日本ではまったく話題になっていないようなのでここに少しまとめておこうと思うのですが、ヤン・ヨーステン(Jan Joosten)という著名な旧約聖書学者が、滞在先のフランスで6月18日にチャイルド・ポルノの所持で禁固1年の有罪判決を受けました。子ども(多くはアジア系)のレイプを含む27,000もの画像と7,000本の動画を所持していたとのことです。これらは少なくとも6年間もの長きに亘ってダウンロードされてきたもので、昨日や今日始まったことではありません。ヨーステンはこれから3年間の治療を受ける必要があり、また今後一切未成年者の教育に関わることを禁じられました。
報道について詳しくは『ガーディアン』紙(6月22日の記事)をご覧ください。
https://www.theguardian.com/world/2020/jun/22/oxford-university-professor-jan-joosten-jailed-france-child-abuse-images
ヨーステンはストラスブール大学やオックスフォード大学で教授を務め、旧約聖書学では大きな業績を挙げてきた研究者です。旧約聖書学のリーディング・ジャーナルの一つである『Vetus Testamentum』誌の編集長も努めていました。また生まれ故郷のベルギーでは牧師でもあったそうです。
この報道を受けて、各学術機関も対応を始めています。勤務先であるオックスフォード大学オリエント学部およびクライスト・チャーチは、ヨーステンを停職処分にしています。
https://www.chch.ox.ac.uk/news/house/statement-regarding-professor-jan-joosten
また聖書学関係の学会であるSBL、IOSCS、SOTS、学術雑誌のJBL、DSDなども、ヨーステンをポジションから外すことを決定しました。
こうした状況の中で、驚くべきことに先日ヨーステン本人が自身のAcademiaページで声明を発表しました。インターネット犯罪の有罪判決を受けているのに、パソコンにアクセスできるというのは不思議なことだと思うのですが、どうなっているのでしょう。またこの声明では家族や同僚や友人に対する謝罪は書かれているのですが、彼が間接的に加担した犯罪の被害者である子どもたちへの謝罪は書かれていません。
https://www.academia.edu/43435754/Statement
リーズ大学のジョアンナ・スティーベルト(Johanna Stiebert)もまた、ブログポストの中で、ヨーステンがパソコンへのアクセスができることに驚いています。彼女はもともと知り合いでもあったヨーステンに対し、今回のことを非難するメールを書いたのですが、それに対し彼からすぐに返事があったそうです(このブログポストには、スティーベルトがかつて交流したことのある「囚人」とのエピソードなども対比的に書いてあり、とても読ませる内容です)。
http://shiloh-project.group.shef.ac.uk/privilege-beyond-bounds-a-response-to-the-conviction-of-jan-joosten/
公判中にヨーステンは、自分がチャイルド・ポルノへの中毒に陥っていたと述べ、その中毒状態のことを「自分自身とは矛盾する秘密の園(a secret garden, in contradiction with myself)」と表現したようです。これについて、バーネットの有名な小説『秘密の花園』や、旧約聖書の雅歌の一節(4:12「私の妹、花嫁は閉じられた園。閉じられた池、封じられた泉」)を暗示しているのではないか、という指摘があります。そうだとするならば、文学全般、とりわけ彼自身の専門である旧約聖書への度し難い冒涜といえるでしょう。
https://www.csbvbristol.org.uk/2020/06/26/responsible-scholarship/
一連の事態に対し、近接分野の研究者たちはさまざまに反応しています。大方は彼を断罪するものですが、中には、彼の行為は許しがたいが研究上の業績は別物であるという意見もあります。これはたとえば米国カトリック大学のアラム語学者エドワード・クック(Edward Cook)の記事などに見られます。
https://ralphriver.blogspot.com/2020/06/statement-regarding-prof-jan-joosten.html
こうした観点から、インターネット上では、チャイルド・ポルノのような重大犯罪を犯した研究者の学術的な著作を出版したり引用したりするのは倫理的に許されることなのか、という議論に発展しています。この点について、アパラチア州立大学のスティーヴン・ヤングが分かりやすい記事を書いています。この中で彼は上のクックのような半擁護派の言説を紹介したあと、そうした態度は男性の性犯罪者に対する共感的な甘さ「Himpathy(HimとSympathyを組み合わせたKate Manneの造語)」に過ぎないと断じています。そして、「重大犯罪を犯した研究者の人間性と研究成果を区別するなどというのはレトリックに過ぎない」というニューヨーク大学のアネット・ヨシコ・リード(Annette Yoshiko Reed)のツイートなどを紹介しています。愛すべきは犯罪者の業績ではなく犠牲者だろうに、というのがヤングの結論です。
https://religiondispatches.org/love-the-scholarship-but-hate-the-scholars-sin-himpathy-for-an-academic-pedophile-enables-a-culture-of-abuse/
これはひょっとすると私が知らないだけでどの学問分野でも起こっていることなのかもしれませんが、ここ何年か特に聖書学者や古典学者によるチャイルド・ポルノ関係の事件をときどき目にします。古くはミネソタ大学のリチャード・ペルヴォ(Richard Pervo)の事件があります。
https://www.upi.com/Archives/2001/02/13/Kiddie-porn-found-on-profs-computer/1138982040400/
彼はチャイルド・ポルノ所持で2001年に有罪判決を受けたのですが、驚くべきことに2017年に彼の業績を記念する献呈論文集が出版されており、そこにはこの犯罪についての言及がありません。
https://www.mohrsiebeck.com/en/book/delightful-acts-9783161555114?no_cache=1&createPdf=true
他にも近年では、たとえば次のような研究者たちによる犯罪が思い出されます。
