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2020年7月25日土曜日

ユダヤ・キリスト教論争における聖書 Sapir Abulafia, "The Bible in Jewish-Christian Dialogue"

  • A. Sapir Abulafia, "The Bible in Jewish-Christian Dialogue," in The New Cambridge History of the Bible 2, ed. Richard Marsden and E. Ann Matter (Cambridge: Cambridge University Press, 2012), 616-37.

アウグスティヌスは、キリスト教徒にとってのユダヤ人および旧約聖書の役割を論じている。彼によれば、本来であればイエス・キリストに書かれている旧約聖書をユダヤ人は正確に読めてはいないが、それをキリスト教徒にもたらすことがその役割なのだという。つまりキリスト教社会におけるユダヤ人は、キリスト教がユダヤ教を更迭し、取って代わること(supersession)を具体化する存在である。またキリストを拒絶したことの罰として離散の憂き目にあっている。このアウグスティヌスの「証言者論」の核には、ユダヤ人は自分たちの聖典を理解できず、また理解しようともしないという逆説がある。

キリスト教徒がユダヤ教と対決する文学ジャンルとして「対ユダヤ人(Adversus Iudeos)」テクストがある。初期の例としては、ユスティノス、テルトゥリアヌス、アウグスティヌス、セビーリャのイシドルスなどがある。12世紀になると「反ユダヤ人論(anti-Jewish polemics)」もまた盛んに論じられた。そこでキリスト教徒とユダヤ人の対話のかたちで描かれる議論は、実際の議論を文字通りに再現しているのではないが、ある程度は現実を反映してもいる(たとえば1240年のパリ討論や1263年のバルセロナ討論、1413-14年のトルトーサ討論など)。

一方で、12世紀の終わりの南フランスやスペインでは、中世のヘブライ語で書かれた「反キリスト教論(anti-Christian disputations)」が登場する。その代表が『セフェル・ニツァホン・ヤシャン』である。これはドイツで編纂された、当時の反キリスト教的聖書解釈や新約聖書への攻撃などを収録した辞書的集成である。

これらユダヤ・キリスト教論争において常に中心となったのは聖書テクストとその解釈の問題である。聖書を読む解釈原理が論じられ、また根本的な神学問題を論じる際の証明のために聖書が引かれた。たとえば、モーセの律法の妥当性、メシアの到来、選民の真のアイデンティティ、三位一体の教え、受肉、処女懐胎などといった問題が俎上に挙げられた。

ユダヤ人との論争において、キリスト教学者たちはヘブライ語を読む必要はなかった。彼らはヒエロニュムス読めばよかったのである。イザヤ書7:14の「処女」論争において、シャティヨンのウォルター、ギルベルトゥス・クリスピヌス、ペトルス・アルフォンスィ、ブールジュのウィリアムらは、ヘブライ語のアルマーという語の訳について、ヒエロニュムスの解釈に依拠している。ギルベルトゥスはヒエロニュムスに従って、エゼキエル書44:2-3の閉じられた門のイメージ用いてマリアの処女性を論じている。これに対しヨセフ・キムヒは、アルマーの語についてキリスト教徒に謝った情報を与えているとして、ヒエロニュムスを非難している。

ギルベルトゥス・クリスピヌスは、聖書の翻訳の問題も論じている。彼によると、七十人訳はヘブライ語聖書の忠実な訳であり、またラテン語ウルガータはギリシア語およびヘブライ語聖書と言葉についても意味についても一致していると主張し、ウルガータを擁護した。

キリスト預言として知られている聖書箇所についても激しい議論が行われた。イザ53:1-10の「苦難の僕」の解釈については1263年のバルセロナ討論がある。この討論においてユダヤ側の代表者はナフマニデスであり、この箇所はイエスではなくイスラエルの民のことを指しているのだと主張した。創49:10の「シロ」は1413-14年のトルトーサ討論の主題であった。創22:28のアブラハムの祝福についても、ギルベルトゥスや『イサゴーゲー』著者、ドゥーツのルペルトらがメシア的解釈を展開している。

