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2020年9月7日月曜日

ラテン語詩篇について Gross-Diaz, "The Latin Psalter"

  • Theresa Gross-Diaz, "The Latin Psalter," in The New Cambridge History of the Bible 2, ed. Richard Marsden and E. Ann Matter (Cambridge: Cambridge University Press, 2012), 427-45.

150篇を数える詩篇は中世のさまざまな人々にとって同様に、聖書の中でも最も重要な文書である。修道者にとってそれは祈りの基礎であり、観想の導きであった。教会作家にとっては新たなアイデアを試す主要テクストであった。また説教者にとっては説教を構成するための汲めども尽きせぬハンドブックであった。詩篇は説教や礼拝における口頭で聴くものばかりか、本として所有するものだった。

詩篇について強調するべきは、第一に、他の聖書文書についてはヒエロニュムスのヘブライ語に基づく翻訳が徐々に受け入れられていったのに対し、詩篇についてガリア詩篇が優先された。第二に、ガリア詩篇のテクストは中世において完全に安定してはいなかった。

ヒエロニュムスは3種類の詩篇を作った。最初に作成した古ラテン語訳の改訂はいわゆる「ローマ詩篇」であり、ピウス5世の時代までローマで、ヴァティカヌス2世の時代までサン・ピエトロ寺院でも用いられたものだと見なされてきたが、De Bruyneの研究以降これは否定されている。第二の詩篇である「ガリア詩篇」は、オリゲネス『ヘクサプラ』に基づき既存のラテン語訳を改訂したものである。第三はヘブライ語テクストに基づいた翻訳であるが、実際にはヘブライ語テクストだけでなく諸ギリシア語訳にも多くを負っている。これは研究と論争(特にユダヤ人との)のために作った翻訳だった。

ローマ詩篇は8世紀までにヨーロッパに広がった。これはベネディクト派の修道制の伝播と軌を一にしている。このためローマ詩篇は修道的な礼拝に深く影響を及ぼした。逆に礼拝において音楽に乗せて歌われたため、ローマ詩篇のフレーズが保存されることになった。スペインではローマ詩篇ではなく、類似テクストである「モサラベ詩篇(Mozarabic psalter)」が、またミラノでは「アンブロシウス詩篇(Ambrosian psalter)」が支配的だった。しかし、カロリング朝下での礼拝と聖書の改革によって、ローマ詩篇はその支配的立場から退くことになる。

ヒエロニュムス自身はヘブライ語詩篇こそが最も正確だと自負していたが、中世ヨーロッパにおいて最終的に支配的だったのはガリア詩篇だった。これはカロリング聖書にこれが収録されたためである。ただし、オルレアン司教テオドゥルフのように、正確なテクストに基づく正しい礼拝を求めたカロリング朝の政治的・教育的な宗教改革の担い手のうちには、ヘブライ語詩篇を採用した者もいた。

アルクインは七十人訳に基づく詩篇を求めた。これはカール大帝の宮廷でもそうだったし、のちに有名な写字室を持ったトゥールでもそうだった。そしてそれゆえに、アルクインが採用した詩篇はガリア詩篇と呼ばれるようになったのである。ただし、アルクインの聖書は本文批評については適切でなく、学術的な観点からテクストを校訂したものではなかった。ヒエロニュムスのオベロス記号やアステリスコス記号もほとんど保存していない。

アルクインがガリア詩篇を自分の聖書の詩篇に選んだ理由はよく分からない。ガリアにおいてもローマ詩篇が長く支配的だった。しかもカロリング詩篇が詩篇の選定と順番について従っているカンタベリーの8世紀のウェスパシアヌス詩篇(Vespasian Psalter)は、ガリア詩篇ではなくローマ詩篇である。ここからアルクインによるガリア詩篇への偏愛は偶然ではなく意図的だったと言えるだろう。

ガリア同様、イングランドでもローマ詩篇は支配的だったが、アイルランドでは影響力はなかった。アイルランドでは600年頃に古ラテン語訳からガリア詩篇に変わったことが知られている。同時にアイルランドではヘブライ語詩篇も知られていた。カール大帝の宮廷ではアイルランドの学者からの影響力が大きかったので、アルクインもガリア詩篇を重視したのではないかと論文著者は論じている。

11世紀になるとガリアからイングランドにガリア詩篇が輸入され、Eadwine Psalter(12世紀、カンタベリー)からも分かるように、他の版を圧倒するようになった。同時にガリア詩篇はガリアからスペインにも紹介されただけでなく、ローマやイタリアに再び戻ってきた。ラツィオで作られた「アトランティック聖書」は、カロリング朝の理想に則るかのようにガリア詩篇を採用している。アルクインによるガリア詩篇の選択は中世を超えて現代にまで影響を及ぼした。今でも詩篇の番号がヘブライ語と異なるのはこのためである。またガリア詩篇はパリ聖書を通じてグーテンベルクの印刷聖書にまで続いている。

カロリング朝のあとにもガリア詩篇は大きな影響力を持ったが、一方でテクストの正確さを追求する精神も続いていた。詩篇は神の言葉なのであるから、その神聖な言葉を正しく知りたいと考えたのである。12世紀のシトー会のステファン・ハーディングは、ユダヤ人の助けを借りてガリア詩篇を改訂した。シトー会のニコラス・マンジャコリアもローマでユダヤ人と共に3種類の詩篇を比較検討し、ヘブライ語詩篇が最も優れていると評価した。これらシトー会の修道士たちによる詩篇改訂の機運は、詩篇という礼拝の中心テクストに対する修道的な観点からの関心によるものである。

13世紀になると「パリ聖書」に代表される本文批評の試みも生まれた。ロジャー・ベーコンに言わせると、パリの者たちの聖書テクスト選択は恣意的で、単一のテクストをほしい学者たちのニーズに合わせたものにすぎなかったという。確かにパリ聖書のテクストは完全に正確でも安定的でもない。ただし、サン・シェールのヒューゴーやウィリアム・デ・ラ・メアら多くのcorrectoresによる科学的な観点からの批判が加えられた。彼らはヒエロニュムスの3種類の版、古ラテン語訳、教父やカロリング期の注解のレンマなどを比較し、カテーナ形式で自分の発見を記録した。

修道者たちは世俗の教会よりも多くの時間を祈りに使うことができたので、詩篇を朗読することは聖務日課の基礎となった。とりわけ、一週間で詩篇全篇を朗誦するベネディクト会の修道制が盛んになったので、その方法が基準となった。特定の詩篇(66, 148-150など)は毎日朗誦され、別のものは特別の祭日や特定の礼拝においてのみ朗誦された。また詩篇を朗誦することは敬虔さの証とも見なされた。

