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2019年12月20日金曜日

ヒエロニュムスの聖地巡礼観 Bitton-Ashkelony, "Jerome's Position on Pilgrimage"

  • Brouria Bitton-Ashkelony, Encountering the Sacred: The Debate on Christian Pilgrimage in Late Antiquity (Berkeley: University of California Press, 2005), 65-105.


385年の冬に、ヒエロニュムスはローマを離れてパレスチナの地に到着した。ローマをあとにした理由は完全には分からないが、パウラとの関係を怪しまれて教会で弁明しなければならなかったことや、教皇ダマススの死などによって、ローマでの立場が危うくなったのであろう。自身はこの移動を、バビロン捕囚から逃れてエルサレムに帰還する、と表現している。ヒエロニュムスは最初から巡礼するだけではなく移住するつもりだったが、巡礼者としての情熱も併せ持っていた。

ヒエロニュムスの巡礼のメイン・ソースは、パウラの死を嘆くエウストキウムを慰めるために404年に書いた『書簡108』である。ここでは、キリスト教信仰のために、遺跡に実際に行くことが重要だと説いている。『ルフィヌス駁論』第3巻にもローマ出発の経緯や巡礼のあらまし、そしてベツレヘム定住までの状況が描かれている。他にも、聖地巡礼の重要性については、エウセビオス『オノマスティコン』翻訳、『書簡46』、『書簡76』、『歴代誌(七十人訳)序文』、『書簡46』などに言及がある。ところが、ヒエロニュムスはニュッサのグレゴリオスがそうであるように、『書簡58』では聖地巡礼を批判してもいる。本論文では、聖地巡礼を勧める『書簡46』と、それを批判する『書簡58』を中心的に論じている。さらに殉教者を祭る祭儀について『ウィギランティウス駁論』が取り上げられる。

『書簡46』は386年にマルケラ宛に書かれ、マルケラにベツレヘムや聖地に来るよう招く護教的な内容になっている。ここには明らかにヒエロニュムスの聖地巡礼に対する肯定的な態度を見ることができる。それは自分自身の聖地巡礼を正当化するためでもあった。ヒエロニュムスは、新約聖書の出来事が起き、預言者や聖人の誕生の地であり、またイエスが復活した地である(マタ27:52-53)エルサレムに特別な地位を与えている。すなわち、エルサレムのキュリロス同様に、地上のエルサレムに価値を見出している。これは、天上のエルサレムにしか価値を認めないオリゲネスやエウセビオスとは大きく異なる点である。『書簡47』でも「主の足がかつて立った場所で礼拝するのは信仰の一部」だと主張している。

ヒエロニュムスはこの自説に対する仮定の疑問を投げかける。エルサレムは選ばれた都市ではあるが、その特別な地位はイエスがその破滅を預言したことで失われたのではないか、と。これに対しヒエロニュムスはシンプルに、イエスが本当にエルサレムを愛していなかったら、その陥落を嘆いたりはしなかったろうと答えた。さらに、罪があるのは住人であって都市そのものではないというロジックも使った。

イエスの墓という特定の場所を訪れることはがキリスト者にとって宗教的な義務であるという、新約聖書に基づかない考え方は、他に類を見ないヒエロニュムスの発明といえる。これは天上のエルサレムこそが至上であると考えるパウロ書簡とは大きく対立するものである。ただし、彼は、全能であるはずの神の存在が、ある特定の場所にしか存在しないと言おうとしているのではない。このロジックはニュッサのグレゴリオスが巡礼を否定するときに用いたものである。ヒエロニュムスによれば、エルサレムは修道的な中心地であり、修道士の質も高いので、巡礼する価値があるという。

ベツレヘムに住んでしばらくすると、ヒエロニュムスの巡礼に対する情熱は弱まった。ノラのパウリヌスに宛てて395年に書かれた『書簡58』では、エルサレムを見たことがないからといって信仰が欠けているなどと思うべきではないと主張した。『書簡46』と『書簡58』に見られる相矛盾した見解について、J. Prawerは、大衆的な宗教の表現と正統派キリスト教の展望から説明している。F. Cardmanは、『書簡58』を巡礼に反対するキリスト教神学者の典型的な修辞法だと考えている。ただし、PrawerもCardmanもヒエロニュムスの見解が鍛えられた歴史的なコンテクストを論じておらず、非歴史的なアプローチに終始している。