聖書解釈の方法として、ユダヤ人が字義的(literal)解釈をするのに対し、キリスト教徒たちは比喩的(figurative)解釈を得意とした。キリスト教徒に言わせれば、キリスト到来以後では、モーセの律法を字義的に解釈すると矛盾を来たすので、比喩的に解釈するほかないというのである。偽ウィリアムは木の実のたとえを用いて、果肉としての新たな法を味わうためには外側の硬い殻としての古い法を砕かなくてはならないと述べる。これに対しヨセフ・キムヒは、トーラーの解釈は字義的だけに取るのも比喩的だけに取るのも間違っていると反論する。聖書は素朴な人々でも理解できるように、ときに比喩を用いて語るからである。このように、ユダヤ人は字義的解釈だけに限られるわけではなかったが、一方で、比喩的解釈は字義的解釈に取って代わることはないというタルムードの大原則のもとにもあった。

キリスト教徒の中には、ユダヤ人の助けを借りて、ラテン語旧約聖書の本文を直そうとする者もいた。シトー会のステファン・ハーディングは、ユダヤ人からヘブライ語聖書およびタルグムの情報をフランス語で仕入れていた。ニコラス・マニアコリアやサン・ヴィクトルのアンドリューも同様の方法を採り、聖書の歴史的意味を知るために、ラシなどのユダヤ教注解を引用している。これは、なるべく正確な字義的・歴史解釈を下敷きにして、比喩的解釈の確固とした基礎を築こうとしたのである。

ボシャムのヘルベルトゥスはヒエロニュムスのヘブライ語詩篇に関する注解をものしたが、ヘブライ語の知識やラシ注解に基づき、ヒエロニュムスの訳文を修正しようとした。ただし、このユダヤ教聖書解釈への依拠は、ヘルベルトゥスがキリスト教的視点を失ったからというわけではない。あくまで字義的解釈を通じて霊的理解を深めるためであった。他にもラルフ・ニゲル、アレクサンデル・ネッカム、ロジャー・ベーコン、リラのニコラら、多くのクリスチャン・ヘブライストがいる。

イザヤ書6:3には「聖なるかな」と3回書かれていることから、三位一体の証明に用いられることがある。これはキリスト教においては聖餐の祈りといった典礼に用いられる箇所である。一方で、ユダヤ教においても同箇所は典礼の重要句である。イェフダ・ハレヴィは、同箇所がユダヤ典礼における最も聖なる箇所のひとつであるケドゥシャーと関係していることを論じている。このように、同じテクストを神を称えるために用いながらも、ユダヤ人とキリスト教徒は異なった視点を持っていた。

2020年7月19日日曜日

ユダヤ教におけるフィロンの受容 Cohen, "Philo Judaeus and the Torah True Library"

  • Naomi G. Cohen, "Philo Judaeus and the Torah True Library," Tradition 41.3 (2008): 31-48.

フィロンはこれまでキリスト教神学、ギリシア文学、古代哲学といった枠内で読まれてきた。それはフィロン研究がそうした分野の研究者たちによって牽引されてきたからである。しかし、20世紀初頭になると、ユダヤ教にコミットし、ユダヤ教古典に通暁した研究者たち(Isaac Heinemann, Edmund Stein, H.A. Wolfson, Samuel Belkinら)の台頭により、フィロンをよりユダヤ的に理解しようとする試みが行われるようになった。

ただし、いかなる意味でもラビ・ユダヤ教的ではないフィロンが、ユダヤ世界で再び紹介されるのは、アザリヤ・デイ・ロッシの登場を待たなければならなかった。なぜフィロンがユダヤ世界で失われてしまったのかというと、様々な要因はあれど、大きな理由はフィロンが初期キリスト教によって熱狂的に受け入れられたからであろう。

