- Theresa Gross-Diaz, "The Latin Psalter," in The New Cambridge History of the Bible 2, ed. Richard Marsden and E. Ann Matter (Cambridge: Cambridge University Press, 2012), 427-45.
150篇を数える詩篇は中世のさまざまな人々にとって同様に、聖書の中でも最も重要な文書である。修道者にとってそれは祈りの基礎であり、観想の導きであった。教会作家にとっては新たなアイデアを試す主要テクストであった。また説教者にとっては説教を構成するための汲めども尽きせぬハンドブックであった。詩篇は説教や礼拝における口頭で聴くものばかりか、本として所有するものだった。
詩篇について強調するべきは、第一に、他の聖書文書についてはヒエロニュムスのヘブライ語に基づく翻訳が徐々に受け入れられていったのに対し、詩篇についてガリア詩篇が優先された。第二に、ガリア詩篇のテクストは中世において完全に安定してはいなかった。
ヒエロニュムスは3種類の詩篇を作った。最初に作成した古ラテン語訳の改訂はいわゆる「ローマ詩篇」であり、ピウス5世の時代までローマで、ヴァティカヌス2世の時代までサン・ピエトロ寺院でも用いられたものだと見なされてきたが、De Bruyneの研究以降これは否定されている。第二の詩篇である「ガリア詩篇」は、オリゲネス『ヘクサプラ』に基づき既存のラテン語訳を改訂したものである。第三はヘブライ語テクストに基づいた翻訳であるが、実際にはヘブライ語テクストだけでなく諸ギリシア語訳にも多くを負っている。これは研究と論争(特にユダヤ人との)のために作った翻訳だった。
ローマ詩篇は8世紀までにヨーロッパに広がった。これはベネディクト派の修道制の伝播と軌を一にしている。このためローマ詩篇は修道的な礼拝に深く影響を及ぼした。逆に礼拝において音楽に乗せて歌われたため、ローマ詩篇のフレーズが保存されることになった。スペインではローマ詩篇ではなく、類似テクストである「モサラベ詩篇(Mozarabic psalter)」が、またミラノでは「アンブロシウス詩篇(Ambrosian psalter)」が支配的だった。しかし、カロリング朝下での礼拝と聖書の改革によって、ローマ詩篇はその支配的立場から退くことになる。
ヒエロニュムス自身はヘブライ語詩篇こそが最も正確だと自負していたが、中世ヨーロッパにおいて最終的に支配的だったのはガリア詩篇だった。これはカロリング聖書にこれが収録されたためである。ただし、オルレアン司教テオドゥルフのように、正確なテクストに基づく正しい礼拝を求めたカロリング朝の政治的・教育的な宗教改革の担い手のうちには、ヘブライ語詩篇を採用した者もいた。
アルクインは七十人訳に基づく詩篇を求めた。これはカール大帝の宮廷でもそうだったし、のちに有名な写字室を持ったトゥールでもそうだった。そしてそれゆえに、アルクインが採用した詩篇はガリア詩篇と呼ばれるようになったのである。ただし、アルクインの聖書は本文批評については適切でなく、学術的な観点からテクストを校訂したものではなかった。ヒエロニュムスのオベロス記号やアステリスコス記号もほとんど保存していない。
アルクインがガリア詩篇を自分の聖書の詩篇に選んだ理由はよく分からない。ガリアにおいてもローマ詩篇が長く支配的だった。しかもカロリング詩篇が詩篇の選定と順番について従っているカンタベリーの8世紀のウェスパシアヌス詩篇(Vespasian Psalter)は、ガリア詩篇ではなくローマ詩篇である。ここからアルクインによるガリア詩篇への偏愛は偶然ではなく意図的だったと言えるだろう。
ガリア同様、イングランドでもローマ詩篇は支配的だったが、アイルランドでは影響力はなかった。アイルランドでは600年頃に古ラテン語訳からガリア詩篇に変わったことが知られている。同時にアイルランドではヘブライ語詩篇も知られていた。カール大帝の宮廷ではアイルランドの学者からの影響力が大きかったので、アルクインもガリア詩篇を重視したのではないかと論文著者は論じている。