これに対し、F.M. AbelやMaravalらはヒエロニュムスの当時の人間関係を考慮に入れている。『書簡58』は彼がオリゲネス主義論争に巻き込まれ、エルサレムのヨアンネスとの関係が悪化していた時期の著作である。ヒエロニュムスは自分が破門されていたエルサレム教会をパウリヌスに訪れてほしくなかった。そこで聖地巡礼の宗教的な重要性を最小化しなければならなかったのである。アントニオスやヒラリオンなど有名な修道士たちがエルサレムを特別視しなかったように、修道的生活を送っている者は聖地を訪れる必要がないのである(とはいえ、グレゴリオスのように、聖地巡礼によって霊的なダメージを受けるとまでは主張していない)。こうしたロジックは『書簡46』において自ら否定していたものであった。伝統的見解にオリジナルな議論で反論していた『書簡46』に対し、『書簡58』ではむしろそうした非オリジナルな教会の公式見解をただ代表している。すなわち、キリスト教の福音は全世界に知らされているので、イエスが生きた場所にこだわる必要はないし、そうした特別な場所は心の中に持てばよいという考え方である。

むろん、自分自身がすでに聖地を巡礼し、聖地のそばに住んでしまっているという矛盾にヒエロニュムスは自覚的であった。しかし、聖地巡礼を支持するにしても、修道士にとっては不必要だと主張するにしても、ある場所が聖なる場所であることと神的存在が特定の場所に限定されることとは無関係だと主張したのである。聖地巡礼を否定しようとしているわけではないが、積極的に支持しているわけでもない。『書簡58』の目的は、聖地巡礼を否定することでも、『書簡46』の立場を取り消すことでも、地上のエルサレムと天上のエルサレムに関する神学的議論を展開することでもなかった。修道士にとって修道的生活を追及するにはどのような場所がよいか、というのが論点であった。『書簡46』では、聖地としてのエルサレムはその目的に適しているとされていたが、『書簡58』では、エルサレムの教会との関係悪化もあり、エルサレムに巡礼する必要はないと主張したのである(ただし、『書簡58』で否定的に論じられているのはエルサレムについてのみで、ベツレヘムは依然として最も尊い場所とされている)。

エルサレム教会との確執が終わると、ヒエロニュムスはまた巡礼を推奨している(『書簡68』『書簡71』『書簡76』『書簡145』『書簡122』)。それが最もはっきりと現れているのがパウラの聖地巡礼を描いた『書簡108』である。このときには聖地巡礼はすでにノスタルジーになっていた。しかし、ここでもオリーブ山については言及を避けようとしている様子が見られる。ヒエロニュムスの中で、エルサレム教会との確執は許されてはいたが、決して忘れられてはいなかったのであろう。

殉教者の墓を詣でるについて、ヒエロニュムスは若い頃から積極的だった。特にローマでは、殉教者の墓参りは祭儀と密接に関係しており、4世紀の後半には幅広い地域で行われる習慣になっていた。このことについて、ヒエロニュムスは最も手ごわい敵対者の一人であったスペインのウィギランティウスと激しい議論を交わしている(ウィギランティウスは395年と396年にパレスチナを訪れ、ヒエロニュムスやルフィヌスに面会している)。その記録である『ウィギランティウス駁論』は神学的な議論というより、主として悪口雑言のよせあつめで、教父文学において最も生々しく攻撃的な文書である。

『ウィギランティウス駁論』を通じて知られる彼の主張は、殉教者の魂は墓に留まり、神には届かないので、殉教者が信仰者のための仲介者になることは不可能である、というものだった。そして殉教者の遺跡は不浄で無価値なものなので、それを崇拝することは偶像崇拝に等しいと言うのである。これに対し、ヒエロニュムスは「崇拝する(adorare)」ことと「尊敬する(honorare)」ことを区別した上で、殉教者の墓参りでは後者を行うのだと主張した。殉教者を崇拝するのではなく尊敬することは、偶像崇拝には当たらない。これはアウグスティヌスものちに用いたロジックである。

