- Joseph McDonald, Searching for Sarah in the Second Temple Era: Images in the Hebrew Bible, the Septuagint, the Genesis Apocryphon, and the Antiquities (Scriptural Traces: Critical Perspectives on the Reception and Influence of the Bible 24; Library of Hebrew Bible/Old Testament Studies 693; London: T & T Clark, 2020), 139-85.
本章においては、『創世記アポクリュフォン』(以下GA)におけるサラのキャラクター性が論じられている。S.W. CrawfordらはGAにおけるサラに「力強い女性キャラクター」を見ている。実際にGAのサラは、知識を求め、賢く、意見を述べ、感情を持った女性であり、アブラハムの相棒という感じである。エジプトの廷臣たちも彼女の美しさ、深い知恵、そして驚くべき手先の技術をファラオに報告している。ところがファラオがサラを誘拐し、自分の妻にするや、彼女は単なるモノとしての役割しかなくなってしまう(Sarai's objectification)。アブラハムはサラを性的に独占することに執心し、彼女の自由は顧慮しない。彼にとってのサラの価値はあくまで「機械的(mechanical)」なものでしかないのである。GAではこうした彼女の主体性の消失が起こる。ここにはGAが語り手としてのアブラハムの一人称で書かれたテクストであることも関係しているだろう。すべての描写は「アブラハムによれば」という括弧づけの上でなされていることを忘れてはいけない。著者はこの章でGAのうち第19欄から20欄にかけてを取り扱っている。
GA 19.7-10:サラがはっきりと登場するわけではないが、それを引き出すことができる。アブラハムは夢を見ているが、それは神からのコミュニケーションにおいて、のちにサラに「彼は私の兄です」と言わせることのお墨付きをもらうという意味がある。
GA 19.10-13:アブラハムは誰か聞き手に向かって語っているが、それは誰か。19.12においてアブラハムは「我々は」と複数の代名詞を主語とすることで、旅の連れがいたことを示す。彼らの間にはある程度の相互関係(mutuality)が見える。むろんここにはサラだけではなくロトもいた可能性もある。しかし、物語のこの後の進行を考慮すると、アブラハムの聞き手にサラがいた可能性は非常に高い。
GA 19.14-23:エジプトに入る前のアブラハムの夢の中に、杉とナツメヤシの木が出てくる。杉はアブラハム、ナツメヤシはサラの象徴である(GA中でノアも杉と描写されている)。これは樹木のシンボルを使った予言と警告になっている。同様の表現としては、詩92:13の「義人がヤシのように芽を出し、杉のように育つ」という表現、雅5:15および7:8-9において男性の見た目が杉と、女性の見た目がナツメヤシと比されている部分がある。そして、古代近東において「木が倒れる」ということは災害や死を、また「木や植物が話をする」ということは金言を語ることを意味した。アブラハムの夢はこうしたイメージを集めて新たな方法で表現している。サラとナツメヤシに関する著者の解釈では、ナツメヤシが美しさと有用性を持っていることが大きく関係しているという。有用性とはつまり多産さということである。ただし、夢の内容はこれからアブラハムやサラたちに起こる出来事とはあまり一致していない。夢の中では杉(=アブラハム)が根こそぎにされそうになっているが、実際にはサラ(=ナツメヤシ)が王によって連れ去られる。そもそもアブラハムとサラは「一つの根から生えている」とは言えないだろう。
こうしたアブラハムの語り手としての信頼性に問題があるのは、彼がほとんどの出来事に関与しているからである。つまり彼は語り手であると共に登場人物でもある。物語に深く関係している語り手の言うことは信頼し得ないのは、言うまでもない。それはその語りが事実そのものではなく語り手の視点からなされたものだからである。またアブラハムは自分が直接知らないはずのことも自信たっぷりに語っているが(エジプトの宮廷内の出来事など)、これも信頼できない所以である。
GAはこの場面でサラに直接アブラハムに語りかけさせている。同様の発明はシリア・キリスト教の説教などに見られる。ここでのサラの発言には相互関係のトーンが感じられる。パートナーとしてアブラハムの恐怖心を取ったり、少なくとも共有したりして救ってあげたいという主体的な気持ちである。これでアブラハムは幸せな結末を迎えるわけだが、ここ(19.21)でテクスト上の欠損がある。本来であればここにサラの反応が描かれていたのかもしれないが、それは失われている。分かっていることは、アブラハムの描写によれば、「彼女はその夜私の言葉ゆえに泣いた」という。そしてサラは「5年間」人前から姿を消したとされている(19.23)。並行個所を保存している可能性のあるシリア教父の説教は、サラがアブラハムのアドバイスを無視して、ぼろ切れやホコリの下に自分の美しさを隠したと述べている。以上のように、アブラハムに直接語り掛けるサラには行為者としての主体性を感じられるし、アブラハムのために泣くサラからもある程度の働きかけを見出すことができる。
GA19.23-31:ここでの描写のすべてはアブラハムのフィルターがかかっているが、はっきりしているのは、第一に、サラは何年か自分の美しさを隠すことができたということである。それゆえに三人の廷臣は彼女の美しさの噂を聞きつけてではなく、知恵を求めてやってきたと描写される。第二に、ヒルカノスら廷臣たちはサラに会った。そして彼女の顔や体だけではなく、その「深い知恵」(20.7)を見ることができた。