フィロンが使うギリシア語にはユダヤ・ギリシア語的なコノテーションがある。ノモス、ソフィア、エウセベイア、ディカイオシュネなどといった重要な用語には、元来のギリシア語を超えたユダヤ的な意味が含まれている。しかしながら、読者がユダヤ人でなくキリスト教徒になると、そうした意味は失われてしまう。

アザリヤ・デイ・ロッシは16世紀イタリア・ルネサンス時代の博識家で、『メオール・エナイム』という著作がある。この著作の中でデイ・ロッシはフィロンを「イェディディヤ・ハ・アレクサンドロニ(アレクサンドリアの神の友)」と呼びつつ、現在のフィロン研究でも議論されているトピックを初めて提起した。すなわち、フィロンはヘブライ語の知識を持っているか、七十人訳を用いているという指摘、フィロンと口伝律法やユダヤ教セクトについて、その著作が非ユダヤ人向けである可能性、無からの創造という概念理解などである。

『メオール・エナイム』第5章によると、フィロンには4つの欠点があるという。第一に、フィロンはトーラーの原典を見たことがない。第二に、世界の創造時に原初の物質が存在していたと考えている。第三に、聖書の物語の本当の意味を単純に哲学的・知的な考えだと考えている。そして第四に、成文律法と共に口伝律法があると述べていない。他にもデイ・ロッシは、フィロンが聖書の引用や解釈に七十人訳を用いていることなどについてさらに追及しつつも、ときに擁護することもある。

デイ・ロッシのこのようなアンビヴァレントな態度の理由は、彼自身も当時異端の疑いをかけられていたからである。デイ・ロッシはタルムードのアガダーの歴史的価値について態度を保留しており、また創造から現在までの時間の伝統的な数え方も異なっていたので、ユダヤ教を破門はされないまでも、敵対者からも厳しく攻撃されていた。またその著書はイタリア各地で禁書に指定されていた。そこで、フィロンの思想を紹介しつつも、これ以上保守的な勢力から攻撃を受けないように、扱いが慎重だったのである。

しかし、上で見たデイ・ロッシからの4つの批判は、今日ではもはや大きな問題ではないだろう。唯一あるとすれば、それは原初の物質(primordial matter)に関する議論である。この問題は伝統的なユダヤ教徒がフィロンに躓いてしまう大きな理由であるが、元来は対グノーシスの議論の中で出てきたものである。タルムードの賢者たちは、創造時にいくつもの力(multiple creative powers)があったと主張するグノーシスの異端者たちを問題視している(ただし、これに対抗する「無からの創造」説がはっきりするのは後2世紀のキリスト教文学である)。ちなみにフィロンの著作にグノーシス的なところがあるかというと、それはグノーシスをどう定義するかによる。フィロンには二元論的なところや物質に対する否定的価値観などがあることは確かだが、それらはグノーシスの専売特許というわけではないので、フィロンをグノーシス主義者とは呼べない。

フィロンの思想はラビ・ユダヤ教とは確かに異なるところがある。とりわけ法的・ハラハー的議論が少ないことは明白である。しかし、一方でラビ・ユダヤ教を法的関心のみに制限することもまた誤りである。律法学者がユダヤ教において活躍してきたことは確かだが、イェフダ・ハレヴィ、ゲルソニデス、ヨセフ・アルボ、ベシュトらは律法の専門性ゆえに有名なわけではない。それにそもそもフィロンにも法的議論は現れている。

フィロンは、よく言われるように、プロト改革派のユダヤ人ではない。Alan MendelsonやYehoshua Amir(改革派ラビ養成校ヒブル・ユニオン・カレッジ教授David Neumarkの息子)などは、フィロンにフレキシブルでリベラルな精神を見出すが、論文著者はこれに反対する。フィロンは、テフィリンやメズザーの使用やトーラー学習の教え、口伝律法の遵守など、ユダヤ教の実践についてもかなり詳しく言及している。フィロンは自らをギリシア哲学者としてはではなく、敬虔な律法遵守のユダヤ人として示したかったのである。ユダヤ的なプリズムを通してみれば、フィロンの思想は現代の伝統はユダヤ教の精神とそれほどかけ離れてはいない。現在進行中のフィロン著作の現代ヘブライ語訳が、伝統的なユダヤ人読者の手に渡る日も近い。

