- Joseph McDonald, Searching for Sarah in the Second Temple Era: Images in the Hebrew Bible, the Septuagint, the Genesis Apocryphon, and the Antiquities (Scriptural Traces: Critical Perspectives on the Reception and Influence of the Bible 24; Library of Hebrew Bible/Old Testament Studies 693; London: T & T Clark, 2020), 1-31.
聖書研究において、たとえばアブラハムの研究が無数にあるのに対し、女性の登場人物への関心は必ずしも高かったとはいえない。そこで著者は、サラを主題に、ヘブライ語聖書、七十人訳、『創世記アポクリュフォン』、ヨセフス『古代誌』を物語批評の方法論で読んでいる。その結果、サラの「深い特性(deep traits)」はアブラハムのキャラクターへの度重なる類似性だといえるという。と同時にそれだけに留まらず、複雑でときに相反するキャラクターでもある。
この研究で著者は3つの目標を掲げている。第一に、比較的無視されてきた女性の登場人物を認知し、再発見することへの貢献、第二に、理論的で登場人物主導の物語批評的アプローチを取ること、そして第三に、第二神殿時代の文学の幅広く代表的なサラ理解を提供するのみならず、いわゆる再話聖書への有益なアプローチ方法を示すことである。そこで、これまでの多くの研究が「比較(comparative)」アプローチを取ってきたのに対し、本研究は「対照(contrastive)」アプローチを取る。このアプローチにおいてはテクストを機械的に並置することがあるが、そのときに要素の相互作用を見落とさないように気を付ける必要がある。また基準テクストとそこからの派生テクストという構図を取ることで、後者を十全に読み込まないという事態にも注意しなければならない。
第二神殿時代のサラの物語は、『ヨベル書』とフィロンの著作にも出てくるが、前者はサラへの無関心ゆえに、後者は過度の抽象化ゆえに、本書では扱わない。
マソラー本文のサラ研究は、エピソード的、テーマ・類型論的、そして概論的なものに大別される。マソラ―本文のサラに関する研究は、古代近東の文脈からサラを解釈するSavina TeubalとTammi Schneiderをはじめ数多い。七十人訳、『創アポ』、『古代誌』、第二神殿時代文学のサラ研究はそれほど多くない。これら先行研究に対し、著者は、こうした諸文学においてサラがどんな登場人物なのか、そしてそうした人物像はどのようにして作られたのか、という理解から議論を始めようとする。
「キャラクター」とは何か。キャラクターは架空の存在でありながら、時に現実の人間よりも生き生きとした実体を持つ。この二極について、Marvin Mudrickは、架空の性質をpurist、現実感のある性質をrealisticと呼んだ。著者は後者をrealisticだけでなくmimeticと呼んでいる。つまり、自分が知っている人間との人間的な類比として、文学上の登場人物の作られた現実感に注目するのである。こうしたアプローチはWilliam Harvey, Seymour Chatman, Baruch Hochmanらに見られる。架空のキャラクターと生身の人間は同じではないが、キャラクターを知るために使う方法論や道具は生身の人間との経験の中から作られるのである。
Chatmanはstoryとdiscourseを区別する。storyは出来事や行為や人物が「何」なのかを語る。一方でdiscourseは内容が伝えられる表現や手段が「どのように」なされるかを語る。これらは互いに関係しあっている。なぜなら、discourseを通じてstoryへのアクセスが得られるからである。またstoryは、劇、映画、小説と異なったメディアにおいても同じものとして伝えられるという転移能力(transposability)を持っている。これはstoryの構成要素であるキャラクターの持っている力でもある。