アウグスティヌス研究で知られていたヴィラノヴァ大学のクリストファー・ハース(Christopher Haas)は、チャイルド・ポルノ所持で逮捕され、収監直前に自殺しました。
https://www.delcotimes.com/news/villanova-prof-facing-prison-time-for-child-porn-takes-own-life/article_b75d8292-e521-5b97-b0e9-2585ce704cc1.html
ヘブライ語・アラム語文学研究で非常に有名な研究者であるダラム大学のリチャード・ヘイワード(C.T.R. Hayward)も、チャイルド・ポルノ所持で捕まりましたが、禁固刑を免れ、それどころかダラム大学でレクチャーをする機会すら与えられました(大学に雇われているわけではないようですが)。
https://virtueonline.org/durham-uk-convicted-child-porn-theology-professor-back-teaching-university
シンシナティ大学の古典学者ホルト・パーカー(Holt Parker)は、チャイルド・ポルノの所持のみならず、ダディー・クルーエルという名前でそうした画像を頒布してもいたことで逮捕されました。逮捕時に証拠隠滅を図ったことも分かっています。
https://www.cincinnati.com/story/news/2017/01/26/ex-uc-professor-sentenced-thursday-had-child-porn-addiction/97080718/
最後の古典学者であるパーカーはともかく、聖書学者の中には学者であると同時に聖職者でもある者もいるので、これは学問の問題というよりも、映画『スポットライト』で描かれていたような教会の問題でもあるのかもしれません。いずれにせよ、ヨーステンをはじめとする犯罪者たちが厳罰に処されることを望みます。
2020年6月28日日曜日
2020年6月10日水曜日
アブラハムとロトの別れ(1) Rickett, Separating Abram and Lot #1
- Dan Rickett, Separating Abram and Lot: The Narrative Role and Early Reception of Genesis 13 (Themes in Biblical Narrative 26; Leiden: Brill, 2020), 1-28.
導入
創世記13章はアブラムとロトの別れの物語を伝えている。創世記13章はいかに機能し、またロトは個人として、そしてアブラムとの関係に関していかに特徴付けられるのか。これらの問いに対し、現代の釈義家たちは、創世記13章は潜在的な相続人としてのロトを取り除く機能を持っており、またロトはアブラムに対する倫理的な対比として特徴付けられていると答える。しかし、この答えは正しいのだろうか。
こうした問題を扱うために、著者は研究の方法論として、文芸学的(literary)/物語的(narrative)方法を採る。すなわち、テクストの成立史や歴史学的な問題はひとまず脇に置き、テクストをすでに完成した統一的なものとして、またホリスティックな物語ユニットとして捉えるのである。こうした方法論によるテクスト読解は、共時的なものとなる。
これまで、アブラムとロトの別れは、モアブとアンモンに対するイスラエルの衝突であるとされてきた。また多くの研究者は、創世記13章の機能とはアブラムの潜在的な相続人としてのロトを排除し、また彼をアブラムとの倫理的な対比として描くことだと考えてきた。つまり、アブラムは正しく敬虔な人物であるのに対し、ロトは自分勝手な愚か者とされているという解釈である。
こうした通説に対し、著者は3つの問いを立てる。第一に、ロトをアブラムの相続人であると同時にその倫理的な対応相手であると理解することは、テクストが表していることを最もよく反映しているだろうか。第二に、もしそうした理解がテクスト固有のものでないとすると、そうした読みの起源は何だろうか。そして第三に、そうした理解がベストでないとすると、創世記13章はどのように理解されるべきだろうか。
著者は創世記13章のテクストと初期の受容に目を向ける。すると言えるのは、第一に、上のような現代の釈義家たちの理解は物語の中心テーマを最もよく反映してはいない。第二に、そうした読みはもともと古代のユダヤ・キリスト教釈義家たちがアブラムを守るために発展させたものである。そして第三に、著者はアブラハム物語や創世記全体における創世記13章の位置と機能について、新しい読みを提案する。
ユダヤ・キリスト教釈義家たちは、この箇所をめぐるさまざまな問題に気づいていた。ユダヤ人釈義家はロトをトーラー否定の例として捉え、キリスト教釈義家はのちに彼がソドムから救われることを通して見た。どちらかというと、ユダヤ教の解釈でロトは否定的に描かれている。こうした伝統的な解釈を見ると、現代の釈義家による、アブラムのネガティブな対象相手としてのロトという理解は、テクストそのものが持っているものではなく、アブラムの立場を守ろうとする古代の釈義家の関心を反映したものだと言える。
著者は、創世記13章の新たな読みを提案することで、アブラムに対するロトの関係性を父子関係ではなく兄弟関係(brotherhood)の中に見出すことができると主張する。
第1章
著者は創世記12:4におけるアブラムの召命と13章の冒頭を精読することで、次のようなことを明らかにした。第一に、アブラムが「父の家」、すなわち家族の最小単位を離れるように命じられていること。第二に、ロトはその「父の家」の成員として描かれていること。第三に、アブラムがロトを養子にしたり、自分の相続人となり得ると見なしたりということは言明されていないこと。そして第四に、ロトがアブラムの「家」とは別の「家」の成員であるという描写は、創世記12章にはじまり、13章に続いていることである。
ロトがアブラムの「家」の者であるならば、ロトを連れて行ったことは問題ないが、別の「家」の者であるならば、それは主の命令に反したことになる。創世記12章の家計図によれば、ロトはあくまでアブラムの兄弟ハランの子、またアブラムの父テラの孫として説明されている。つまり、テラの「家」の者であって、アブラムの息子ではない。それゆえに、本来であればロトはアブラムの旅に付いていくべきではない。
13章では、アブラムのみが主の名を呼んで賛美したことや、アブラムとロトがそれぞれに裕福であることなどが語られる。ロトの財産への言及は、彼がアブラムと独立して裕福であり、別の「家」の成員であることを示している。
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