2020年7月17日金曜日

アブラハムとロトの別れ(4) Rickett, Separating Abram and Lot #4

  • Dan Rickett, Separating Abram and Lot: The Narrative Role and Early Reception of Genesis 13 (Themes in Biblical Narrative 26; Leiden: Brill, 2020), 90-122.

より後代のユダヤ教聖書解釈においても、アブラハムに関する諸問題(ロトの帯同、争う羊飼いたち、土地の提供など)は明確に意識されている。その上で、トーラーを遵守する模範であるアブラムと、その好対照としての、トーラーを拒絶するロトという図式が出来上がっている。『ヨベル書』や『創世記アポクリュフォン』と比較すると、後代のユダヤ教聖書解釈はロトに対してより否定的になっている。

フィロンは、アブラムの旅路にロトが同行していることに触れ、それをロトが言い出したことであると見なし、もってアブラムは犠牲者であるとした。羊飼いの争いに関しては、その原因はロトとその羊飼いにあるとし、一方でアブラムは争いのない静寂を求めてロトにより良い土地を譲ったのだと説明した。

ヨセフスは巧妙に説明をあいまいにし、話題の焦点を、アブラムによる問題ある申し出からロトによる出発の決断に移している。

各種タルグムはロトの財産について問題視した上で、それがアブラムに由来するものだと結論付ける。論争については、フィロン同様に、ロトとその羊飼いに責任があると論じている。アブラムの家畜は口輪をはめて他人の地所から勝手にものを食べないようにされているが、ロトの家畜はそうされず、どこにでも行ってよいとされていた。このようにアブラムとその羊飼いは肯定的に、ロトとその羊飼いは否定的に描かれている。

ミドラッシュ文学(『創世記ラバー』『ペシクタ・ラバティ』『ミドラッシュ・タンフマ』『バビロニア・タルムード』など)は、ロトがトーラーの拒絶者であることを強調する。その財産もアブラムのおかげで手にしたものであって、自分で得たものではない。羊飼いの争いは、そのままその主人たちの倫理的違いを反映している。つまり、悪なるロトの羊飼いもまた悪であり、善なるアブラムの羊飼いもまた善なのである。それゆえに、神もまたロトがアブラムの後継者には倫理的・関係性的に不適切だと断じている。つまり、ラビたちはアブラムやその羊飼いの問題からロトとその羊飼いの非道徳的な振る舞いに焦点を移しているのである。

ロトが「目を上げる」のは出エジプト記のポティファルが情欲を持ってヨセフに対して「目を上げる」のと同じであるし、「丸いヨルダン平野」を求めたのは箴言の言葉のように「売春婦を買う」のと同じであった。聖書テクストではロトがアブラムから離れようとしているとは書いていないが、ラビたちは、ロトはアブラムから離れようとしたことで、知恵とトーラーを拒絶したのだと解釈している。

『ヨベル書』や『創世記アポクリュフォン』は、アブラムがロトに土地を提供しようとした件をなかったことにしているが、ラビたちはそれが必然だったと解釈する。すなわち、神とアブラムとの約束が履行されるためには(創13:14-17)、ロトがいなくなることを待たねばならなかったのである。それゆえに結果的にロトからのアブラムの別離は、倫理的にも宗教的にも必要性のあることだった。

ここまで論じた後、著者はアブラムとロトの別離をルツ記と比較する。こうした比較は上記のような伝統的な解釈に基づいているわけではないが、それ自体は興味深い。著者によれば、両方とも、イスラエル人による別離の要求に対するモアブ人の反応を扱っている。より具体的には、両物語は親戚関係を扱っており(ロトとアブラムは血統上の親戚関係であり、ルツ、オルパ、ナオミは結婚による親戚関係)、またある親族グループの構成員が別のグループからの別離を求めている。

