- Ben Zion Wacholder, "How Long Did Abram Stay in Egypt? A Study in Hellenistic, Qumran, and Rabbinic Chronography," Hebrew Union College Annual 35 (1964), pp. 43-56.
本論文は、アブラハム(混乱を避けるために本エントリーではアブラムの時代のこともアブラハムで表す)のエジプト滞在をめぐる時系列の問題を扱っている。創12:11-20のの記事に関して、古代においては、次の2点が問題となっていた:アブラハムがエジプトを訪れた本当の理由は何か?そして、彼はエジプトにどのくらい滞在したのか?
デメトリオス、アルタパノス、偽エウポレモスらギリシア・ユダヤ人作家は、アブラハムがエジプトを訪れたのは、天文学を含む科学の知識を伝えるためであり、その期間はたとえば20年といったかなり長い期間であるとする。
一方で、『ヨベル書』(宗派テクスト)は、アブラハムがエジプトにいたのは5年であるとしている。他にも『ヨベル書』は、時系列を加え、アブラハムを非難するファラオのセリフを省き、そして民12:22における、ヘブロンがツォアンより7年前に建設された記事を引用している。論文著者によれば、こうした『ヨベル書』の解釈は、『外典創世記』の解釈をもとにして考えるとよく分かるという。両者共に時系列と出来事の順番は同じだが、『外典創世記』はアブラハムがまずヘブロンで2年過ごし、それからエジプトで5年過ごしたことを説明している。いずれにせよ、両者は共に時系列についての関心を持っているといえる。ただし、『外典創世記』が相対的な時間軸を用いるのに対し、『ヨベル書』が絶対的な時間軸を用いていることから、前者の方がより古い時代に書かれたと考えられる。
ただし、『外典創世記』の著者は、自身や『ヨベル書』のような時系列の考え方以外にも、別の考え方があることを知っていたと考えられる。それが、ミシュナー、トセフタ、タルムード、『セデル・オーラム』といったラビ文学に残されている解釈である。これらは、アブラハムがハガルを側女にするためにはサラとの間に10年間子供がいないことが必要だったという見解をもとに、アブラハムがカナンで10年を過ごしたと想定するので、エジプトで過ごしたのは3ヶ月に過ぎなかったと考える。ラビ文学は、さらに「アブラハムのハランからの二度の出発」という解釈をも持っている。
また出12:40における、イスラエルの民がエジプトに住んでいたのは430年という記事と、創15:13における、アブラハムの子孫が違法の国で400年の間奴隷となるという記事とには、30年の矛盾がある。これを解決するために、ラビ文学は、430年とはアブラハムが神の幻を見たときからのことで、400年とはイサクの誕生からのことであると、それぞれ説明する。一方で、『ヨベル書』は430年がイサクの誕生からのことであることを説明するのみで、400年の方には触れない。『外典創世記』によるこの箇所の解釈は失われてしまっているが、傾向から鑑みて、『ヨベル書』と同じものだったに違いないと論文著者は考える。
以上のことから、明らかに時系列の説明に関して、二つの学派――『セデル・オーラム』を始めとするラビ文学に代表される学派と、『ヨベル書』や『外典創世記』を始めとする宗派テクストに代表される学派――があると考えられる。
さらに、デメトリオスを始めとするギリシア・ユダヤ人作家の学派の存在も想定できる。そもそも物語の時系列が研究対象として取り上げられるようになったのは、前3世紀のアレクサンドリアにおいてであり、ギリシアやエジプトの様々な文学の時系列が俎上に挙げられた。論文著者の言い方で言えば、The date of Abram's journey to Canaan became to the Hellenistic Jewish writers what the fall of Troy to the Greeks (p. 52)となる。
アブラハムのエジプト滞在に関する、ラビ文学、宗派テクスト、ギリシア・ユダヤ人作家の三者の解釈をそれぞれ比べたとき、論文著者は、ラビ文学と宗派テクストとは相容れないが、ギリシア・ユダヤ人作家と宗派テクストとは似たようなポジションを取っていると述べる。確かに、ラビ文学においては、アブラハムのカナン滞在を延ばしたためにエジプトに数か月しか滞在していないのに対し、ギリシア・ユダヤ人作家と宗派テクストにおいては、アブラハムが学問を伝えるのに十分な期間エジプトに滞在していたとされている。
三者のそれぞれの特徴としては以下のように言える:ギリシア・ユダヤ人作家は概して創世記の記述からかけ離れた解釈を施して、当時の文脈に合うように改変を施している。宗派テクストも同様の傾向があるが、それに反する箇所を省かない。ラビ文学はより現代的かつ主観的で、歴史としての聖書の記述よりも、聖書解釈に関心がある。