平信徒の詩篇に対する関心も高かった。9世紀のある富裕な家族は家族全員が詩篇を本で持っていたという。また中世の終わりにもなると、一般的な人々が競って詩篇を所有しようとしていた。彼らはラテン語と英語が併記された詩篇を読んでいたようだが、ここから平信徒であってもラテン語を一部理解していた可能性が示唆される。また平信徒にとっての詩篇朗誦は、何らかの罪を犯したときの厳しい罰の代わりの温情として機能することもあった。たとえば、本来であれば一年間パンと水しか口にできないところを、詩篇の150篇を三日三晩朗誦することで許されたのである。

修道士たちのものであれ平信徒たちのものであれ、詩篇は聖書の一部(三部あるいは五部に分けられてパンデクトの中に収められる「聖書的詩篇(biblical psalter)」としてよりも、礼拝のテクスト一式として見なされていた(「礼拝的詩篇(liturgical psalter)」)。とりわけ詩篇6, 31, 37, 50, 101, 129, 142篇は「7つの改悛詩篇」として特別な位置を占めていた。このように詩篇の祈祷書は、修道者と世俗の平信徒によって聖務日課のために用いられた礼拝的詩篇のハイブリッドだった。

中世を通して、詩篇は修道院や大聖堂における共同の礼拝の書であり、個人の祈りや平信徒の信心の導きであり、教養を教え芸術的な観念の霊感となるテクストであり、神学者や説教者の汲めども尽きせぬ源泉だった。

2020年9月5日土曜日

13世紀のパリ聖書 Light, "The Thirteenth Century and the Paris Bible"

  • Laura Light, "The Thirteenth Century and the Paris Bible," in The New Cambridge History of the Bible 2, ed. Richard Marsden and E. Ann Matter (Cambridge: Cambridge University Press, 2012), 380-91.

13世紀は中世の聖書の歴史にとって3つの意味で根本的な発展の時代だった。第一に、写された聖書の数、第二に、ほとんどの聖書がパンデクト(一冊本)だった、第三に、新しい形式であるポータブル聖書が登場した。ここからわかるように、この時代に聖書は、教会関係者や金満家らといった個人に所有されるようになったのである。パンデクトが作られるということは、聖書が様々な文書のよせあつめではなく統一的な全体と見なされるようになったということである。そしてそうした聖書の全体性は、単語をアルファベット順に並べた辞書やコンコルダンスといったツールで検索するという意識を生んだ。

13世紀の聖書フォーマットは2つに区分できる。第一に、1200-30年には大きめのパンデクトの数が増えた。テクストは小さな文字で行間を詰めて書くことにより、欄外の面積が増えて、そこに書き込みをするようになった。ポータブル聖書もあったが、技術的にすべてのテクストは書けず、大幅な省略もされた。

第二の時期は1230年以降で、ポータブルな「ポケット聖書」が発明された。これは極めて薄い羊皮紙や小さく圧縮されたゴシック文字が開発されたことで可能になった。ポケット聖書は国際的な現象で、フランス、イングランド、スペイン、イタリアなどで見つかっている。こうした小さな聖書は旅をする辻説法師にぴったりだった。

13世紀のさらなる偉大な成果が「パリ聖書」である。これは北フランス、特にパリで写された聖書のひとつのタイプである。強調すべきは、この用語が指すのはあくまで一般的なテクスト・タイプであって、聖書の物理的な形式ではない。つまり、パリ聖書にはポケット聖書もあれば大型写本もあり、分冊もあればパンデクトもあり、また高価な装飾写本もあれば質素な即物的な写本もあった。

パリ聖書は1200年以前の写本には見出されない新しい順序で聖書文書が配置している。詩篇はガリア詩篇を採用した。聖書テクストと共に64もの序文を収める。多くはヒエロニュムスによる序文だが、さまざまな来歴の序文もある。さらに6つの新しい文章をも序文として収録している。(1)ヒエロニュムス『コヘレト書注解』序文、(2)不詳の著者のアモス書への序文、(3・4)ラバヌス・マウルスによる『マカベア書』への序文、(5)ヒエロニュムスの福音書注解への序文を短くしたマタイ福音書への序文、(6)黙示録への序文である。

パリ聖書の章分けは伝統的にステファン・ラングトンに帰されるものだが、この章分けシステムは実はラングトンによる発明ではなく、既存のシステムが彼によって奨励されたものである。章による聖書テクストの区分は古くからあったが、さまざまな異なったシステムが使われてきた。1225-30年にもなるとラングトン・システムが一般的になり、一方で古いシステムと密接に関係しているエウセビオスの対観表や要約(capitula)はなくなっていった。節による区分はかなり新しく、16世紀になってからである。

パリ聖書の聖書部分のあとには、ヒエロニュムスの著作に基づくが大幅に改訂・増補された『ヘブライ語の名前説明(Interpretatio hebraicorum nominum)』が付された。これは聖書中のヘブライ語名の説明をアルファベット順に並べたものである。1230年以降の聖書に見られる。

パリ聖書の起源は、1200年頃にウルガータを大幅に改訂したプロト・パリ聖書にある。これは聖書文書の新しい順番や新しい序文を含むが、古い章分けがなされており、『ヘブライ語の名前説明』は収録されていない。これが1230年頃になってより成熟したパリ聖書となる。ただしこれら2種類のパリ聖書の実際のテクストについての知識は不完全である。というのも、現代のウルガータ編纂者たちはヒエロニュムスのテクストにとって重要なより古い写本に関心を持つからである。

19世紀の学者たちはパリ聖書のことをパリの神学者たちの公式聖書だったと考えていたが、そうした主張を裏付ける文書上の証拠はない。論文著者は、むしろ当時の商業的な書籍売買の文脈で、神学の学生や教師がパリの本屋から聖書を委託されたのではないかと述べている。通説の典拠としてよく引用されるロジャー・ベーコンの『オプス・ミヌス』(1266-7年)には、パリの多くの神学者や本屋が聖書の写しを出版した旨が書かれている。ベーコンによれば、本屋は注意深くなく知識も欠いているので、この写しのテクストは劣化しており、それをさらに写すことでよりひどくなったという。そして神学者たちがそれを直そうとしたが、統括する者がいなかったので好き勝手に修正する羽目になったとベーコンは主張している。ここから分かるように、ベーコンはパリ聖書がパリの学派の公式聖書だとは言っていない。むしろ重要なのは中世の本文批評の様子が描かれていることである。中世の釈義家たちもテクストの異読に気づいていた。

パリ聖書は初期の印刷聖書の直接の祖先となる。グーテンベルク聖書もシクストゥス=クレメンス聖書もそうである。それゆえに、パリ聖書の現代世界への影響力は相当なものといえる。

2020年9月4日金曜日

カロリング朝のラテン語聖書 Ganz, "Carolingian Bibles"

  • David Ganz, "Carolingian Bibles" in The New Cambridge History of the Bible 2, ed. Richard Marsden and E. Ann Matter (Cambridge: Cambridge University Press, 2012), 325-37.