キリスト教徒の中には、殉教者の墓参りが異郷の祭儀と似ていることに危惧を覚える者がいたが、ヒエロニュムスはむしろそこにこそ護られるべきローマの伝統を見て取った。祭儀に関する異教的なコノテーションを恐れないというところに、ヒエロニュムスの特徴がある。死んだ人間である殉教者が信仰者を助けないという議論については、ヒエロニュムスは、殉教者は死んでいるのではなく眠っているのだと反論した。殉教者の墓が不浄であるという点については、多くの尊敬される人々を引き合いに出し、彼らが不浄なのかと問うた。ヒエロニュムスは純粋に神学的な議論をしているわけではないので、殉教者の墓参りに権威を付与できれば何でもよかったのである。

このように見てくると、ヒエロニュムスによるキリスト教的聖地に関する見解は、これまで考えられてきたよりも一貫している。

2019年12月18日水曜日

エルサレム、ベツレヘム、オリーブ山のイメージ Aist, "St Jerome's Images of Jerusalem, Bethlehem and the Mount of Olives"

  • Rodney Aist, "St Jerome's Images of Jerusalem, Bethlehem and the Mount of Olives: A Critical Investigation of Epistula 108," Holy Land Studies 4 (2005): 41-54.

メラニアとルフィヌスは370年代からオリーブ山で修道院を営んでいた。386年にはヒエロニュムスとパウラがベツレヘムで修道院を始めた。4人とも知り合いだったので、ヒエロニュムスたちがパレスチナにやってきたときには旧交を温めるような会談があったと思われるが、オリゲネス主義論争によって両陣営は敵対する。404年のパウラの死後、ヒエロニュムスは『書簡108』を著して彼女の死を悼んだが、その中で385年に聖地を旅したことに触れている。注目すべきは、エルサレム、ベツレヘム、オリーブ山についての記述で、特にオリーブ山の説明には歪曲が見られる。本論文はその理由を、ルフィヌスとメラニアとの関係の悪化からの影響だと主張している。

『書簡108』は、ヒエロニュムスが唯一本当に愛情を感じていたと思われるパウラの死を悼むもので、丸二晩の口述によって著されたという。この中での聖地巡礼の場面にヒエロニュムス自身は登場しないが、おそらく実体験を書いているものと思われる。ただし、この書簡が書かれたのは実際の巡礼から20年も経ってからなので、その後得た知識も反映している可能性には注意を払う必要がある。とはいえ、一旦住み着いてからのヒエロニュムスはほとんど巡礼らしいことはしていない。

エルサレムにおいて、パウラはさまざまな場所を訪れたはずだが、『書簡108』では、イエスが十字架に架けられたところ、復活した墓所、シオンの古代の砦にしか触れていない。パウラは聖書の出来事を想像しながら、狂信的なといってもいいほどの情熱をもってエルサレム各地を巡礼した。ヒエロニュムスのエルサレム描写は、町全体が聖なるものというより、個々の聖なる場所からなる町というイメージになっている。町自体に聖性が宿るとは考えていないようである。また他の巡礼記と比べると、聖なる場所への言及が少ない。またオリーブ山がエルサレムから切り離されていることも特徴的である。

ベツレヘムは、ヒエロニュムスが特にお気に入りの場所であり、多くの言葉が費やされている。パウラはベツレヘムで幻を見たようである。それは、マタイとルカによるイエス聖誕の合成であり、ベツレヘムを見下ろせるような場所からの記述であり、また聖書の記述における時間の流れを濃縮したものであった。ヒエロニュムスはベツレヘムが出てくる聖書箇所を数多く引いて、モザイクのように組み合わせている。ただし、そのチョイスは多くの場合、オリゲネスとエウセビオスからの影響を強く受けている。ベツレヘムに関する記述は、聖書的ヴィジョン、聖書引用、そしてパウラとヒエロニュムスの個人的な敬虔さに溢れている。

