- 小高毅『古代キリスト教思想家の世界:教父学序説』創文社、1984年。
古代キリスト教思想家の世界―教父学序説 (1984年) 小高 毅 創文社 1984-11 売り上げランキング : 1871373 Amazonで詳しく見る by G-Tools |
本書はいわゆる教父学(Patristic Studies)の入門書として定評のある一書である(ちなみに、本書によると「教父学(Patrologia)」という名称は、1653年、ルター派の神学者J. Gerhardによって確立された)。今から30年以上も前に、さまざまな教父の引用を豊富に紹介しつつも、不必要に難しすぎない入門書を書き上げた著者には、深い敬意を覚える。本書は現在でも、古代キリスト教思想家という「果てしない森」に分け入るための最適の一書であろう。
第1章で、著者は「教父」とはいかなる人を指すのかについて説明する。初期教会において、教師、特に司教が「父」という名で呼ばれていた。さらに、325年のニカイア公会議に参集した司教たちが、特別な意味で「父」と呼ばれるようになった。以降、公会議に参集し、信経を正しく解釈した司教たちが「父たち」すなわち「教父たち」と呼ばれた。しかし、後代になると、ヒエロニュムスのように司教ではなく司祭であっても、教父と呼ばれるようになる。このようにして基準を明確化していった結果、教父の定義としては、以下の4点が挙げられる:
第1章で、著者は「教父」とはいかなる人を指すのかについて説明する。初期教会において、教師、特に司教が「父」という名で呼ばれていた。さらに、325年のニカイア公会議に参集した司教たちが、特別な意味で「父」と呼ばれるようになった。以降、公会議に参集し、信経を正しく解釈した司教たちが「父たち」すなわち「教父たち」と呼ばれた。しかし、後代になると、ヒエロニュムスのように司教ではなく司祭であっても、教父と呼ばれるようになる。このようにして基準を明確化していった結果、教父の定義としては、以下の4点が挙げられる:
- 教理の面で正統信仰を保持していること(doctrinae orthodoxia)
- 聖なる生涯(sanctitas vitae)
- 教会の承認(approbatio ecclesiae)
- 古代教会に属すること(antiquitas)
これらの基準を満たす教父としては、東方教会では、ダマスコのヨアンネス(749年没)、西方教会では、大グレゴリオス教皇(604年没)あるいはセビリアのイシドルス(636年没)が最後とされる。基準をひとつでも満たさない著作家は、教父ではなく教会著作家と呼ばれる。
第2章では、教父と聖書との関係が論じられる。すべての教父たちは、その信仰や思想を聖書のうちに培った。教父たちは、聖書を神によって書かれた一つの書と考え、新約はもとより旧約聖書の中にもキリストを見出している。ただし、彼らの旧約聖書は「七十人訳」と呼ばれるギリシア語訳であり、その翻訳は神感によるものだと考えられていた。ユダヤ人がヘブライ語原点を重視し、キリスト者が七十人訳を読むことによって、正典論が問題となった。使徒教父たちは外典からも多く引用したが、サルディスのメリトン、ユリウス・アフリカヌス、ヒエロニュムスらは、ユダヤ人の正典目録を重視した。これに対し、オリゲネスやアウグスティヌスらは、キリスト者の正典は教会の伝承に従うべきだと考えた。
第2章では、教父と聖書との関係が論じられる。すべての教父たちは、その信仰や思想を聖書のうちに培った。教父たちは、聖書を神によって書かれた一つの書と考え、新約はもとより旧約聖書の中にもキリストを見出している。ただし、彼らの旧約聖書は「七十人訳」と呼ばれるギリシア語訳であり、その翻訳は神感によるものだと考えられていた。ユダヤ人がヘブライ語原点を重視し、キリスト者が七十人訳を読むことによって、正典論が問題となった。使徒教父たちは外典からも多く引用したが、サルディスのメリトン、ユリウス・アフリカヌス、ヒエロニュムスらは、ユダヤ人の正典目録を重視した。これに対し、オリゲネスやアウグスティヌスらは、キリスト者の正典は教会の伝承に従うべきだと考えた。
