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2015年1月29日木曜日

「フローニンゲン仮説」に反論する VanderKam, "The Pre-History of the Qumran Community"

  • James C. VanderKam, "The Pre-History of the Qumran Community with a Reassessment of CD 1:5-11," in The Dead Sea Scrolls and Contemporary Culture, ed. Adolfo D. Roitman, Lawrence H. Schiffman and Shani Tzoref (Studies on the Texts of the Desert of Judah, Vol. 93; Leiden: Brill, 2011), pp. 59-76.
The Dead Sea Scrolls and Contemporary Culture: Proceedings of the International Conference Held at the Israel Museum, Jerusalem (July 6-8, 2008) (Studies of the Texts of Thedesert of Judah)The Dead Sea Scrolls and Contemporary Culture: Proceedings of the International Conference Held at the Israel Museum, Jerusalem (July 6-8, 2008) (Studies of the Texts of Thedesert of Judah)
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本論文の中で、著者は『ダマスコ文書』を再考することで、Florentino Garcia MartinezやAdam S. van der Woudeらによって提唱された、いわゆる「フローニンゲン仮説」への反駁を試みている。この仮説は、以下のようにまとめられる。
  1. エッセネ派運動の起源とクムラン共同体の起源とを明確に区別する。
  2. エッセネ派運動の起源を、「アンティオキア危機」(前3世紀末から前2世紀はじめ)より以前のパレスチナの黙示的伝統に置く。
  3. クムラン共同体の起源は、彼らが義の教師に従ったことで、エッセネ派運動から内部分裂したことにある。
  4. 悪の祭司とは、ハスモン家の5人の大祭司の総称である。
  5. 義の教師が固執していた議論は、暦法、神殿、祭儀、清浄に関するもので、彼ら支持者がクムラン共同体を形成した。他のエッセネ派運動からの離脱は、ヨハネ・ヒルカノスの治世である。
著者は、1は的確だが、3には根拠がなく、4は極めて疑わしく、5は別の説明がされるべきとしている。

『ダマスコ文書』1:5-11には、クムラン共同体の起源を左右する年号が書かれており、それによると、第二次バビロン捕囚(前587年)から390年後に共同体ができ、それから20年後に義の教師がそこに加わったと読むことができる。ここから連想されるエゼ4:5, 9では、イスラエルの家の罪は390日、ユダの家の罪は40日であるとされている。同箇所の七十人訳は、イスラエルの家の罪は150日+40日で190日、ユダの家の罪は40日となっている。さらにタルグム・ヨナタンはイスラエルの家の罪は390日、ユダの家の罪は40日である。エゼキエル書の390と40を足すと430年となり、これはイスラエルの人々がエジプトにいた年数と考えられるので、エゼキエルとしてはその年数のあとにイスラエルに新たな出エジプトがもたらされると考えていたのだろう。同様の数字は『セデル・オーラム』にも見受けられる。

『ダマスコ文書』の390という数字はエゼキエル書から取られたと考えられるが、40の方は用いていない。これらの数字について、著者はS. Schechter, L. Ginzberg, D. Philip Davies, H. H. Rowley, G. Jeremiasらの説を検証したうえで、自らの結論として3点まとめている。すなわち、第一に、『ダマスコ文書』には編集が加えられているので、390と20という数字がそもそも正しいのか確実でない。第二に、390年という数字は、神がイスラエルの残りの民を裁いていた時代のこと、すなわち神が民をネブカドネツァルに与えた「怒りの時代」の長さを指している。第三に、人々が根菜に象徴され、道に迷っていた20年という数字には、聖書的なソースはなさそうである。

また著者は、義の教師に率いられた共同体がエッセネ派運動から分裂してできたとする証拠はないと主張する。すなわち、クムラン共同体の成立は、「フローニンゲン仮説」の唱える内部分裂によるものではない。むしろ『ダマスコ文書』が伝えている共同体と、クムラン周辺のエッセネ派の諸運動とは、それぞれ別に並び立っていたと考えられる。資料によれば、義の教師とその敵対者である嘘の人とが同じ共同体にいた証拠はないし、そもそも同じ共同体にいたのでなければ、「分裂」という表現は当たらない。

2015年1月27日火曜日

エッセネ派とクムラン共同体の起源 Garcia Martinez, "The Origins of the Essene Movement and of the Qumran Sect"