カロリング朝時代、とりわけカール大帝の治世768-814年には聖書テクストに関する議論、たとえば正しいテクストや校合などに関する議論が盛んになった。この時代以前にもノーサンブリアのモンクウェアマウス=ジャロウ修道院で6世紀にカッシオドルスのために作られたCodex grandior(のちにケオルフリースのために3つの複製が作られ、そのうちのひとつがアミアティヌス写本として残る)のような一冊本は存在したが、パンデクトがより一般的になるのは9世紀以降のことである。

この時代には特定の日に福音書やパウロ書簡の一部が礼拝において朗誦されており、読む箇所のリストも存在した。村落の教会には聖書そのものが置かれていたのではなく、司祭はミサ用のの聖句集を用いて説教をした。

この時代、大聖堂や修道院においてもまだ分冊の聖書が読まれていた。スイスのザンクト・ガレン修道院における9世紀のウェルド修道院長による写本、ハルトムート修道院長による「ハルトムート聖書(大と小)」、グリマルド修道院長による写本などがそれに当たる。ザンクト・ガレン以外では、福音書と詩篇以外の文書はほとんど残っていない。福音書写本には、ヒエロニュムスによるダマスス宛書簡、エウセビオスの対観表、章分けの表などが付されていた。

一方で、聖書文書すべてを含む一冊本や二冊本(パンデクト)も登場するようになった。最初の大きな版のパンデクトはメスの大司教アンギルラムのために791年より少し前に作られたものと考えられる。それより少し後には、オルレアンのテオドゥルフのパンデクト(携行可能な小さなもの)がある。これは聖書の時系列や解釈に関するテクストも含んだもので、聖書テクストはヘブライ語に基づく修正を経たイタリアの写本に由来する。

9世紀になると、トゥールにおけるサン・マルタン修道院やマルムーティエ修道院の写字室で、アルクインの指導のもと、一冊本が作られるようになった(そもそも一冊の聖書をパンデクトと呼んだのがアルクインその人であった)。アルクインの修正は文法的・様式的な部分に留まり、テクスト自体を編集することはなかった。それゆえに正字法もあまり確立していなかった。

トゥールの聖書は18の完全な写本と28の断片が現存する。ここからトゥールでは少なくとも年間2つの聖書が写されていたことが分かる。聖書の筆写は公の場での朗誦のためになされていたが、詩篇と福音書に関しては単独で写された。聖書の各文書は大きな装飾付の頭文字で始まる。文書のタイトルはしばしばローマの碑文のような優雅な大文字で書かれ、またテクストのセクションの冒頭などでは赤文字が使われた。

B. Fischerによると、トゥール聖書の時系列はテクストからは分からないという。というのも、写字室では複数の写本が同時に制作されていたので、それぞれの写本は同じ手本に基づいていないからである。聖書文書の順番や序文の有無などもまちまちである。共通しているのは、ヒエロニュムスの序文(ときに『書簡53』も)を含むこと、ガリア詩篇を収録していること、さまざまな文書の章分けのリストがあることである。

トゥールの聖書は重要な人物たちへの贈り物だった。たとえば皇帝やその親類、また大きな宗教的な施設の長たちである。写字生の数は写本によって異なるが、だいたい10数人いたのではないかと考えられている。写字生のうち名前が分かっている者たちとしては、アマルリクス、ヒルデベルトゥスなどがいる。彼らは作業効率を上げるために、手本の写本のページを外せる場合は外し、同時に作業をした。作業が終わると1丁(表裏2頁)ごとにチェックし、REQ(requistium est)というマークを書いた。

一冊のパンデクトを写すという点で、アルクインやテオドゥルフは発明者といえる。パンデクト制作はパリやコルビーなどさまざまな地域に広まっていったが、アルクインのテクストはその土地のテクストを修正するのに使われたのであって、それ自体が権威を持ったわけではなかった。アルクイン自身も自分で聖書を引用するときや注解を書くときには、トゥールの聖書を使わなかった。

12世紀になると、分冊の聖書には各節に関する教父たち(たとえば大グレゴリウス、オリゲネス、ヒエロニュムス、クリュソストモス、フラバヌスなど)の重要な注解が写された「注釈付聖書(glossed Bible)」が多く使われるようになるが、この形式が最初に表れたのもカロリング期である。とりわけ詩篇、福音書、パウロ書簡にこの形式が多い。ラテン語の注釈のみならず、10世紀の古高地ドイツ語の注釈も見つかっている。さらに詩篇、福音書、パウロ書簡には、ギリシア語とラテン語の対訳写本も作られた。

こうした聖書のみならず、アウグスティヌスの『詩篇注解』やグレゴリオスの『ヨブ記注解』なども大聖堂や修道院の図書館の必需品となった。オリゲネス、クリュソストモス、カッパドキア教父たちの聖書解釈のラテン語訳も広く写された。テオドゥルフやフラバヌスらは聖書テクストに関してユダヤ人の協力を得ていたことも知られている。

カロリング期には完全な一冊本のみならず、分冊本、福音書写本、聖句集などさまざまなものが筆写されていた。これはこの時代に、礼拝や職務日課などでの聖書朗読が定着し、序文が付され章分けされた聖書が広く手に入るようになってきたことがその理由である。

2020年8月30日日曜日

ラテン語訳聖書の歴史(900年~トレント公会議まで) Van Liere, "The Latin Bible, c. 900 to the Council of Trent, 1546"

  •  Frans van Liere, "The Latin Bible, c. 900 to the Countil of Trent, 1546," in The New Cambridge History of the Bible 2, ed. Richard Marsden and E. Ann Matter (Cambridge: Cambridge University Press, 2012), 93-109.