「知恵」とそれにまつわる技術を示したのはアブラハムで、彼はエノクの言葉の書を読んだとされている。著者は、アブラハムもそうしたかもしれないが、むしろサラこそが知恵を示したと考える。なぜかというと、29行目のואמרתという語は、Machielaのように「私は言った」(一人称・両性・単数)とも訳せるが、「彼女は言った」(三人称・女性・単数)とも訳せるからである。前者であれば、知恵を示したのは語り手であるアブラハムだったことになるが、著者は後者の読みは文法的にも可能だし、物語上も妥当であると考える。そうすると、知恵を示したのもエノクの言葉の書を読んだのも「彼女」すなわちサラだったことになる。実際、後代の伝承(『出エジプト記ラバー』1.1やバビロニア・タルムード『メギラー』14aなど)によるとサラは特別な洞察力を持っており、それはアブラハムをしのいだとされている。つまり、サラは三人の廷臣たちの質問に、口頭で答えることでその知恵を示したのだと考えられる。
GA 20.2-8:ここでは比較的長いサラの描写がある。「美(שפר)」に関するさまざまな形容詞や名詞を連ねた反復的な表現は、しかし著者にとっては単調なものだという。他にもいくつかの表現が出てきているが、それらの過剰なまでの同義的な語の反復は、総じて彼女のキャラクターの定義を追加するようなものにはなっていない。ヒルカノスらによるサラの描写はさらに、彼女の知恵と手の業の巧みさをも讃えているが、これらは「価値のある女性」のステレオタイプな理想像に対する大げさな賛辞にすぎない。同様の表現は、雅歌、箴言(31:13, 19, 31)、『ベン・シラ』(26:13-18)にも見られる。
GAにおける最も目立つ特徴であり、また重要な発展としては、エジプトにおけるサラの饒舌さが挙げられる。他にもこの個所は、当時の人相学の影響を受けた近東の詩をヘレニズム化させたものとも理解される。つまり、彼女の特別な美しさは、知恵と技術という彼女の特筆すべき精神的あるいは倫理的な才能の象徴だという理解である。「美しい(カロス)」が七十人訳やフィロンなどにおいて肉体的な性質と倫理的な性質の両方を受け継いでいることとも、この理解は一致する。しかし著者の読みでは、サラの知恵は肉体の美と相互に関連付けられていない。彼女は美しいだけでなく賢いとも描写されているのである。しかしその賢さの描写がそれ以上ないのは、物語のフィルターである語り手としての男性の価値観によるものであって、サラに知恵や技術が不足しているからではない。
GA 20.8-11:ファラオは廷臣たちの話を聞き、暴力的にサラを連れ去ったわけだが、そのあとでサラを見てその美しさに打たれ、妻として彼女を娶っている。ここでの「娶る」は明らかに性的な意味を含意すると同時に、「購入による獲得」をも意味する。このあたりのアブラハムの語りは混乱している。またその後もファラオはアブラハムを殺そうとするが、彼はサラの取りなしにより助かり、しかも彼女に関してファラオと交渉しているという。この部分の順序も奇妙である。いずれにせよ、この個所で明らかなのは、サラの価値が極めて狭いものに限定されていることである。すなわち、ファラオやアブラハムにとっての彼女価値が肉体的な美しさだけになっている。アブラハムが「泣いた」のも連れ去られた妻への共感ではなく、より実務的で機械的な理由による。
GA 20.12-16:アブラハムが泣き、神の裁きを期待したのはあくまで自分のため、すなわち自己言及(self-referentiality)にすぎない。というのも、サラの清浄さの如何が自分の影響するからである。ファラオによる性交渉があった後ではアブラハムはサラと夫婦関係を続けることができなくなるため、彼女の清浄さを求めているだけである。そうした祈りを向けられる神もまた虐げられた妻の味方ではない。この場面は法律用語を使えば、裁判官としての神のもと原告アブラハムがサラの返還を求めて被告ファラオと争っているということである。つまりここでのサラは財産にすぎない。ここにおいてサラは物語の登場人物ではなくなり、意思も主体もないほぼ無生物のモノと化している。いわば物言わぬ売買の対象、さしずめちょっといいタンスかトランクほどの扱いである。
GA 20.16-21:ここでは地上の王たちを統べる、王たちの王としての神のイメージが出てくるが、その強大な力は囚われのサラを救うわけではない。あいかわらず目立った問題は彼女の性的な不可侵性である。彼女は不活発で、代名詞でのみ言及されている。
GA 20.21-23:サラがアブラハムとファラオのどちらの妻なのかが問題となっている。サラはアブラハムの祈りの霊的な妨げになっている。
GA 20.24-21.4:サラは音もなく物語から消えている。ハガルをファラオから得たことになっている。サラは活力のない穢れていない容器のようなものであって、アブラハムも彼女が性的にきれいかどうかにしか関心がない。
以上から、GAにおけるサラは、もともとはおしゃべりで才覚があり美しく賢くまた手先の器用な女性で、時に感情をあらわに泣いたり、深い知恵を示したりもすることがあった。しかしヒルカノスらエジプトの廷臣たちとの出会いの場面を転換点として、彼女の特質は非常に狭い意味での美しさだけになり、その機械的な性的受容性のみに関心が払われるようになった。先にはあったアブラハムとの相互関係は消え失せた。このようなサラの急激な変化からは、アブラハムの語り手としての信頼性への疑いが生じる。サラが囚われの身となったことにより自分が不適切に利益を得たことの印象を弱めようとしているといえる。というのも、アブラハムの一連の行動の動機が金銭的なものだったからである。彼はサラを人間として扱わず、心配もしていない。言い換えると、研究者たちがGAのサラに「強い」女性像を見ている点について、ある部分ではそうと言えるが、別の部分では再考の余地がある。ファラオによる誘拐以降のサラの主体性は弱まり、その役割も貴重な箱ほどのものに成り下がっている。アブラハム、ファラオ、神にとってのサラの本当の価値は、究極的にはその魅力的な体にあった。