2012年10月15日 キリスト教と翻訳の問題(1)
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2012年10月27日 キリスト教と翻訳の問題(2)
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2012年10月30日 キリスト教と翻訳の問題(3)
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これらのエントリー中ではさまざまな重要なポイントが述べられていますが、私にとっては特に次の指摘が重要に思われました。
キリスト教において聖書原典が重要な位置を占めることは言うまでもないが、それは、近代以降の文献学の発展による批判的な原典テキストの校訂作業の成果であって、生きられた宗教としてのキリスト教にとって、中心は翻訳された聖書にあるのである。 (「キリスト教と翻訳の問題(1)」より)これまでの七十人訳研究(および少数ながらウルガータ研究)は、なんだかんだいってUrtextの再現のために仕方なく七十人訳を検討するという側面が強く、そうした翻訳を読者たちがどのように受容していたかということにまで思いを馳せることが少なかったように思います。つまり、翻訳そのものを見るのではなく、いつも原典を透かし見るための道具として翻訳を用いてきました。翻訳はどこまでいっても翻訳でしかない、という側面が確かにある一方で、原典の言語を読めない読者たちは、あたかもそれが原典であるかのように翻訳を読み、その枠内で議論をしてきたことを忘れてはなりません。原典に対して劣るものとして翻訳を切り捨てるのは、そうした議論をも切り捨てることに等しいと言えます。
そもそも、原典に対して翻訳を低く見ようとする考え方の中は、むしろ翻訳というものをむやみに過信しようとする心の機微が隠れているようにも思われます。翻訳が原典の正確な反映であると信じているからこそ、翻訳は原典以上(あるいは以下)のものたり得ないという結論に至ることができるのではないでしょうか。しかし、翻訳はそんなに単純なものではないはずです。オリゲネスがヘクサプラを作ったときに、七十人訳の欄において、原典にはなかったのに付加された部分、また原典にはあったのに削除された部分に、それぞれオべロス記号、アステリスコス記号をつけていますが、それと同じように、翻訳には、原典に対するさまざまな凹凸があります。この凹凸の中にこそ、おそらく翻訳者たちの人生までもが浮かび上がってくるようなドラマが隠れているはずなのですが、はたしてそういうものを見つけられるといいのですが。
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追加:
2012年10月31日 キリスト教と翻訳の問題(4)
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