  • Florentino Garcia Martinez, "The Origins of the Essene Movement and of the Qumran Sect," in The People of the Dead Sea Scrolls: Their Writings, Beliefs and Practice, ed. Florentino Garcia Martinez and Julio Trebolle Barrera (Leiden: Brill, 1995), pp. 77-96.
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著者はこの論文の中で、著者独自の新仮説として、エッセネ派運動をパレスチナのヘレニズム化およびマカバイ戦争よりも以前に起きた、黙示的な伝統であると主張している。これは既存の二つの仮説、すなわち、1)クムラン共同体とエッセネ派運動を同一視し、エッセネ派運動の起源をマカバイ王朝時代のハシディームに求める説と、2)エッセネ派とクムラン共同体とを区別し、エッセネ派をバビロニア起源であるとする説とに対する異論である。

著者によれば、1)の仮説は、第一に、エッセネ派運動をクムランのような周辺的な運動に矮小化しており、第二に、エッセネ派運動に対してもクムラン共同体に対しても、マカバイ戦争が何らかの重要な意味を持つことを証明する文書は存在しないことから、説得的ではない。一方で、2)の仮説は、『ダマスコ文書』に見られる「シェヴィ・イスラエル」を「イスラエルへの帰還者たち」と訳すことを基にして、J. Murphy-O'Connerによって主張されているが、著者はこの表現はむしろ「イスラエルの改悛者たち」と訳すべきなので、説得的ではないと述べている。

これらのよく知られる仮説に対し、著者は四つの方法論的予想を述べる。第一に、クムラン共同体の起源はヨハネ・ヒルカノスが大祭司だった時代(前134-前104年)より前のことであるという。「悪の祭司」は集合的な名称で、何人もの大祭司たちがこの名で呼ばれたが、ヨハネ・ヒルカノスは最後の「悪の祭司」に当たる。第二に、クムラン共同体とそのもとであるエッセネ派運動との間には時間的な隔たりがある。第三に、クムランで見つかった多くの非聖書文書は、クムラン共同体のみならず、それに起因するイデオロギー的運動にも関係している。クムランで見つかった文書は必ずしもクムラン共同体そのものによる文書とは限らないが、少なくとも自分たちのイデオロギーに抵触しない内容であることは間違いない。第四に、クムランの文書はいくつかの理念が混合した文書であるため、ある文書に書かれていることはさまざまな時空を異にする要素から成り立っている場合がある。

以上のような方法論的予想をもとに、著者はエッセネ派とクムラン共同体との起源を峻別する。エッセネ派運動の起源に関する情報は、エッセネ派に言及した古典的テキストや、クムランに保存されたエッセネ派的文書から得られるが、クムラン共同体の起源に関する情報は、クムランが出来上がる以前の時代の文書から得られる。

エッセネ派運動の起源については、まずヨセフスの記述が挙げられる。ヨセフスによると、エッセネ派運動は典型的なパレスチナ的現象であり、マカバイ王朝より以前から存在するものだったという。これは『夢の書』あるいは『動物の黙示録』などからも分かることである。さらに、フィロンの著作などから、エッセネ派運動は、パレスチナの黙示的伝統に属するものでもあるともいえる。エッセネ派運動は天使の世界との交わりという特徴もある。そして『神殿巻物』(11QTemple)からは、終末的な神殿の概念も見られる。これらはみな前3世紀の黙示的伝統に連なるものであり、明らかにマカバイ戦争より以前の観念である。

一方でクムラン共同体の起源については、義の教師によるハラハー解釈と終末への期待が特徴として挙げられる。終末論は『ヨベル書』や『夢の書』における黙示的伝統と軌を一にするものである。ハラハー解釈については、『神殿巻物』(11QTemple、クムラン共同体の設立前の成立)と『律法儀礼遵守論』(4QMMT、クムラン共同体設立後の成立)の中で、祭日、犠牲、暦、神殿、清め、十分の一税、結婚などが語られている。中でも特に暦法についての議論は、クムラン共同体がエッセネ派運動から離脱する大きな要因になっていると考えられる。エッセネ派が他のユダヤ教諸派と同じ暦法を採用したのに対し、クムラン共同体はフィロンが描くテラペウタイと同じ暦法を採用したのである。暦法の違いは終末がいつ訪れるかの計算にも影響を及ぼすものだった。さらに、義の教師による「正しい」律法解釈(「嘘の人」とは異なる解釈)は、義の教師の支持者と、残りのエッセネ派たちとの分離を招いた。

「義の教師」運動とは何か Wise, "The Origins and History of the Teacher's Movement"

