブラムとロトの挿話の共通点としては、どれも「兄弟(アハ)」という親族関係を表す語を用いつつ、関係上の「繋がり」と共に、そのあとに来る「別れ」を示しているという。つまり、「兄弟性」と「別離」という二重のテーマがどの挿話にも含まれているわけである。兄弟たちは一緒に住むことはできない。彼らは別れなければならない。

著者によれば、これらの中でもアブラムとロトの挿話との最も明確な並行関係は、ヤコブとエサウの挿話(創世記36章)にあるという。どちらの挿話でも、第一に、土地は二つの家族を支えることができないと言われており、第二に、エサウもロトも非常に裕福であり、第三に、両者はそれぞれの「兄弟」から離れたところに住み、そして第四に、両者はその兄弟から別れた。エサウはヤコブと兄弟関係のつながりを持っているが、神の約束を継ぐのはヤコブとその子孫だけなので、エサウは去らねばならない。その後ヤコブはエサウと友好的な再会を果たすが(33章)、ロトもまたアブラムに救われ、彼との再会を果たす(14章)。しかしこの再会も長くは続かない。兄弟たちは一緒にいることはできないからである。兄弟であることは、子孫であることに比べれば他人である。このように創世記の他の「兄弟」物語と比較することで、アブラムとロトの挿話で真に問われているのは「兄弟」性であることが分かる。それと同時に、エサウやロトらのような「選ばれなかった兄弟たち」は、必ずしも悪の存在ではない。彼らはヤコブやアブラムと異なり、肯定的な性質も問題のある性質も併せ持つ曖昧な存在なのである。

そしてロトは、実際にはアブラム甥であるにもかかわらず、亡くなった父ハランの代わりにこのような「兄弟」の役割を担わされている。創世記によれば、アブラムにはハランとナホルという兄弟がいたことになっている。アラム人の系譜の父祖であるナホルは、ミルカの夫であることしか知られず、おそらくはカナンへの移住時にも付いてきていない。ハランは、神の約束がアブラムと結ばれるより先に「父テラの前で死んだ」(11:28)。ロトが父ハランの代わりとされていることは、ハランではなくロトこそがモアブ人とアンモン人の父祖とされていることからも見て取れる。

以上より、創世記13章におけるロトは、アブラムの潜在的な後継者でもなければ、彼の倫理的な対応相手でもない。ロトの主要な役割は「選ばれなかった兄弟」である。「後継者=子孫」ではなく「兄弟」であるがゆえに、ロトはアブラムと神の約束の対象者ではなく、関係的にも地理的にもいわば「外部の者」となる。そしてロトは、創世記の「兄弟」物語の例に漏れず、アブラムと共に同じ土地に住むことはできず、「別離」を選ばざるを得ないのである。