10世紀以降の聖書写本に関する組織的研究は少ない。この論文はカロリング・ルネッサンス以降のラテン語訳聖書の本文史を概観するものである。1592年のシクストゥス=クレメンス版に取って代わる編纂プロジェクトとしては以下のものがある。1889年から1954年にかけて、John WordsworthとHenry Whiteがウルガータの新約部分の校訂版を出版した。1907年に教皇レオ8世にウルガータの旧約部分の校訂版作成を委託されたベネディクト会は、ローマのサン・ジローラモ修道院で作業を始めた。彼らは1926年に第一巻を出し、1994年にすべてを完成させた。

Dom Henri Quentinによると、旧約校訂版の編纂原理は、ヒエロニュムスが5世紀に見たとおりのウルガータ本文を作るというもので、そのために900年以降の写本は信頼できないと見なした。彼が重視した写本伝承は、アルクイン型(アミアティヌス写本)、テオドゥルフ型(オットボニアヌス写本)、スペイン型(トゥロネンシス写本)である。イタリアの2種類(アトランティック聖書やモンテ・カッシーノ修道院のベネヴェント写本)は、これらより後代のもので、重要性に関しても劣る。

900年以降のウルガータ本文の研究においては、パリのアトリエで制作された装飾写本の研究には蓄積があるが、実際のテクスト伝承についてはあまりよく知られていない。福音書についてだけはHans Hermann Glunzの浩瀚な研究があり、それによると12~13世紀のウルガータ本文は、初期の写本に基づいた校訂版よりも、15~16世紀の印刷版により似ているという。つまり、900~1500年という時代はウルガータのtextus receptusの成立を知るために特別なものということである。

中世のテクストというと、写字生の間違いやテクストの変更などによって劣化していったという印象が強いが、写字生たちの意図は、Vorlageや教父引用、さらにはヘブライ語やギリシア語の原典と比較することで、正しいテクストを作ることにあった。その結果もともとあった多様性が失われることもあった。こうした複雑さゆえに系統図は仮説の域を出ない。

900~1500年にかけての時代は、ウルガータのテクスト伝承を語ることはできず、むしろ「スコラ的ウルガータ(scholastic Vulgate)」とGlunzが呼ぶような新しいテクストの形成を語るべきである。つまり、聖書テクストをただ筆写するだけでなく、写字生が積極的にテクストを評価し、それを向上させるのである。ベックのランフランクスはまさにそうしたことをした人物だった。彼はさまざまなコーデックスを比較して聖書テクストを定めただけでなく、正統的な信仰に基づいてテクストを修正したのである。こうした試みは当然ながらテクストの汚染を招いた。

この時代の聖書筆写は、「修道院改革(monastic reform)」と「スコラ的運動(scholastic movement)」と関係している。修道院改革では、聖書は特定の修道院における共同使用のための手本として使われることが前提とされていた。たとえばシトー会修道院長ステファン・ハーディングの4巻聖書がその代表例である。彼は写本の古さに依拠したり時にはユダヤ人の専門家の助けを借りてテクストを修正し、さまざまなテクスト伝承を混ぜ合わせた。同じくシトー会のマニアコリアのニコラスもヘブライ語の知識を駆使して詩篇に関する論文を書いた。

Quentinは重視しなかったが、イタリアのアトランティック聖書は11世紀のグレゴリオ改革と関係がある。この改革は司教座と修道院の結びつきを強め、また大きなパンデクト形式の一巻本の聖書を作成することを常とした。この改革下(11~12世紀)での聖書作りの中心はローマだったが、写本はスタヴロ、ザルツブルク、カンタベリー、ダラムにも広まった。改革者たちはこうした聖書作りにおいて普遍教会の信仰における統一を求めて、よく校合されたテクストを作成しようとした。そこで写字生らは、アルクイン、テオドゥルフ、そしてスペインの写本伝承を比較し、アミアティヌス写本にも頼った。特徴としては、ローマ詩篇やヘブライ語詩篇の代わりにガリア詩篇を収録し、またアポクリファも含んだ。

スコラ的運動の中心地のひとつは、ランフランクスが聖書を作成したベックをはじめ、ランス、オセール、フルーリー、ランなどがある。このうちランでは、ランのアンセルムス(およびその兄弟ランのラルフス)が中世における最も影響力の大きな注解である『グロッサ・オルディナリア(Glossa ordinaria)』を作成した。これは教父たちの解釈を欄外や行間に書き込む形式の注解である。個々の聖書文書のグロスは、異なった時代に、異なった作者によって、異なった場所で作成された。12世紀になると、こうしたグロス聖書の中心地はパリになった。

Glunzによれば、ウルガータ聖書の形成に当たっては、修道院改革の運動よりもこうしたスコラ的グロスの運動の方が影響力が大きかったという。修道院改革ではテクストについては保守的で、これを変更するようなことはなかったが、スコラ的聖書解釈ではテクストはそれが意図する意味に準じるとされた。それゆえに後者ではテクストを教父的解釈や神学的意味に当てはめて書き換えることがあったのである。こうしてアミアティヌス写本やアルクインの改訂などには見られないが、より後代の印刷版には見られるような特定の読みが出てきた。

こうしたGlunzの見解には反論もあるが、中世後期のウルガータ本文の形成段階は1100年から1150年の間に起きたことは確かである。サン・ヴィクトル学派の聖書はその代表例である。サン・ヴィクトル修道院のヒュー、リカルドゥス、ペトルス・コメストル、アンドリューらは多くの聖書解釈をものしたが、よくあるウルガータ本文とは異なった読みを提供するために、『オルディナリア』をはじめ、他のコーデックス、ヘブライ語テクスト、古ラテン語訳なども参照した。

QuentinやJ.P.P. Martinらによると、13世紀にパリ大学の神学者たちによって選別された公式聖書である「パリ聖書」ができたという。一方でGlunzらはこれは「公式」ではなく、単にパリでよく手に入れることができた聖書にすぎないと主張した。「パリ聖書」という用語は、Quentinが「an exemplar Parisiense」と呼ぶ仮説的なテクストを指したり、13世紀の中ごろにパリで作られた聖書のことを指したりする。パリ聖書はアポクリファを含むパンデクトで、ヒエロニュムスの序文やヘブライ語の名前の辞典を収録している。また13世紀のカンタベリー大司教ステファン・ラングトンによる章分けがなされている(節分けはまだされていない)。

13世紀のパリ聖書は商業的に生み出され、パリの学生たちや托鉢修道会(ドミニコ会やフランシスコ会)の修道士の間で人気があった。特徴としては、フォーマット上の統一性に対しテクスト上の多様性が挙げられる。後者の特徴は印刷技術が生み出されるまではよくあることだった。いわゆるパリ聖書以外にも、2巻本(2巻目は箴言から始まる)や多巻本(グロスつき)もあれば、収録される文書の違いやや同じ文書でも版の違いなどがあった。

