- A. Kamesar, "Biblical Interpretation in Philo," in The Cambridge Companion to Philo, ed. A. Kamesar (Cambridge: Cambridge University Press, 2009), pp. 65-91.
フィロンの聖書解釈の特徴を明らかにした論文を読みました。フィロンにとっての聖書は、ヘブライ語ではなくギリシア語訳の七十人訳でした。フィロンの七十人訳理解を知るために最も重要な個所は、『モーセの生涯』2.37-40です。この箇所については、さまざまに議論されてきましたが、嚆矢としてはS. Brockの研究が挙げられます。彼は、古代の翻訳論の二項対立、すなわち目標テクストを重視する文学的翻訳(意訳)に対し、起点テクストを重視する機械的な翻訳(逐語訳)、という二項対立の中で、フィロンは七十人訳を前者の文学的翻訳と考えていたと捉えました。
- S. Brock, "Aspects of Translation Technique in Antiquity," Greek, Roman, and Byzantine Studies 20 (1979): 69-87.
- Idem, "To Revise or Not to Revise: Attitudes to Jewish Bible Translation," in Septuagint, Scrolls and Cognate Writings, ed. G.J. Brooke and B. Lindars (Atlanta: Scholars Press, 1992), 301-38.
しかしKamesarは上記の『モーセの生涯』2.37-40を精読すると、驚くべきことに、フィロンはむしろ七十人訳の翻訳とは、意訳かつ逐語訳であると述べていると指摘します。ここでの逐語訳とは、単なる逐語訳ではなく、メタフォリカルでない、語源学的な訳のことを意味しています。ところで、こうしたタイプの逐語訳は、アクィラ訳の特徴としてよく言及されるものです。フィロンは七十人訳のことを、一方では意訳、他方では語源学的な逐語訳と説明しているわけです。どうしてこの2つが矛盾せずに同居できるのでしょうか。それは、フィロンによれば、七十人訳が霊感を受けた翻訳だからなのだそうです(§40)。七十人訳者たちは、言葉を用いずに(logos endiathetos)、モーセと交信することができたわけですから、言葉のレベルで訳を合わせるなど造作もないことだったとフィロンは考えています。つまり、フィロンは実際の翻訳上の起点テクストと目標テクストとの違いには関心がなく、とにかく七十人訳を神意に満ちた翻訳として描写すべく努力しているわけです。これは考えてみれば当然のことで、フィロンはヘブライ語を読めなかったわけですから、原典と訳文とを比較することはできないのです。
さて、こうしてフィロンにとって翻訳以上のものである七十人訳ですが、彼はその中でも五書に強い関心を持っています。Kamesarは、当時の文学ジャンルとの比較の中で、フィロンが五書をどのように評価していたかを論じています。通常、ヘレニズム期の聖書解釈は、当時のホメロス解釈から影響を受けていたと考えられていますが、結論から言うと、Kamesarはフィロンの時代において、文学ジャンルとして五書と比せられるべきは、ホメロスのような叙事詩ではなく、むしろ教訓詩だと結論付けています。フィロンによると、五書は、天文学的(cosmological)、歴史的(historical)、法的(legislative)部分の3つの文学ジャンルから構成されています。これはヨセフスなどにも見られる伝統的な考え方のようです。ここで注意すべきは、五書は神話(myth)を含んでいないということです。一方で、アリストテレス以来、詩にはミメーシス的(≒神話的)な詩と非ミメーシス的(≒非神話的)な詩があり、前者が叙事詩、悲劇、喜劇などを含むのに対し、後者は教訓詩を意味しています。そしてこの教訓詩の特徴として伝統的に挙げられていたのが、理論的(theoletical)、歴史的(historical)、倫理教育的(morally instructive)という3つの区分けです。これらはそれぞれ、フィロンによる五書の構成要素に対応しています。そして何よりも、五書と教訓詩には、共に、神話というミメーシスの最たる要素が欠けているという共通点があるのです。さらに、五書が教訓詩と同じジャンルであるならば、必ずしもアレゴリカルに解釈する必要はないので、フィロンの主張をつきつめると、彼は直解主義的な傾向をも持っていたといえます。フィロンの五書注解(Exposition)のシリーズにはこうした特徴がみられるそうです。
五書の歴史的な部分に関するフィロンのアレゴリカルな注解(Allegorical Commentary)は、まさにフィロンの代名詞として知られています。といっても彼は完全にリテラルな解釈を捨てたわけではなく、第一段階としては、リテラルに読むだけでは問題が生じるときに(defectus litterae)、アレゴリカルな解釈を必要としました。しかし、アレゴリーとは、本来神話を解釈するための方法でした。すると、リテラルに読んで問題が生じるからといって、アレゴリカルに五書を解釈してしまうと、それは五書に神話の解釈法を適用していることになってしまいます。これはフィロンがしばしば批判されたところでした。しかしフィロンはさらに、第二段階として、リテラルに読んで問題がないときですら、アレゴリカルな解釈をさらに加えるようになりました。これはもはや五書を神話的に解釈するためといったものではなく、五書のどんなところにも隠れた教訓的な意味を見つけるためのものでした。フィロンにとって、五書は霊感を受けた書物だったので、アレゴリカルに読みさえすれば、無価値なところなどどこにもなかったのです(つまりどこからでも教育的・教訓的意味を引き出すことができる)。ギリシア世界において文学の効用とは何かと問うたとき、アレクサンドリアでは「楽しみ」と捉え、ストア派は「教育」と捉えていましたが、ストア派ですら、楽しみとしての文学を否定することはありませんでした。しかしフィロンに至っては、五書を完全に教育的・教訓的に捉えていたのです(pan-didacticism)。これはおそらく、のちにラビ文学に引き継がれていく、ユダヤ的な伝統に即したものだったようです。まとめると、フィロンは、リテラルな意味が受け容れられないとき、アレゴリーを使って五書をある種の神話のように解釈しました(ギリシア的手法)。一方で、リテラルな意味でも読めるとき、リテラルな解釈を維持しつつ、やはりアレゴリカルな解釈をしました。これは、五書という霊感的な書物はアレゴリーを使えばどこを切っても教訓的になるからでした(ギリシア的+ユダヤ的手法)。フィロンの五書理解がしばしば二重に見えたのは、まさにこうした二重の解釈法を取っていたからなのでした。
読後の疑問点としては2つ。五書は文学ジャンルとしてはホメロスではなく教訓詩と比せられるべきだとしても、オリゲネスやヒエロニュムスなどの文献学者たちが五書を扱うときは、アレクサンドリアにおけるホメロス文献学を模範としてはのではないか。フィロンの注解(Exposition)シリーズにおけるフィロンの七十人訳理解が非神話的なものであるのに対し、アレゴリーを用いた注解(Allegorical Commentary)におけるリテラル解釈での神話的な読みをすることとが、どのように両立するのか。上の議論は、すでに発表されているKamesarの3つの論文をもとにしているようなので、いずれそれぞれ読んでみたいと思います。
- A. Kamesar, "The Logos Endiathetos and the Logos Prophorikos in Allegorical Interpretation: Philo of Alexandria and the D-Scholia to the Iliad," Greek, Roman, and Byzantine Studies 44 (2004): 163-81.
- Idem, "The Literary Genres of the Pentateuch as Seen from the Greek Perspective: The Testimony of Philo of Alexandria," The Studia Philonica Annual 9 (1997): 143-89.
- Idem, "Philo, the Presence of 'Paideutic' Myth in the Pentateuch, and the 'Principles' or Kephalaia of Mosaic Discourse," The Studia Philonica Annual 10 (1998): 34-65.