さらにChatmanはキャラクターとプロットを区別する。アリストテレスは悲劇においてキャラクターをプロットの下位に置いた。構造主義者はさらに進んで、キャラクターとは純粋に機能的なものであり、物語のアクションのために使えるものだと考えた。Chatmanは「特性のパラダイム」としてのキャラクターという考えを打ち出している。Chatmanによると、キャラクターの「特性」とは形容詞で表せる類のもので、キャラクターのある程度持続的な側面を描写する。またキャラクターはプロットを含む時系列に縛られない。
著者のキャラクターへの関心は、他の人々への人間的な関心という側面を持っている。それゆえに、キャラクターを知るために、著者は実在の人物との具体的な類似に注目する。すなわち、実在の人物に対してするように、矛盾した行動や発話を説明し、精神的・感情的な行動の動機を探ろうとするのである。すなわち著者のmimeticなアプローチは、puristアプローチがそうであるように、表現されたテクストであるdiscourseと格闘しなければならない。
読者の役割:我々がそうしたdiscourseを読むとき、それが作り出された言語や世界についてできる限り学ぶことは確かに重要である。しかし、結局のところ我々がそこから引き出すことができるのは、キャラクターやその行為の動機についての我々自身の理解にすぎない。つまり、そうしたテクストやキャラクターの「他者性」を認識しつつも、自分自身の知識と経験についてそのイメージを構築するほかないのである。
実際Wolfgang Iserによれば、意味がテクストの背後に隠れているという近代的感覚は正しくなく、むしろ意味は読むという行為の中で生み出されるものだという。つまり、文学テクストは、実在物の世界と読者自身の経験世界の間にある特異な中道に存在するわけである。そして読むという行為は振り子のように振れるテクスト構造にピンを刺そうとするプロセスなのである。それゆえにテクストには常に間隙や空白を残すような「不確定性(indeterminary)」が不可避的に付きまとう。そうした間隙を埋めることはdiscourseには無理で、ただ読者のみがそれをできる。逆に言えば、不確定性は読者の参加に対する前提条件、すなわちテクストと読者を橋渡しするものでもある。ただし、テクストの意味が読者の読むという行為に委ねられているのだとすると、その意味は読者の出来栄えにかかってくることになる。サラのようなキャラクターもまた、discourse構造と読者の意識の結節点において構築される。
しかしながら、サラが出てくる聖書の物語は、我々とはかなり異なる文化の人々により、そうした人々のために書かれたものである。こうした状況に対し、聖書学者は第一に、「非歴史的(ahistorical)」なアプローチを取った。すなわち構造主義的に「テクストそのもの(text-in-itself)」を強調した。それは結局のところ現在の「私にとってのテクスト(text-to-me)」を意味した。第二の立場は、そうした非歴史的立場への反動による「歴史的・文脈的(historical-contextual)」なアプローチである。この立場で問題とされているのは、テクストの成立した時代の聴衆や読者である。
確かにこの「非歴史」と「歴史・文脈」の2つの立場があるが、これらはきれいに切り離せるものではない。著者はその中間を行こうとする。すなわち、キャラクターにきっかけとして動く物語批評が、サラにまつわる古代の受容や再話に出会うところである。いわば、著者の関心は文学的なものだが、それをするために基礎的な歴史や影響についても考慮するということである。
また著者は、サラ物語の受容を扱うに際し、「菌糸状(rhizomorphous)」モデル(C.V. Stichele < G. Deleuze and F. Guattari)を採用する。すなわち中心となる幹から枝が伸びていくような「樹木状(arborescent)」モデルではなく、菌糸状モデルには中心もヒエラルキーもなく、確固とした始まりも終わりもない。受容の歴史とは動的に開かれたものであり、いくつもの始まりや終わりがあるはずである。それゆえに、受容史の中で取り上げられるテクストはそれ自体の統合性および生成能力を持っているのだから、他の特権的なテクストとの比較のためだけにあるのではない。
また古代の受容史を語るに際しても、「受容(reception)」というきわめて受動的な概念ではなく、むしろもっと能動的に干渉する(active intervention)ような「再話(retelling)」などという表現の方が適切であろう。何となれば、あるテクストを「読む」ことはとりもなおさずそれらを「書き換える(rewrite)」することといっていい。