パリ聖書は人気があったのでテクスト改訂や異読欄が必要とされた。オックスフォードのフランシスコ会のロジャー・ベーコンは、パリ聖書は専門的な写字生ではなく、平信徒の雇われ写字生によって筆写されたものだと述べている。こうしたテクスト上の問題を解決するために、少なくとも5つの訂正表(correctoria)が作られた。15世紀のヴィンデスハイムではパリ聖書とより古いカロリング期の写本を比較して本文を作る試みも行われた。

最初の印刷されたウルガータ聖書は、1452-6年にマインツでヨハンネス・グーテンベルクによって印刷された2巻本である。これは平信徒による聖書所有の希望によってできたものである。章の分け方はラングトン方式が採られた。その後各地で印刷された聖書(マインツ1462年、バーゼル1474年、ヴェネツィア1475年、バーゼル1479-89年、バーゼル1491-5年)のテクストは、古い写本ではなく最初のグーテンベルク聖書に依拠している。

印刷聖書の登場は、本文批評を中心的な課題として当時急成長していた人文主義の台頭とも軌を一にしている。1522年のルターによる新約聖書のドイツ語訳は、ウルガータではなく、エラスムスによる1519年のギリシア語校訂版に基づいている(ルターの旧約ドイツ語訳は1532年)。ヘブライ語聖書の校訂版は15世紀末に、そして最初のラビ聖書はヴェネツィアで1516/17年に出版された。このようなヘブライ語とギリシア語原典に対する学術的な興味は、その忠実な翻訳とはいい難いウルガータの不足を強調した。

そこで原典に忠実なウルガータを作成するという試みも行われた。シスネロスのフランシスコ・ヒメネスは、ヘブライ語、アラム語、七十人訳、ウルガータの並行箇所を並べて、コンプルテンシアン・ポリグロット聖書を作った。ウルガータの最初の批判的改訂版のひとつは1530年のゴベリヌス・ラリディウスによるものだった。より重要なものとしては、サン=ジェルマンからの2つの9世紀の写本を校合し、ヘブライ語テクストとも比較したロベール・エティエンヌのものがある。

しかしながら、こうしたウルガータの校訂版は多くの宗教改革者たちにとって有効なものではなかった。ヒエロニュムスのウルガータはすでに西方キリスト教世界の唯一の聖書としての地位を失いつつあった。これを守るために、1546年4月8日のトレント公会議はウルガータを唯一の権威ある聖書と宣言した。そしてシクストゥス5世の命で1585年に新しいテクストを作り、1590年にいわゆるシクストゥス版として出版したが、強行自身のテクストへの介入により多くの間違いを含んでいたので、1592年にクレメンス8世がシクストゥス版をを改良したいわゆるシクストゥス=クレメンス版を公にした。

2020年8月25日火曜日

ラテン語訳聖書概説 Bogaert, "The Latin Bible"

  • Pierre-Maurice Bogaert, "The Latin Bible," in The New Cambridge History of the Bible 1, ed. James C. Paget and Joachim Schaper (Cambridge: Cambridge University Press, 2013), 505-26.

紀元600年までのラテン語聖書の歴史は、第一に、ギリシア語から翻訳された古ラテン語訳、第二に、ヘクサプラ的ギリシア語およびヘブライ語から翻訳されたヒエロニュムスの訳、そして第三に、初期の翻訳と新しい翻訳との合流に分けられる。

古ラテン語訳は、詳しいことはほとんど分かっていないが、2世紀の終わり頃にローマ属州アフリカで作られたと考えられる。最初のラテン語訳がイタリアではなくアフリカでできたことはやや驚きだが、当時の北アフリカにおけるラテン語のキリスト教文学の興隆(テルトゥリアヌスやキュプリアヌスら)を物語っている。北アフリカにはラテン語を話すユダヤ人共同体もあったので、彼らの助言があった可能性もある。

ギリシア語聖書のラテン語訳の歴史は、ギリシア語テクストと一致させるための改訂と、ラテン語テクストそのものの改訂から成っている。古ラテン語訳に関する我々の知識の源は、第一に、教父や中世文学の引用(場所と時代が特定しやすいが、問題としては、ウルガータに合わせた標準化、注解中の聖書引用は後代の付加、校訂者による聖書引用の誤同定の可能性がある)、第二に、古ラテン語訳が使われていた当時の写本(場所と時代は特定しやすいが、断片やパリンプセストのことが多い)、第三に、カロリング期あるいは中世の写本、第四に、ヒエロニュムス訳への付加、第五に、礼拝の式文、第六に、文中の短いタイトル(tituli)などに由来する。

古ラテン語訳は教父時代には独立した権威を持っておらず、あくまで霊感のある七十人訳に付随するものだったが、七十人訳の歴史に関する重要な証言でもある。テクストの種類としては、古アフリカ型(K)、アフリカ型(C)、古ヨーロッパ型(D)、イタリア型(I, J)、スペイン型(S)、ミラノ型(M)などがある。他の記号としては、ヘクサプラに基づくヒエロニュムスの翻訳(O)、ヘブライ語に基づく翻訳(H)、ウルガータになる型(V)がある。

ラテン語訳聖書あるいはラテン文学全般は巻物に書かれることはなく、いつもコーデックスに書かれた。4世紀前半になると、ギリシア語聖書は旧約と新約が一つの大きなコーデックスに写されるようになった(シナイ写本、ヴァチカン写本)。ラテン語聖書については、カッシオドルスがこうしたコーデックス聖書を「法典(pandect)」と呼ぶようになった。

教父たちにとっては、「ウルガータ」という名称はギリシア語聖書あるいはそのラテン語訳のことを指すものだった。アウグスティヌスは古ラテン語訳のイタリア形式を表すために「イタラ」という用語を使っている。「古ラテン語訳」とは、ヒエロニュムスの翻訳以外のラテン語訳聖書で、ギリシア語を底本としているものを表すための今日的な名称である。その古ラテン語訳の個々の文書は章(capitula)に分けられ、数字とタイトル(brevis, titulus)が振られている。タイトルは赤文字(rubric)で書かれることが多い。このシステムはヒエロニュムスは採用しなかった。福音書とパウロ書簡の古ラテン語訳には序文が付されていた。福音書は反マルキオン主義の序文やモナルキア主義の序文、パウロ書簡はマルキオン主義の序文に依拠していた。

