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2018年5月17日木曜日

ヒエロニュムスの神学 Kamin, "The Theological Significance of the Hebraica Veritas in Jerome's Thought"

  • Sarah Kamin, "The Theological Significance of the Hebraica Veritas in Jerome's Thought," in ead., Jews and Christians Interpret the Bible (Jerusalem: The Hebrew University Magnes Press, 2008), pp. vii-xx.
Jews and Christians Interpret the BibleJews and Christians Interpret the Bible
Sarah Kamin

Hebrew University Magnes Press 2009-06-10
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ヒエロニュムスが、七十人訳の聖性を否定し、ヘブライ語テクストから旧約聖書を翻訳することを決断した理由は、これまでの研究では、第一に、既存の翻訳(七十人訳あるいは古ラテン語訳)への不満(スタイル上の劣化、写本の劣悪な保存状態、テクスト上の異同)、第二に、原典がヘブライ語であるという事実(古ラテン語訳は重訳)などから説明されてきた。本論文の著者は、そうした「文献学的・科学的」な動機付けだけでは、もともと保守的な思想の持ち主だったヒエロニュムスが、教会からの反感を買いながらも大胆な決断をしたことを十分に説明できないと主張する。

ヒエロニュムスの批判者だったアウグスティヌスは、七十人の長老たちが霊感を得て翻訳したと考えた。そして七十人訳の権威とは、畢竟するにこの霊感に由来するものだと主張したのだった。七十人訳に、ヘブライ語テクストとテクスト上の異同があっても、それは神の計画の基づく意味のある違いである。その違いによって、七十人訳が原典に劣ると言うことはできない。いわば、翻訳者は実際には預言者と同じ機能を持っているのである。論文著者は、この霊感を基にした権威の有無を、「神学的」な議論と呼んでいる。すなわち、アウグスティヌスは、七十人訳とヘブライ語テクストとのテクスト上の異同という文献学的な事実を、霊感の有無の議論を持ち込むことで、神学的に説明している。

論文著者は、このアウグスティヌスの議論に見られるような神学的なポイントが、ヒエロニュムスの議論にもあるはずだと考え、彼の『五書序文』を取り上げている。ここでのヒエロニュムスの議論の出発点もまた、アウグスティヌス同様、七十人訳とヘブライ語テクストとのテクスト上の異同という文献学的な事実である。しかしながら、彼は七十人の翻訳者を預言者ではなく単なる(知識のある)人間だと見なした。ヒエロニュムスによれば、七十人は、キリストの到来の前に翻訳をしたので、聖書における神の言葉を十全には理解しておらず、よく分からないところは曖昧にしている。それどころか、彼らは誤りを犯しているところさえある。

論文著者によれば、ここにおいて、ヒエロニュムスの議論が神学的なものに変わる。彼にとってヘブライ語テクストが重要なのは、それが神のもともとの言葉であり、またキリストの到来を預言しているからである。七十人訳は、単なる人間にすぎない翻訳者たちがキリストの到来を実際には知らないままに作った翻訳にすぎない。それにもかかわらず、当時のキリスト者は七十人訳を、あたかも霊感を受けているものであるかのように大事にしている。そこでヒエロニュムスは、キリスト教世界のために、キリスト教的な翻訳を作成しようとしたのだった。

ヒエロニュムスの議論を論文著者はこう説明するが、自身の説明の弱点を二点挙げている。第一に、証拠となるテクストが『五書序文』ひとつであること、そして第二に、その序文の中でヒエロニュムス自身が矛盾したことを述べていることである。ヒエロニュムスによれば、七十人訳に曖昧なところや誤りがあるのは(たとえば、新約聖書における旧約引用は、七十人訳とは文言が一致しないが、ヘブライ語テクストとは一致する)、七十人がキリストの到来を知らないままに翻訳したからであった。一方でヒエロニュムスによれば、七十人は、旧約聖書中に含まれている父・子・聖霊に関する言及がプトレマイオス王に露見することを恐れたために、意図的に意味を変えたのだという。すなわち、七十人訳に見られる異同は、七十人が旧約聖書の真の意味を分かっていたからであり、同時に分かっていなかったからでもあるという説明をしていることになる。

この矛盾を抱えたまま、ヒエロニュムスは次のような結論を導く。第一に、七十人は霊感ではなく自分たちの見解を基に翻訳した。第二に、七十人訳はキリスト教共同体にとって特に有益ではない。七十人訳による訳文改変が意図的であるというヒエロニュムスの見解は、おそらく彼の先達者であるエウセビオスやオリゲネスから来ている。ただし、彼らは七十人の霊感説を前提とした上で、翻訳者たちが神の言葉を意図的に改変したのは、まだ異邦人がキリストの教えを受け入れるには機が熟していないと考えたのに対し、ヒエロニュムスは霊感説を否定した上で、翻訳者たちがいわば神の言葉を改竄したと考えた。

興味深いことに、エウセビオスやオリゲネスによると、シュンマコスらのちのユダヤ人翻訳者たちは、ヘブライ語テクストをより正確に翻訳したために、ユダヤ人でありながら、かえって七十人訳よりも正しく、旧約聖書に含まれるキリスト教的な信仰を伝えているという。すなわち、七十人は旧約聖書中のキリスト教信仰を理解していたがゆえにそれを隠し、ユダヤ人翻訳者たちは知らなかったがゆえにそれを明らかにしたのである。七十人訳よりもユダヤ人翻訳者の方が正しいというエウセビオスらの考え方から、七十人訳よりもヘブライ語テクストの方が正しいというヒエロニュムスの考え方へと変わるのは、時間の問題であった。

筆者の考えとしては、論文著者の指摘する上記の矛盾は、それほど大きな問題ではない。ヒエロニュムスによれば、七十人は、キリストの到来をまったく知らなかったわけではない。彼らをそれを「歴史」として知らなかったのであって、「預言」としては知っていたのである。つまり、すでに起きたこととしてキリストの到来を知っている使徒(やヒエロニュムス自身)に比べれば、七十人はそれを知らなかったかもしれないが、これから起こることとして、プトレマイオス王にそれを知らせないようにするほどには知っていたのである。

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