以上のことから、著者はテクストの原語や表現を重視し、また歴史的文脈に目を配りながらも、遠く時空を隔てたテクストの理解の困難さ(すなわち「他者性(otherness)」)を自覚するので、歴史上の著者や読者には必ずしも関係のない著者自身の社会的位置や個人的関心に基づき、現在生きている人間を理解するようやり方でサラを理解しようとする。すなわち、男性、四十代、ローマ・カトリック、北部ヨーロッパ人の子孫、北アメリカ生まれ、文化横断的な経験のある、古い言語と物語を愛する、異性愛者、健常者、既婚の父親としての著者から見たサラを描く。
著者はサラの人物描写(characterization)を判断するに当たり、Chatmanによる「特性の枠組み(paradigm of traits)」という概念を用いる。キャラクターの特性とは、ある程度持続的な個々人の性質を指すが、物語の進展に伴ってそれは互いに衝突したり、浮き沈みを経たり、変容したり、消えてしまったりする(優しかった人物が残忍になるなど)。こうしたキャラクターの特性を読者が理解するのは、現実世界の人間との交わりの経験に基づく。Shlomith Rimmon-KenanやHochmanはこうしたChatmanの見解を「静的にすぎる」とし、キャラクターの志向的次元の議論をも取り入れるべきと主張する。著者としては、キャラクターの特性の衝突や成長を受け入れつつ、ある程度の構造や一貫性を要求している。
こうした人物描写の判断基準として、Robert Alterは計量スケールを提案した。すなわち、行為、容姿、他の人物のコメント、セリフ、思考、地の文の説明の順で、その人物の特徴づけの明示性や確証性が表現されるというものである。Alterによれば、行為や容姿は読者に推論させるだけであり、コメントやセリフはそうした主張を判断させ、思考や内面的なセリフは比較的確かであり、そして語り手の説明が最も信頼できるという。このスケールは影響力が大きかったが、むろんその曖昧さに対する反対意見も多い。とりわけAlice Bachは、物語の語り手はある意味ではキャラクターの一人であり、その中立性を安心して信じるわけにはいかないと主張する。そして本研究のように女性の姿を明らかにするためには、語り手が語ること以外にも目を向けなければならない。それゆえに、われわれ読者は語り手も含めて、語られていることの軽重を判断しなければならないのである。
Rimmon-Kenanはキャラクターの「直接的定義(direct definition)」と「間接的定義(indirect definition)」を区別する。前者は形容詞や名詞で語られるものであり、後者は体格、社会的位置、倫理的嗜好、感情などのことである。この2つの定義の区別はやや曖昧で、その線引きについて意見が一致しないことがある。直接的定義の方が間接的定義によりも上に来ることもあるが、それは永続するものではない(直接的定義でダビデは「若い」が、いずれ年を取る)。
とにかくキャラクターの構築や読みの自由度は直接的カテゴリーと間接的カテゴリーの間で異なっており、またカテゴリーの内部でも異なっている。つまり人生と同じように、文学的な状況を評価する機械的な方法はない。経験に照らして語られていることの軽重を量ることによって判断されるのみである。
そこで著者はHarveyにならいつつ、「関係性(relationality)」に注目する。すなわちキャラクターと別のキャラクターとのつながりの中で、関係性が人物描写に影響するという理解である。キャラクターは個人で直線的に存在するのではなく、人間というクロスロードの上にいるのである。それゆえに、誰かとの衝突、ジェンダーなどに注目する必要がある。当然ながら物語の語り手もまた、関係性の中にあると考えるべきである。発話が行為とぶつかることも、初期の行為があとの行為とぶつかることもある。そしてそうした結果に至るまでの「プロセス」という「直線性の概念(concept of linearity)」も忘れてはならない。
以上より、サラのようなキャラクターの構築は、特性(traits)という有機的な付着物によって影響されるが、それはdiscourseによってきっかけを与えられ、読者の精神において判断され、集められ、分離され、また集められる。読むというプロセスは、勘を使って仮説を立てていく連続的なプロセスであり、また初期の証言や現在の証拠を統合し、キャラクターの過去と未来を検証するプロセスでもある。