とはいえ異なっている点もある。第一に、オルパやルツが最初はナオミとの同居を求めるのに対し、ロトはそのような素振りはなかった。第二に、ロトは住むための特定の場所を選んだが、オルパは自分たちの土地に戻っていった。第三に、確かにオルパとロトはイスラエル人から離れようという点で共通しているが、ルツはロトとは対照的に、イスラエル人と共にいることを選んだ。ここから、ルツ記におけるオルパはロトと比較可能な存在であり、一方でルツはロトと対照的な存在であることが分かる。ロトがオルパと同様にアブラムや神を受け入れることを拒んだのに対し、ルツはナオミが別離を求めてもそれを拒み、もって神やトーラーに従おうとした。ルツははっきりと、オルパやロトと対照をなしている。

さらにルツ記はイスラエルとモアブの関係性をめぐる問題にも関係している。ロトはイスラエルの先祖であるアブラハムと血統的につながっているが、ルツは上のようにイスラエル人のナオミを求め、その神を求めながらも、モアブ人である。申命記にはモアブ人が神の集まりに入ることは許されないと記されている(23:3)。ラビたちはしかし、神の集まりに入ることが許されないのは男性のモアブ人だけであり、女性はそれには当たらないと説明する。ルツがイスラエル人ボアズと結婚できたのは、このためである。

感想としては、ルツ記との比較は興味深いが、ミドラッシュの処理に問題を感じる。著者はテーマごとにさまざまなミドラッシュ文学を紹介している。たとえば、「アブラハムとの旅におけるロトの存在」というテーマのもとに『創世記ラバー』『バビロニア・タルムード』『ペシクタ・ラバティ』『ミドラッシュ・タンフマ』を、また「羊飼いたちの争い」というテーマについて『ペシクタ・ラバティ』『創世記ラバー』を、さらに「後継者としてのロト」というテーマに『創世記ラバー』『ペシクタ・ラバティ』を、といったように。ミドラッシュ文学は多様なので、あるテーマについてうまく説明している任意の箇所をどれかから引っ張ってくるのは簡単である。しかし、そうした紹介の仕方は恣意的になりかねない。そのようにテーマ毎にさまざまな文書から解釈を紹介するよりも、むしろ作品ごとに解釈を紹介し、各文書にそのテーマがあるかないかを示した方が恣意性を低めることができるのではないか。

2020年7月10日金曜日

アブラハムとロトの別れ(3) Rickett, Separating Abram and Lot #3

  • Dan Rickett, Separating Abram and Lot: The Narrative Role and Early Reception of Genesis 13 (Themes in Biblical Narrative 26; Leiden: Brill, 2020), 69-89.

James Kugelによると、古代の聖書解釈には聖書に対する4つの主要な前提があったという。第一に、聖書とは表面上の意味と深層の意味を持つ謎めいた文書である。第二に、聖書とは読者の現在の問題にも関わる指導の書である。第三に、聖書は完璧で調和的な文書である。そして第四に、聖書は神の霊感を受けた文書である。

著者はこうした聖書の4つの要素にもう一つ付け加える。すなわち、聖書はアブラハムを守ろうとする。古代における多くの聖書解釈は、聖書を真剣に捉え、深く読み込み、アブラハムに関して起きる潜在的な問題を認識した上で、アブラハムの名誉を守るような方法でそうした部分を解釈しようとするのである。

著者はこの章で、創世記13章におけるロトの性格付けの発展について、七十人訳、『ヨベル書』、『創世記アポクリュフォン』をretellingの例として分析している。これらの聖書解釈においては、アブラムをめぐる潜在的な問題をから、ロトの倫理的問題やアブラムとの関係に焦点が動いているという。つまり、アブラムに関する部分について、言い回しを変えたり解釈を加えたり問題部分を削除したりすることで、アブラムの問題は免除される。一方で、ロトは聖書テクスト自体では不明瞭な人物であるに留まっていたが、これらの解釈えは不敬虔なよそ者として見なされるようになったのである。