福音書の順序はヒエロニュムスの改訂が受け入れられるまでさほど広まっていなかった。北イタリアではマタ・ヨハ・ルカ・マコ、5世紀の偽テオフィロスの福音書注解ではマタ・マコ・ヨハ・ルカ、クラロモンタヌス写本ではマタ・ヨハ・マコ・ルカ、何人かの教父たち(アンブロシアステル、ヒエロニュムス、アウグスティヌスら)はマタ・ルカ・マタ・ヨハ、初期の教父たち(テルトゥリアヌス、ペタウのウィクトリヌス)はヨハ・マタ・ルカ・マコという順番があった。

ヒエロニュムスは注解や翻訳をするたびに序文を書いて、自分の翻訳方法などの情報を提供している。翻訳の順番としては、まず福音書の改訂から始めた。このとき参照したギリシア語写本は有力大文字写本ではなく、アンティオキアのコイネー版だった。底本としたラテン語訳写本はイタリアのb ff2 qグループであった。次に詩篇を手がけたが、ローマ詩篇については何も分かっていない。ヘクサプラ改訂版に基づくギリシア語からのラテン語訳詩篇は、校訂記号が付されている。このときはソロモンの書、ヨブ記、歴代誌も手がけた。その後のヘブライ語からの翻訳は、預言書とヨブ記から始めた。ヒエロニュムス自身は自分の翻訳をまとまったかたちで発表することはなかった。文書ごとに個別のコーデックスのかたちで回覧されていた。

翻訳方法としては、アクィラやシュンマコスのギリシア語訳を非常にしばしば参照し、キケロー的散文と古ラテン語訳的逐語訳の中間の文体を作った。ヘブライ語聖書に伝わっておらずギリシア語聖書にしかない文書は翻訳対象としなかった。福音書の改訂は教皇ダマススに捧げられているため、ヒエロニュムス自身も大きな権威と持つようになった。ヒエロニュムスの福音書にはエウセビオスの対観表も付されていて便利なので、彼の生前からよく写されるようになった。写本はイタリアからアルプスを越えて、イングランドにまで広まった。

ヒエロニュムスは新約聖書全体を翻訳したと3箇所で述べているが、疑わしい。というのも、福音書以外の文書への序文を書いていないから、自分自身の改訂・翻訳を引用していないから、そして福音書以外の文書の特徴が福音書と異なるからである。少なくともパウロ書簡の改訂とその序文については、シリア人ルフィヌス(ヒエロニュムスの弟子の一人だったが、ローマのペラギウス派の有力者でもあった)の手になるものと考えられる。序文がない使徒行伝、公同書簡、黙示録についてもルフィヌスに帰することができるかもしれない。しかしながら、最終的には新約聖書すべてが大きな権威を持つヒエロニュムスのものと考えられるようになった。旧約新約共にヒエロニュムスのものとされるようになった最初の証拠は、サン=ジェルマン=デ=プレ聖書の署名欄に見られる。

ヒエロニュムスのヘブライ語に基づく旧約翻訳は重視されるようになったが、ヨブ記、ソロモンの書、詩篇などについては、ヘクサプラのギリシア語テクストからの訳がアフリカやガリア南部などで、主に礼拝の場で広く用いられ続けた。

ヘブライ語からの翻訳が古ラテン語訳と混合することがあった。そもそもヒエロニュムス自身がエステル記のヘブライ語からの翻訳にオベロス記号を付し、そこにギリシア語からの翻訳を加えている(逆にルフィヌスが古ラテン語訳にヘブライ語から文章を付加したものもあった)。七十人訳の方がヘブライ語より長いサムエル記のヒエロニュムスの翻訳にも、古ラテン語訳からの付加が見られる。箴言については、ペレグリヌスなる人物がヒエロニュムスのヘクサプラ改訂版に古ラテン語訳の訳文を付け加えたことが知られている。

5~6世紀になると、詩篇や雅歌といったテクストは礼拝に重要なものとなった。詩篇については、ヘブライ語からの翻訳ではなく、ヘクサプラ校訂版に基づくガリア詩篇が礼拝で用いられた。600年以前の詩篇写本としては、サン=ジェルマン詩篇、エジプト出土のパピルス、リヨン詩篇などがある。古ラテン語訳には詩篇151篇が含まれていたが、ヒエロニュムスのヘブライ語詩篇にはなかった。

ギリシア語とラテン語のバイリンガル聖書も作られた。有名なベザ写本をはじめ、クラロモンタヌス写本(5世紀後半、イタリア南部)、エジプト・アンティノオポリスの断片、リベル・コンモネイ(6世紀半ば)、ヴェローナ詩篇(7世紀、イタリア北部)などがそうである。福音書とパウロ書簡については、ゴート語とラテン語のバイリンガル聖書も5世紀末から6世紀にかけて作られた。

アウグスティヌスが使った聖書としては、詩篇とパウロ書簡についてはイタリアから持ってきたイタラ訳だったことが分かっている。ヒッポを出てどこかで説教をするときには、その土地土地の聖書を用いた。ヒエロニュムスの仕事については次第に知るようになった。とりわけ、ヘブライ語に基づく翻訳よりも、七十人訳に基づく改訂を称賛し、すべてを所有しようとヒエロニュムスに書簡を送った。

その後の重要な証言としては、ギルダスによる引用がある。ギルダスは旧約についてはヒエロニュムスの新訳を重視したが、いくつかの旧約文書や新約文書については古ラテン語訳を使い続けた。カッシオドルスはヒエロニュムスの翻訳が一冊のpandectに写されるように依頼しつつ、「アウグスティヌスによる」聖書と彼が呼ぶ古ラテン語訳も用いた。

ギリシア語聖書の歴史は、このように、ラテン語訳聖書の歴史を知らずしては語れない。古ラテン語訳はラテン教父たちにとっては聖書そのものだった。彼らの聖書注解を正確に理解するためには、我々はヘブライ語から得た読みをときに忘れなければならない。600年頃の時代には、ヒエロニュムスの翻訳は完全な権威を持っていたわけではないが、その重要性は明らかなものだった。

2020年8月7日金曜日

アブラハムとロトの別れ(6) Rickett, Separating Abram and Lot #6

  • Dan Rickett, Separating Abram and Lot: The Narrative Role and Early Reception of Genesis 13 (Themes in Biblical Narrative 26; Leiden: Brill, 2020), 158-88.

