英文科に入って世紀末の詩人を研究するか、それともラテン語学者を志そうかと大いに迷った。心を決めたのは、夢によってである。当時わたしが住んでいた原宿の家に、ホラティウスが訪ねて来た夢を見たのである。詩人はトガを着て、わたしの部屋の隣の板の間へ入って来て、「若者よ。古典を学べ」と言ったかどうかは憶えていないが、なんだかにこやかな様子だった。これがウェルギリウスなら”地獄篇”だが、わたしはウェルギリウスの方が好きだったにもかかわらず、なぜかホラティウスだった。この理由は今もって分からない(43頁)うらやましい。うちにも来てほしいなホラティウス。でもやっぱり原宿のようなオシャレな街に住んでたからホラティウスが来たのかもしれないですね。『牧歌』のウェルギリウスはもっと田舎かな。
それはそうと、無意識というものを知らなかった古代人は、よく夢の中に出てきた人物の発言で、その後の身の振り方を決めていたりします。むろんそれは、夢を見る前からすでに自分の中で決めていたことなんでしょうが、彼らはそうは考えなかったんですね。たとえばヒエロニュムスは、キケローやホラーティウスなどの古典文学を非常に愛好していたのですが、キリスト者として自分は本当にそれでいいのかと悩んでいたようで、砂漠で熱病にかかったときに、次のような夢を見たそうです(Ep. 22.30)。
そのとき、突然、私は霊において引きさらわれて、裁く方の見下ろす席の前に引き出されました。そこでは光はあまりにもおびただしく存在し、周囲に立つ者たちの明るさからの輝きがあまりにおびただしく存在するために、地面に投げ出された私はあえてまなざしを上に向ける勇気が起こらなかったほどです。私の身分を問われて、「私はキリスト教徒(Christianus)です」と答えました。すると、席に着いておられるその方は「あなたは嘘をついている」とおっしゃいました。「あなたはキケロの徒(Ciceronianus)ではあるが、キリスト教徒ではない。〈あなたの宝物のあるところに、あなたの心もある〉(マタ6:21)」。
その場で私は唖にされました。そして、鞭打ちの最中に――というのは、私を鞭打ちの刑にその方は処されましたから――良心の火によってよりいっそう私は苛まれました。あの詩句の意味を自分自身で思いめぐらしながら。「地獄では、誰があなたに賛美を捧げるでしょう」(詩6:6)。けれども、私は叫び始めました。そして、嘆きの大声を発しながら、語り始めました。「私を憐れんで下さい。主よ、私を憐れんで下さい」(詩57:2)。この声は鞭打ちの最中に反響していました。ついには、陪席していた人々が司る方の膝にひれ伏して、嘆願して下さいました。私の若さに免じて下さるようにと。私の過ちにひとまず悔悛の場所を与えて下さって、今後もしも私がいつか異教徒の文芸の書を読むようなことがあった暁に、あらためて、しかるべき責め苦を課して下さるようにというふうに。私はと言えば、これほどの危機に全身が金縛りの状態になってしまい、もっと大きな約束をしようと思ったものですから、誓い始めました。その方の名にかけて、こう言いながら。「主よ、もしも私がいつか世俗の書をもったなら、読んだなら、あなたを否認したことになります」。この誓約の言葉のために放免されて、私は上方の世界に帰ってきました。そしてすべての人々が驚く中で、涙がしのつく雨のように流れに流れて溢れる両の目を開けました。
(荒井洋一訳「書簡22」『中世思想原典集成4:初期ラテン教父』平凡社、1999年、707-8頁)とはいえ、ヒエロニュムスはここまで劇的な体験をしながらも、なんだかんだ言ってその後もキケローだのホラーティウスだのあちこちで引用しているんですけどね(本人曰く、本を手に取って読んだのではなく、記憶の中から引用しているからいいんだそうです)。ヒエロニュムスのラテン文学への「憧れ」はそれほど深かったんでしょう。
中世思想原典集成〈4〉初期ラテン教父 上智大学中世思想研究所 平凡社 1999-06 売り上げランキング : 364641 Amazonで詳しく見る by G-Tools |
0 件のコメント:
コメントを投稿