たとえば、創世記12:4-5でアブラムがカナンの地に行くときに、特に理由なくロトを連れて行っているが、『ヨベル書』はアブラムの父テラがロトを連れて行くように言った台詞を加えている。そうすることで、ロトを連れて行ったのはアブラムの責任ではなくテラがそう言ったからであり、ロトがアブラム家の一員であるかのように読書に思わせることができる。

その後ロトとアブラムは分かれるわけだが、聖書はその経緯を詳らかにしない。これに対し、retellerたちはロトを悪徳の都市ソドムと同列に並べ、また別離の理由をアブラムの提案ではなくロトの選択だったように書き換えている。ロトがソドムの「中に」住んでいることを強調することで、ロトが悪人であることが強調される。また「アブラムはロトを自分の後継者と見なしていたにも関わらず、ロトは自分から離れていってしまった。アブラムはロトの別離に胸を痛めている」といった描写により、読者はアブラムに同情する。

こうしたことから、1世紀の終わりにはすでに、アブラムはいかなる潜在的な悪行からも免除され、ロトは不明瞭な性格の登場人物からはっきりと不敬虔なよそ者という性格付けを与えられているといえる。

2020年7月5日日曜日

アブラハムとロトの別れ(2) Rickett, Separating Abram and Lot #2

  • Dan Rickett, Separating Abram and Lot: The Narrative Role and Early Reception of Genesis 13 (Themes in Biblical Narrative 26; Leiden: Brill, 2020), 29-68.

第2章:兄弟愛、分離、定住

この章で著者は、アブラハムの倫理的な対比としてのロトという概念を分析するために、「兄弟愛」「分離」「定住」というテーマを掘り下げている。実質的には創世記13:6-18のコメンタリーになっている。まず「兄弟愛」については8節で触れられているが、すぐそのあとに9節でアブラムはロトに対し「分離」を提案している。アブラムがロトに対しどこに行くかを先に選ばせていることから、この提案はアブラムの寛大さを表していると多くの注解者は評価するが、著者は「分かれよう」というアブラムの台詞の中にある命令形に注目し、実際にはアブラムがロトに「分離」以外の選択肢を与えていないことを指摘する。

そう言われたロトは10節で「目を上げ」てヨルダン平和を見渡す。注解者たちの中にはこの行為がロトの利己的な性格を表していると見る向きもあるが、著者は創世記における「目を上げる」の用例をチェックした上で、このフレーズは否定的なものではなく、中立的なものだと指摘する。

11節でロトはヨルダン平野を選び、東に移動して、アブラムと「分離」するわけだが、著者はこの箇所を創世記13章のクライマックスであると考える。ロトに先に選択させたアブラムが「融和的」であるのに対し、自分のために最善の選択をしたロトのことは「自己中心的」であると注解者たちは解釈する傾向がある。とりわけ11節における「自分のために選ぶ」という一節がこの解釈を支えている。しかしながら、著者はここでもこのフレーズの用例をサムエル記上などに求めた上で、必ずしも自己中心的な意味を含んではいないことを示す。そして、純粋に現実的な判断を下したからといって、ロトを自己中心的であると見なすことはない、と主張するのだった。

11節では「ロトは東に移動した」という記述がある。この「東」に注目するHelyerの注解を著者は紹介している。それによると、ヘブライ的方向感覚は東向きだという。それは「東」を意味するケデムが「前方」をも意味することから分かる。となると、その方向から見て右は南、左は北、そして後方は西ということになる。こうしたことを踏まえると、「ロトが東に移動した」のはアブラムにとって計算外の行動だったといえる。アブラムは西を見ながらカナンの地の北と南のどちらを取るかとロトに尋ねていたのに、当のロトは東に移動してソドムにテントを張り、アブラムがカナンの地に定住するという事態になってしまったのである。こうして12節において、アブラムとロトの「分離」が完成する。

