- Gabriele Boccaccini, Beyond the Essene Hypothesis: The Parting of the Ways between Qumran and Enochic Judaism (Grand Rapids, Mich.: Eerdmans, 1998), 119-62.
Beyond the Essene Hypothesis: The Parting of the Ways between Qumran and Enochic Judaism (English Edition)
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Wm. B. Eerdmans Publishing (1998-03-30)
『ダマスコ文書』はクムラン共同体の起源を理解するために重要な文書である。同書はエノク派運動の内部で、義の教師の支持者による特別な党派の存在を前提としている。とはいえ、これ自体はクムラン以前の文書なので、実際には初期エノク派文書とクムランの党派的テクストの橋渡し役と言える。というのも、同書は党派的テクストの特徴を持ちつつも、人間の自由意志をある程度認め、予定説をあまり強調せず、二元論も秀でていない。社会学的観点からいうと、それまでのエノク派伝統よりも厳格な、他のユダヤ人口からの分離を求めつつも、イスラエルの公共の宗教的機関から完全に分離するには至っていないといえる。
『ダマスコ文書』が「ツァドクの子ら」(4:2-4)に言及していることから、クムラン共同体が、分離したツァドク派祭司によって設立されたと説明されることがあるが、著者によれば、これはエノク派ユダヤ教がツァドク派と同じ祭司的環境にあったことによる。
『ダマスコ文書』は、エノク派ユダヤ教のエリートによって、より広いエノク派運動に向けて書かれたものである。彼らはマカベア戦争以後に徐々に自分たちが選ばれた別のグループであるという意識を強めていき、全イスラエルに代わって神の約束を成就させるという使命を担っていると考えるようになった。
クムランではどのテクストが見つからないのかを考えることも重要である:パリサイ派的なテクスト(『ソロモンの詩篇』)、ハスモン朝的なテクスト(『第一マカベア書』、『ユディト記』)、ヘレニズム・ユダヤ教的なテクスト(『アリステアスの手紙』、『第三マカベア書』、『ソロモンの知恵』、フィロンの著作など)、キリスト教的なテクスト(新約聖書など)は見つかっていない。
これら以上に特筆すべきは、後期エノク派文学の不在である。『寝ずの番人の書』、『天文の書』、『夢幻の書』、『プロト・エノク書簡』などは、死海文書のうちでも中心的な存在であったが、『エノク書簡』、『十二族長の遺訓』、『たとえの書』のような、前1世紀頃に書かれたエノク派ユダヤ教の重要文書は、クムランには見られない。党派的テクストも、エノクに関する伝承に関心を失っていることが見て取れる。
クムランでは知られていなかったエノク派文書としては、まず『エノク書簡』がある。『プロト・エノク書簡』はプレ党派的文書だったが、『エノク書簡』は、クムラン共同体以外のグループによって書かれたポスト党派的な文書である。クムランで見つかっている『エノク書簡』断片は『プロト・エノク書簡』の部分のみであり、より長く後代の94:6-104:6部分はない。さらに106-7章が『ノアの書』から採られ、『エノク書』全体のサマリーのようなものとして編纂者によって付け加えられている。
さらに、『プロト・エノク書簡』の思想と違い、『エノク書簡』は神殿、神殿祭儀、祭司制に反対の立場を取っている。とりわけ98:4には、人間は自分の犯した罪の責任があるという、反クムラン的な考え方が見られる。「罪」は人間に責任があるという考えは、『エノク書』全体で言われている、悪は天使に由来するという考えと矛盾しない。なぜなら、罪を「発明」したのは個人なので、個人に責任があるからである。このようにして、『エノク書』全体としては、人間の責任と人間の犠牲という相矛盾する考えが同居することになる。どちらかだけを取ると、神が悪の源になってしまうからである。罪はこの世に輸入されたものなので人間にその責任はないというラディカルな立場は、クムランだけに見られる。
このように、『エノク書簡』の研究は、いかに『プロト・エノク書簡』が修正されたかを見極めることといえる。修正者の目的は、クムランの党派的な神学思想に沿って『プロト・エノク書』を発展させることであった。『エノク書簡』は「選ばれた者」と「悪人」を区別しつつ、それぞれを「貧者」と「富者」と同一視している。このときの「貧者」は個人を重視する『ダマスコ文書』と異なり、社会学的なレベルで包括的な意味を持っている。これは、クムラン的な「分離」の思想とはかけ離れている。「選ばれた者」=「貧者」は、救済されているのではなく、救済の候補者である。
『十二族長の遺訓』は、クムランで見つかっていない。現在の状態がキリスト教的であるがゆえに、その起源からキリスト教文書であった可能性を指摘する研究者もいるが、非ラビ・ユダヤ教的であるからといって、非ユダヤ的であるとはいえない。『十二族長』の非ラビ・ユダヤ教的な要素は「中期ユダヤ教」の多層性に由来する。『十二族長』は、悪が人間以上の存在に起源を持つこと、モーセ以前の祭司伝統、エノクの権威、イスラエルが依然として捕囚の身であること、神殿の回復は終末に実現することなどから、エノク派ユダヤ教の伝統に位置する。