11世紀になるとガリアからイングランドにガリア詩篇が輸入され、Eadwine Psalter(12世紀、カンタベリー)からも分かるように、他の版を圧倒するようになった。同時にガリア詩篇はガリアからスペインにも紹介されただけでなく、ローマやイタリアに再び戻ってきた。ラツィオで作られた「アトランティック聖書」は、カロリング朝の理想に則るかのようにガリア詩篇を採用している。アルクインによるガリア詩篇の選択は中世を超えて現代にまで影響を及ぼした。今でも詩篇の番号がヘブライ語と異なるのはこのためである。またガリア詩篇はパリ聖書を通じてグーテンベルクの印刷聖書にまで続いている。
カロリング朝のあとにもガリア詩篇は大きな影響力を持ったが、一方でテクストの正確さを追求する精神も続いていた。詩篇は神の言葉なのであるから、その神聖な言葉を正しく知りたいと考えたのである。12世紀のシトー会のステファン・ハーディングは、ユダヤ人の助けを借りてガリア詩篇を改訂した。シトー会のニコラス・マンジャコリアもローマでユダヤ人と共に3種類の詩篇を比較検討し、ヘブライ語詩篇が最も優れていると評価した。これらシトー会の修道士たちによる詩篇改訂の機運は、詩篇という礼拝の中心テクストに対する修道的な観点からの関心によるものである。
13世紀になると「パリ聖書」に代表される本文批評の試みも生まれた。ロジャー・ベーコンに言わせると、パリの者たちの聖書テクスト選択は恣意的で、単一のテクストをほしい学者たちのニーズに合わせたものにすぎなかったという。確かにパリ聖書のテクストは完全に正確でも安定的でもない。ただし、サン・シェールのヒューゴーやウィリアム・デ・ラ・メアら多くのcorrectoresによる科学的な観点からの批判が加えられた。彼らはヒエロニュムスの3種類の版、古ラテン語訳、教父やカロリング期の注解のレンマなどを比較し、カテーナ形式で自分の発見を記録した。
修道者たちは世俗の教会よりも多くの時間を祈りに使うことができたので、詩篇を朗読することは聖務日課の基礎となった。とりわけ、一週間で詩篇全篇を朗誦するベネディクト会の修道制が盛んになったので、その方法が基準となった。特定の詩篇(66, 148-150など)は毎日朗誦され、別のものは特別の祭日や特定の礼拝においてのみ朗誦された。また詩篇を朗誦することは敬虔さの証とも見なされた。
平信徒の詩篇に対する関心も高かった。9世紀のある富裕な家族は家族全員が詩篇を本で持っていたという。また中世の終わりにもなると、一般的な人々が競って詩篇を所有しようとしていた。彼らはラテン語と英語が併記された詩篇を読んでいたようだが、ここから平信徒であってもラテン語を一部理解していた可能性が示唆される。また平信徒にとっての詩篇朗誦は、何らかの罪を犯したときの厳しい罰の代わりの温情として機能することもあった。たとえば、本来であれば一年間パンと水しか口にできないところを、詩篇の150篇を三日三晩朗誦することで許されたのである。
修道士たちのものであれ平信徒たちのものであれ、詩篇は聖書の一部(三部あるいは五部に分けられてパンデクトの中に収められる「聖書的詩篇(biblical psalter)」としてよりも、礼拝のテクスト一式として見なされていた(「礼拝的詩篇(liturgical psalter)」)。とりわけ詩篇6, 31, 37, 50, 101, 129, 142篇は「7つの改悛詩篇」として特別な位置を占めていた。このように詩篇の祈祷書は、修道者と世俗の平信徒によって聖務日課のために用いられた礼拝的詩篇のハイブリッドだった。
中世を通して、詩篇は修道院や大聖堂における共同の礼拝の書であり、個人の祈りや平信徒の信心の導きであり、教養を教え芸術的な観念の霊感となるテクストであり、神学者や説教者の汲めども尽きせぬ源泉だった。