- Michael A. Daise, "If Anyone Thirsts, Let That One Come to Me and Drink: The Literary Texture of John 7:37b-38a," Journal of Biblical Literature 122, 4 (2003): 687-99.
コンマやピリオドを取ったヨハネ7:37-38の原文は以下のようになる:
ἐάν τις διψᾷ ἐρχέσθω πρός με καὶ πινέτω ὁ πιστεύων εἰς ἐμέ καθὼς εἶπεν ἡ γραφή ποταμοὶ ἐκ τῆς κοιλίας αὐτοῦ ῥεύσουσιν ὕδατος ζῶντοςこの箇所には、伝統的に3つの問題があると考えられてきた:第一に、イエスの呼びかけの言葉はどこまでか。第二に、「彼の腹から」の「彼」とは誰か。そして第三に、「彼の腹から命の水の川が流れる」はどこからの引用なのか。これまで、これらの疑問に過不足なく答えた研究はないという。
これらの問題をさらに複雑にするのが、「聖書が言ったように(καθὼς εἶπεν ἡ γραφή)」(7:38b)という一節である。上の文章のちょうど真ん中に放り込まれているこの言葉が、それより前にかかるのか、それともそれよりあとにかかるのかを決めることは難しい。通常は、上の第三の問題点が前提としているように、あと(7:38c)にかけて、「聖書が言ったように、『彼の腹から命の水の川が流れる』」と読む者が多い。ところが、研究史の中では、これを前にかける読み方も試みられてきた。
そのかけ方には二通りあり、第一に、「『私を信じる者は』と聖書が言ったように」と7:38aのみにかけるもの(エルサレムのキュリロス、ヨアンネス・クリュソストモス、ヒエロニュムス、モプスエスティアのテオドロス、メルヴのイショダード、オフリドのテオフィラクトス、John Lightfoot, Günter Reim, Jan C.M. Engelen等)と、第二に、37節を含むより広い範囲の前の節にかけて、「『もし誰か渇く者がいたら、その者を私のもとへ来させ、私を信じる者に飲ませよ』と聖書が言ったように」と読むもの(ベザ写本、Crispinus Smits, Alcides Pinto da Silva等)である。
まず、二つ目のベザ写本の読みは、καθὼς εἶπεν ἡ γραφή ・ ποταμοὶ ἐκ τῆς κοιλίαςという中黒をピリオドと見なすことで導き出されるのだが、論文著者は他の用法との比較からこの読みを採用しない。それゆえに、ベザ写本は7:38bを前にかける読みの証言としては使えない。
一つ目の読みの例として、論文著者はHugo Rahnerによるヒエロニュムスの解釈を検証している。Rahnerによれば、ヒエロニュムスは基本的に7:38bを後ろにかける、コンセンサスに従った読みをどこでも採用しているが、『ゼカリア書注解』3.14.8においてのみ、「『私を信じる者は』と聖書が言ったように」と前にかけて読んでいるのだという。なぜなら、Rahnerによれば、ヒエロニュムスはここで「聖書が言ったように」を、「聖書の声に含まれていることに従って(iuxta id quod scripturarum vocibus continetur)」とパラフレーズすることで、ある特定の箇所ではなく、聖書全般を指しているからである。つまり、この箇所は「聖書が言ったとおりに私を信じる者は」という意味で取ることができるようになるのである。しかしながら、論文著者はヒエロニュムスによるiuxta id quodという表現の用法を検証した結果、この表現が聖書全般を指す用例はなく、むしろ常に特定の聖書箇所を引用する用法ばかりであると述べている。それゆえに、やはりこのヒエロニュムスの例も、7:38bを前にかける読みの証言として使うことはできないのである。
論文著者はここから現代の解釈者による、7:38bを前にかける読みの例として、Günter ReimとAlcides Pinto da Silvaを挙げている。前者はイザ28:16を、後者はイザ55:1-3がこのときの引用箇所だと考えている。論文著者は双方の見解の不十分な点を指摘しつつも、いくつかの理由からReimの説の方が説得的であると考えた。そしてReimが同定したイザ53:1(「渇きを覚える者は皆、水のところへ進むがよい(πορεύεσθε)」)とヨハネとのつながりをさらに確定するために、論文著者は次のように主張する:まず、ὁ πιστεύων εἰς ἐμέはどこか特定の箇所からの引用としてではなく、ヨハネ福音書に特有の表現として見なすべきだと述べる。そしてヨハ7:33-36にある「ユダヤ人は来ることができない」というイエスの正反対の台詞に、このὁ πιστεύων εἰς ἐμέという条件をつけることで、イザ55:1の「進むがよい(πορεύεσθε)」を言い換える「来るがよい(ἐρχέσθω)」という言葉に繋がるのである。言い換えれば、この箇所はイザ55:1という引用の神学的な修飾であるのみならず、ヨハネ7章のより広い文脈と繋がっているのである。
一つ目の読みの例として、論文著者はHugo Rahnerによるヒエロニュムスの解釈を検証している。Rahnerによれば、ヒエロニュムスは基本的に7:38bを後ろにかける、コンセンサスに従った読みをどこでも採用しているが、『ゼカリア書注解』3.14.8においてのみ、「『私を信じる者は』と聖書が言ったように」と前にかけて読んでいるのだという。なぜなら、Rahnerによれば、ヒエロニュムスはここで「聖書が言ったように」を、「聖書の声に含まれていることに従って(iuxta id quod scripturarum vocibus continetur)」とパラフレーズすることで、ある特定の箇所ではなく、聖書全般を指しているからである。つまり、この箇所は「聖書が言ったとおりに私を信じる者は」という意味で取ることができるようになるのである。しかしながら、論文著者はヒエロニュムスによるiuxta id quodという表現の用法を検証した結果、この表現が聖書全般を指す用例はなく、むしろ常に特定の聖書箇所を引用する用法ばかりであると述べている。それゆえに、やはりこのヒエロニュムスの例も、7:38bを前にかける読みの証言として使うことはできないのである。
論文著者はここから現代の解釈者による、7:38bを前にかける読みの例として、Günter ReimとAlcides Pinto da Silvaを挙げている。前者はイザ28:16を、後者はイザ55:1-3がこのときの引用箇所だと考えている。論文著者は双方の見解の不十分な点を指摘しつつも、いくつかの理由からReimの説の方が説得的であると考えた。そしてReimが同定したイザ53:1(「渇きを覚える者は皆、水のところへ進むがよい(πορεύεσθε)」)とヨハネとのつながりをさらに確定するために、論文著者は次のように主張する:まず、ὁ πιστεύων εἰς ἐμέはどこか特定の箇所からの引用としてではなく、ヨハネ福音書に特有の表現として見なすべきだと述べる。そしてヨハ7:33-36にある「ユダヤ人は来ることができない」というイエスの正反対の台詞に、このὁ πιστεύων εἰς ἐμέという条件をつけることで、イザ55:1の「進むがよい(πορεύεσθε)」を言い換える「来るがよい(ἐρχέσθω)」という言葉に繋がるのである。言い換えれば、この箇所はイザ55:1という引用の神学的な修飾であるのみならず、ヨハネ7章のより広い文脈と繋がっているのである。