オリーブ山は、パウラが一度パレスチナ南部を巡礼した帰りの道行きで登場する。つまり、エルサレムの記述とは分離している。しかし、最初にエルサレムを巡礼したときにオリーブ山に行かなかったとは考えがたい。南からオリーブ山に近づくことで、エルサレムよりもテコアとの関連が強調されている。キリスト者はオリーブ山に対し、肯定的な見方と否定的な見方をしていた。なぜなら、新約聖書中のオリーブ山のシーンには、差し迫った磔刑へのダーク・ドラマと勝利の昇天とが共に描かれているからである。しかし、4世紀までには年毎のエルサレムでの礼拝にオリーブ山も組み込まれていた。ヒエロニュムスは、民19:1やエゼ11:23などに出てくるオリーブ山については論じているが、共感福音書中のイエスの黙示的な記述やゲッセマネの挿話などについては触れていない。オリーブ山に関する記述ではヒエロニュムスが一人称で語っている部分もあり、そこは実際の巡礼というよりは聖地のヴィジュアル・ツアーといった呈をなしている。

『書簡108』はヒエロニュムスとパウラのベツレヘムへの深い愛情を表現している。エルサレムについてもそのユニークな地位を認めている。一方で、オリーブ山は地理的・聖書解釈的な歪みを持っており、エルサレムからも分離して描かれている。論文著者によれば、ルフィヌスやメラニアに対するヒエロニュムスの喧嘩が、彼のオリーブ山理解に影響しているという。

2019年12月5日木曜日

エチオピア語訳『エノク書』について Knibb, The Ethiopic Book of Enoch

  • Michael A. Knibb in consultation with Edward Ullendorff, The Ethiopic Book of Enoch: A New Edition in the Light of the Aramaic Dead Sea Fragments, II (Oxford: Clarendon Press, 1978), 1-47.

『エノク書』が近代ヨーロッパに本格的に紹介されたのは、1773年にJames Bruceがエチオピアから3写本(Bodl 4, Bodl 5, Paris 32)を持ち帰ってきたときのことであった。このうちBodl 4に基づいて、R. Laurenceが1821年に英訳を、1838年に最初にテクストを出版した。さらに多くの写本がヨーロッパにもたらされてから、1851年には5つの写本を校合してA. Dillmannが最初の校訂テクストを出版した。

1886/7年には、アクミームで『エノク書』1-32章のギリシア語訳を含む写本が発見された。R.H. Charlesは、このアクミームのギリシア語訳も利用しつつ、Dillmannが用いたエチオピア語訳写本に新たに9本の写本を加えた上で(とりわけBM 485を重視)、1893年に英訳を出版した。1912年には第二版が出ている。G. Beerは1900年にドイツ語訳、F. Martinは1906年にフランス語訳を出版した。

エチオピア語訳の校訂本で重要なのは、1902年のJ. Flemmingのものと、1906年のCharlesのものが特筆に価する。Flemmingは、エチオピア語訳が2つのグループに分かれると指摘した。グループⅠはより古いテクスト、グループⅡは他のテクストである。彼もまたCharlesと同じくBM 485が最も重要な写本であると考えた。

Charlesのグループ分けもFlemmingとまったく同じだが、グループ・アルファとベータと呼んでいる。彼によると、エチオピア語訳はギリシア語訳からの翻訳であり、シュンケッロスの抜粋テクストはアクミーム写本よりもオリジナルに近いという。Charlesの校訂版が出た1906年から彼の英訳の第二版が出た1912年は、『エノク書』研究のターニング・ポイントであった。Charlesは彼以前の研究をよくまとめあげていたので、同時代の研究者たちは多くの場合彼の見解を受け入れた。一方で、異読として挙げているのは正字法に関わることばかりであり、示される情報も過剰であった。

Charles以降は校訂本も翻訳も出なかったが、どちらも新版が必要である。なぜなら、第一に、クムランでのアラム語断片の発見とギリシア語訳を含むチェスター・ビーティ=ミシガン・パピルスの発見があったからである。第二に、そうした発見がなくともCharlesの見解には修正が必要だからである。そこで本書は、アラム語とギリシア語の新発見を加味しつつ、Rylands Ethiopic MS. 23 (Ryl)に依拠した新しい校訂版と英訳を提供している。