13節ではソドムの町の悪徳が説明されている。著者は、ソドムへの言及が多くある13章と19章を、14章と18章が橋渡ししていると考えている。14章ではロトがソドムに住み着き、アブラムとの間には思想的・地理的に継続的な分離があることが描かれている。また18章は13章と似た用語や似た構造を用い、共にロトを主要人物としている。こうして14章と18章に橋渡しされて、ようやく19章が始まる。

19章はロトの「定住」の進展における最終段階を提示している。19章にはロトによる使者のもてなしと、その使者たちを引き出そうとするソドムの者たちへの対応の挿話がある。ロトは「兄弟たちよ」と語りかけ、「悪を行うな」と命じるが、ソドムの者たちはロトを異邦人と見なす。ここにはアブラムとロトとの「分離」のみならず、ロトとソドムの者たちとの「分離」も描かれている。ロトはソドムの者たちに対し、使者の代わりに自分の娘を差し出そうという提案をする。解釈者の中にはこれを許されざる行為として激しく批判する者もいるが、著者によれば、これはあえて莫迦げた提案をしてソドムの者たちの興奮を収めようとしたロトの「皮肉の間接的なリクエスト(sarcastic indirect request)」だったのだという。

19:14では、使者たちが町を滅ぼすために遣わされたと知ったロトが、婿たちに町から逃げるように言うが無視されたとされている。このことから、ロトのキャラクターは道化役や愚か者といった無視されるべき役回りなのだと解釈する向きもあるが、著者はこのことを否定的に捉える必要はなく、むしろ使者たちの話にすぐに反応したロトと、それを見くびった婿たちとの対比を強調してると捉えている。また16節におけるロトのためらいも、ロトの不敬虔の証とされることがあるが(テクストからはその理由は自明でない)、これも逃げようとしない家族をロトが見捨てられないからだと肯定的に解釈できる。同じ理由から、18節でロトが「山へ逃げろ」と言う使者の助言を受け付けていないことも説明できる。つまり、自分勝手に見えるロトの行動は、その実彼の他者への配慮によるものだったのである。

19:29では、ロトは神がアブラムのことを「忘れず」にいたために助けられたと述べられている。このことは、ノアの動物たちがノアと共にいたために助かったことが想起される。つまり、神がロトに示した慈悲心は、ロト自身に固有の何かによるものであると同時に、ロトの外側の何か、すなわちアブラムとのつながりによるものでもあった。

以上のように創世記19章を詳しく見た上で13章と比較すると、物語はロトを「異邦人」として描いていることが分かる。それゆえにロトは「東」へと移り、モアブとアンモンというイスラエルから分離した者たちの父となったのである。ロトの倫理について、テクストから確かなことは言えない。ロトは敬虔であるかもしれないし不敬虔であるかもしれない。いずれにせよ、19章からロトが自分勝手であったり、悪の民のそばにいたがったりといった解釈はできない。

13章のつづき(14節から最後)においても、ロトはもはやアブラムの「子孫」には入っておらず、神を崇める祭壇での礼拝にも関わっていない。以上の分析から、ロトがアブラムの後継者であり、また敬虔なアブラムに対する不敬虔な対照者であるという一般的な理解は正しくないと言える。創世記13章は、ロトをアブラムから「分離」させ、アブラムを「定住」させているが、この「分離」は本来連れて行けないはずのロトを解決するための手段であり、「定住」はアブラムからの無理のある提案が発端だった。ロトはアブラムの後継者ではなく、「兄弟」として描かれている。

以上から、ロトを否定的に捉える一般的な理解は本文から出てきたものではないことが分かる。ではこれが本文に固有のものでないなら、その起源はどこからなのか。これを検証するために、著者は第二神殿時代の文学、初期ユダヤ教文学、教父文学にさかのぼっていく。