- James C. VanderKam, "The Pre-History of the Qumran Community with a Reassessment of CD 1:5-11," in The Dead Sea Scrolls and Contemporary Culture, ed. Adolfo D. Roitman, Lawrence H. Schiffman and Shani Tzoref (Studies on the Texts of the Desert of Judah, Vol. 93; Leiden: Brill, 2011), pp. 59-76.
The Dead Sea Scrolls and Contemporary Culture: Proceedings of the International Conference Held at the Israel Museum, Jerusalem (July 6-8, 2008) (Studies of the Texts of Thedesert of Judah) Adolfo D. Roitman Brill Academic Pub 2011-03-30 売り上げランキング : Amazonで詳しく見る by G-Tools |
本論文の中で、著者は『ダマスコ文書』を再考することで、Florentino Garcia MartinezやAdam S. van der Woudeらによって提唱された、いわゆる「フローニンゲン仮説」への反駁を試みている。この仮説は、以下のようにまとめられる。
- エッセネ派運動の起源とクムラン共同体の起源とを明確に区別する。
- エッセネ派運動の起源を、「アンティオキア危機」(前3世紀末から前2世紀はじめ)より以前のパレスチナの黙示的伝統に置く。
- クムラン共同体の起源は、彼らが義の教師に従ったことで、エッセネ派運動から内部分裂したことにある。
- 悪の祭司とは、ハスモン家の5人の大祭司の総称である。
- 義の教師が固執していた議論は、暦法、神殿、祭儀、清浄に関するもので、彼ら支持者がクムラン共同体を形成した。他のエッセネ派運動からの離脱は、ヨハネ・ヒルカノスの治世である。
著者は、1は的確だが、3には根拠がなく、4は極めて疑わしく、5は別の説明がされるべきとしている。
『ダマスコ文書』1:5-11には、クムラン共同体の起源を左右する年号が書かれており、それによると、第二次バビロン捕囚(前587年)から390年後に共同体ができ、それから20年後に義の教師がそこに加わったと読むことができる。ここから連想されるエゼ4:5, 9では、イスラエルの家の罪は390日、ユダの家の罪は40日であるとされている。同箇所の七十人訳は、イスラエルの家の罪は150日+40日で190日、ユダの家の罪は40日となっている。さらにタルグム・ヨナタンはイスラエルの家の罪は390日、ユダの家の罪は40日である。エゼキエル書の390と40を足すと430年となり、これはイスラエルの人々がエジプトにいた年数と考えられるので、エゼキエルとしてはその年数のあとにイスラエルに新たな出エジプトがもたらされると考えていたのだろう。同様の数字は『セデル・オーラム』にも見受けられる。
『ダマスコ文書』の390という数字はエゼキエル書から取られたと考えられるが、40の方は用いていない。これらの数字について、著者はS. Schechter, L. Ginzberg, D. Philip Davies, H. H. Rowley, G. Jeremiasらの説を検証したうえで、自らの結論として3点まとめている。すなわち、第一に、『ダマスコ文書』には編集が加えられているので、390と20という数字がそもそも正しいのか確実でない。第二に、390年という数字は、神がイスラエルの残りの民を裁いていた時代のこと、すなわち神が民をネブカドネツァルに与えた「怒りの時代」の長さを指している。第三に、人々が根菜に象徴され、道に迷っていた20年という数字には、聖書的なソースはなさそうである。
また著者は、義の教師に率いられた共同体がエッセネ派運動から分裂してできたとする証拠はないと主張する。すなわち、クムラン共同体の成立は、「フローニンゲン仮説」の唱える内部分裂によるものではない。むしろ『ダマスコ文書』が伝えている共同体と、クムラン周辺のエッセネ派の諸運動とは、それぞれ別に並び立っていたと考えられる。資料によれば、義の教師とその敵対者である嘘の人とが同じ共同体にいた証拠はないし、そもそも同じ共同体にいたのでなければ、「分裂」という表現は当たらない。
『ダマスコ文書』1:5-11には、クムラン共同体の起源を左右する年号が書かれており、それによると、第二次バビロン捕囚(前587年)から390年後に共同体ができ、それから20年後に義の教師がそこに加わったと読むことができる。ここから連想されるエゼ4:5, 9では、イスラエルの家の罪は390日、ユダの家の罪は40日であるとされている。同箇所の七十人訳は、イスラエルの家の罪は150日+40日で190日、ユダの家の罪は40日となっている。さらにタルグム・ヨナタンはイスラエルの家の罪は390日、ユダの家の罪は40日である。エゼキエル書の390と40を足すと430年となり、これはイスラエルの人々がエジプトにいた年数と考えられるので、エゼキエルとしてはその年数のあとにイスラエルに新たな出エジプトがもたらされると考えていたのだろう。同様の数字は『セデル・オーラム』にも見受けられる。
『ダマスコ文書』の390という数字はエゼキエル書から取られたと考えられるが、40の方は用いていない。これらの数字について、著者はS. Schechter, L. Ginzberg, D. Philip Davies, H. H. Rowley, G. Jeremiasらの説を検証したうえで、自らの結論として3点まとめている。すなわち、第一に、『ダマスコ文書』には編集が加えられているので、390と20という数字がそもそも正しいのか確実でない。第二に、390年という数字は、神がイスラエルの残りの民を裁いていた時代のこと、すなわち神が民をネブカドネツァルに与えた「怒りの時代」の長さを指している。第三に、人々が根菜に象徴され、道に迷っていた20年という数字には、聖書的なソースはなさそうである。
また著者は、義の教師に率いられた共同体がエッセネ派運動から分裂してできたとする証拠はないと主張する。すなわち、クムラン共同体の成立は、「フローニンゲン仮説」の唱える内部分裂によるものではない。むしろ『ダマスコ文書』が伝えている共同体と、クムラン周辺のエッセネ派の諸運動とは、それぞれ別に並び立っていたと考えられる。資料によれば、義の教師とその敵対者である嘘の人とが同じ共同体にいた証拠はないし、そもそも同じ共同体にいたのでなければ、「分裂」という表現は当たらない。