アラム語断片。『エノク書』がヘブライ語とアラム語のどちらで書かれたのか、ずっと問われてきたが、1952年のクムランでのアラム語断片の発見によって、おそらくアラム語こそが原典の言語であったと考えられている。ただし、クムランで発見されていない「たとえの書」については、今もなお何が原語であるかは謎である。写本の出版を託されたのはJ.T. Milikで、彼は1958年に雑誌論文のかたちで一部出版したが、全体の出版は遅れ、1976年にようやく出版された。

クムランからは11の写本が出て、そのうち7本からは「寝ずの番人の書」「夢幻の書」「エノク書簡」に対応する部分が、4本からは「天文の書」に対応する部分が見つかった。「たとえの書」に当たるテクストを含む写本は見つかっていない。クムランでは、「天文の書」は独立して読まれ、他の文書はエノクの名の下にまとめられていたと考えられる。Milikは「寝ずの番人の書」と「エノク書簡」がクムランではまとまって独立していたと考える。

アラム語断片を見ると、かなりの部分が残っているように見えるが、実際にはエチオピア語訳の1062節中の196節、つまり5分の1も残っていない。さらに多くの写本が劣悪な状態かつ断片的である。アラム語断片は一般的にギリシア語訳やエチオピア語訳と一致しているが、本質的でない小さな異読はある。「天文の書」に関しては、エチオピア語訳はアラム語よりも短く、本文の順序などの本質的な違いも見て取れる。

ギリシア語訳。アラム語からギリシア語に訳されたときの状況についてはほとんど分かっていない。ギリシア語訳には4種類ある。シュンケッロスの抜粋、アクミーム写本(Codex Panopolitanus)、ヴァチカン写本(Gr. 1809)、チェスター・ビーティ=ミシガン・パピルスである。これらは、シュンケッロスのグループと、アクミーム、ヴァチカン、チェスター・ビーティのグループに分けられる。シュンケッロスのテクストは他と大きく異なっている。Charlesはそれゆえに、シュンケッロスのテクストがよりオリジナルに近いと考えた。シュンケッロスは『エノク書』を直接用いたのではなく、他の初期ビザンツ歴史家の抜粋に依拠した。これら4種類の他にも、ギリシア語訳、ラテン語訳、コプト語訳、シリア語訳などがあるという。

エチオピア語訳。エチオピアにキリスト教が紹介されたのは4世紀のことで、そのとき以降に『エノク書』も含め、聖書文書がエチオピア語訳された。翻訳者たちがギリシア語訳を用いたことは明らかであるが、アラム語断片も間違いなく用いていた。著者は編集と翻訳に当たり、Rylands Ethiopic MS. 23 (Ryl)を中心に据えた。

Charlesはエチオピア語訳写本をEthⅠとEthⅡの2つのグループに分けた。エチオピア語への翻訳自体は4~6世紀の出来事だが、最も古い写本はほぼ1000年後の15世紀のものである。EthⅠはより古いテクスト群で、大衆的なテクストを代表するEthⅡよりもギリシア語訳と一致する。ただし、その価値を過大評価はできない。確かにEthⅠは多くの価値ある読みを保存しているが、欠落や付加、ミススペリングや不注意なども多く含んでいる。Charlesは真のエチオピア語訳はEthⅠグループの写本からのみ見つかると考えていた。しかしながら、著者が採用したRylはEthⅡグループの写本である。EthⅡに対するEthⅠの過大評価を是正する意図がある。

エチオピア語訳の底本。エチオピア語訳はギリシア語訳からの翻訳だと一般に見なされており、SchmidtやUllendorffらからの抵抗以外には、ほとんど疑問視されていない。Ullendorffによると、『エノク書』はアラム語から直接エチオピア語訳に翻訳されたのだという。むろんギリシア語訳を参照はしたと考えられる。この問題を考えるに当たって、アラム語とギリシア語訳だけ一致する場合と、アラム語とエチオピア語訳だけ一致する場合は、それぞれ興味深い。とりわけ、アラム語とエチオピア語訳だけが一致するならば、翻訳がギリシア語経由でないことが明らかになる。ただし、翻訳者がどの程度アラム語テクストを使ったのかは不明である。

『エノク書』のエチオピア語訳の起源と歴史は、聖書のエチオピア語訳のそれと比較できる。