第3章では、教父と伝承の問題が取り上げられる。伝承とは、もともとは父なる神に発し、使徒たちを通して教会のうちに伝えられたものである。エイレナイオスやバシレイオスらが生きた時代になると、グノーシス主義をはじめとする異端が現れたため、教会は正統信仰の確立を迫られていた。エイレナイオスは、教会のうちに保持されている伝承が唯一のものであり、その伝達は人間的な力によるものではないと主張した。すなわち、普遍性、古さ、同意性こそが伝承の特徴である。また聖書に基づく信仰は、個人の任意ではなく、伝承を伝える教会の中にあって初めて正しく理解される。つまり、伝承は、聖書と共に信仰の拠り所なのである。
第4章では、教父がどのように哲学と対峙したかが描かれる。ユスティノスは、キリスト教を哲学と見なし、自らを哲学者と呼んでいる。こうした考え方はユスティノスだけのものではなく、異教徒のガレノスもユダヤ人とキリスト教徒を哲学者と呼んでいる。事実、ユダヤ教からの自立と、断続的に襲ってくる迫害から身を守るために、キリスト教知識人が必要とされていた。ユスティノスはストア派のロゴス論をキリスト教的に解釈している。彼の先達者であるアレクサンドリアのフィロンによれば、理性によってギリシアの哲学者たちが習得したことは、啓示によってモーセが習得したこと類似性が認められるが、それは哲学者たちが聖書に負っているからであるという。ユスティノス、オリゲネス、アレクサンドリアのクレメンスらは、この考え方を引き継いでいる。一方で、哲学に対して不信を抱く者たちもいた。その代表者がタティアノスやテルトゥリアヌスであるが、異端との論争において、彼らもまた哲学的な語彙を用いるのであった。
第5章では、教父と異端との関係が語られる。異端とは、キリスト教の教理において、洗礼を受けた人物によって保持された教説であり、それが教会によって退けられ、教会から排斥すると宣言された偽りの教説である。異端の思想は、その原典が残っていないことが多いため、論争相手だった教父たちの著作を通して知ることができる。異端とは、ギリシア語の「選択する」に由来し、ある教説や生き方を選択することである。言い換えれば、使徒たちの伝承と権威を否定し、自分の選択によって偽造の教えを奉じるということである。それゆえに異端はしばしば、ラディカルな理想主義や英雄的なリゴリズムを必要とし、その信徒は少数になる。またラディカルに反社会的であることも、社会に対してまったく無関心であることもある。そして終末論的ラディカリズムに向かう傾向がある。教会は、教会会議によってこれらの異端に対処した。
第6章では教父と神学である。神学という言葉は、ウァッローの「三種の神学」に端を発することからも分かるように、もともとは異教の神々について述べる合理的な説明のことを指していた。これをキリスト教に適用したのはオリゲネスであった。彼は父と子の神性に関する考察を神学的考察(theologia)と呼んだ。これをエウセビオス、ナジアンゾスのグレゴリオスらが踏襲した。西方教会では、同様の用法は12世紀のアベラルドゥスまで待たなければならなかった(中世においては、聖なる教え(sacra doctrina)という言葉が支配的であった)。また教父たちの「神学」は、トマス・アクィナスの神学大全のような体系的な思想ではなく、実践的動機や外的状況、すなわち異郷や異端に対して信仰を擁護するためのものだった。体系化の動きは、オリゲネス『諸原理について』、ニュッサのグレゴリオス『大信仰教育講話』、エルサレムのキュリロス『信仰教育講話』などにわずかに見られるのみである。
第7章では司牧としての教父の姿が語られる。教父たちは司教として、典礼儀式の充実を図った。東方教会で行われていた詩篇や賛美歌の詠唱は、ミラノのアンブロシウスによって西方教会に取り入れられた。説教の名手としては、アウグスティヌス、ナジアンゾスのグレゴリオスらが挙げられる。説教の中でも特に聖書講話は、オリゲネスやヨアンネス・クリュソストモスらが得意とした。