本書は次の3つの問題を扱っているものだった。第一に、ロトがアブラムの潜在的な後継者であり、また敬虔なアブラムに対する不敬虔な相手という読みは妥当なのか。第二に、こうした読みはどこから来るのか。そして第三に、こうした読みが適切でないなら、では創世記13章とロトの目的や機能はどのように理解されるべきなのか。

第一と第二の問いに対しては回答済みなので、第6章はこの第三の問いに答えている。著者は、創世記における他の「兄弟」物語と比較することで、アブラハム物語全体や創世記13章におけるロトの機能を分析している。後継者としてのロトの問題は、アブラムの息子探しに関係している。15章に出てくるダマスコのエリエゼルや17章に出てくるイシュマエルははっきりと「後継者」として明言されているが、ロトはそうではなく「兄弟」と呼ばれている。そしてこの「兄弟」性は「別離」と分かちがたく結び合っているというのが著者の見立てである。というのも、神の約束は兄弟たち皆のためのものではなく、兄弟たちのうち一人と、その後継者たちのものだからである。つまり、ある者と別の者が「兄弟」である限り、その者たちは一緒に住むことはできず、必ず「別れ」なければならない。

創世記における「兄弟」物語として、著者はカインとアベル、ノアとその子たち、イシュマエルとイサク、ヤコブとエサウ、ヤコブとラバン、ヨセフとその兄弟たちなどを取り上げる。これらとアブラムとロトの挿話の共通点としては、どれも「兄弟(アハ)」という親族関係を表す語を用いつつ、関係上の「繋がり」と共に、そのあとに来る「別れ」を示しているという。つまり、「兄弟性」と「別離」という二重のテーマがどの挿話にも含まれているわけである。兄弟たちは一緒に住むことはできない。彼らは別れなければならない。

著者によれば、これらの中でもアブラムとロトの挿話との最も明確な並行関係は、ヤコブとエサウの挿話(創世記36章)にあるという。どちらの挿話でも、第一に、土地は二つの家族を支えることができないと言われており、第二に、エサウもロトも非常に裕福であり、第三に、両者はそれぞれの「兄弟」から離れたところに住み、そして第四に、両者はその兄弟から別れた。エサウはヤコブと兄弟関係のつながりを持っているが、神の約束を継ぐのはヤコブとその子孫だけなので、エサウは去らねばならない。その後ヤコブはエサウと友好的な再会を果たすが(33章)、ロトもまたアブラムに救われ、彼との再会を果たす(14章)。しかしこの再会も長くは続かない。兄弟たちは一緒にいることはできないからである。兄弟であることは、子孫であることに比べれば他人である。このように創世記の他の「兄弟」物語と比較することで、アブラムとロトの挿話で真に問われているのは「兄弟」性であることが分かる。それと同時に、エサウやロトらのような「選ばれなかった兄弟たち」は、必ずしも悪の存在ではない。彼らはヤコブやアブラムと異なり、肯定的な性質も問題のある性質も併せ持つ曖昧な存在なのである。

そしてロトは、実際にはアブラム甥であるにもかかわらず、亡くなった父ハランの代わりにこのような「兄弟」の役割を担わされている。創世記によれば、アブラムにはハランとナホルという兄弟がいたことになっている。アラム人の系譜の父祖であるナホルは、ミルカの夫であることしか知られず、おそらくはカナンへの移住時にも付いてきていない。ハランは、神の約束がアブラムと結ばれるより先に「父テラの前で死んだ」(11:28)。ロトが父ハランの代わりとされていることは、ハランではなくロトこそがモアブ人とアンモン人の父祖とされていることからも見て取れる。

以上より、創世記13章におけるロトは、アブラムの潜在的な後継者でもなければ、彼の倫理的な対応相手でもない。ロトの主要な役割は「選ばれなかった兄弟」である。「後継者=子孫」ではなく「兄弟」であるがゆえに、ロトはアブラムと神の約束の対象者ではなく、関係的にも地理的にもいわば「外部の者」となる。そしてロトは、創世記の「兄弟」物語の例に漏れず、アブラムと共に同じ土地に住むことはできず、「別離」を選ばざるを得ないのである。

2020年8月4日火曜日

ラテン語訳聖書の歴史(600~900年) Bogaert, "The Latin Bible"

  • Pierre-Maurice Bogaert, "The Latin Bible, c. 600 to c. 900," in The New Cambridge History of the Bible 2, ed. Richard Marsden and E. Ann Matter (Cambridge: Cambridge University Press, 2012), 69-92.

ヒエロニュムスによる聖書の翻訳を「ウルガータ」と呼ぶのは、7世紀から10世紀の間は適切でない。第一に、それは時代錯誤である。16世紀の始めに初めて印刷されて(1450年マインツにて)初めてその呼称が定着し、1546年にトレント公会議でvetus et vulgata editioという表現が用いられるようになる。第二に、それは曖昧である。ヒエロニュムスやアウグスティヌスが「ウルガータ」という語を用いるとき、それは七十人訳や古ラテン語訳を指す。第三に、それは誤解を招く。いわゆる「ウルガータ」の内容と、たとえば800年頃のアルクインの聖書の内容は異なる。

この時代に相応しい表現としては、「正典的(canonical)」と「教会的(ecclesiastical)」がある。前者は旧約に関して言えばマソラー本文に含まれる文書である。後者は正典ではないが教会に受け入れられた文書のことで、三種類ある。第一に、apocryphalやdeuterocanonicalと呼ばれる『知恵の書』『シラ書』『トビト記』『ユディト記』『マカベア書(第一・第二)』『バルク書』『エレミヤの手紙(バルク書6章)』『ダニエル書補遺』『エステル記補遺』など。第二に、『第三エズラ記』『第四エズラ記』『エズラの告白』『第四マカベア書』『マナセの祈り』『詩篇151編』。第三に、新約に付された『ラオディキア人への手紙』『ヘルマスの牧者』『第三コリント人への手紙』。

区分としては二つに分けられる。600年から750年までと、750年から900年までである。後者の時代にはテオドゥルフやアルクインらがカロリング朝において活躍した。最終的に、聖書は一冊の書物となり、ヒエロニュムスの翻訳が勝利する。600年までには聖書のラテン語訳活動は終わりを迎えていた。ラテン語テクストは次第に劣化し、改訂が繰り返されるも、それがさらなる劣化を招いた。

カロリング朝時代には聖書が一冊の書物(pandect)と見なされるようになった。すると聖書文書の順序が問題となり、リストを確定しなければならなくなった。780年までは聖書写本の情報は曖昧であり、場所や時代を特定することは困難である。それ以降は豊富な情報がある。

