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2015年4月8日水曜日

『律法儀礼遵守論』のエピローグ Van Weisenberg, "4QMMT: Towards an Understanding of the Epilogue"

  • Hanne van Weisenberg, "4QMMT: Towards an Understanding of the Epilogue," Revue de Qumran 21 (2003): 29-45.

本論文は、『律法儀礼遵守論』(4QMMT、以下『律法』)の三区分のうちのセクションCを中心に検証することで、申命記からの影響を指摘したものである。著者によれば、法規を扱っているセクションBに比べて、エピローグに当たるセクションCの研究は手薄であるという。そこで著者はエピローグに注目することで、『律法』の構成における同セクションの役割を明らかにしようとしているのである。

著者はまず、全部で6つ見つかっている『律法』の写本から、校訂者が作成した合成テクストの再検証から始めている。それによると、エピローグを含むのは、4Q397、4Q398、4Q399であり、それぞれほとんど重複する箇所がないのだという。ほとんどヴァリアントがない法規部分に比して、エピローグにはしばしば異読が見られる。

『律法』の編集過程に関する研究としては、Charlotte HempelとMiguel Perez Fernandezの研究がある。前者は『律法』の法規部分と『ダマスコ文書』との共通点を明らかにしたものであり、後者はシンタックスや内容から、法規部分とエピローグの切れ目を従来のものと異なった箇所に施す試みである。こうした先行研究から、著者は法規部分で語られている、祭司性、浄不浄の問題、犠牲、聖域、聖性などといった事柄はエピローグでは一切使われていないと述べる。

こうした法規部分とエピローグとで使われるタームの違いは、それぞれが別のスタイルと特徴を持っているからと考えられる。著者によれば、法規部分が主に依拠しているのはレビ記と民数記であるのに対し、エピローグは申命記に依拠しているという。ただしこれは、法規部分とエピローグが別の文書だったということではなく、それぞれが異なった内容とジャンルであるからである。また、法規部分はそれだけでも独立した文書たり得るが、エピローグは法規部分に依存しているという。

法規部分の法規自体はレビ記と民数記に依拠しているが、スタイルの上で同部分は申命記からの影響も受けている。たとえば、『律法』は一人称複数で語られているが、これは申命記1-3章でのモーセの語りを髣髴とさせる。

2015年4月6日月曜日

『律法儀礼遵守論』のジャンル Grossman, "Reading 4QMMT"

  • Maxine L. Grossman, "Reading 4QMMT: Genre and History," Revue de Qumran 20 (2001): 3-22.

本論文は、『律法儀礼遵守論』(4QMMT、以下『律法』)の文学ジャンルとして適したものをいくつか仮定し、それぞれのジャンルだった場合にどのように読みが変わるかを検証したものである。Steven D. Fraadeは、『律法』の名宛人が外部グループではなく、仮に内部の人間であると仮定して、同書を再読するという「レトリカルな実験」をした。これを参考にして、著者はまず同書のジャンルの可能性として、第一に、外部グループに対する手紙、第二に、内部グループに対する論文を挙げている。

手紙と論文というのは、文書の形式や内容のみを問題にしているときには、峻別しがたいものだが、著者性と舞台に注目すると、大きく異なってくる。すなわち、手紙とは特定の著者によって別の特定の読者に向けて書かれ、そのとき読者が属するサークルは、空間的にも理念的にも著者のそれの外側にある。また手紙は、著者たちが描いている状況と同時代のものであり、それを読んでいる者たちも同時代人である。一方で、(古代における)論文には必ずしも著者は必要ないが、特定の読者がいる。そして論文はそれが描いている事実と同時代か、あるいは状況を回顧的に思い出して書いた事後のものである。すなわち論文といっても二種類あり、一つは現在の状況を描く内部に向けたテクストと、もう一つは出来事や規定が起こったあと書かれた事後のテクストである。

まず著者は『律法』を手紙として読む。すると、その調子や内容から、我々はクムラン共同体の黎明期を導いた衝突の記録を見て取ることができる。そうした前提のもとで『ダマスコ文書』やペシャリームと比較すると、『律法』の著者は義の教師のメンバーか義の教師その人であると考えられる。そして著者が義の教師であれば、『ハバクク書ペシェル』などから、手紙の宛名は悪の祭司となる。

次に、『律法』を、共同体の設立と同時代に書かれた論文として読むと、内部の人間が書いたものであることが見て取れる。論文としての『律法』は、共同体の設立を記録し、それを非敵対的な調子で語ることで、敵対者を諭しているのである。ただし、このとき『律法』は特定の衝突に言及しているわけではなく、グループを形成してきたさまざまな問題のコンピレーションとなっているのである。すると、むろん敵対者の悪の祭司に対する関連性も弱まり、そもそも著者と敵対者との相互の敵対関係ではなく、著者による相手への一方的な敵愾心しかなかったかもしれなくなる。