『十二族長』は、クムランの党派的文書とアイデアを共有している。しかし、悪の存在を人間の責任にも帰するという考え方において、非常に異なっている。人間は単なる天使的な罪の被害者ではなく、天使同様に責任ある立場である。善と悪の内的な戦いという、人間に共通するイメージを持つ『十二族長』は、エノク派的伝統よりもさらに普遍主義的なアプローチを取る。
『たとえの書』は最後のエノク派ユダヤ教テクストというわけではないが、クムランの文書と起源を同じくしない最初のテクストである。非クムラン的、さらに言えば、反クムラン的文書といえる。同書の断片はクムランからは見つかっていない。その理由を研究者たちはさまざまに語るが、著者によれば、それは『たとえの書』がクムランとエノク派が分裂したあとに書かれた文書だからであるという。
同書においては、世界は善悪の二元論で説明される。個人の予定論は否定され、『エノク書簡』のように、義人と罪人は貧者と富者と同一視される。堕天使による原罪は、アダムの原罪に取って代わられる。『たとえの書』はJ.C. VanderKamによれば「反転の概念(notion of reversal)」を中心としているという。現世では富者が貧者を虐げているが、終末においてはそれが反転する。
クムランでは予定論的な考え方をするために、メシア待望は中心的ではなかったが、『たとえの書』はダニエル的な「人の子」を悪のエノク的教義における中心人物とみなしている。人の子が先在することで、天使や人の自由を否定しない形で、神がこの世を予見し、支配しているということができる。
このように、クムラン共同体はエノク派文学に関心を失ったわけだが、それはクムランが黙示的でなくなったのではなく、エノク派的でなくなったのである。その結果が『たとえの書』に現れている分裂であった。
『たとえの書』以降のさまざまな党派的テクストも、分裂以後のものである。ペシャリーム、『共同体の規則』、『戦いの巻物』、『会衆規定』などがそれに当たる。そこでは、義の教師、悪の祭司、敵対グループ、内部の反発者グループの存在が示されている。敵対者は、外部の者も内部の者も同様に否定的に描かれる。他のユダヤ教グループからの分離を正当化するために、二元論と予定論が組み合わされる。エノク派から分裂したことで終末論も変化し、終末においてはすべての民がクムラン共同体に統一されることになるという。『共同体の規則』はヤハドのみの規則ではなく、すべての民の規則である。こうして、クムラン党派テクストは、キリスト教に受け継がれる「交替の神学(theology of supersession)」を初めて示した。これらの考え方は、クムラン共同体を外界から完全に分離させたのだった(dualism, individual predestination, and self-segregation)。
クムランの党派的テクストで中期ユダヤ思想の発展において重要な影響を与えたものはない。クムラン外部の党派的テクストは、マサダとカイロ・ゲニザで見つかっている。マサダでは、ヘブライ語『ベン・シラ』と『ヨベル書』断片意外に、党派的テクストとしては『安息日犠牲の歌』が見つかっている。一方で、カイロ・ゲニザでは2つの『ダマスコ文書』写本が見つかっている。この理由は、マサダに関しては、おそらくクムランからマサダにやってきた避難民がこれらの写本を携えていたから、そしてカイロ・ゲニザに関しては、クムラン周辺で見つかった写本をカライ派が書き写し、保存していたからであろう。このように、エノク派文学は、キリスト教徒やラビたちを含め、クムラン外部でも読まれていたが、最もよく読まれていたであろう『ヨベル書』は、最も非党派的なテクストである。エノク派が外界との接触を保っていたのに対し、クムラン共同体は内にこもったのだった。
まとめ:以上のように、エノク派文学からクムラン文学にはひとつの鎖が続いている。『寝ずの番人の書』『アラム語レビの遺訓』『天文の書』(前4-3世紀)から、『夢幻の書』(マカベア戦争)、『ヨベル書』『神殿の巻物』(戦争直後)、『プロト・エノク書簡』『ハラハー書簡』(前2世紀中盤)、『ダマスコ文書』と党派的文書(前2世紀後半から後1世紀)。悪が人間の責任ではないという考えを共有しつつ、『ダマスコ文書』以降は義の教師のもとでエノク派ユダヤ教から独立したグループが生じ、党派的文書の時代にクムランに定住した。
『ヨベル書』および『神殿の巻物』の時代には、クムランにはツァドク派文学からの影響も入った。エゼキエル書を共有しつつ、エノク派とツァドク派はそれぞれの道を歩んだ。しかし、マカベア戦争とともにツァドク派の力は衰え、その文学はユダヤ教の遺産として共有されるようになった。
エノク派の鎖は、クムラン共同体の設立の直前で分離している。クムランの文学をつぶさに観察すると、自分たちの世界観に合致しないテクストを注意深く排除しつつ、合致するものだけを集めていることが分かる。つまり、クムラン文書は偶然の産物ではない。『エノク書簡』、『十二族長の遺訓』、『たとえの書』を持つグループは、そのままエノク派の遺産を受け継いでいった。一方で、クムランの流れはより予定論的な思想を発展させ、過激な少数派となっていった。