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2015年12月16日水曜日

エウセビオスの護教論 Kofsky, "The Concept of Christian Prehistory"

  • Aryeh Kofsky, Eusebius of Caesarea Against Paganism (Leiden: Brill, 2002), pp. 100-14.
Eusebius of Caesarea Against PaganismEusebius of Caesarea Against Paganism
Arieh Kofsky

Brill Academic Pub 2002-08-01
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本論文は、カイサリアのエウセビオスの護教論の内在的な論理をまとめたものである。エウセビオスは3つの目的を持って著述活動をしていた:第一に、異教の宗教および哲学を粉砕すること、第二に、キリスト者によって好まれるヘブライ的宗教および哲学が異教のそれよりも優れていると証明すること、そして第三に、いかにしてキリスト教がユダヤ教から離れ、それを上回ったかを説明すること、である。またエウセビオスは、人間をギリシア人、ユダヤ人、そしてキリスト者の3種に分け、中でもキリスト者を第三の民と見なした(あるいは、キリスト教をユダヤ教とヘレニズムとの間に立つ第三の宗教と見なした)。エウセビオスの議論は畢竟するに、キリスト教が異教を破棄したこと、また聖書を受け継ぎつつもキリスト教がユダヤ教から逸脱したことという、二つの批判に対する反論であった。

父祖の宗教とキリスト教との同一視。エウセビオスによれば、キリスト教という名前自体は新しいが、その生き方や宗教的敬虔の倫理的な徳は、アブラハムら父祖の時代から連綿と続いてきたものであるという(『福音の論証』)。一方で、ユダヤ教が始まったのは、モーセが律法を制定してからのことであった。すなわち、エウセビオスはイエスによってもたらされたキリスト教をアブラハムら父祖たちの宗教と同一視しつつ、両者をモーセによって始められたユダヤ教から区別したのである。

ヘブライ人とユダヤ人との区別。『福音の準備』第7巻において、エウセビオスはまず異教の宗教や哲学に真理がないことを示したあと、「ヘブライ的」な宗教な哲学には真理が宿っていることを証明しようとした。このときの「ヘブライ人」は「ユダヤ人」から区別されている。前者が父祖たちのこと、そして引いてはキリスト者のことを意味するのに対し、後者はより後代に出てきたモーセの律法を遵守する者たちのことを意味する。モーセ自身はヘブライ人と見なされ、彼が律法を与えた者たち最初のユダヤ人となった。このユダヤ人たちはエジプトにいたために、エジプト人から悪い影響を受けてしまったのである。それゆえに、アブラハムと神とが交わした約束は、ユダヤ人ではなくキリスト者によって成就した。

ヘブライ的神学とキリスト教神学との同一視。ヘブライ人は、誤謬ばかりの異教徒と異なり、理性的な哲学者なので、エウセビオスは、フィロン、アリストブロス、ヨセフスもまたヘブライ人であると見なした。そのように考えることで、エウセビオスは特にフィロンのロゴス神学を三位一体につなげたのだった。その意味で、使徒ヨハネやパウロもまたヘブライ人であった。このようにして、ヘブライ的神学とキリスト教的神学とが同一視された。

七十人訳の重要性。『福音の準備』第8巻では、ユダヤ的政治形態および律法について議論されている。ユダヤ教の律法はあくまでユダヤ人にのみ有効であって、その他の民族には関わりがない。ユダヤ人は嫉妬心から自分たちの律法を隠していたが、七十人訳が作成されたことで、イエスの現れが準備されたのだった。ではなぜそもそもキリスト教は直接父祖の宗教から発生したのではなく、ユダヤ教から生まれたのだろうか。

ユダヤ人哲学者。エウセビオスによれば、それはそもそもユダヤ人の中にも、律法の文字通りの意味に従って生きる者たちと、律法の意味を理解してそこから哲学的に徳を獲得する者たちとがおり、モーセは後者を「ユダヤ人哲学者」として、律法を守る義務を免除した。エウセビオスは、こうしたユダヤ人哲学者の代表例をエッセネ派に見ている。またフィロンのことをヘブライ人哲学者であるとも見ている。エウセビオスによれば、ここでは「ユダヤ人」と「ヘブライ人」との区別に矛盾はないという。なぜならば、ユダヤ人哲学者とは、ユダヤ人の間で父祖の伝統を守り続けるヘブライ人のことだからである。

古い契約と新しい契約。エウセビオスは、父祖の宗教をキリスト教と同一視することを主張はしたが、その無理やりさも自覚していた。というのも、キリスト教は聖書を受け入れたのに、それに沿ってはいないからである。また間にはさまるユダヤ教との関係も問題である。そこでエウセビオスはより現実的な説明もした。彼によれば、2つの契約があり、1つ目の古い契約がユダヤ人の律法であった。この1つ目の契約は、父祖の宗教から離れたときに、多神教や偶像崇拝といったエジプト人の習慣を含んで出来上がったものである。モーセはこれを、メシアの到来によって更新される、あくまで一時的な契約として作った。2つ目の契約は新しい福音であり、すべての民族に向けられている。ただし、この新しい契約は新しくもあり古くもある。なぜなら、この契約はモーセの時代には隠されていたので、一見新しいものであるように見えるが、実際には1つ目の古い契約よりも古い父祖たちの時代から続くものだからである。

モーセは古い契約を一時的なものであると見なしていたので、ユダヤ人による新しい契約の拒否は、実はモーセの意志を裏切るものだといえる。というのも、ローマ人によるエルサレム神殿の破壊は、古い契約が神意によってもはや無効にされたことを示していると考えられたからである。一方で、新しい契約とは、実際には古い契約よりも古い父祖の時代からのものであったので、イエスの生と教えとは、アブラハムの古い宗教の再生であると見なされたのだった(それどころか、父祖たちは実際に「キリスト者」と呼ばれてさえいたのだとエウセビオスは主張する)。

このように考えると、エウセビオスは水平的にキリスト教がユダヤ教とヘレニズムとの間に立っていると考えていただけでなく、垂直的にキリスト教が両者の上に立っていると考えてもいたのが見て取れる。エウセビオスにとってのキリスト教は、ギリシアの誤謬および破損や、モーセによって導入されたすでに無効の契約を置き去りにするものであったのだ。

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