  • Michael O. Wise, "The Origins and History of the Teacher's Movement," in The Oxford Handbook of the Dead Sea Scrolls, ed. Timothy H. Lim and John J. Collins (Oxford: Oxford University Press, 2010), pp. 92-122.
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死海文書は、前161-135年のヨナタンあるいはシモン・マカバイの治世に、クムランの遺跡に住んでいたエッセネ派によって書かれたものだというのが、一般的な理解である。この共同体は、当時の大祭司に反対する「義の教師」に率いられ、エルサレムを自発的に離れた者たちから成り立っていたという。しかし著者は、そもそもクムラン遺跡は文書と関係あるのか、遺跡とその住民の本質はどのようなものだったのかという問いを立てる。そして、結論として、この一般的な理解は相当程度修正されるべきとしている。

遺跡と文書とを関係付ける証拠としては、遺跡で出土した壺と、大プリニウスによる記述とが挙げられるが、著者によれば、いずれも十分な証拠たり得ない。そしてさまざまな反証から、文書は遺跡とは無関係であり、どこか別のところで書かれたものであると結論付けている。

古代の文書から年代特定をするためには、古文書学的分析や文学的分析などが用いられるが、クムラン学においてFrank Moore Crossが提示した古文書学的な原理は多くの問題を含んでいるために現在では有効ではない。文学的分析においては、『ダマスコ文書』1:3-11における「バビロン捕囚から390年」という記述が重視されてきたが、これを字義通りに取ることはできない。また『ハバクク書注解』(1QpHab 8:8-13)における「悪の祭司」をヨナタン・マカバイと解釈すると、一般的な理解と同じような時代設定になるが、これも説得的ではない。

そこで著者は、むしろ義の教師自身が書いたと想定される『ホダヨット』ないし『感謝の詩篇』を中心に分析をするべきだと述べる。著者は『ホダヨット』は実際の歴史的状況を記録していると考える。著者によると、義の教師の敵対者であるドルシェ・ハラコットは実はパリサイ派を指している(「嘘の人」という描写もある)。両者は律法と神殿祭儀に関する問題で衝突していた。これは『律法儀礼遵守論』(4QMMT)との比較からも導き出される。すなわち、義の教師は、パリサイ派による宗教改革に反対した人物だと考えられるが、そうした解釈を裏付ける歴史的事実としては、アレクサンドロス・ヤンナイオスとその妻アレクサンドラの治世(前70年代)が挙げられる。

アレクサンドロスは当初は祭司グループと共にパリサイ派との対立路線を取っていたが、妻アレクサンドラに王位を譲るに際し、政治的理由からパリサイ派と協力するように助言した。アレクサンドラは息子のヨハネ・ヒルカノス二世を大祭司に任じ、パリサイ派的な法解釈を採用していった。「悪の祭司」はこのヨハネ・ヒルカノス二世のことを指していると考えられる。そして、権力を得たパリサイ派は、敵対していた義の教師を含む祭司グループをエルサレムから追放したのだった。つまり、一般的な理解のように、義の教師は自発的に砂漠へ逃げていった者ではなかった。さらに、逃げていった先はクムランではなかった。というのも、追放された者は国外にいかなければならなかったが、クムランは当時のハスモン王朝の区分では国内だからである。そこで、一般的な理解ではクムランを指しているとされている『ダマスコ文書』におけるダマスコは、字義通りの意味と解される。しかしその逃げていった先で義の教師は仲間たちの離反にあい、死ぬことになる。残された者たちはこの一連の出来事を再解釈し、ローマの侵攻を天恵と捉えた。そして自らの受難をモーセとイスラエルの民が砂漠を彷徨ったときの様子になぞらえたが、共同体としては一世紀初頭に消滅した。

以上より、著者は「義の教師」運動は前一世紀のことであり、一般的な理解は間違っていると主張している。

2015年1月26日月曜日

新しい契約 Collins, Beyond the Qumran Community, Ch 1

  • John J. Collins, Beyond the Qumran Community: The Sectarian Movement of the Dead Sea Scrolls (Grand Rapids, Michigan: Eerdmans, 2010), pp. 12-51.
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本章では『ダマスコ文書』(CD)、あるいはそれに断片を加えたものの総称である『ダマスコ規則』(D)が分析されている。著者は、特に同書の中で3回現れる「新しい契約」という概念を中心としている。『ダマスコ規則』は、当時ユダヤ世界で普及していた宗教法よりも、より厳格な性格を有している。そうした宗教法の解釈の違いが、クムラン共同体を他の共同体から分離させたのであった。そうした解釈の違いとしては、特に暦法に関する議論が挙げられる。死海文書からは、一年を364日とする太陽暦と、一年を354日とする太陰暦とが見つかっているが、宗教的な祭りは必ず太陽暦に沿っていた。これは、常に太陰暦に従っていたエルサレム神殿とは異なる暦法である。こうした多数派に対する違いは、『ダマスコ文書』と『律法儀礼遵守論』(4QMMT)とに共通するものである。