600年から750年までの代表的人物は、大グレゴリウスとセビーリャのイシドルスである。グレゴリウスはヒエロニュムスに言及しないが、その翻訳と古ラテン語訳を両方使っている。彼にとってヒエロニュムスの翻訳はまだ絶対的な権威ではない。イシドルスもヒエロニュムス訳を頻繁に用いている。両者はヘブライ語テクストに基づく旧約聖書の正典と、ギリシア語訳にしかない文書を区別している。

ヒエロニュムス訳がいかに浸透していたかは、聖句集や儀礼文書に明らかである。とりわけその傾向は旧約聖書で強かった。新約については古ラテン語訳も使われていたが、福音書について、600年から750年にはヒエロニュムス改訂が34写本(イタリア、ノーサンブリア、イングランド、アイルランド、フランクなど)なのに対し、古ラテン語訳は6写本(アイルランド、イリュリア、ヴェローナ、アクイレイア、コルビなど)のみであり、前者の優越が伺われる。この時代のラテン語聖書のパリンプセストの上書きはいつでもウルガータだった。

ヒエロニュムス訳の優越は、とりわけスペインとノーサンブリアの完全な一冊本から見て取れる。7世紀にトレドで写されたパリンプセストにおいて、ヒエロニュムス訳が用いられている。ノーサンブリアにあるウェアマウスとジャロウの二重修道院のベネティクト・ビスコップはイタリアから多くの聖書写本を持ち帰った。それらをジャロウ修道院のケオルフリースが写させ、3つの写本を作った。そのうちの3つ目がローマのグレゴリウス二世に捧げられたアミアティヌス写本(8世紀)であり、これが現存する最古の完全なウルガータ写本である。アミアティヌス写本は詩篇も含めてヒエロニュムスの翻訳に依拠している。8世紀のベーダはウェアマウスとジャロウの二重修道院で生涯を過ごした。彼はおそらくケオルフリースの3つの聖書写本の作成に関わり、そこから聖書引用をすることもあったが、古ラテン語訳からの引用も見られる。

ヒエロニュムスが扱わなかった文書もウルガータの中に収録されている。『知恵の書』『コレヘト書』『マカベア書第一・第二』については、たまたま手に入った写本をヒエロニュムス訳に組み合わせて、ヒエロニュムスの旧約聖書を完全なものにしている。福音書以外の新約文書はシリア人ルフィヌスによって改訂がなされ、ヒエロニュムスのローマの友人たちによって広められたが、伝達の過程で本文が古ラテン語訳と混ざっている。

古ラテン語訳写本で典型的なのは、ヴァチカンのオットーボニアヌス写本である。これはもともとはドミニクスという名の写字生によって作成されたヒエロニュムス訳の八書だったが、創世記と出エジプト記に関しては手本が読めない部分があったらしく、古ラテン語訳になっている。

ローマ詩篇は8世紀の終わり以降のイングランドの写本と11世紀のイタリアの写本で伝えられているが、その使用の始めはもっとさかのぼり、またその後も両地域で継続的に使われていた(スペインではモサラベ詩篇が使われた)。これはヒエロニュムスとダマススの手紙がその権威の証拠となったものである。ガリア詩篇はアイルランドのアントリム州で最近見つかったスプリングマウント・ボグ石板(6/7世紀)や聖コルンバのカサハ(7世紀)などに現れている。またアルクインが重視したために、ガリア詩篇はカロリング王国で権威を持つようになった。ヘブライ語詩篇はあくまで研究用として、アミアティヌス写本のような一冊写本に収録された。このように少なくとも三種類の詩篇があることをカロリング朝の学者たちは知っていたので、ギリシア語も含めた三欄、四欄の詩篇も作成した(9世紀ライヒェナウの三欄聖書や、10世紀コンスタンスのサロモ三世の四欄聖書など)。

750年から900年にかけて、聖書テクストは2種類の方法で伝えられていった。10以上の写本に分けて写される方法と、ひとつのユニットとして1冊の写本(場合によっては2冊か3冊)に写される方法である。多数の写本に分けて写す好例は、コルビで781年以前に作成されたマウルドラムヌス写本やブリュッセルで8世紀に作成されたアングロサクソン大文字写本などが挙げられる。福音書と詩篇については、それぞれ独立して写されることも多かった。福音書写本は非常に豪華で、紫の羊皮紙の上に金文字や銀文字で彩飾されているものから、持ち運びしやすいコンパクトで簡素なものまでさまざまあった(テクストは古ラテン語訳に汚染されたヒエロニュムス改訂版である)。詩篇は王族の礼拝用や研究用に個別に写されることがあった。

一冊本はカッシオドルスの時代前後(5~6世紀)に登場する。9世紀以降になるとこの形式はより一般的になった。スペインでは9世紀にカヴェンシス写本やトレタヌス写本が作られた。イングランドでは9世紀にカンタベリーのアウグスティヌス修道院で作られた同種の写本が新約部分だけ現存している。カロリング朝フランク王国では、メス司教アンギルラムの聖書(8世紀)は、トビト記とユディト記は古ラテン語訳であるが、それ以外はウルガータだった(第二次大戦で失われた)。

そして特に重要なのが司教テオドゥルフ(8~9世紀)の指揮下にあったオルレアンの写本室で、ここで10の聖書写本(Θ)を作成された。これらは、はっきりとした表記であること、装飾が欠如していること、ラビ的伝統に従って旧約を三分割すること、そしてガリア詩篇ではなくヘブライ語詩篇を収録していることなどの特徴を持っている。以後数世紀、このテオドゥルフ聖書にはさまざまな地方版も生まれた。

同時代にトゥールではアルクインが一冊本(Φ)をほぼ産業として作成する体制を整えた。一説では1年に2冊完成させるために、冬でも羊を繁殖させて羊皮紙を作成していたという。そして手本となる写本を取り外しが効くようにして、大人数で書き上げたのだった。アルクイン聖書の特徴としては、『聖書の学習について』という別題を持つヒエロニュムスの『書簡53』(ノラのパウリヌス宛)をしばしば冒頭に配置している。このことはラテン語訳聖書におけるヒエロニュムスの権威を高めることにもなった。

テオドゥルフ聖書はアルクイン聖書と比べるとよりコンパクトで簡素である。アルクイン聖書の装飾は非常に豪華で、写本自体も大きい。他の地方で作成された一冊本聖書としては、イタリア、フランス、イングランドの各地のものがある。