ここで共同体による『律法』の受容に目を向けると、同書は共同体のメンバーが自分たちの設立や中心的な概念を理解するための勉強用のテクストとして、あるいは入会希望者が入会するためのテクストとして、ごく初期に用いられていたと考えられる。すなわち、『律法』はある種の権威を持っていたのである。特に後代の者たちは、共同体内部の論文ではなく、共同体外部に向けて書かれ、実際に敵対者たちに送付された手紙として読んでいたと思われる。そしてこうした理解に触発されて、義の教師と悪の祭司との衝突によって共同体が設立されたという歴史的説明ができあがっていったのである。

最後に、『律法』がさらに後代に書かれた歴史化文書として読む場合、我々は後代の参加者たちが共同体の歴史の設立時のことをどのように記憶し、創造し、構築していたかを見て取ることができる。すなわち、パウロの偽の書簡と同様のものとして読むのである。この読み方は、誰がいつ共同体を設立したのかについては教えてはくれないが、共同体の後の世代が重要であると考えていたことを教えてくれる。

『律法』のカレンダーに関しては、もし『律法』が共同体の設立と同時期に書かれたものとすると、カレンダーももともとあったオリジナルであるといえる。もし『律法』が共同体の設立と同時期か、伝達の歴史の途中で書かれたものとすると、カレンダーは写字生による付加だといえる。そして、もし『律法』が後代の成立だとすると、カレンダーがオリジナルにあったものであろうとなかろうと、それは後代の人々の考え方を反映したものであるといえる。

2015年4月1日水曜日

内部文書としての『律法儀礼遵守論』 Fraade, "To Whom It May Concern"

  • Steven D. Fraade, "To Whom It May Concern: 4QMMT and Its Addressee(s)," Revue de Qumran 19 (2000): 507-26.

本論文は、『律法儀礼遵守論』(4QMMT、以下『律法』)の読解を通じて、この文書の性格を分析したものである。の研究としては、大きく言って次の四分野がある:第一に、クムラン共同体におけるサドカイ派的な宗教法の輪郭、第二に、クムラン共同体の初期の発展とセクトのイデオロギー、第三に、ラビ的セクト論争以前の初期のラビ的説明、そして第四に、後期第二神殿時代におけるパリサイ派とその教えの影響などである。こうした研究の多くは、同書をクムラン・セクトによる外部に対する論争の書と考えることでなされてきた。しかし著者は、これをセクト内部(intramural)の文書であると仮定してみたらどうなるかという前提から議論を始める。

まずセクションBをよく読むと、『律法』の著者である「私たち」が、「あなたがた」と呼ばれている名宛人を一切批判していないことが分かる。むしろ共同体の集合的なペルソナである「私たち」は、積極的に「あなたがた」を自分たちに組み込もうとしている様子が伺われる。

セクションCになると、記述がより対話的(dialogical)になり、三人称「彼ら」に対する言及がなくなる。二人称は複数形「あなたがた」のときは、やはり「私たち」に含めていると読むことができる。それに加えてこのセクションでは二人称として単数形「あなた」も出てくるが、著者は申命記30章および31章などの例から、こうした奨励(hortatory)のスピーチでは二人称は単数形の場合も複数形の場合もあると説明する。単数形にすることで、名宛人に対してより個人的に語りかけているように感じさせるためである。また懐柔的な(conciliatory)な口調から、「私たち」と「あなた/あなたがた」との対立は激化していないさまを見て取ることができる。いうなれば、論争的(polemical)というよりも、教育的(pedagogical)なのである。

セクションAの暦を、多くの研究者は写字生による付加だと見なしている。しかしながら、著者によれば、セクションBがセクトの分離を正当化するための律法議論のダイジェストであるように、セクションCもまた、354日区切りの太陰暦を用いるイスラエルの大多数からの分離を正当化する太陽暦のダイジェストであるという。

主としてShelomo Moragらによる『律法』の言語学的分析によると、同書は話し言葉の比較的低級なヘブライ語であるという。そこから、著者は同書を公式な手紙や正統的なセクト文書ではなく、共同体への入会希望者などに対する教育的内部文書であると見なす。

以上が本論文の主張だが、個人的に興味深かったのは、L. Schiffmanが『律法』の中に『共同体の規則』との共通語彙がないと見なしているのに対し、本論文の著者は、両者はいくつもの重要なターミノロジーやアイデオロジーを共有しているという。いうなれば、『律法』で用いられている語彙から、同書がセクト的文書であると見なすことができるのである。