『ダマスコ文書』は、全イスラエルに適用されるモーセ律法に関心を持っているが、一方で、その律法が正しく守られていないことに不満を持つエリート集団にも関心を持っている。それはたとえば、共同体の指導者である、祭司、レビ人、監査人(メバケル)、教授者(マスキール)などである。彼らは、トーラーそのものは全イスラエルに明らかにされているが(ニグラー)、その真の意味は隠されている(ニスタル)と考えていた。こうした厳格な律法解釈への回帰の宣言としては、エズラ・ネヘミヤの宗教改革が比較されうる。『ダマスコ文書』にとって、独身主義は必須事項ではなかった。また終末待望論もその特徴といえるが、それはキリスト教におけるような実際のメシアの来臨を期待するものではなかった。『ダマスコ文書』には歴史的記述がほとんど見受けられない。わずかながらクロノロジーを描いているところも、字義通りに読むよりも、シンボリックな意味として取るべきである。

「新しい契約」という概念に関して、『ダマスコ文書』は『エノク書』、ダニエル書、『ヨベル書』、『偽ダニエル書』などと比較されている。クムランから発見されている『エノク書』と『ヨベル書』に関していえば、『エノク書』よりも『ヨベル書』の方が、364日の太陽暦などについて、より『ダマスコ文書』との共通性を持っている。また死海文書中の文書で言えば、『神殿巻物』(11QT)と『ダマスコ文書』とは並行の記事を持っている。L.H. Schiffmanは『ダマスコ文書』『神殿巻物』『律法儀礼遵守論』とに反映している律法伝承はサドカイ派に端を発するものだと述べている。これらは明白にパリサイ派の律法理解とは異なっている。そもそも『ダマスコ文書』は、S. Schechterによってサドカイ派の文書であると考えられていたが、それは文書中にしばしば「ツァドクの息子たち」という言及があるからである。しかし、この「ツァドクの息子たち」という用語はイスラエルの選ばれた者たちを示す敬称であるとされている。いずれにせよ、このセクト運動には、エルサレムの神殿を汚れたものと考える祭司が関わっていたと考えられる。一方で、「嘘の者たち」という名称は、クムランの運動を受け入れることを拒んだ、いずれパリサイ派となっていく者たちのことを指している。こうしたことが明らかになっているとはいえ、この時点で筆者はクムラン共同体が必ずしもエッセネ派であるとは限らないと留保している。

クムラン共同体を超えて Collins, Beyond the Qumran Community, Introduction

  • John J. Collins, Beyond the Qumran Community: The Sectarian Movement of the Dead Sea Scrolls (Grand Rapids, Michigan: Eerdmans, 2010), pp. 1-11.
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本書は死海文書におけるいわゆる宗派的巻物から、クムラン共同体の姿を抽出しようとする試みである。しかし、ここで言う「クムラン共同体」という表現には問題がある。なぜならば、『共同体の規則(セレク・ハヤハド)』(1QS)の描写からは、複数の共同体が予測されるからである。さらに、クムランから出土した共同体の文書としては、他にも『ダマスコ文書』(CD)があり、両者には共通点も見られるが、大きな差異も認められるからである。一般的には、『ダマスコ文書』が既婚のエッセネ派のための規則であるのに対し、『共同体の規則』はクムランに住んでいた独身の男性の共同体のための規則であると説明されている。著者は、『ダマスコ文書』の方がより古く、元来の共同体規則を反映しており、そこから『共同体の規則』が派生してきたと考えている。

著者は両文書で描かれている共同体を、「セクト」と表現する。すなわち、他の大きな共同体に対する「差異」「敵視」「孤立」を特徴とするグループである。このセクトは、祭司の継承に関する議論を発端として分離したと一般的には説明される。しかし、クムランから出土した別の文書である『律法儀礼遵守論(ミクツァット・マアセ・ハトーラー)』(4QMMT)には、宗教法ハラハーの解釈や暦法に関する議論は見られるが、祭司の継承問題は見られない。ゆえに著者は、クムランのセクト運動は祭司の継承問題とは無関係だと考える。さらには、死海文書から知られるようなセクト運動は、単純にクムラン共同体のものと同一視することはできないとも述べる。本書における著者の目的は、死海文書に描かれた共同体の本姓を描き出すことである。