第8章では、信仰の人としての教父が論じられる。教父といえども人間であり、欠点がある。とりわけヒエロニュムスやアレクサンドリアのキュリロスらは性格的に問題があった。教父たちの信仰の発露として、隠遁生活や修道生活がある。これはアントニオスによって始められた習慣だが、迫害の世から逃れるための生活ではない。むしろ、砂漠で悪魔との戦いに赴くことだった。バシレイオスやナジアンゾスのグレゴリオスは、修道生活を共にしながら、オリゲネスの『フィロカリア』を編んだ。
本書には、教父からの引用が豊富だが、それぞれの教父の生涯などについてはほとんど触れられていない。そうした情報については、同じ著者の『父の肖像』(ドン・ボスコ社、2002年)がある。
第5章では、教父と異端との関係が語られる。異端とは、キリスト教の教理において、洗礼を受けた人物によって保持された教説であり、それが教会によって退けられ、教会から排斥すると宣言された偽りの教説である。異端の思想は、その原典が残っていないことが多いため、論争相手だった教父たちの著作を通して知ることができる。異端とは、ギリシア語の「選択する」に由来し、ある教説や生き方を選択することである。言い換えれば、使徒たちの伝承と権威を否定し、自分の選択によって偽造の教えを奉じるということである。それゆえに異端はしばしば、ラディカルな理想主義や英雄的なリゴリズムを必要とし、その信徒は少数になる。またラディカルに反社会的であることも、社会に対してまったく無関心であることもある。そして終末論的ラディカリズムに向かう傾向がある。教会は、教会会議によってこれらの異端に対処した。
第6章では教父と神学である。神学という言葉は、ウァッローの「三種の神学」に端を発することからも分かるように、もともとは異教の神々について述べる合理的な説明のことを指していた。これをキリスト教に適用したのはオリゲネスであった。彼は父と子の神性に関する考察を神学的考察(theologia)と呼んだ。これをエウセビオス、ナジアンゾスのグレゴリオスらが踏襲した。西方教会では、同様の用法は12世紀のアベラルドゥスまで待たなければならなかった(中世においては、聖なる教え(sacra doctrina)という言葉が支配的であった)。また教父たちの「神学」は、トマス・アクィナスの神学大全のような体系的な思想ではなく、実践的動機や外的状況、すなわち異郷や異端に対して信仰を擁護するためのものだった。体系化の動きは、オリゲネス『諸原理について』、ニュッサのグレゴリオス『大信仰教育講話』、エルサレムのキュリロス『信仰教育講話』などにわずかに見られるのみである。
第7章では司牧としての教父の姿が語られる。教父たちは司教として、典礼儀式の充実を図った。東方教会で行われていた詩篇や賛美歌の詠唱は、ミラノのアンブロシウスによって西方教会に取り入れられた。説教の名手としては、アウグスティヌス、ナジアンゾスのグレゴリオスらが挙げられる。説教の中でも特に聖書講話は、オリゲネスやヨアンネス・クリュソストモスらが得意とした。
第8章では、信仰の人としての教父が論じられる。教父といえども人間であり、欠点がある。とりわけヒエロニュムスやアレクサンドリアのキュリロスらは性格的に問題があった。教父たちの信仰の発露として、隠遁生活や修道生活がある。これはアントニオスによって始められた習慣だが、迫害の世から逃れるための生活ではない。むしろ、砂漠で悪魔との戦いに赴くことだった。バシレイオスやナジアンゾスのグレゴリオスは、修道生活を共にしながら、オリゲネスの『フィロカリア』を編んだ。
本書には、教父からの引用が豊富だが、それぞれの教父の生涯などについてはほとんど触れられていない。そうした情報については、同じ著者の『父の肖像』(ドン・ボスコ社、2002年)がある。
父の肖像―古代教会の信仰の証し人 小高毅 ドン・ボスコ社 2002-07-01 売り上げランキング : 561217 Amazonで詳しく見る by G-Tools |